8月15日TBS土曜プレミアム映画「硫黄島からの手紙」
2006年米、クリント・イーストウッド監督を見る。
投降した二人の日本兵の面倒を命令された二人の米兵
が、戦闘のさなか、やってられないとして二人を射殺、
アメリカ映画としては問題場面がある。
次いで読みかけていた「17歳の硫黄島」秋草鶴次著、
文春新書、2006年12月10日第1刷発行、を読む。
志願兵として玉砕の地・硫黄島で戦い、傷つき、壕の
中で生き延びること約3ヶ月、硫黄島で死んだ仲間たち
を思い続け、61年目に初公開する少年兵の心と身体
に刻まれた戦争。
硫黄島は東京から1250キロ南にある小さな火山島で
ある。本土とサイパン島のほぼ中間地点に位置する。
日本軍の作った三つの飛行場((千鳥、元山(もとやま)、
北)があった。
米軍にとっては、日本本土への空襲を大規模に始める
には絶対に欲しい拠点であり、航続距離の小さい戦闘機
の基地として、B29の護衛にも使え、B29の不時着場と
もなる。
硫黄島は太平洋戦争終盤において、日米双方の最重要
戦略拠点となった。
すでに昭和19年6月から米軍の激しい空襲と艦砲射撃
が加えられていたが、昭和20年2月から3月にかけての
攻防戦は、史上例のない激戦となり、日米ともに甚大な
犠牲者をだした。
2万1千余の日本兵のうち、生きて帰ったものは、わずか
千23人だった。
摺鉢山の星条旗と名将栗林忠道中将をシンボルとする、
日米の勇敢な将兵たちの死闘ばかりが語られてきたが、
ひと月の徹底抗戦の末、栗林中将が決別電文を発して
戦死したあとも、島中に構築された地下壕・洞窟のあちこち
にはまだ数千人とも1万人ともいわれる将兵が潜んでいた。
投降して捕虜となることも、肉弾と化して突撃することも、
自決することもできず、逃げ場も無く、飢えと渇きの中で
苦しみ抜いて死んでいった人たちがいる。
人間が正視しかねる戦場の事実を、壕の中で通信兵、
秋草さんは見ていた。
戦いは3月26日の総攻撃で終ったわけではない。
なかったこととされてきた過酷な実態をこのまま葬って
しまっていいのか。戦後日本にもどってから、脳裏に焼き
ついた体験をひたすらノートに書きとめた。
両親がこの世を去ったとき、彼は初めて、それらのメモを
もとに、あらためて原稿用紙にしたためる決心をする。
その作業は昭和49年(1974)の初頭から始まった。
親指と小指、短くなった薬指だけの右手にペンを握って
書いてはは直し、なおしては書いた。その分量は原稿用紙
で千枚を軽く超えている。
秋草は昭和2年(1927)春、栃木県足利市生まれ。
昭和17年高等小学校を卒業するころ、少年航空兵の
募集が盛んだった。受験に際し第1志望は予科練
(飛行兵)、第2志望は通信科だった。
そして通信科に進む。昭和17年9月1日満15歳の
秋草さんは横須賀海兵団に入った。同年11月1日
横須賀海軍通信学校に入学した。同期生は728人。
(自分も昭和2年5月生まれで、16才の中学4年から
海軍経理学校東京築地校に昭和18年12月1日入校
した。終戦時最上級生1号の時は18才だった)。
教科は電磁気、電気機器、無線理論、無線機器、気象学、
数学と英語、送受信機、無線電話機、陸戦教練通信実習。
19年6月18日運命の転勤命令、赴任先は第2南方方面
派遣艦隊司令部、だがそれがどこかは知らされない。
赴任地が硫黄島と知ったのは、7月28日、小笠原諸島の
父島二見港を離れた時だった。硫黄島は地熱が高く、硫黄
ガスを噴出させており、湧き出る水などいっさいない荒涼
たる島であることをまだ知らない。この島が太平洋戦争の
なかでも、もっとも凄惨な戦場になるということなど知るよし
もない。硫黄島に上陸した秋草さんはその時17歳。手記は
赴任から6ヶ月目。米軍上陸直前から始まる。
目次の次ページに硫黄島略図が載っている。
米軍上陸は昭和20年2月19日である。
送信所に続く壕は、摺鉢山,船見台、二段岩と並ぶ玉名山
の見張り所であり、特に南地区の要所であった。
南地区は、海軍司令部をはじめ、第27航空戦隊、その下の
南方諸島海軍航空隊、海軍警備隊、海軍陸戦隊、設営隊
など約7300名となっている。
また別の壕にあってこれに呼応する陸軍部隊では、混成
第2旅団司令部、歩兵大隊、砲兵主力大隊、機関銃大隊、
速射砲大隊,工兵隊、機関砲隊、病院壕、包帯所等の
陣地に13,000名に達する将兵が地下に待機していた。
海岸線水際陣地は艦砲射撃に耐えられないとして、栗林
中将から取りやめ命令がでて、地下壕建設に注力した。
軍団司令部は北にあり、栗林壕とよばれた。
島民は、戦闘前には内地から移住してきた千人余が生活
していた。大半は東京製糖工場と硫黄鉱山精錬所で
働いていた。
昭和19年6月初旬、初めて米機動部隊の襲撃があった。
艦載機約60機の空襲、翌日、100機の艦載機と艦砲
射撃の攻撃があった。
各戸16才以上の男子一人と老人、女性、子供たちが内地
に送還された。島に残った男子は約80人、現地徴用され
軍属として海軍陣地に配属された。
秋草さんたちのこの島での初の任地である南方諸島海軍
航空隊本部壕は、南波止場から北1.5キロの元山台地に
在った。島内最大の壕で、3ヶ月くらいは篭城できるとの
噂があった。壕内の人数は約800人。ドラム缶は約500本。
重油,軽油、ガソリンそして飲料水である。
陸軍部隊の陣地は、全島4分割のうち、北、東、西に配し、
南地区は海軍の主力隊を配した。東地区には小型の
戦車隊がいた。
秋草さんの手記以前の状況はどうだったのか。 坂井三郎の
「大空のサムライ」の中の硫機島の記事を要約する。
敵はサイパンに上陸を開始し、硫黄島に対する敵の空襲も
織烈の度を加えてきた。
昭和19年6月横須賀海軍航空隊に硫黄島出動の命令が
出た。6月15日出発した。指揮官中島少佐以下零戦30機
である。
650海里の長翔に成功全機無事千鳥飛行場に着陸、ここ
からプロペラを回しながら、山を切り開いて作った曲がり
くねった坂道を登り、元山飛行場に着いた。
硫黄島について数日間は敵の空襲はなかった。
スプルーアンス提督の58機動部隊はサイパン島の攻撃に
主力を注いでいたためか、硫黄島にたいする攻撃は
それほどのこともなかった。われわれは、サイパン島の救援
に赴く予定も持っていた。
6月24日の早朝レーダにより敵機を捕捉した。当時も元山
の我々のほかに別の隊の零戦が数十機、千鳥飛行場に
待機していた。全機直ちに離陸した。
4千メートルの層雲の上下にそれぞれ1隊ずつ配置した。
その雲を突き破って敵のヘルキャット群が降ってきた。
たちまち大空いっぱいに銃撃の音がこだまし、陣形は乱れ
空戦が始まった。敵もなかなか戦意旺盛で、瞬く間に
入り乱れての大乱戦になった。雲を突き抜けて2機のグラマン
が火を噴いて落ちてきた。後で聞くと武藤金義飛曹長(あの
「紫電改の6機」に登場する武藤少尉だ)が忽ち撃墜したもの。
空中を埋める飛行機は彼我合わせて約百5,6十機、
いままでに経験したこのない壮絶な空中戦だった。
私は2機を落とすのに精一杯だった。敵を落とすには落とした
が、2回とも敵に先手を打たれてしまった。右目の視力低下
でやはり見張り能力が確実に低下してしまったんだ。一応
戦場から離脱しよう。エンジンを全速にして空戦空域の外側
を飛び回った。彼我入り乱れての空戦の状態を観察した。
敵のグラマンの真後ろ、4,50メートルのところに、わが零戦
1機が追尾して盛んに撃っている。ところがその真後ろには
こんどはグラマンが食いついている。そしてその後ろに零戦・・
と言う具合に敵味方7機が交互に一線に連なっていくのが
見えた。敵味方とも日ごろの空戦の注意事項をまるきり
忘れてしまっている。血走った目は前方の敵しか見て
いないのだ。
1番前の敵機がパっと火を噴いた。今度はそのグラマンを
喰った味方の零戦が真っ赤な閃光を発した。ところが今
零戦を喰ったそのグラマンが、またその後ろに追尾した
零戦にみごとに撃墜された。こうして敵味方が次々に落ちて
いって、最後尾にいた零戦1機だけが残って、次を求めて
急旋回で飛び去った。
この頃にはさしもの空戦も1段落を告げ、敵も味方も一応
のこりの機をまとめにかかっていた。私は味方の零戦隊に
合流しなければならない。左前方はるかな空に15機の
味方編隊がいる。近寄ったところそれは敵グラマンの編隊
だった。こうして1機の零戦に対し15機のグラマンが
追い回すことになった。
横滑りと左急旋回を何十回も繰り返し逃げまくる。この
戦闘は地上からも見られていて、高度が下がり、北地区
にかかると地上砲火が応援した。敵は慌てて反転し、攻撃
を打ち切った。
海を見下ろしていた。海面に無数の黒ずんだ丸い形が
みえる。海面に浮かんだ油のひろがり。飛行機の落ちた
跡だ。数える、70いくつだ。
後で両軍の半数が落ちたことが分る。
今日の空戦は約30分におよぶ激しいもので、坂井にとって
こんなに長い空中戦はこれ1回しかなかった。
昭和19年6月末。対空戦闘のラッパが鳴り響いた。待ち
構えていた味方の全機が飛び立った。敵はグラマン戦闘機
を先頭にした戦爆連合の約5,60機だ。敵を待ち受けて
いた約40機の零戦隊が直ちに突っ込んで行った。
TBFアベンジャー急降下爆撃機が元山飛行場に突っ込んで
きた。
この日の空戦では武藤飛曹長はじめ大奮戦して随分敵機を
落とした。千鳥飛行場も元山飛行場も大変な損害をうけ、
惨憺たる有様だった。空戦も稀に見る激しいものであり、敵を
沢山落としたが、味方もその大半を落とされた。
その夜、明日敵の第58機動部隊に対して、戦闘機と雷撃機
で白昼攻撃をかける作戦が決まった。もちろん反対論もあった。
あれだけの大戦力を持った第58機動部隊に対して、残った
僅かの戦闘機や雷撃機をかり集めて、白昼強襲をかける
なんて無茶だ。残り少ない大切な飛行機と搭乗員を意味なく
失う無謀作戦だという強硬な反対があった。
しかし、敵に一矢を報いたいとの横空の名誉のためということ
で作戦が決まった。
翌日敵の午前中の来襲があり、零戦隊は迎撃戦闘をやったが
衆寡敵せず、機も基地もそうとうに痛めつけられた。
今日までの空戦で、横空零戦隊はその大半を消耗してしまい、
残った飛行機は、横空の零戦が9機、天山艦攻が8機であり、
これが残存勢力のすべてというみじめな有様になった。
千鳥飛行場には後で3機の零戦が残っていて、敵のカタリナ
偵察機2機を撃墜したあと、着陸後機体が砲撃で破壊され、
飛行機はゼロとなった。
横空の指揮官三浦鑑三大佐の出撃前の訓示。「空中戦闘を
おこなってはならない。全機敵航空母艦に体当たりせよ」
これは昭和19年7月のこと。比島の神風特攻隊に先立つこと
約4ヶ月。特攻の始まりということになる。比島のマズラカット
飛行場を飛び立った特攻は敷島隊だった。
この白昼強襲隊は敵機動部隊を発見できず、反対に敵グラマン
数十機の迎撃をうけ、雷撃機は全機、零戦は5機が打ち落と
された。坂井小隊の3機は基地に帰還した。武藤金義飛曹長
の機も帰還していたのがわかった。しかしこの4機も後の空戦
と爆撃で失われた。
指揮所から伝令がきた。その命令によれば、とりあえず搭乗員
だけは、一応内地に帰って新しい戦闘機を整備した上、再び
進出すりことになった。木更津航空隊から輸送機が来るという
思いもよらないものだった。同日午後遅く、1式陸攻と96陸攻
が8機飛んできた。帰還者の搭乗割りは階級順だった。
坂井と武藤飛曹長を含めた11人は翌日の最後の1式陸攻で
帰ることができた。
この頃他の地域ではどうなっていたのか。海経36期宮本三夫
の作った「昭和の世界戦争記録 対比」で調べるのが便利だ。
昭和19年(1944)6月6日 連合軍ノルマンデイに上陸。
6月15日 米軍サイパン島上陸
6月18日マリアナ沖海戦
6月24日 米機動部隊硫黄島空襲
7月4日 インパール作戦中止
7月7日 サイパン守備隊、玉砕発表
7月21日ー8月10日 グアム島陥落
7月24日ー8月1日 米軍テニアン島攻略
10月20日 米軍比レイテ島上陸
10月20日 海軍神風特攻発進、天候不良で引き返し
10月23日 フイリピン沖海戦、戦艦武蔵 シブヤン海に沈没
10月25日 敷島隊、関幸男大尉らレイテ沖出撃
10月25日 エンガノ岬沖海戦で囮の日本空母全滅
10月25日 サマール沖海戦、栗田艦隊反転
11月24日 マリアナ発進B29により東京初空襲
12月2日 グアム島を基地とするB-24,硫黄島空襲開始
12月31日 米軍レイテ島制圧完了
○昭和20年1月24日
早暁多数の米艦隊が砲撃開始。無数の飛行機が現れる。
日本軍が1年近くかけて造りあげた地下壕は島内いたる
ところに散在している。壕は砂岩やそれに似た土丹岩で
囲まれているため、やわらかく天井や壁面が崩れやすい。
地熱があるため深くは掘れない。
南方諸島海軍航空隊本部壕(通称・南方空壕)も西北部
の幹線壕が直撃弾のため陥没した。何百人の生命と武器
弾薬が埋没してしまった。
照明弾は一晩じゅう全島を照らした。
○1月25日
空と海からの攻撃が始まった。通信所の玉名山にある
見張所は南海岸方面の観測所で司令部宛状況報告する
のも、通信所の役目だった。
○1月26日
外の景色は荒涼寂寞とした光景で賽の河原のようだった。
○1月31日
司令部あて状況報告のため外へ出て調査せよとの命令が
くる。
「影」とは影山昭二くんの愛称だ。横須賀海軍通信学校の
同級生で昭和2年生まれの同い年だ。自分は「秋」と
呼ばれた。横須賀からの輸送船は木造で、父島に寄航、
待機していた通信科員と合流した。そこで熊倉保夫と知り
合った。硫黄島に到着したのは7月30日だった。
南空壕の通信科から玉名山送信所,北送信所に転勤の
後、昭和20年1月2日再び玉名山送信所に勤務すること
になった。敵上陸は九分通り南海岸と見られており、玉名
山は最前線になる。影と一緒なのが救い。
2月1日未明、スコールがきた。急げ、命をつなぐ真水だ。
容器に水を満たす。雨足はほんの一時だった。南方空
本部通信科に状況報告する日だった。
道しるべになる地形はすっかり変わっていた。最大の目印
は北硫黄山、南硫黄島と摺鉢山、玉名山、二段岩、天山
などの高いものだった。砂糖キビ密集地があった。
いろいろ間違えたあと本部司令部壕の入り口に来た。熱気
に逆らって進入する。
高野通信長は北送信所で統括しており、この南方空壕本部
電信室では松本良一掌通信長が指揮していた。報告は
玉名山から見渡す風景は生物の存在を許さないほどの荒廃。
二段岩の電探用レーダーも破壊され、千鳥飛行場は土が
掘り返され激しい凸凹で機影なし。南地区はかなり被害を
被っており、病院も満員、食料も不足し1ヶ月もたせるのは
無理という。
松本掌通信長は「玉名山送信所員は、他部隊に加勢する
武器はない。送信機を扱い情報を送るのが任務だ」と。
2月11日 航空攻撃はまた一段と激しくなった。盲爆であり
猛爆だ。日本軍の迎撃はない。 この日、米軍は日本本土
に本格的な攻撃を開始した。戦艦、巡洋艦、大型空母は
護衛艦、駆逐艦を同行し、航空爆撃,機銃掃射、艦砲射撃
を行ったとのことだった。
2月14日木更津航空隊海軍索敵機からの入電、敵機動部隊
約800隻マリアナ沖出航、日本本土攻撃の機動部隊
南下中との知らせが入った。
もはや、全島にただ一つとして完璧な壕や陣地はない。
なんという物量の差異だ。大人を相手にこどもが素手で争って
いるようなもので、勝てる見込みはない。神も奇跡も信じられ
ない。なんということをしたんだ。全滅疑いなしだ。
どう転んでも、もう長くはない。いずれは野垂れ死にか、ならば
早く逝きたい、楽になりたい。この俺という人間の器の中で、
魂の葛藤が続く。本能が芽生える、死んでたまるか。
2月15日、B29の空襲を合図にいっせいに地中人になる。
防空壕は直撃弾をうけ、死傷者が増し、死者への弔いも、
荼毘に付されることもなく、生から死への流れのままに放置
されていく。
空襲の合間にはっきり敵の艦船が見えた。機動部隊だ。
対する日本軍は大和魂が約2万余、旧態然の兵器、頼みの
中型戦車が数両、他は軽戦車で、どう見ても月とスッポンだ。
それでも撃滅しろ、死守せよとの命令だ。
上層部からの指示は時々変わった。大本営や担当武官の
移動にともなう施策の変更だ。方針が変わっても働き蜂は
そのたびに動かねばならぬ。水汲み、穴掘り、土砂運び、
炊事番、笛を吹くもの、踊る役は相変わらずだ。
2月16日 手動電鍵は松下無線製造、送信機は真空管式
短波、中波、長波があり、主として川西真空管製だった。
これらと連動して97式長短波受信機がよく活躍した。
目を見張るほどの多種多様な艦船がいつの間にか接近して
いる。二重三重に包囲している。その外部にも見え隠れする
船が認められる。視野に入る数百隻の機動部隊は砲身を
旋回して標的を定めている。第2陣は約40機のB24大型
爆撃機だ。小型艦載機群約100機も赤トンボの群れのように
飛び廻っている。双発双胴のP38も北の鼻岬をかすめて侵入、
南地区を背後から銃撃する。午前7時、戦艦から合図の
砲声が響いた。真っ黒い塊が南地区に飛んできた。
上陸作戦の幕開けだった。
艦砲射撃と航空銃撃が1日中繰り返された。
千鳥飛行場の西角にあった弾薬庫が直撃をうけて誘爆した。
隣接した地下壕で死を免れた一群が送信所に退避してきた。
彼らは予備学生をふくんだ飛行兵と整備兵だ。その装束は
歴然と異なっており、その処遇の違いを示していた。飛行機
に乗ったら隣り合わせに死神がいる。それにたいする計らい
なのだろう。今となっては誰の隣にも死神がいて何の差異も
ないのに。「今度この島に飛行機が来たら俺が帰る番だ。
敵戦との交戦はしない」と一人が言う。この飛行兵の身支度
は戦闘態勢でなく、帰り支度だったのか。帰るあてがあって
いいね、そういう望みはこっちにはない。結局送信所が受け
入れた。
2月17日今日も第1陣はB24の編隊だ。100隻を超す艦船が
砲撃を開始した。間隙を縫って小型舟艇が十数隻、東海岸の
神山海岸に接近してきた。多分検索隊か掃海隊だ。綺麗な
砂浜が少しあり、上陸してきた。
この一連の行動を監視していた東地区の海軍の機銃砲台は
機銃掃射を浴びせ撃退した。敵の東方艦隊はそれを見て、
いっせいに東地区の陣地を砲撃した。この神山海岸から
摺鉢山に至る海岸線には他にも敵の一群が点在し、探査行動
を継続していた。
摺鉢山砲台は水際撃滅作戦のために造られた陣地だ。これは
海岸線の方向にしか砲撃できない。撃退された様子を見ていた
艦隊は間髪をいれず砲撃した。海洋に向かっては全く価値の
ない我が砲台はやられるがままの状態に追い込まれた。
執拗な艦砲射撃が終ると、100機に余る艦載機が機銃攻撃を
加えた。
午前9時、北地区陣地にも被害が出始めた。北地区の海軍
15センチ砲台が米巡洋艦を砲撃、炎上させた。敵艦隊は戦艦
を加え、味方の陣地に釣瓶打ちに砲撃し、その機能を消滅
させた。我が西陣地海軍部隊は高角砲を水平にして発砲して
いた。
敵探索隊はその数を増し、海兵隊は150人にも達した。
摺鉢山海軍砲台14センチ平射砲、短12センチ砲は集中攻撃
を開始、米軍もあらゆる大砲が寸断なく火を噴いた。午前11時
海と陸との未曾有の開戦となった。この地域の土砂は、破壊が
繰りかえされ、みるみる原形を変えていく。艦載機による航空
攻撃に加えて、B24やB29による焼夷弾攻撃があった。
午後五時には日没を待たず一切の交戦が終った。
本日の交戦で海軍陣地では殆どの将兵が重傷を負ったが、
陸軍陣地では将兵は壕内にあってほとんど無傷で、武器の
被害も軽微だった。接近した米軍の小艦艇はことごとく被弾し、
相当数の死傷者をだし、上陸拠点を構築することなく撃退された。
日が暮れて静かに屋外にでた。人の焼け焦げた臭い、硝煙の
生暖かい風が横面を擦っていく。
2月18日 海岸付近で腹を擦るくらい接近した戦艦は、午前8時
砲撃を開始した。摺鉢山の頂上から中腹にかけて、赤茶けた
岩肌が崩れ落ち、みるみる変容していく。今日の攻撃はだんぜん
違う。航空攻撃は200機だ。ぶち当たる鉄塊は新型だ。VT信管
を採用したもの、ナパーム弾と呼ばれるものが新戦力として威力
を発揮していた。敵の攻撃には1時間の休憩時間がある。
上陸した米兵が南海岸に立てた緑、赤、黄、青色の小旗
は部隊ごとの上陸地点を示す目印に違いない。明日は上陸だ。
西方から飛んできた友軍機が1機、抱えてきた大きな爆弾を
敵艦に離した。敵軍艦の中央部に命中し破裂した。と同時に
真っ赤に燃えた炎を引いて落ちていった。
夜間射撃が始まった。その時大音響があがり、あたり1面の
水陸を煌々とさらけだした。玉名山正面、岩肌に隠された日本軍
の魚雷庫に敵の砲弾が命中した。戦車壕をはじめ、隣接する
弾薬庫、陸軍部隊の速射砲の2個大隊以上が壊滅的打撃を
うけてしまった。この範囲内に陸軍の病院壕があった。新たな
重傷者が殺到した。
2月19日 米軍上陸のその時から島は想像を絶する地獄と
化す。6時40分戦艦の主砲が火を噴いた。午前8時、砲撃が
内陸部に伸ばされた。沖合いの船団の間の小型舟艇群が
昨日の旗の位置に向かって突進した。数十隻の上陸用舟艇が
南海岸約1キロにわたり、戦車、水陸両用車等とともに兵士を
続々と上陸させた。敵兵は6千人と急増して海岸線を埋め、
海上は行く船、戻る船でごった返していた。しかし日本守備隊
の攻撃はない。当初の水際撃滅でなく上陸後の決戦に変更に
なったためである。午前9時30分ころ、目測するところ約
9千人が上陸し、大型、中型の戦車、装甲車が150両以上
揚陸された。
第3波が沖を発進した。もはや1万人の上陸は確実と思えた。
日本軍はついに本格的な反撃を開始した。この時まで陸軍
部隊は陣地を温存するため、一発も撃っていない。日本軍の
ラッパが鳴り続けた。日本兵は遮二無二撃ちまくった。
摺鉢山、二段岩、玉名山のラッパが激しく鳴った。
正午友軍は突如40センチ噴進砲を発射し始めた。戦車を盾に
繰り出す米兵の群れに飛び込む。新兵器と物量に乗じた米軍
もこの予期しない反撃に次第に後退して海水に浸り始めた。
その時西海岸から飛来した百機を超す艦載機が超低空で攻撃
してきた。焼夷弾や銃撃で上陸軍の援護に没頭した。米軍は
午後を過ぎると太陽を背にしていた。台地から海岸線まで
1キロに満たない。噴進砲の射程距離5千ないし6千はたすき
に長しだった。
眼前の敵を撃つには具合が悪い。そのため斜め前方を攻撃
する形になる。前面の相手には機関銃類で攻撃する。
次第に陽が落ちるにつれ、砂の微粒子のダイヤモンドダストの
輝きが乱舞し射撃を妨害した。焼夷弾を含む航空攻撃は島を
隅から隅まで掘り返すほどの、爆撃と機銃掃射を続けた。
撃てー撃てーと軍刀をぬいて怒鳴ってみても、弾は飛び出して
くれない。夕陽に反射されて輝く抜き身は、陣地の所在を
相手に教える反逆行為でしかない。この世の最後の一言が
「おっかさん」と聞こえる声が多かった。
玉名山送信所には島内最大出力の送信機が設置されていた
ため、早くから発信電波を傍受されていたようで、砲爆撃の
頻度から見てわかる。多くの犠牲者が出た。夕闇が迫る頃
ようやく戦闘は終った。
19日に上陸した米軍は将兵3万人以上、戦車大型中型あわせ
約200両、大砲火器など200門以上を揚陸。ブルトーザーは
揚陸資材の運搬だけでなく、クレーターの整地、車道の整備
にもあてられた。
今日敵は摺鉢山の麓まで進攻した。千鳥飛行場を内陸に
向かう部隊は一番侵攻してきている。それらは摺鉢山に攻め
いるだろう。
2月20日 今日も航空攻撃から開始だ。主に摺鉢山を攻撃
して、帰り道に南海岸を攻撃しながら玉名山にくる。そこで
全弾をおとして空母に帰る。あの強い光は焼夷弾だ。さまざな
機能を持っている。光と熱と火力、爆発力を備えているので
怖い。
米兵たちは艦砲が攻撃している少し手前を、戦車を先頭に、
火炎放射をあびせながら進んでくる。摺鉢山山麓に向かう
敵攻撃隊は岩陰に身を潜めながらよじ登り、銃眼の左右の
死角から手榴弾を投げ入れた。陣地からは機関銃の応戦が
あり、3人の米兵が落下した。しかし尚手榴弾が矢継ぎ早に
銃眼に投げ込まれたためやがて機関銃は鳴りを潜めた。
彼我の距離1キロ足らずの地に、双方あわせて五万を超す
人間の殺戮戦が繰り広げられた。10時間に及ぶ膠着戦で
あった。
遂に米軍は摺鉢山頸部の狭い800メートルを西海岸まで
勢力下に置いたことで、摺鉢山は孤立した。
平坦な砂浜から揚陸した海兵隊と戦車はこの地域にびっしり
敷設されていた地雷原にはまった。そのため釘付けにされ、
難渋した。米軍は素早く航空攻撃の増援を送ってきた。
筆舌に尽くしがたい殺戮戦になった。
やがて案山子のごとくすっくと、仁王立ちする人影をいくつも
見た。「おっかさーん・・・・」と声を発した直後にはもうその姿
はなかった。
日本の戦車隊が来た。中型と小型だ。ちいさいなー。
でも8センチ砲を積んでいるのだ。玉名山台地のこの戦車隊
が米戦車隊に側面攻撃している。米軍の大型戦車群は
千鳥飛行場東端に進出、やがてお互い止まって撃ち合った。
日本軍戦車隊は飛行場の全面の敵と南海岸の側面の敵との
両面対抗をしいられ、一進一退が続いた。四つに組んだまま
日没を迎えた。お互いの戦車群は若干後退した。
夜になって幾分発射音が減ったように思えた。南地区砲兵隊
の噴進砲弾が米軍集積所めがけて飛んでいった。これに呼応
して、すでに守備陣地を喪失した日本軍の残存将兵が斬り込み
攻撃を敢行した。匍匐前進して昼間確認した米軍陣地に
近づき、いっせいに手榴弾を投げ入れた。決死攻は凄惨極まり
ない。ブルトーザーを駆使して築城した敵陣地は小高く土砂で
盛られた円形で、中央の窪みがかなり広い。外周の一部に
通用路がある。頂上部は少し上ったところに機関銃座がある。
この機関銃は2連装と3連装だった。また小山の外周の腹部と
株に鉄条網が張り巡らせてあった。その外周に綱がめぐらせて
あった。その綱には煙草や缶詰めの空き缶が吊り下げられ鳴子
の働きをしていた。そしてその付近にはさまざまな地雷が敷設
されていた。お盆地雷や棒地雷でピアノ線がつながれ、これに
ひっかかると爆発する仕掛けだった。
自分は飛行場付近の夜戦に乗じて外にでた。いたるところで
夜戦が展開されているが、それは斬り込み隊の活躍でしかない。
しかし米軍は砲弾戦から機関銃戦に展開、ついに艦載機も
参加した。曳光弾の軌跡が滝のように弧を描いて飛び交っている。
日本の陣地は高くなっていない。むしろ平坦な土地を丸くくぼめた
だけの青空陣地だから撃ち出すまで分らない。危険だ離れよう。
内陸から台地の裾の方に退いた。短く動く人影が映る。動かない
ものもいる。足もとにもいる。頭がない。4本の手足のついている
人など見当たらなかった。
そばにあった穴をのぞいた。中から「山」と声がした。とっさに「川」
と応えた。入り口だが蓋も無い。たぬき穴のような穴の中に入った。
この壕の主人は誰もいない。四,五人いるのは空き家に入って
来たものたちとわかった。暑さと死臭で苦しくなってきた。
弾丸と隣り合わせになりながらここまで来たのは、前線の実態を
より正確に、後方陸海軍部隊に連絡するためだ。野次馬的思考で
危ない目に逢っているのではない。
奥の方で呻き喘いでいた兵士は、飛行場からきた搭乗員だと
名乗った。横の拳銃を自分に押し付けてくる。これで撃ってくれと
頼んでいるようでもある。自分は暴発おそれともかく受け取った。
不連続に聞こえる断末魔の絶叫。「おっかさーん」と叫んだ。
自分は「死ぬんじゃねー。東に行くと小高い岩山にでる。山を上ら
ないで右から廻れば反対側は病院壕の入り口だ。外へ出れば
その山も見える。すぐ近くだ。元気をだして行くんだ。死ぬために
来たんじゃないだろう」と叫んだ。
休んでは行き、進んでは止まり、一路送信所を目指した。
機関銃弾があたりに突き刺さった。動かずにいた。ドカーっという
鈍い音がして、またしても照明弾をぶら下げる傘が開いた。
俺たちはどうにか無事に我が宿たる送信所に戻ってきた。
2月21日の朝が迫っていた。まずは昨日の見聞を報告しなければ
と中に入った。あれからまだ24時間も経っていないのに、3年ぶり
に帰ったようだ。再会の喜びを全身で感じる。状況報告を続けた。
途中残っていた者から、昨日、木更津航空隊を発進して八丈島に
到着した海軍機が硫黄島に向かったという。零戦11機、彗星14機、
天山攻撃機6機の編隊という。そうか何時ごろの到着になるの
だろうか。いや、所詮、焼け石に水だ。飛行機の数より敵の船の
ほうがはるかに多い。これじゃ気休めにもならない。来る方も、
かわいそうに飛んで火にいる夏の虫だ。気の毒に思えてならない。
どくらい経ったか、遠い花火のような音を聞いた。半信半疑のうちに
外にでた。友軍機の姿が見えた。
零戦は西の空から急に高度を下げ、南海岸沖に速度をました。
尾翼の中央部から真っ黒な煙が流れた。もう火だ。すっかり火の玉
となった。米大型空母にこの神風特攻隊の1機が突入し艦上に
火柱が立った。続いて1機、また1機と油を注ぐように大火災と
なった。操縦不能に陥り海に真っ向からぶち当たり、水柱をたてる
機もある。紅い曳光弾が鮮明に日の丸を映しだしている。が、この
圏外に飛び出すことを許されない人々がいる。あの艦上の被害も
わが方の損害も喜ぶべきか、泣くべきか、憐れみだけが重く
のしかかってくる。
送信所の上を敵戦車が通過、また引き返してくる。「命令だ、動くな。
静にしておれ」と奥田掌通信長の声だ。
2月23日
「なんだあれは」「旗だ、星条旗だ」 10時過ぎのころだった。沖の
艦船から次々に汽笛が鳴り響き、海岸の敵陣地からは勝鬨の
ような米兵たちの歓声や口笛が聞こえてくる。我が方は眼前の敵
に対する攻撃に精一杯で摺鉢山を狙撃できないでいる。
夜になると後方部隊より様々な命令ががくる。後方へはこの
玉名山より一望しうる実情を小刻みに連絡しているのに、間が
ぬけている。
2月24日
米軍は8時出勤だからそれまでに足跡などを消し現状保持の状態
に繕う。ふと摺鉢山をの望むと日章旗が翻っていた。
午前8時いよいよ出勤になった米兵がその異様を知った。
周囲のべい陣地からのロケット砲弾が摺鉢山の山肌を削りとばした。
陣地や壕の入り口がポッカリ開いた。二人、三人の米兵が入り口に
近づき手榴弾を投げ入れた。
これと呼応して別働隊が山頂に星条旗を立てた。
内陸に侵入した敵は二段岩を包囲した。二段岩は電波探知機を
設置していた重要地点だった。空からの攻撃で機能を失っていた。
この時点で木や草は一本も見当たらない。
2月25日 早朝いつの間にか取り替えたのか、摺鉢山にはまたもや
日の丸が朝日を浴びていた。昨日のより少し小さい日章旗だ。
午前8時、米軍は戦車群を先頭にして、昨日の戦線位置に驀進
している。2時間たって、米兵が日章旗の旗竿を抜き取った。
玉名山陣地が応戦する。当地区にもやたら破片や土砂が舞い
落ちる。戦車のキャタピラーの音がしなくなっと思ったら、別の音が
響いてくる。ブルトーザーの活動音だ。上陸地点より2キロ四方の
範囲はすでに校庭のように整地され、小型機やヘリコプター等の
発着が始まっている。
摺鉢山を見た。まさに米兵が星条旗を立てようとしている。毟り
取った日章旗を、ボンベを背負った兵隊が火焔放射器で焼いて
いるのが見えた。午後1時少し前だった。
上陸いらい、間断なくどこかで白兵戦が展開され、何もない
穏やかな晩などない。
2月26日 朝摺鉢山には日の丸は無かった。奇跡はその後起き
なかった。
以下章名と項目のみを記載する。
第4章 摺鉢山の日章旗
○戦車7両を破壊した阿部さんの話 ○本部に増援依頼するも
「持久戦を」 ○今日の戦闘は引き分けかもしれない ○暗く
なって壕の外にでる ○攻撃は人間地雷 ○日本の残存兵が
地下から最期のの出撃 ○二つの缶詰め ○ついに送信所の
機能は停止した
第5章 砲撃と負傷
○送信所が火焔放射を浴びる ○送信所壊滅を報告する
ために南方空本部へ ○右の腕はある。その先の指がない
○ここにいるんだ。助けてくれ ○左脚大腿部は貫通破片創
第6章 玉名山からの総攻撃
○影に伝言できなかったことが口惜しい ○郵便局員として
派遣されてきた軍属の人 ○通信科の残存兵は8日突撃と
決まる ○北地区と南地区の分断 ○玉名山地区隊、
総攻撃の日
第7章 壕内彷徨
○通信科室に火を放ち、総攻撃に出て行った ○新しい
指揮官が現れる ○六根清浄、南無阿弥陀仏 ○1発の
銃声は一命の終わり ○米軍が投げ入れた缶から煙が
○水攻めのあとに火攻めがきた
第8章 一瓶のサイダー
○
汚泥と強烈な臭気の壕を脱出 ○壕の外に出て食べ物を
○鳴子で気づかれる ○誰もいるはずのない南に向かう
○投降を呼びかける日本兵 ○やっと入れてもらえた壕内
には ○反抗できない。出発の決定 ○軍属のひとは
一人も戻らなかった。
第9章 石棺
○投降した飛行兵たち ○投降を拒否して散華した熊倉
○投降の呼びかけと抵抗と ○飲まず喰わずの果てに
○兵団司令部の最期を知る ○命の炭
☆終わりに
秋草さんは意識混濁に陥る。目を醒ましたとき、秋草さんは
グアム島の捕虜収容所のベッドにいた。隣のベッドにいた
日本兵から「米軍の犬に見つけられ救出されたらしい。6月
1日にここに搬送されてきた」と教えられた。
米軍資料によれば、5月17日、最後の日本兵の集団が掃討
され、63人が拘束されて、死者20人が確認された、とある。
秋草さんはこのときの一人ではないだろうか。
栄養失調と酸欠ですでにそれ以前から意識をなくしていた
だろうから、まさに九死に一生、奇跡的に助かったというしか
ない。
捕虜となった秋草さんたちは、その後、ハワイ、
サンフランシスコ、テキサス、シカゴ、ワシントンDCへと移送
された。秋草さんが日本の敗戦を知ったのはワシントンの
収容所にいた時だった。米軍は捕虜たちに映画を上映した。
「駅馬車」、「荒野の決闘」、「黄金狂時代」、「風と共に去りぬ」
等で、合間にニュース映画が流された。9月2日の米戦艦
ミズリー号上で、外務大臣重光葵が降伏文書に調印する姿が
スクリーン上に映しだされたのだ。
昭和21年1月4日、彼らを乗せた船は浦賀に帰還する。
秋草さんが故郷に帰り着いたのは1月10日の夕方だった。
2006年夏に放映さrたNHKスペシアル「硫黄島玉砕戦・・・
生還者61年目の証言」に登場した。マスコミの取材に協力
するのは、このときが初めてだった。
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