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<title>Ukulelebeginner</title>
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<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-9e61.html">
<title>米医療保険改革法案</title>
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<description>米上院（定数１００）は２３日、医療保険改革関連法案の 審議打ち切り動議を賛成６０...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;米上院（定数１００）は２３日、医療保険改革関連法案の&lt;br /&gt;
審議打ち切り動議を賛成６０、反対３９の賛成多数で可決&lt;br /&gt;
した。与党・民主党が野党・共和党の議事妨害を封じる&lt;br /&gt;
もので、これによって、同法案が２４日午前７時（日本&lt;br /&gt;
時間２４日午後９時）から採決されることが決まった。&lt;br /&gt;
上院での法案可決は確実な情勢になった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;下院はすでに関連法案を可決しており、上下両院は&lt;br /&gt;
年明けから法案のすり合せ協議に入る見通しだ。&lt;br /&gt;
法案の１本化が出来れば、上下両院で再可決し、&lt;br /&gt;
大統領の署名で成立することになる。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
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<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-f75c.html">
<title>バレー発表会　オアシス港北店　キッズ・クラブ</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-f75c.html</link>
<description>12月２３日10時ー11時半、オアシス港北店スタジオ２ で、息子のところの４歳の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;12月２３日10時ー11時半、オアシス港北店スタジオ２&lt;br /&gt;
で、息子のところの４歳の女の子を含む、バレー発表会&lt;br /&gt;
があったので、横浜地下鉄センター北駅で息子と待ち&lt;br /&gt;
合わせの上、ショッピング・センターのオアシスの４階に&lt;br /&gt;
向かう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;○ストレッチ　　フロア・ストレッチ、センターレッスン&lt;br /&gt;
子供の天使の園に迷いこんだ感じ、可愛く、美しい。&lt;br /&gt;
曲のなかに「ヴェニスのカーニバル」があり懐かしい。&lt;br /&gt;
○月曜日クラス、園児　ハッピー・ダンス　曲デイズニー&lt;br /&gt;
　息子の女の子がこれに属する。&lt;br /&gt;
○月・水曜日クラス、小学生、SARS,曲星条旗を永遠なれ&lt;br /&gt;
本日のピカ一の踊り、迫力あり。目の前に素敵な女の子&lt;br /&gt;
がいた。&lt;br /&gt;
○水曜クラス、園児、ハッピーダンス、曲デイズニー&lt;br /&gt;
○土曜日クラス、園児、小鳥のハーモニー&lt;br /&gt;
○土曜クラス、小学生、コッペリアより女官の踊り&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;コーチによる演技&lt;br /&gt;
○眠れる森の美女～第３幕より、フロリナのVa,村井聖子&lt;br /&gt;
○ジゼルよりペザントのバリエーション、川瀬美和&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;集合写真撮影。家族による写真撮影。&lt;br /&gt;
子供にはそれぞれクリスマス・カードが贈られ、クリスマス&lt;br /&gt;
プレゼントが渡された。客席の子供にもプレゼントが渡された。&lt;br /&gt;
自分も息子の娘にゴジバのチョコをプレゼントした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;母親は友達との約束があるので、そこで別れ、父親、娘、&lt;br /&gt;
自分は車で逗子に向かう。途中例年自分に贈ってくれる&lt;br /&gt;
ケーキを店屋から受け取り、逗子イタリー・レストラン・&lt;br /&gt;
チェントロで昼食をとる。エスカルゴは夜だけ。この１１月&lt;br /&gt;
逗子の田越川に２，３匹の鮭が登ってきた話をすると、&lt;br /&gt;
息子が驚いた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分の家で３人でケーキを食べる。クリスマス・ソングや&lt;br /&gt;
デイズニー・ソングを自分と息子で弾く。女の子は「猫&lt;br /&gt;
踏んじゃった」を上手に弾く。女の子は自分が揃えている&lt;br /&gt;
子供用の楽譜を父親に次々渡し、弾かせる。駄目なら次と&lt;br /&gt;
厳しい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;後、紙トンボを飛ばせたり、脚立に登りゆずの実を父親ととり、&lt;br /&gt;
CSのカーツーンをみる。&lt;br /&gt;
新装なった物干し台・ベランダを見た女の子は「向こうの&lt;br /&gt;
山まで飛んで行きたい」と言ってくれた。&lt;br /&gt;
息子の家族は３１日に家にやってくる。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>音楽</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-23T18:47:19+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-d76e.html">
<title>魅惑のスタンダード・ポップス　１２月２０日０９</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-d76e.html</link>
<description>今夜は豪華クリスマス・スペシアル 司会　井上　順、新妻聖子 クラブ・イクスピアリ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;今夜は豪華クリスマス・スペシアル&lt;br /&gt;
司会　井上　順、新妻聖子&lt;br /&gt;
クラブ・イクスピアリで録画&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;○赤鼻のトナカイ　聖子&lt;br /&gt;
ワン・テーマ・メロデイは「悲しき」、１９５０年代はメジャー&lt;br /&gt;
の時代と言われ。６０年代はマイナー調になった。表題&lt;br /&gt;
に「悲しき」とつけたらこれがヒットとなった。&lt;br /&gt;
○悲しき街角　　小野正利&lt;br /&gt;
○悲しき片思い　荻野目洋子&lt;br /&gt;
○悲しき少年兵　藤田恵美&lt;br /&gt;
○悲しき１６才　LUXIS、女性３人組み。チャ－ミング&lt;br /&gt;
○悲しき６０才　グッチ裕三、ムスターハ物語&lt;br /&gt;
○悲しき天使　聖子&lt;br /&gt;
○悲しき悪魔　グッチ裕三、LUXIS&lt;br /&gt;
○悲しき雨音　ジャミン・ゼブ、男性４人組み&lt;br /&gt;
○悲しき慕情　純名理沙、　目の表情がよい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ポップスの伝説は西城秀樹、おっさん顔になっている。&lt;br /&gt;
○君は我が運命　西城秀樹、塩入俊哉（キーボード），&lt;br /&gt;
　　宅見将典（ギター）&lt;br /&gt;
○ギャランドウ　　　  &quot;           &quot;             &quot;&lt;br /&gt;
○傷だらけのローラ　&quot;           &quot;            &quot;　&lt;br /&gt;
○スタンド・バイ・ミー &quot;          &quot;            &quot;&lt;br /&gt;
○ハロー・ドーリー　グッチ裕三&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私の青春映画ストーリーには水谷八重子が登場&lt;br /&gt;
○サンタが町にやってくる　井上順、水谷八重子&lt;br /&gt;
○恋人たちのクリスマス　荻野目洋子、チャーミング&lt;br /&gt;
○ラスト・クリスマス　　小野正利&lt;br /&gt;
○ハッピー・クリスマス　純名理沙&lt;br /&gt;
○きよし　この夜　　藤田恵美、聖子、ジャミン・ゼブ、&lt;br /&gt;
　　LUXIS&lt;br /&gt;
○ジングル・ベル　　藤田恵美&lt;br /&gt;
○サンタクロースがやってくる　LUXIS&lt;br /&gt;
○ママがサンタにキッスした　ジャミン・ゼブ&lt;br /&gt;
○クリスマスおめでとう　藤田恵美、聖子、LUXIS、&lt;br /&gt;
　　ジャミン・ゼブ&lt;br /&gt;
○ザ・クリスマス・ソング　マリーン&lt;br /&gt;
○ブルー・クリスマス　　荻野目洋子&lt;br /&gt;
○ホワイト・クリスマス　　グッチ裕三、ジャミン・ゼブ&lt;br /&gt;
○赤鼻のトナカイ　　全員&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>音楽</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-20T22:44:59+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-264c.html">
<title>ボーイング７８７　初飛行</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-264c.html</link>
<description>米ボーイングが１２月１５日実施した初飛行テストに成功 した。B787はボーイング...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;米ボーイングが１２月１５日実施した初飛行テストに成功&lt;br /&gt;
した。B787はボーイングのエバレット工場に隣接する&lt;br /&gt;
飛行場から午前１０時半離陸。午後１時半過ぎに雨が&lt;br /&gt;
降るシアトル市の別の飛行場に着陸した。今後は計６機&lt;br /&gt;
の７８７でテスト飛行を繰り返す。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;７８７は従来機種に比べて燃費や静寂性で優れるのが&lt;br /&gt;
特徴。現時点で全日空を含む計５５社から８４０機を受注&lt;br /&gt;
している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第１号顧客である全日空への引渡しは２０１０年１０－１２&lt;br /&gt;
期と１年後に迫る。これまでも納期の先延ばしを繰り&lt;br /&gt;
返してきただけに、全日空や開発に参加した日本企業は&lt;br /&gt;
警戒感をぬぐい切れていない。開発に参加する三菱重工、&lt;br /&gt;
川崎重工、富士重工の担当者は、飛行テストの成功を&lt;br /&gt;
歓迎しながらも「通過点にすぎない」と口をそろえた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;７８７の旅客数は最大約３００人で、B747のほぼ半分、&lt;br /&gt;
ドル箱路線にしか使えない大型機と違って、用途が広く、&lt;br /&gt;
空席による採算割れのリスクも押さえる利点がある。&lt;br /&gt;
このため受注は一時、計９１０機まで伸び、過去最大の&lt;br /&gt;
世界的なヒットになった。&lt;br /&gt;
だが部品の不具合など五度にわたる納入遅延で、全日空&lt;br /&gt;
への１号機納入は当初より約２年半遅れる。しびれを&lt;br /&gt;
切らした航空各社からの発注取りやめは計７０機に&lt;br /&gt;
のぼった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;７８７は国内やアジア路線を中心とする中型機７６７の後継&lt;br /&gt;
だが、全日空は欧州や米西海岸便にも導入予定。&lt;br /&gt;
羽田、成田両空港の来年の増枠で国際線事業を強化する&lt;br /&gt;
際、主力機と位置づける。&lt;br /&gt;
経営再建中の日航にとっては、７８７を３５機発注しているが&lt;br /&gt;
１機１５０億円程度と見られる新型機購入は負担が大きい。&lt;br /&gt;
機材更新と財務再建のバランスをどうとるかが、日航再生の&lt;br /&gt;
焦点の一つになりそうだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;７８７の登場は経済効率性の高い、中・小型機が航空各社の&lt;br /&gt;
主力になりつつある現状を象徴する。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-17T13:54:06+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-ecae.html">
<title>日系企業のドバイ債権　６６００億円が未回収</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-ecae.html</link>
<description>大手建設会社など日系企業がドバイの政府や政府系 企業にたいして持っている工事代金...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;大手建設会社など日系企業がドバイの政府や政府系&lt;br /&gt;
企業にたいして持っている工事代金など約１５０億ドル&lt;br /&gt;
（約６６００億円）が未回収となっていることが１２月１１日&lt;br /&gt;
分った。今回の集計は１０月末時点で、日本の建設会社、&lt;br /&gt;
商社，電機メーカーなどが受注した１８のプロジェクトを&lt;br /&gt;
集計した。企業の売掛金が対象で銀行の融資は含まぬ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ドバイ・ワールド傘下の不動産開発会社のナキール、&lt;br /&gt;
リミットレスなど政府系企業のほか、ドバイ政府が発注&lt;br /&gt;
した地下鉄や道路など公共工事を含む。プロジェクトの&lt;br /&gt;
総事業費は合計で約１５０億ドルに上る。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;当初の契約から設計変更や追加工事などで事業費が&lt;br /&gt;
大幅に膨らんだプロジェクトも多い。ドバイ側は工事費の&lt;br /&gt;
増額分を査定し、一部は当初の契約に含まれていると&lt;br /&gt;
主張し、差額の支払いに応じない場合があるという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;例えば地下鉄のドバイ・メトロ（大林組、鹿島、三菱商事、&lt;br /&gt;
三菱重工）では当初の契約が３６億ドルだったが、駅舎&lt;br /&gt;
の設計を変更などしたことで、総事業費は１００億ドルに&lt;br /&gt;
膨らんだ。このうち４３億ドルはドバイ側は追加工事費と&lt;br /&gt;
して認めていないという。&lt;br /&gt;
こうした追加工事費のうちでドバイ側が支払いに応じない&lt;br /&gt;
姿勢を見せているのが計５３億ドルある。&lt;br /&gt;
ドバイ発の信用不安が広がっており、ドバイ側に軟化の&lt;br /&gt;
姿勢がみられず、回収できずに日系側企業の損失となる&lt;br /&gt;
可能性もある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-16T15:36:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-1ac8.html">
<title>逗子老人サロン　　大谷戸会館　１２月１６日０９</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-1ac8.html</link>
<description>今年最後の会でクリスマス・パ－テイを兼ねる。 ボランテイアをいれて３０名くらい。...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;今年最後の会でクリスマス・パ－テイを兼ねる。&lt;br /&gt;
ボランテイアをいれて３０名くらい。&lt;br /&gt;
１０時半から体操の後、昔の写真フイルム入れに小さな&lt;br /&gt;
切れ目を入れ、そこにストローを外からテープで取り付け&lt;br /&gt;
音を出せるようにし、演奏を試みる。自分は前回材料を&lt;br /&gt;
貰っていたので練習をしていた。ボランテイアの女性も&lt;br /&gt;
練習していたらしく、最後に全面に５，６人でて（自分も）&lt;br /&gt;
黒板の音声カナを読んで、「チューリップ」、「キラキラ星」&lt;br /&gt;
を演奏する。うまくいったほうだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ついでおばあさん２人の踊り、三沢あけみの歌う「島娘」、&lt;br /&gt;
「支那の夜」、アンコールで「炭坑節」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昼飯はきれいな弁当。クリスマス飾りがまわりに一杯&lt;br /&gt;
飾ってある。&lt;br /&gt;
野菜名を書き入れるビンゴをする。自分は６番目の&lt;br /&gt;
ビンゴだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;前々回も来て好評だった地元の手品の人を招き雑談&lt;br /&gt;
しながらの手品で盛り上がる。ケーキと紅茶を戴いたあと、&lt;br /&gt;
みんなで「ジングル・ベル」、「赤鼻のトナカイ」、&lt;br /&gt;
「きよしこの夜」を歌って解散。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>福祉</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-16T15:01:18+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-870e.html">
<title>回想のラバウル航空隊　短期現役主計科士官の手記（６）</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-870e.html</link>
<description>ラバウルも昭和19年２月以降、敵大型機によるじゅうたん 爆撃を受け始め、街は廃墟...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;ラバウルも昭和19年２月以降、敵大型機によるじゅうたん&lt;br /&gt;
爆撃を受け始め、街は廃墟と化し、10万の陸海軍将兵&lt;br /&gt;
は穴居生活を強いられるに至った。しかし、これは私が&lt;br /&gt;
ラバウルを去った後の話で、私がいた頃は、少なくとも&lt;br /&gt;
街並みは健在だった。&lt;br /&gt;
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年10月&lt;br /&gt;
12日であった。&lt;br /&gt;
当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ&lt;br /&gt;
てきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ブインの情勢はますます険悪になっていたが、２０４空が&lt;br /&gt;
ブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、&lt;br /&gt;
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の&lt;br /&gt;
建て直しを図ることになった。&lt;br /&gt;
10月12日、敵はB17,B24などに戦闘機をつけ、２００機&lt;br /&gt;
ちかい大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場&lt;br /&gt;
の中攻や、港湾の船舶に大きな被害がでた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;15日には敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸&lt;br /&gt;
を開始したとの報が入ったので、わが艦爆隊も攻撃に&lt;br /&gt;
参加した。船舶６，７隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊&lt;br /&gt;
は16機中15機が還らなかった。当隊は立て直す暇もなく、&lt;br /&gt;
大損害をうけたことになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ラバウルは昭和19年2月以降、敵大型機によるじゅうたん&lt;br /&gt;
爆撃を受け始めた。街は廃墟と化し、10万の陸海将兵は&lt;br /&gt;
穴居生活をしいられるに至った。しかしこれは私がラバウル&lt;br /&gt;
を去ったのちの話で、私がいた頃は少なくとも街並みは&lt;br /&gt;
健在だった。&lt;br /&gt;
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年１０月１２日&lt;br /&gt;
であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ、&lt;br /&gt;
帰ってきた。ブインの情勢はますます険悪になっていたが、&lt;br /&gt;
２０４空がブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、&lt;br /&gt;
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の建て直し&lt;br /&gt;
を図ることになった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１０月12日、敵はB17,B25などに戦闘機をつけ、200機ちかい&lt;br /&gt;
大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場の中攻や&lt;br /&gt;
港湾の船舶に大きな被害がでた。&lt;br /&gt;
15日には、敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸を&lt;br /&gt;
開始したとの報が入り、わが艦爆隊も攻撃に参加した。船舶&lt;br /&gt;
６，７隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊は16機中15機が&lt;br /&gt;
還らず、当隊は立て直す暇もなく大損害をうけたことになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;敵の挟撃態勢はますます整い、大編隊によるラバウル&lt;br /&gt;
空襲は日課となりだした。27日には敵はショートランド島の&lt;br /&gt;
南にあるモノ島にも上陸してきた。地図にも載ってない小島&lt;br /&gt;
であるが、ここからも日ならずして、敵機が飛び立ってくる&lt;br /&gt;
のである。28日には新任の小川弥彦軍医科分隊長が着任&lt;br /&gt;
した。小川さんはわたしの６高の２年先輩で岡山医大に&lt;br /&gt;
進んだが、卓球の練習を何時も一緒に行った。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１０月２９日も１００機以上の空襲をうけた。１１月１日、敵は&lt;br /&gt;
ブイン、ブカを砲撃するとともに、ブーゲンビル島西海岸&lt;br /&gt;
中央部のタロキナに輸送船約７０隻をもって上陸してきた。&lt;br /&gt;
その夜、水雷戦隊が夜襲をかけ、戦果もあげたようだが、&lt;br /&gt;
巡洋艦「川内」、駆逐艦「初風」、「白露」などが沈没した。&lt;br /&gt;
１１月２日、敵は正午前、戦闘機主体の数百機が超低空で&lt;br /&gt;
ラバウル市街と船舶を銃撃した。&lt;br /&gt;
敵機が銃撃が終って帰途についた時、それまでいち早く上空&lt;br /&gt;
に避退していた、わが零戦隊が襲いかかり、約２００機撃墜の&lt;br /&gt;
大戦果をあげた。この時は本当に面白いほど&lt;br /&gt;
墜ちたという。その間私は防空壕で小さくなっていたのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;部隊の主力はカビエンに移った。１１月４日、私はあさから体&lt;br /&gt;
が重く、熱は３８度あまりあった。マラリアとも違うようだ。&lt;br /&gt;
５日も１００機以上の空襲が２回あった。７日には第３艦隊の&lt;br /&gt;
航空隊がタロキナ上陸援護艦隊を攻撃した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私の熱は一進一退が続いた。発熱後２週間の１８日には、&lt;br /&gt;
３９．５度まで上がった。&lt;br /&gt;
敵はマキン、タラワに上陸し、内南洋に迫りつつあった。私が&lt;br /&gt;
毎日記していた海軍日記は２３日で終っている。小川軍医も&lt;br /&gt;
A型パラチフスでないかと言い出した。&lt;br /&gt;
１１月２７日は私の２３歳の誕生日だった。熱は４０度に&lt;br /&gt;
近づいていた。翌２８日ついに第８海軍病院、重症室に入れ&lt;br /&gt;
られた。２週間以上も４０－４２度の高熱が続いた。従兵が&lt;br /&gt;
一人つきっきりであった。病院には看護婦も何人かいた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;空襲だけはおかまいなしに毎日やってきた。そのつど担架に&lt;br /&gt;
のせられて坂を２００メートルほど下り、山の中腹に掘られた&lt;br /&gt;
防空壕に運びこまれた。２週間余、１２月中旬になって熱は、&lt;br /&gt;
３９度台、３８度台、３７度台と急激に下がった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昭和１９年の元旦を迎えた。私は最高のお年玉いただいた、&lt;br /&gt;
内地転勤の辞令であった。１月１日付けで「横須賀鎮守府&lt;br /&gt;
付け」を命じられた。私の病気がやっと峠を越えたころ、小川&lt;br /&gt;
軍医大尉が「内地にかえれるように考えてやる」と言ってくれ&lt;br /&gt;
たが、その厚意が実現したのである。病気の為内地送還とは&lt;br /&gt;
多少気恥ずかしい思いもあったが、ともかく日本に帰れるのは&lt;br /&gt;
なにものにもかえがたい喜びであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このころ夜間には味方の夜間戦闘機が哨戒していた。偵察機&lt;br /&gt;
を改造したもの。１月９日の黎明時、空襲警報が鳴り響いた。&lt;br /&gt;
あわてて浴衣１枚でベッドから起き上がったが、まだ走ることは&lt;br /&gt;
できない。トボトボと杖をついて、防空壕まで２００ほどの道を&lt;br /&gt;
下っていった。&lt;br /&gt;
突然ものすごい爆裂音とともに、頭上に稲妻が光ったように、&lt;br /&gt;
パアッと明るくなった。本能的に坂道の上に身を伏せ、目を&lt;br /&gt;
つぶった。「今死ぬのは馬鹿らしいなあ」との思いが走った。すぐ&lt;br /&gt;
脇で「ドガーン」という轟音がおこり、続いて５，６発後ろのほうで&lt;br /&gt;
轟音が響いた。地面がぐらぐら揺れた。爆風は・・・来ない。&lt;br /&gt;
破片がくる・・・破片も当らなかった。「直撃だ」と感じた最初の&lt;br /&gt;
６０キロ爆弾は、真横の谷川２０メートルのところで爆発した。&lt;br /&gt;
もし平地か山側に落ちていたら危ないところだった。&lt;br /&gt;
このようにして病院生活は終り、やっと退院できる１月１２日が&lt;br /&gt;
やってきた。入院以来４５日目であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昭和５５年９月ラバウルを再訪した私は、かって海軍病院が&lt;br /&gt;
あった官邸山を登っていった。中腹のラバウルの街を見下ろす&lt;br /&gt;
場所に「南太平洋戦没者の碑」が建てられていた。厚生省が&lt;br /&gt;
中心になって、４千万円の経費をかけて作られた、高さ６．５&lt;br /&gt;
メートル、横１６メートルもある大きなコンクリート製の碑である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;内地に帰れることになっても、転勤者の乗れる便はもうあまり&lt;br /&gt;
なかった。軍艦はほとんど動いておらず、トラックまでの輸送機&lt;br /&gt;
の便を待つことになる。&lt;br /&gt;
ラバウルの空襲は、ますます大規模に日課として続けられた。&lt;br /&gt;
入院中の１２月１５日には、敵はニューブリテン島西部の&lt;br /&gt;
マーカス岬に上陸していた。ブーゲンビル島の敵も増強され、&lt;br /&gt;
数次の航空戦はわがほうの消耗を増すだけだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;２月の初め、５８２空はラバウルの街をはなれ、ブナカナウの&lt;br /&gt;
西飛行場に移動することになった。ブナカナウはラバウル南方&lt;br /&gt;
の椰子のプランテーシヨンのある山のなかで、車で１時間あまり&lt;br /&gt;
かかった。この飛行場は第２飛行場または山の飛行場と呼ばれ&lt;br /&gt;
滑走路も長く、大型機の発着に適していた。宿舎は広大な椰子&lt;br /&gt;
林のなかにあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;出発の日が決まった。２月１１日の輸送機に乗れることになった。&lt;br /&gt;
主計科のデッキで送別会をひらいてくれた。ながらく労苦をわかち&lt;br /&gt;
あった部下たちを残し病気の為とはいえ、分かれて先に帰る&lt;br /&gt;
のは辛かったが、彼らは私の回復と帰国を心から祝福してくれた。&lt;br /&gt;
みな大いに飲んで歌った。当時ラバウルで一番はやっていた歌は&lt;br /&gt;
「南洋航路」で、帰国してみると、内地では、「予科練の歌」や&lt;br /&gt;
「ラバウル航空隊の歌」とともに大流行していた。現在では&lt;br /&gt;
「ラバウル小唄」として親しまれているものがこれで、ただ当時&lt;br /&gt;
のわが隊では、いくらか歌詞がちがっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;２月１１日の朝、久しぶりの東飛行場では１式陸攻の輸送機が&lt;br /&gt;
３機エンジンの調整をしていた。だいぶ待たされたが２番機に乗る&lt;br /&gt;
ことになった。&lt;br /&gt;
ラバウルの山々や海が眼下にかたむいた。&lt;br /&gt;
「さらばラバウルよ　また来るまでは・・・・」&lt;br /&gt;
軽くバンクした機は北へ向かって進路をとった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;かえりみれば、内地に帰れたのはまったく偶然の幸運の連続の&lt;br /&gt;
おかげであった。まずパラチフスにかからなければ、内地帰還に&lt;br /&gt;
ならなかったことは確実であった。パラチフスにかかったのは、&lt;br /&gt;
私だけが予防注射をうけなかったからであった。注射のとき小川&lt;br /&gt;
軍医大尉がすでに着任していたら、無理にもうけさせれたであろう。&lt;br /&gt;
島軍医少尉の注射が下手でイヤだったから私は逃げたので&lt;br /&gt;
ある。つぎにパラチフスがもう少し重かったり、持病のマラリアを&lt;br /&gt;
併発していたら、私は助からなかった。もう少し軽かったならば、&lt;br /&gt;
いくら小川大尉でも内地帰還を申請してくれなかったであろう。&lt;br /&gt;
すれすれの重症だったわけであろう。&lt;br /&gt;
その後飛行機のなくなった５８２空は４月に解隊となり、全員が&lt;br /&gt;
横鎮付けとなって内地に帰還できることになった。４月初旬には&lt;br /&gt;
５８２空からは小川軍医大尉他が、伊号第２潜水艦に便乗し、&lt;br /&gt;
トラックに向けて出航した。だが伊２潜はラバウル北方海域で&lt;br /&gt;
行方不明となり、５月４日全員戦死と認定された。もしそのとき&lt;br /&gt;
私がラバウルにいたならば、とうぜん最優先で潜水艦に乗って&lt;br /&gt;
いたにちがいない。だれかが私の身代わりになったのである。&lt;br /&gt;
このように運命の歯車は、すべて私に幸いしたのであった。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>海経</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-15T15:32:11+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-5515.html">
<title>戦時歌謡研究　飯田和夫</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-5515.html</link>
<description>海経36期の飯田和夫より戦時歌謡考察を送ってきた。 ○同期の桜 元歌は西条八十が...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;海経36期の飯田和夫より戦時歌謡考察を送ってきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;○同期の桜&lt;br /&gt;
元歌は西条八十が「少女倶楽部」（昭和１３年２月号）に&lt;br /&gt;
上海陸戦隊の戦友物語「二輪の桜―戦友の歌」として&lt;br /&gt;
発表したものである。　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一番　&lt;br /&gt;
君と僕とは二輪の桜　同じ部隊の枝に咲く　&lt;br /&gt;
血肉分けたる仲ではないが　何故か気が合うて別れ&lt;br /&gt;
られぬ&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;二番　&lt;br /&gt;
君と僕とは二輪の桜　積んだ土嚢の蔭に咲く　&lt;br /&gt;
どうせ花なら散らなきゃならぬ  見事散りましょ国の為&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;三番　&lt;br /&gt;
君と僕とは二輪の桜　別れ別れに散ろうとも　&lt;br /&gt;
花の都の靖国神社　春の梢で咲いて会う　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;レコードはキングから昭和１４年７月新譜「戦友の唄」と&lt;br /&gt;
して発売された。　作詞　西条八十　作曲　大村能章　&lt;br /&gt;
歌手　樋口静雄　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;それが海軍風に「貴様と俺とは同期の桜」と改作され&lt;br /&gt;
昭和１９年半ば頃より大いに歌われた。　&lt;br /&gt;
作詞は帖佐裕（海兵７１期　第三回天隊）,海兵時代に&lt;br /&gt;
江田島の金本倶楽部にあった「戦友の歌」を覚えて&lt;br /&gt;
歌ったのが「同期の桜」の誕生だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一番　&lt;br /&gt;
貴様と俺とは同期の桜　同じ兵学校の庭に咲く　&lt;br /&gt;
咲いた花なら散るのは覚悟　  見事散りましょ国の為&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;二番　&lt;br /&gt;
貴様と俺とは同期の桜　同じ兵学校の庭に咲く　&lt;br /&gt;
血肉分けたる仲ではないが　何故か気が合うて&lt;br /&gt;
別れられぬ&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;三番　&lt;br /&gt;
貴様と俺とは同期の桜　同じ航空隊の庭に咲く　&lt;br /&gt;
仰いだ夕焼け南の空に　未だ還らぬ一番機&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;四番　&lt;br /&gt;
貴様と俺とは同期の桜　同じ航空隊の庭に咲く　&lt;br /&gt;
あれ程誓ったその日も待たず&lt;br /&gt;
なぜに死んだか散ったのか&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;五番　&lt;br /&gt;
貴様と俺とは同期の桜　離れ離れに散ろうとも　&lt;br /&gt;
花の都の靖国神社　春の梢に咲いて会おう&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１、２番の兵学校を自分の所属部隊名に変えて歌って&lt;br /&gt;
いた様です。ただ３、４番は航空隊の歌であり接続に&lt;br /&gt;
疑問があります。昭和２０年３月２１日野中少佐率いる&lt;br /&gt;
第一神雷特別攻撃隊は沖縄に突入しましたが桜花隊&lt;br /&gt;
の中で「神雷」として盛んに歌われていた様です。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;○明日はお立ちか&lt;br /&gt;
「明日はお立ちか」のレコードは昭和１７年３月新譜で&lt;br /&gt;
ビクターから発売された。　作詞　佐伯孝夫　&lt;br /&gt;
作曲　佐々木俊一　歌手　小唄勝太郎&lt;br /&gt;
歌詞については次の様に１、２番が異なっています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一番&lt;br /&gt;
明日はお立ちかお名残り惜しや　なまじ逢わねば&lt;br /&gt;
泣くまいに　心と心つないだ糸は　なで切れましょ&lt;br /&gt;
切れはせぬ　　（あ）　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;同じ一番　　　　&lt;br /&gt;
明日はお立ちかお名残り惜しや　大和男児の晴れの旅　&lt;br /&gt;
朝日を浴びていで立つ君よ　拝む心で送りたや　（い）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;二番　　&lt;br /&gt;
思うばかりで口には言えず　握るこの手を忘れずに　&lt;br /&gt;
お山も今朝は泪で曇る　君を見送る峠道　　（あ）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;同じ二番　　&lt;br /&gt;
駒の手綱をしみじみとれば　胸にすがしい今朝の風　&lt;br /&gt;
お山も晴れて湧き立つ雲よ　君を見送る峠道　　（い）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;三番　　&lt;br /&gt;
時計見つめて今頃あたり　汽車を降りてか船の中　&lt;br /&gt;
船酔いせぬか嵐は来ぬか　あれさ夜空に夫婦星&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;は同じ歌詞です。１、２番は１あ２あ、１い２あ、１い２い、&lt;br /&gt;
の３通りの組み合わせがあります。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;私は１い２あ、と思っています。　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;尚「お立ち酒」として次の２つがあります。&lt;br /&gt;
お前お立ちかお名残り惜しい　名残り情けの酌むみ酒　&lt;br /&gt;
またも来るから身を大切に&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;お前お立ちかお名残り惜しや　名残り情けの酌むみ酒　&lt;br /&gt;
めでた嬉や思うことかのさ　末はつるたびこよのお祭り&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;追記　　帖佐裕氏は第１期の回天搭乗員で１人生存。&lt;br /&gt;
同氏は「潜校の中尉の歌」も作詞しています。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;○潜校の中尉の歌&lt;br /&gt;
この歌は元歌が昭和１８年の松竹映画「サヨンの鐘」の&lt;br /&gt;
主題歌「サヨンの歌」です。&lt;br /&gt;
作詞　西条八十　作曲　古賀政男　歌手　李香蘭。&lt;br /&gt;
レスはレストランのこと。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;一番　&lt;br /&gt;
酒を飲み飲みレスからレスへ　歌い暮らして夜更けに帰る　&lt;br /&gt;
俺は気ままな潜校の中尉　親は馬やら鹿じゃやら　&lt;br /&gt;
ハイドー　ハイドー&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;二番　&lt;br /&gt;
まずい顔でもハートはナイス　いとしあの娘の歌声聞いて　&lt;br /&gt;
俺は朗らか潜校の中尉　向こう鉢巻ひと踊り　&lt;br /&gt;
ホイサー　ホイサー&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;三番　&lt;br /&gt;
可愛いあの子の写真を抱いて　何故に涙がホロホロ落ちる　&lt;br /&gt;
俺は年頃潜校の中尉　大竹育ちの若いネービー　&lt;br /&gt;
ロング―　ロング―&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;四番　&lt;br /&gt;
レスの柱にふらふらもたれ　遠く眺める太平洋上　&lt;br /&gt;
泣くなＯＯお前が泣けば　俺の顔には酒の涙　&lt;br /&gt;
ホロリー　ホロリー&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;サヨンの歌は　&lt;br /&gt;
一番　&lt;br /&gt;
花を摘み摘み山から山を　歌い暮らして夜露に濡れる　&lt;br /&gt;
私やきままな蕃社の娘　親は雲やら霧じゃやら　&lt;br /&gt;
ハイホー　ハイホー&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;帖佐裕氏は佐世保中学４年修了で海兵７１期として入校、&lt;br /&gt;
昭和１７年１１月卒。武蔵、時雨、潜水艦１０号、潜水学校、&lt;br /&gt;
回天、最古参搭乗員、戦後は京都大学法学部卒、&lt;br /&gt;
親和銀行勤務平成７年死亡、寡黙な人で音楽の才能があり。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;飯田君は上記にたいし異論、補足事項あればお知らせ&lt;br /&gt;
願いたいと言っている。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;。　&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>海経</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-14T17:43:58+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-0e9e.html">
<title>回想のラバウル航空隊　短期現役主計科士官の手記（５）</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/post-0e9e.html</link>
<description>昭和１８年６月は太平洋戦争の重大な転機にあたって いた。米軍はこのころより本格的...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;昭和１８年６月は太平洋戦争の重大な転機にあたって&lt;br /&gt;
いた。米軍はこのころより本格的反攻に転じ、圧倒的な&lt;br /&gt;
物量をもって、２年後の終戦まで押しに押してきたので&lt;br /&gt;
ある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;反攻の緒は北方では、５月中旬に始まったアッツ、キスカ&lt;br /&gt;
への進攻であり、南においてはニューギニアへの進出と&lt;br /&gt;
ソロモン戦線における飛び石作戦だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ブインを第１線とするソロモン方面においては、少なくとも&lt;br /&gt;
６月の初めまで、昼間の制空権はわが方にあり、敵の&lt;br /&gt;
空襲はおおむね夜間に限られていた。しかしこの頃より&lt;br /&gt;
敵は白昼堂々と攻撃してくるようになり、正攻法の寄せ身&lt;br /&gt;
をみせてきた。この第１の原因は航空戦力の補給の差&lt;br /&gt;
であった。&lt;br /&gt;
わが方は依然旧式の９７艦攻や足がでたままの９９艦爆&lt;br /&gt;
で戦っており、零戦もスピードと防御力において、劣勢に&lt;br /&gt;
おかれざるを得なかった。そのうえ、機材そのものの補給&lt;br /&gt;
が思うにまかせず、優秀な搭乗員は、連日の戦闘で、&lt;br /&gt;
櫛の歯をひくように欠けていった。&lt;br /&gt;
これにたいし米軍はB24爆撃機やグラマンF6F,P51ムス&lt;br /&gt;
タング、コルセアF4Uなどの新鋭戦闘機を、無限に投入&lt;br /&gt;
してくるのだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;第２の大きな原因は建設機械力の差であった。ソロモン&lt;br /&gt;
戦線で、海軍の飛行場で実働しているのは、わがブイン&lt;br /&gt;
のみであった。他にパラレ、ブカに飛行場と名のみの&lt;br /&gt;
滑走路があるだけだった。そしてこれらの飛行場も、大勢&lt;br /&gt;
の設営隊員が椰子を切り、モッコをかついで、何ヶ月もの&lt;br /&gt;
苦労のすえ、やっとつくりあげたものであった。&lt;br /&gt;
一方米軍はガ島占領後、日ならずしてラッセル島に飛行場&lt;br /&gt;
をつくり、６月末には、レンドバ島，ニュージョージア島、&lt;br /&gt;
ベララベラ島、モノ島と飛び石作戦で進出し、上陸すると&lt;br /&gt;
１０日もたたぬうちに飛行場を作り、爆撃機以外の小型機&lt;br /&gt;
が出撃していくのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;かれらはこの後ブーゲンビル島の中部で、とても飛行場など&lt;br /&gt;
作れないとおもわれていた、クロキナに上陸し、ニューギニア&lt;br /&gt;
の進出勢力とともに、ラバウルを猛爆して孤立させ、内南洋&lt;br /&gt;
に矛を進めてきたのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;６月５日のブインにもどろう。&lt;br /&gt;
６月５日は山本元帥国葬の日だった。午後戦爆連合約４０機&lt;br /&gt;
が、ブインに攻撃をかけてきた。わが零戦もただちに迎撃し&lt;br /&gt;
壮烈な戦いが我々の上空に展開された。　重爆を追尾する&lt;br /&gt;
零戦、そうはさせずと追いすがるグラマン、敵味方入りまじって&lt;br /&gt;
マンジトモエの空中戦、我々は海岸に立ち、固唾をのんで&lt;br /&gt;
眺めていた。&lt;br /&gt;
大型機の撃墜こそ見られなかったが、小型機の墜落のシーン&lt;br /&gt;
は数多く見られた。もみあっているうちに、やられた機はスーッ&lt;br /&gt;
と糸をひいたように垂直に落下していき、いとも簡単に、音も&lt;br /&gt;
なく海中にポトリと落ちる。遠方なので敵か味方かよく分らない&lt;br /&gt;
が。メラメラと黒煙をあげて落ちないかぎり、浜辺からは拍手&lt;br /&gt;
喝采が起こった。燃えて黒煙をあげるのは零戦であることを&lt;br /&gt;
よく承知していたのであった。&lt;br /&gt;
この日の戦果は敵１９機撃墜（不確実３）、わが損害３機と&lt;br /&gt;
発表された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;翌々７日には、お返しに２０４空、２５１空、５８２空、約８０機で&lt;br /&gt;
ラッセル島方面を攻撃し、約３０機を撃墜して全機帰還している。&lt;br /&gt;
まだまだ、わが軍は意気軒昂であった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;６月１０日、戦爆連合数十機がやってきて、飛行場と倉庫を&lt;br /&gt;
ねらった。そのため零戦９機が被弾した。&lt;br /&gt;
わが方は、ガ島やラッセル島方面に増強してきている敵の&lt;br /&gt;
航空兵力や輸送船団を叩き、その進出を抑えるべく、２０４空、&lt;br /&gt;
２５１空、５８２空連合で１２日と１５日に総攻撃を予定していた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;６月１２日、５８２空、２０４空、２５１空連合してガ島方面の攻撃&lt;br /&gt;
に向かった。敵は増強した新鋭機で迎え撃ってきたが、３２機&lt;br /&gt;
撃墜（不確実１３）の戦果をあげた。わが方未帰還機は２機だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１５日の作戦が１日延期となり、艦爆隊は１５日にラバウルから&lt;br /&gt;
戻ってきた．２３機だった。この日は再び飛来した２０４空、２５１空&lt;br /&gt;
の搭乗員が加わり士官室はがぜんにぎやかになり、活気に&lt;br /&gt;
あふれていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;１６日の攻撃はムンダ方面への敵の上陸を未然に潰そうという、&lt;br /&gt;
２６航戦の全力をあげた大作戦であった。&lt;br /&gt;
０９００、全搭乗員が指揮所前に集合した。こげ茶色の飛行服に&lt;br /&gt;
同色の救命胴衣を着け、飛行帽に半長靴で身を固めた帝国海軍&lt;br /&gt;
の誇る「ラバウル航空隊」の精鋭である。クビにまいた純白の絹&lt;br /&gt;
マフラーが凛々しく美しい。&lt;br /&gt;
攻撃の聡指揮官は１日付けで少佐に進級したわが隊の進藤三郎&lt;br /&gt;
戦闘機隊長であった。&lt;br /&gt;
５８２、２０４、２５１空の零戦機は７０機、わが艦爆隊は２４機。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;戦果はあがり大本営は次のように発表した。&lt;br /&gt;
「輸送船大型４隻撃沈、中小型３隻撃沈、駆逐艦１隻撃沈、飛行機&lt;br /&gt;
３２機以上撃墜、わが方未帰還機２０機。&lt;br /&gt;
本戦闘をルンガ沖航空戦と呼称する」。&lt;br /&gt;
敵に与えた損害は明瞭ではない。しかしわが軍の損害はこの発表&lt;br /&gt;
をはるかに超えるものであった。&lt;br /&gt;
わが隊の艦爆隊２４機のうち、じつに１３機が未帰還で、戦闘機&lt;br /&gt;
未帰還１８機（うち５８２空４機）というものであった。&lt;br /&gt;
わが隊は当隊開設以来の３２名の戦死者、未帰還者をだしたので&lt;br /&gt;
あった。&lt;br /&gt;
２５１空も分隊長、分隊士を失った。&lt;br /&gt;
２０４空も宮野隊長、山本長官の直援機の隊長だった森崎中尉など&lt;br /&gt;
多くの勇士が基地に還ってこなかった。&lt;br /&gt;
あまりにも大きな損害だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;５８２空艦爆隊はこのあと、後方のラバウル、カビエンに引き上げ&lt;br /&gt;
建て直しをはかるのであるが、帝国海軍最強の基地艦爆隊は、&lt;br /&gt;
事実上この日をもってその力はつきはてたのであった。&lt;br /&gt;
１年余年前の１７年五月、横須賀で第２航空隊として編成されて&lt;br /&gt;
以来、２５０名以上の艦爆搭乗員の勇士が、ソロモンにニューギニア&lt;br /&gt;
に勇戦奮闘したが、負傷などにより帰還し、現在も健在なのは&lt;br /&gt;
わずか数名にすぎない。&lt;br /&gt;
このルンガ沖戦闘では、ロッキードP38、グラマンF4F、コルセアF4U&lt;br /&gt;
などの敵戦闘機が３段構えで待機しており、わが軍の完全な敗戦&lt;br /&gt;
であったことが知られる。&lt;br /&gt;
ともあれ、この６月１６日をもって、南東方面における彼我の制空権&lt;br /&gt;
は完全に逆転することになったのである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;５８２空は戦闘機隊が外されて、２０４空に移った。ブインの基地には&lt;br /&gt;
２０４空、２５１空の一部が進駐していた。しかし主隊はいぜん５８２空&lt;br /&gt;
であった。５８２空は近くカビエンに転進するという噂が流れていた。&lt;br /&gt;
これは我々も内心大歓迎であった。ニューアイルランド島のカビエン&lt;br /&gt;
は、三箇所を行き来する搭乗員の間で「ブイン田舎で、ラバウル都、&lt;br /&gt;
花のカビエン極楽浄土」という言葉があるくらいよい所らしかった。&lt;br /&gt;
８月１０日当隊の主力はラバウル、カビエンに行って建て直しを図る&lt;br /&gt;
ことになった。しかし司令はブインに残るという。しかし翌日の会議の&lt;br /&gt;
結果、庶務はラバウルに帰り、私もラバウルに引き上げと決定した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;当方の事情にはおかまいなく、ベララベラ島上陸を目指した敵の&lt;br /&gt;
攻撃は、ますます、しきれつになった。&lt;br /&gt;
12日には戦爆連合の大空襲で、避退の遅れた虎の子の飛行機&lt;br /&gt;
30機近くが炎上するという大被害をうけた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ラバウルへの出発は17日と決まった。その２日前には、米軍は&lt;br /&gt;
ベララベラ島に上陸してきた。1ヶ月半のあいだに、レンドバ、ムンダ、&lt;br /&gt;
ベララベラと進出してきたのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;17日、1式陸攻でブインを離陸した。半年間苦楽を味わったブインを&lt;br /&gt;
去るのは哀惜に似た感傷があった。私はこのあと、ブインの部隊に&lt;br /&gt;
帰ることはなかったのでこれがブインとの別れであった。&lt;br /&gt;
ブーゲンビル島は11月に米軍がクロキナに上陸し、戦闘、飢餓、病気&lt;br /&gt;
によって4万名以上の陸海将兵がこの島に骨を埋めた。ブインにも&lt;br /&gt;
絶望的な運命がやってきた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昭和55年、慰霊巡拝団の一員として、37年ぶりにブインの地を踏み&lt;br /&gt;
しめた。地のはてのブインも文明の波に洗われているようにも&lt;br /&gt;
思われたが、ジャングルに入ると昔のままだった。純朴な人々は&lt;br /&gt;
椰子の実を割り、「愛国行進曲」を歌って歓迎してくれた。&lt;br /&gt;
明日をも知らぬ戦闘の日々の間、搭乗員がデッキで威勢良く歌って&lt;br /&gt;
いた八木節が懐かしく耳朶にひびいてくる。&lt;br /&gt;
「ブインよいとこ一度はおいで　　狭い滑走路に着陸すれば&lt;br /&gt;
横にはみだし飛行機こわし　　そこで分隊長に整列くらい・・・・・・・&lt;br /&gt;
飛行機壊すなこわすな飛行機　オーイサネー」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ラバウルには1式陸攻で帰った。途中ブカ島に着陸した。&lt;br /&gt;
ラバウルでは夜起されることもなく、グッスリ眠れた。大勢の同期&lt;br /&gt;
も元気でいた。心は晴れ晴れとしているはずだが、私の健康状態は&lt;br /&gt;
あまりよくなかった。ブインのマラリア以後38度くらいの微熱もずっと&lt;br /&gt;
続いていた。第８海軍病院で胸部のレントゲン写真を撮った。右胸&lt;br /&gt;
膜に異常ありだった。&lt;br /&gt;
私が入院した時、となりのベッドに２５１空の鴛淵孝大尉がマラリア&lt;br /&gt;
で入室していた。兵学校68期の戦史にのこる撃墜王で、赫々たる&lt;br /&gt;
武勲をあげた後、終戦間際に松山３４３空で、紫電改搭乗、豊後&lt;br /&gt;
水道上のグラマン戦で散華された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;退院してみると部隊が大編成替えとなっていた。新たに艦攻隊が&lt;br /&gt;
増え分隊数は２０に増え我々は第20分隊となっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;9月10日には欧州ではイタリアが降伏し、ブインの空襲もますます&lt;br /&gt;
激しくなっているとのことだった。そのころのラバウルは、まだ&lt;br /&gt;
のどかなものであった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;昭和18年10月20日同期とバレーボールをやった。なかなか楽しい&lt;br /&gt;
会であった。&lt;br /&gt;
翌日主計長の許可を得て、念願のカビエンまで俸給を渡しに行った。&lt;br /&gt;
カビエンはラバウルの北西方に細長く伸びているニューアイルランド&lt;br /&gt;
島の北の端にあり、ラバウルから中攻で約1時間だった。俸給袋を&lt;br /&gt;
渡すと出張目的は完了した。隊の本部は、海を見下ろす丘の上の&lt;br /&gt;
立派な建物で、広い庭園には芝生が敷き詰められ、いたるところに&lt;br /&gt;
熱帯樹や草花の植え込みがあった。それは佳美苑のなかの&lt;br /&gt;
「花美園」であった。&lt;br /&gt;
大空は清澄に、紺碧の海は明るく、原色の草花は妍をきそい、緑の&lt;br /&gt;
芝生と濃緑の木立は、色彩の乱舞に疲れた目を休ませてくれた。&lt;br /&gt;
まさしくカビエンは「極楽浄土」だった。&lt;br /&gt;
夜がきた。昼間、繚乱としていた庭の茂みに、おおきな光の玉が&lt;br /&gt;
ともった。なにごとかと近づけば、光はパっと消え、別の茂みが光り&lt;br /&gt;
だす。光の玉はあちこちで点滅している。蛍であった。無数の大きな&lt;br /&gt;
蛍が、花の蜜にむらがり、集団となって、点滅している。空からは&lt;br /&gt;
満天の星。翌日も優雅な生活をエンジョイした。丘を下りると「南花苑」&lt;br /&gt;
というコーヒー店がある。現地産の香り高いコーヒーに、真っ白い砂糖&lt;br /&gt;
をいれて味わうことができた。&lt;br /&gt;
このカビエンも翌年には惨憺たる戦場となり、地獄と化すのだが、&lt;br /&gt;
当時はまことに天国だった。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-11T00:34:46+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/221-d6a4.html">
<title>坂の上の雲　築地海軍兵学校　明治2年～明治21年</title>
<link>http://kkono.cocolog-nifty.com/ukulelebeginner/2009/12/221-d6a4.html</link>
<description>坂の上の雲、原作　司馬遼太郎、のテレビ・ドラマがNHK で始まっている。 先日秋...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;坂の上の雲、原作　司馬遼太郎、のテレビ・ドラマがNHK&lt;br /&gt;
で始まっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;先日秋山真之が艇長を務めるカッター競争で、伊予の&lt;br /&gt;
民謡お囃子を歌って優勝した画像を見たが、築地海軍&lt;br /&gt;
兵学校の概要を原作から記録する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治2年、旧幕府最高の学校であった昌平坂学問所を&lt;br /&gt;
あらためて「大学校」と称した。その機能を２分し、大学&lt;br /&gt;
南校と大学東校と言い、南校では人文科学、東校では&lt;br /&gt;
医学を教えた。&lt;br /&gt;
明治１２年には学生改革、明治１９年の帝国大学令で&lt;br /&gt;
帝国大学の設置が規定された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;子規や真之らは、帝国大学以前の制度のとき入学して&lt;br /&gt;
いる。かれらが入学した「大学予備門」というのは、大学&lt;br /&gt;
に付属した機関で、のちの高等学校もしくは大学予科に&lt;br /&gt;
相当する。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治海軍が築地をもってその技術訓練の根拠地にした&lt;br /&gt;
のは、すでに明治２年からであった。場所は築地安芸橋&lt;br /&gt;
内である。&lt;br /&gt;
建築にあったては、多くの大名屋敷をつぶした。尾張藩&lt;br /&gt;
蔵屋敷、芸州広島藩下屋敷、奥州白河藩下屋敷、一ツ橋&lt;br /&gt;
家下屋敷、山城淀藩中屋敷、増山河内守上屋敷、それに&lt;br /&gt;
旗本屋敷５軒のぶんを加え、すべてで五万坪の用地だった。&lt;br /&gt;
校舎は最初バラック２棟だったが、明治４年和洋折衷の&lt;br /&gt;
新しい建物が建てられた。&lt;br /&gt;
さらに明治１６年、築地川にそうて二階建てレンガ造りの&lt;br /&gt;
建物ができあがり、東京屈指の洋館になった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;真之は予備門在学中に海軍に入ることを決意した。&lt;br /&gt;
海軍士官の養成学校が「海軍兵学寮」という名前だった&lt;br /&gt;
のは明治９年までだった。その後は「海軍兵学校」となった。&lt;br /&gt;
真之は大学予備門の退学手続きを終え翌日兵学校への&lt;br /&gt;
志願手続きを行った。このことは子規には黙っていた。&lt;br /&gt;
入学試験は２回にわけて行われた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;真之は合格した。保護者である兄好古の下宿へ海軍省&lt;br /&gt;
からその通達が来た。&lt;br /&gt;
好古は「おまえ、秋山家の先祖が伊予水軍であることを&lt;br /&gt;
知っているか」といった。真之は知らない。&lt;br /&gt;
伊予は水軍の国である。源平のころにはすでに瀬戸内海&lt;br /&gt;
の制海権を持ち、源氏も平家もそれぞれこの水軍を抱き&lt;br /&gt;
いれようと腐心し、最初平家に属したため、平家は瀬戸内&lt;br /&gt;
海岸に源氏を近づけなかった。後に源氏に属したため、&lt;br /&gt;
制海権は源氏に移り、平家は壇ノ浦でほろんだ。&lt;br /&gt;
戦国期にも伊予水軍は生きている。さらに江戸末期に&lt;br /&gt;
いたっても、伊予の水夫の実力は天下にひびいており、&lt;br /&gt;
幕末、幕府の遣米使節をのせた米艦の伴走艦として咸臨丸&lt;br /&gt;
が太平洋をわたるとき幕府はその水夫を伊予から徴募した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;秋山氏は、伊予の豪族河野氏の出で、戦国期から江戸初期&lt;br /&gt;
まで、讃岐や伊賀を転々とし、この兄弟から７代前の&lt;br /&gt;
秋山久信が伊予松山にもどり、久松家に仕えた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;明治１９年１２月の寒い日に海軍兵学校に入学した。この期&lt;br /&gt;
は５５人であり、入試では真之は１５番だった。一学年終って&lt;br /&gt;
首席になり、それでずっと通した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「大英帝国の権威はその海軍によって維持されている」という&lt;br /&gt;
言葉を兵学校の生徒の胸にきざみつけたのは、英国からの&lt;br /&gt;
雇い教師、アーチボルト・ルシアス・ダグラス少佐だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;真之の１年上には広瀬武夫という偉丈夫がいた。&lt;br /&gt;
真之らの在学中、学校が移転することになった。広島県&lt;br /&gt;
江田島に行くという。その理由はいくつかあるが、華美に&lt;br /&gt;
なった東京都下の風が海軍教育にふさわしくないというのが&lt;br /&gt;
主なものであるらしい。移転は明治２１年８月１日に行われた。&lt;br /&gt;
真之の入校３年目の年である。生徒の輸送は学校の練習船&lt;br /&gt;
である東京丸があたった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;尚、この時期における海軍経理学校の沿革は、&lt;br /&gt;
明治7年10月　会計学舎を設け、生徒教育開始。東京芝&lt;br /&gt;
　山内天神谷&lt;br /&gt;
明治9年８月　主計学舎と改称する&lt;br /&gt;
明治10年11月　主計学舎を廃止する&lt;br /&gt;
明治15年11月　主計学舎を再興する、芝公園三嶋谷&lt;br /&gt;
明治19年7月　海軍主計学校と改称&lt;br /&gt;
明治21年10月　校舎を京橋区築地４丁目1番地に移す。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>海経</dc:subject>

<dc:creator>Cadet</dc:creator>
<dc:date>2009-12-10T13:23:06+09:00</dc:date>
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