サンタンジェロ 聖天使城 ローマ

海経36期の竹田腆から論説「イル・パセット・・聖
ペトロ大聖堂の抜け穴」を送ってきた。これは「地中海
歴史風土誌 第30号」10月25日掲載予定のものだ。

ローマの城壁やヴァチカンの城壁は歴史的に重要遺跡
として喧伝されているが、どのようにして建設されたのか
については、今ひとつはっきりしなかったが、竹田の
論説で大筋が見えるようになった。

文末の竹田の作成した城壁図が分りやすいので、まず
それを要約する。
○皇帝の城壁 
1.Romalus Wall   紀元前8世紀
 個別の城を守った城壁 7箇所
2.Servian Wall   紀元前 6世紀から1世紀
 個別の城全体を守る城壁
3.Aurellia Wall   紀元後3世紀
2・の周りをすっぽり囲む広大な城壁で、テベレ川の
左岸に達しており、1部はテベレ川を越えている。

○ヴァチカンの城壁
4.Passetto抜け穴(道)
5.Leo Ⅳ Wall 紀元後 9世紀
6.Pius Ⅳ Wall     16世紀
7.Urban Ⅷ Wall    17世紀
8.Sant Angeo城
9.スイス傭兵住居区画

1527年仏王フランソア1世と皇帝カール5世との西欧の
覇権を争うイタリア戦役の最中。
メデイチ家出身の教王クレメンス7世はフランスと同盟
していた。1927年の五月、カール5世の傭兵軍が、ローマ
に侵攻し、ボルゴ地区(大聖堂の前の地区)に殺到、ペトロ
聖堂の正面階段までカノン砲で破壊された。
教王は聖天使城への避難を決意、秘密通廊から脱出する。
ヴァチカンの城壁も破られ、最後の接戦となった、大聖堂の
石階段では、189人のスイス傭兵の殆どが殺戮され、
残るは教王に従った42人のみになった。

教王が通った秘密の通廊がパセットである。この道は
聖ペテロ広場北側のスイス傭兵屯所の脇から始まり、
聖天使城の西側に直結する。長さは約800メートル、
高さは8メートルと言われる。この通廊が造られたのは、
13世紀教王ニコラス3世の時であり、その後補修、改修。
日本の戦国の抜け穴ともいうべきこの通路は、想像される
地下トンネルではなく、地上の城壁の内部をくりぬいて
造られた抜け道である。
この城壁は6世紀のものであり、ヴァチカンを含む城壁の
最古のものである。

聖ペトロ聖堂が造られたのは4世紀、場所はヴァチカンの
丘、テベレ川の右岸であり、ローマ(左岸のパラチノ、カンピ
ドーリオを中核)の市外である。

往時のローマ帝国には城壁の必要がなかった。外敵による
防衛は、ローマからはるかに離れた辺境に配置された軍団
で十分だった。
ローマ皇帝による防衛の城壁は、有史前の時代を除けば
3世紀のアウレリアヌスの城壁(3)のみである。
皇帝アウレリアヌスはパックス・ロマーナを象徴する5賢帝
の3代目であるが、この時代ローマ帝国繁栄の翳りを示し、
近隣諸族の侵攻に対する城壁構築の必要が出てきた。

ピウス4世の城壁(6) 16世紀
ピウス4世はレオ4世の城壁の外側に新しい城壁をつくる。
これには聖天使城、パセットの北に拡張したボルゴ地区、
ヴァチカン、スイス傭兵居住地区が囲われている。
この城壁は1929年のコンコルダートによりヴァチカン市国と
イタリア共和国との境界になる。
それまでは両者に間に境界はなかった。

ウルバヌス8世の城壁(7)17世紀
ヴァチカンの南、ジャニコーロの丘の西側に沿う長い城壁。

これら城壁の増改修の意図は、異教徒の侵攻に対する
ものだけではない。歴代教王は中部イタリアに所領を増や
しており、この城壁は近辺都市国家に対抗したものである。

聖天使城
本来この地はローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟であり、生前
の紀元後135年から建設開始、没後の139年に完成した。
その後、セルヴィウス帝まで多くの皇帝もここに葬られた。
方形の地階、円形部、小さい円形部の3層からなり、その
上には4馬チャリオットを御するハドリアヌスの像がある。
395年のローマ帝国の分裂以来、異教徒の蛮族に破壊
され、次第に軍事目的の城塞、教王の避難先、居城、牢獄
などさまざまな役割を演じた。
教王たちが、手を入れ始めたのは、パセットを造った13世紀
ニコラウス3世の時からである。歴代の教王により、防塁、
城壁、堀、豪華な居室、礼拝堂、庭園、地階の牢獄が造ら
れた。そして歴代教王、教王派、反教王派の攻防の拠点
として、数々の血なまぐさい歴史の舞台になる。
城の所有権は、最終的には教王の所有となった。1377。

大天使ミカエル像
帝国分裂後200年の6世紀、ペストの猛威があり、教王さえ
犠牲になった。
ペスト終焉を祈る群衆の先頭にいた修道院院長グレゴリウス
は霊廟の頂に大天使ミカエルの姿を見る。背に白い翼をつけ
右手に剣を持ち、サタンを踏みつけている姿だった。ミカエル
はサタンと戦い、罰することを」任務とする天使軍団のリーダー
である。
グレゴリウスの祈りは叶いペストは終結した。
そして剣を鞘に収める大天使ミカエルの木造の像が頂に捧げ
られた。この像は戦乱により幾たびか破壊され、現在の
ブロンズ像は1753年のフランドルの巨匠、ヴェルシャッフェルト
によるものである。

10天使像
テベレ川に架かる聖天使橋は全長130メートルのかなり大きな
橋である。この橋の素晴らしさは欄干にそそり立つ10の天使像
にある。1669年教王クレメント7世が建て替え、聖パウロ、
聖ペテロの像は残し、バロック期の代表的巨匠、ベルニーニに
よる10天使の像となる。キリスト受難の象徴を持った10天使
である。

教王の二つの顔
そもそもペトロ大聖堂はローマ教会の聖所であり、戦国の武将
の居城ではない。しかし城壁で守られ、抜け道まで持ち、城塞
聖天使城に通じる。まさに城塞化された聖所であり、違和感を
覚える。
教王は大聖堂では、神の代理として神に仕え、信者にその
祝福を等しく与え、他方聖天使城では教王国家の専制君主と
して戦国の諸侯と相変わらぬ所行をする。いわば、これらの
教王たちは聖俗両面の顔をもち、その橋渡しの役をしたのが
パセットの象徴的意味だ。

歌劇「トスカ」、作曲プッチーニ、は聖天使城を舞台にしている。
なんと血が流されるオペラだろう。第2幕で悪人の警視総監の
スカルピアが歌姫トスカに刺し殺される。第3幕では恋人
カヴァラドッシが銃殺され、第3幕の幕切れは、なんとトスカの
聖天使城からの投身自殺である。

「ローマの休日」で聖天使橋の左岸のたもとの作られた、水上
舞踏場で、オードリ・ヘップバーン扮する王女とグレゴリー・ペック
の新聞記者が踊っていたところ、王女の国の秘密警察隊員が
王女を連れ出そうとしたため、大乱闘となり、ヘップバーンは
バンドのギターを叩き回し大活躍、二人が無事脱出した場面
が印象深い。

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松山上空大空中戦 343空紫電改 鴛淵 孝

「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30海里」払暁偵察に出た
彩雲4号機からの電報が、第343海軍航空隊(通称松山
航空隊)の飛行指揮所に入った。昭和20年3月19日の
ことである。

松山の精鋭、紫電改部隊が、敵機動部隊の来襲に
備えて待機していたのは、3月17日以来のことである。
昭和19年秋、フイリピンを制した敵は、翌20年2月、
硫黄島に上陸した。そして3月、マーク・ミッチャー中将
の率いる大機動部隊は、九州南方にその姿を現した。

当時、日本海軍の名戦闘機乗りを選抜結集した、343空
は、別名「剣部隊」と呼ばれ、大本営やGF(連合艦隊)が
頼みとする決戦部隊の切り札だった。
自ら司令をかって出た源田実は、ハワイ作戦当時、南雲
機動部隊の航空参謀を務めたパイロットである。海軍
兵学校52期生で、主人公鴛淵孝(おしぶちたかし)より
16期先輩だった。

鴛淵 孝。享年25歳。日本海軍最強の戦闘機隊チーム
251空、343空に属し、零戦、紫電改を操り、ソロモン、
本土上空に敵を迎え撃って奮戦、撃墜王であった。
江田島でかって同期(68期)であった直木賞作家、
豊田穣が描いた代表作「蒼空の器」光人社刊の要約を
試みた。

3月18日、343空は終日敵襲に備えて待機していたが、
敵は南九州を襲ったのみで、瀬戸内海方面には来襲せず、
源田司令や、鴛淵、林、菅野(かんの)の各戦闘機隊長を
落胆させた。
「明日は、きっとこちらに来るぞ」源田司令は確信をもって、
副長の中島正中佐、飛行長の志賀少佐らに決意の程を
示した。

翌3月19日、源田司令はあらかじめ午前五時に全搭乗員
整列を命じておいた。整備員は昨夜からほとんど徹夜で
紫電改の整備に忙しい。

鴛淵は維新隊と呼ばれる戦闘701飛行隊の隊長、林喜重
大尉率いる天誅組と呼ばれる戦闘407、勇猛をもって鳴る
菅野直大尉の新撰組こと戦闘301、そして奇兵隊と呼ば
れる彩雲の偵察隊からなっていた。鴛淵は68期、林は
69期、菅野は70期で飛行隊長としては鴛淵が最先任
だった。

午前五時、拡声器が叫び始めた。「搭乗員整列」、飛行場
の列線ではすでに鴛淵隊16機、林隊17機、菅野隊21機
の紫電改が爆音をとどろかせていた。
源田は簡単な訓示をした。「敵は今朝は必ずやってくるぞ。
我らの任務はできるだけ多くの戦闘機を撃墜して、瀬戸内海
上空の制空権を確保することにある。目標は敵の戦闘機
だぞ。爆撃機にかかっちゃいかん。戦闘機を全滅させれば
爆撃機は自然に出てこなくなる」。
偵察機が出て敵に接近するからそれまでは、第1次待機と
なった。午前五時45分、3機の彩雲が飛び立った。この日の
日の出は午前五時47分で東の空はすでに白んでいた。

彩雲は、空母用の艦上長距離偵察機として設計された単発
高速機で誉れ21型1990馬力のエンジンを積み、最大速度
329ノット(時速609キロ)を出し、時速594キロのグラマン
F6Fヘルキャットに追われても逃げおおせる高性能をもって
いた。昭和17年6月、ミッドウエー海戦で長距離偵察の失敗
が命とりになったことから、GFから製作促進要望が出され、
量産を急いだのが彩雲だった。実際に戦場に出られたのは、
19年秋で、すでに日本軍はマリアナ沖海戦などで大半の
空母を喪失しており、彩雲の艦上長距離偵察機として実用に
供される機会はなかった。

今日は400機以上が来襲するであろう。その大部分は呉か
柱島を狙うであろうが、松山上空付近を通過することは間違い
ない。敵はまだ紫電改のような優秀機を持つ手強い戦闘機隊
が松山に待機していることを知らない。ここは是非一つ、
こちらの手並みを披露して、敵に恐怖感を与え、制空権をとり
戻さねばならない。
ところで問題はいつ敵機が松山上空を通るかである。こちらは
保有100機だが、当日可動全機は54機である。漠然と情報
を待っていて、地上撃破されては戦闘機隊の恥辱である。
あまり早く空中に上げておくと燃料がきれて着陸を余儀なく
されることもあり得る。やはり彩雲の偵察能力に期待するところ
が大きい。

やがて午前6時50分、彩雲4号機に乗っていた高田満少尉
から届いたのが「敵機動部隊見ゆ、室戸岬南30海里」である。
全飛行隊即時待機命令がでる。まもなく高田機から「敵大編隊
四国南岸を北上中、松山方向に向かうものの如し」と入電した。
ほぼ同じ頃、足摺岬に設置の対空レーダーからも同じ情報が
入った。
源田は「全機、直ちに発進」と命じた。午前7時すぎには、全機
54機が発進を終り、大きく輪を描いて高度をとりつつあった。
「上空に大編隊」という見張り員の叫び声が聞こえた。
飛行場のやや南より、高度4千のところに数十機の大編隊が
北に向かっていた。
対空交話員の報告に対し、元気な声で「こちら鴛淵1番、我すで
に敵を発見、直ちに空戦に入る」と応答があった。

この頃紫電隊の空戦法は、編隊空戦を重視していた。
それまでの単機対単機の巴戦ではどうしても優秀な敵機に
食われてしまう。そこで、4機を1区隊として、この単位が互いに
助け合いつつ編隊空戦を行うことになっていた。
敵の高度は4千、味方は5千、こちらが優位である。しかし敵は
数百機、おそらく四国南海方面に行動している機動部隊の
全可動機であろう。

鴛淵隊が急降下してくるのを、ヘルキャット隊の先等を行く米軍
の隊長はもちろん気づいていた。前上方からの射撃を避けるため、
かれは一応下げ舵をとって機首を突っ込んだ。彼はある自信を
もっていた。零戦52型よりは少し型が大きいようでであるが、
いずれにしてもヘルキャットの方が優秀であるという自信であった。
零戦の最大速力565キロに対し、ヘルキャットは594キロである。
零戦の武装が7.7ミリ機銃2挺、20ミリ2挺に対し、ヘルは
13ミリ6挺、要するに零戦の20ミリを食らわなければよいので
ある。ところがこの日の相手は少し手強かった。紫電改は
全速で596キロ、兵装は20ミリ機銃4挺だった。

高度差を利用した鴛淵の紫電改は、たちまち急降下するヘルに
追いついた。2番機向井大尉、3番機伊藤中尉、4番機藤村
一飛曹らはそれぞれ隊長機の動きを見守りながら、互いの位置
を確かめ合い、別の敵に向かうのが編隊空戦の要領である。
追われた米軍隊長機は、スピードのついたところで急上昇に
移った。いつもの零戦なら、ここで振り切ることができるのである。
しかし紫電改の上昇力はヘルに劣らなかった。
照準器のなかに敵機が入っているのを確かめると同時に、
ステイックの頭にあるノッブを倒した。赤い曳痕弾がヘルの翌に
吸い込まれて行った。ポッと火を吐いたかと思うと、右翌が折れ、
空中分解してくるくる舞いながら落下して行った。パラシュートが
飛び出した。地上から双眼鏡で見上げていた源田司令は「1機
撃墜か」と息を吐いた。

グラマン・ヘルキャットは零戦より強い・・・というマリアナ沖海戦
(昭和19年6月)以来の自信が、米戦闘機隊に慢心を与えて
いた。3機の部下は隊長を援護しながら、適宜、空戦に入り、
1機を撃墜すると、すぐに隊長機の安否を確かめ、後方にヘルが
食いついていると見ると、すぐにその方向に向かい、敵機を追尾
してこれを撃墜し、隊長に後顧の憂いなからしめた。

2機を撃墜して3機目を補足追尾したときのことである。急降下
した敵はステイックを一杯に引いて急上昇に移った。上昇力を
誇るヘルキャトは、いつもならここで、零戦を引き離し、素早く
後尾について、6挺の13ミリに火を吐かせるところである。
しかし紫電改は違っていた。ヘルが上昇していくとどこまでも
ついて行く。たまりかねた敵は左のフット・バーを踏んで、機を
左にひねる。ここが非常に操縦の難しいところである。飛行機の
翼は急激な旋回を行うと、外側にある翼が浮力を失って失速する
ことが多い。つまり、左旋回を急激に行うと、右翼が失速して、
機は逆に右へガタンと落ちる。右翼の迎え角が大きくなりすぎたと
説明される。

見ていると前方のヘルは上昇中急激に左旋回したために、右翼
が失速し、ガタンと右に傾き、自転に入り始めた。ほっておくと
錐揉みに陥る。後を追う鴛淵は左急旋回を行いながら、自機の
右翼を見ていた。「出てくる、出てくる」彼は会心の笑みを漏らした。
機首が左に廻るにつれて、右翼後方の空戦フラップ(浮力をつける
補助翼)がジワリと飛び出してくるのである。これで右翼の失速も
免れるし、自転に入ることもない。
左の眼でヘルを監視し、右の眼で空戦フラップの動きを見届ける。
しかも三つ目の眼は、機内計器板についている速度計、高度計、
旋回計などを見ている。この三つ目は心眼と言うべきか、
パイロットが少し熟練してくると、前方を見ていても、計器板の針の
動きが見えるのである。

自転に入ったヘルが必死に機の建て直しに努力しているのが
分った。鴛淵は平素、部下にたいしては心温かい隊長であるが、
ひとたび空に上がれば彼は冷徹な戦いの鬼であった。
いったんエンジンを絞り、機首を下げると、半ば機をひねりながら、
自転する敵機に照準器を指向した。再びエンジンをふかして
パワーダイブ・・・射距離百メートルで右拇が20ミリのノッブを倒す。
4挺の20ミリが銃弾を発射する。敵との距離50メートルで、機を
引き起こし、右に急上昇反転をしながら下方の敵機を見届ける。
敵機上空を跳び越す瞬間、操縦士の飛行帽が後方にのけぞる
のを認めていた。・・・南無・・・・鴛淵は胸の中で片手拝みに
拝んで、敵パイロットの霊を弔う。明日はわが身である。
この戦場で思い上がりは禁物である。自分が旧式の零戦に
乗っていたら、今頃は自分の方が蜂の巣になっていたかも
知れないのだ。

機首を立て直し新しい敵を求めて急上昇しようとした時、右後方で
赤い閃光が輝くのを見た。いつの間にか鴛淵機の近くに忍び
よっていた敵グラマンを2番機向井大尉機が猛射し、燃料タンクを
爆発させたらしい。「向井2番ありがとう」電話で礼を言った。

この日、鴛淵隊と林隊の空戦は、飛行場のほぼ上空で行われた
ので、対空射撃員以外は、司令以下が上空の空戦に我を忘れて
いた。

松山飛行場のやや東よりの空域で待機していた菅野大尉率いる
21機は会敵がおくれた。
鴛淵隊と林隊が、第1群、第2群のヘルキャットを次々に撃ち落す
ので、第4群からは大きく東に迂回して、真正面に直行しようと
試みた。「待っていたぞー」と新撰組隊長、ブルドッグが叫んだ。

この頃、源田司令の考え方は実に独創的であった。それは実力
優先主義という、それまで海軍航空隊ではとられたことがない
一戦闘指揮方式だった。
階級の上の方から1番機、2番機と決めるのを止め、一番空戦
経験が古く、撃墜機数の多いものを一番機とする。これは源田式
実戦向き編成法で、源田サーカスの主でなければ実行できない
英断である。

我は5千メートル、敵は4千メートル、彼我のきょり3百に迫ると
みるや、菅野は敢然として機首を下げ、敵グラマン隊1番機に
照準器を指向した。上昇力に自信を持つヘルキャット1番機は
菅野機めがけて急上昇してきた。一対一の一騎打ちを挑もうと
いうわけである。
菅野は敵のエンジンに照準を合わせたまま、エンジンを全開に
して急降下した。彼我の距離200で早くも敵は撃ち上げてきた。
6挺の13ミリ機銃から銀色の曳痕が、ピューン、ピューンと
近くをかすめて過ぎ去る。2百から早くも射撃を開始した敵に
対し、菅野は・・この敵恐れるに足らずと判断、焦って遠距離
から撃っても犬の遠吠えみたいなもので、当りはしない。ぐっと
ひきつけておいて止めを刺す。これがブルドッグ式体当たり戦法
なのである。距離百・・80・・おもむろに、菅野の20ミリ四挺が
火を吐いた。敵エンジンの近くをかすめる。この場合菅野は
必ずしも精密な照準はしない。エンジンを狙えば当らぬことは
ないが、機銃は両翼についているので、よほど方向修正がうまく
できていないと、エンジン直撃というわけにはいかない。菅野の
真っ向差し違え戦法の狙いはほかにあった。或る程度接近
すれば、敵は衝突をおそれて、上げ舵か下げ舵を取って回避
しようとする。そこがブルドッグの狙い目なのだ。
案の定50メートルで敵は上げ舵をとって垂直に近い上昇を
試みた。
なにしろ度胸においては、全海軍一といわれた菅野である。
こちらは敵が衝突するまで回避はしない。急上昇で敵が蒼黒い
腹を見せた。・・今だ。ここが菅野の付け目である。すかさず
上げ舵をとった菅野は敵の腹に向けて下からなめるように青い
曳痕の束を送った。その際、彼は適当に機首を左右にふらせる
ことを忘れなかった。このように適当に射弾を散布させたほうが
命中率がよいことがある。ヘルの左翼がポっと火を吐いた。
翼が折れ機は火炎に包まれながら自転に入らうとする。
もうそろそろ、味方が敵2番機か3番機にかかっている頃だった。

菅野はこの苛烈な戦法で、南方でかなりの米戦闘機を落として
いた。そのなかには、ヘルキャットはもちろん、高速のF4U
コルセア戦闘機や双胴体の陸軍機ロッキードP38なども入って
いた。もう一つ菅野のお得意があった。それは急反転前上方
急降下攻撃である。これは、ヤップ島にいたとき、始終基地
爆撃に来た、うるさい4発爆撃機B17(空の要塞)を撃墜するため、
彼が考案した独自の戦法だった。

ソロモンの戦闘で勇名をはせた戦闘機のりに笹井淳一中尉が
ある。笹井は個人撃墜27機、協同撃墜80機以上を数えて
ラバウルのリヒトホーフエンとその紅顔の若武者ぶりを讃え
られた。もっとも彼の活動の裏には、坂井三郎、西沢広義、
太田敏夫などという錚々たる撃墜王が列機にいて、絶対に
隊長機を討たせまいとして、堅いスクラムをくんでいたことが
大きな助けになっていたことは勿論である。
笹井中尉は昭和17年8月26日、ガダルカナル上空の空戦で
戦死した。菅野直は笹野淳一が1号生徒として海軍兵学校に
君臨していた時の4号生徒であった。
笹井が戦死後2年余、ヤップ島で、南洋のリヒトホーフエンが
誕生していたわけである。

3機目を撃墜した後、菅野は2番機の様子や第3区隊の戦い
ぶりが気になって、機を水平に戻しふと後ろを振り返った。
ここに彼のすきができた。機の右側をすーと黒いものが通り
すぎた。と同時にエンジンの中心を赤い火の棒が貫き、白煙
がそれに続いた。下からやってきたヘルに奇襲をうけたので
ある。機首をその怨敵の方に指向して、20ミリのノッブを
倒した。しかしすでに紫電改のパワーは弱まり射弾は後落
した。
菅野隊の2番機は敵の後尾のヘルと交戦しているうちに、
隊長機と遠ざかってしまったのである。まもなく菅野を撃った
ヘルは味方の2番機の射撃によって火を吐いた。
菅野は下を眺めた。地上に機を落としてはならない。すでに
エンジンは停止して、プロペラがぶるぶる廻るだけの紫電改
の機首を海のほうに向けた。
エンジンの火災は消えなかった。操縦桿はばかに熱くなって
きた。これで機は間違いなく海に落ちるというところまで来て、
機をくるりと反転させ風防を開けると、腰の落下傘バンドを
外して機外に飛び出した。菅野は海岸近くの村落に降りた。

上空の戦闘を見ていた村人たちは大歓迎した。握り飯が
準備され、火傷した顔面に白い薬をぬってくれ、晒しで作った
包帯でぐるぐる巻きにしてくれ、トラックで航空隊に送り届け
てくれた。途中の駐在所から状況を報告した。

西方の鴛淵隊はまた一つの危機に遭遇していた。3番機に
学習院出身の格田と言う予備中尉がいた。飛行時間300
時間そこそこの若武者である。プライドが高くなかなか隊長
のいうことを聞かなかった。空戦の技量については、若い
ながらも絶対の自信を持っていた。彼はこの日、3番機で
あったが、隊長機を援護するばかりで、空戦技術を誇示
できないのを残念に考えていた。
第6派が松山市西方上空にやってきたときのことである。
格田が単機で全速をだすと、敵隊長機めがけて、まっしぐらに
突っかけて行った。

いかん単機ではやられる。単機で抜け駆けするのは、編隊
空戦を建前としている以上、軍紀違反である。「格田3番、
急ぎ列機の位置につけ」と鴛淵は機内無電で呼びかけた。
しかし格田からは「隊長、お先に失礼します」と戻ってきた
だけだった。他の2機を率いて高度をとりながら、後を追った。
格田は差し違え戦法を伝授されていた。
敵1番機はスっと機首を下げた。いったん急降下して急上昇
し、ドッグファイテイング(巴戦)に持ち込もうというのであろう。
米戦闘機がよく用いる手である。

ここで、無理に急反転をすると、敵2番機または3番機に腹を
撃たれることになる。格田は判断よく、敵1番機をあきらめ、
機をひねると、すぐ近くの2番機に突っかけて行った。あわてた
敵2番機はいきなり上げ舵をとって、衝突をかわそうとした。
「よし、そこだ」と思わず叫んだ。格田は機首をぐいとあげると、
照準内に敵の黒い腹を捉え、20ミリのノブを倒した。

敵2番機は胴体燃料タンクを撃ちぬかれてポっと火を吐いた。
列機の位置に戻れとの命令に対し、意気あがる格田中尉の
行き足は止まらなかった。敵第2中隊の1番機に戦いを
挑んだ。鴛淵隊4番機は、敵第1中隊3番機と空中戦に入って
いた。
今度は格田機が不運であった。敵は避けようとせずまっすぐに
進んできた。差し違え戦法にはさまざまなテクニックがある。
本当に真っ向から撃ち合うと、命中弾を得ることは難しい。
各機銃は翼のなかに装備されているので、厳密にいえば双方
で翼を撃ち合うわけである。翼の厚さはせいぜい20センチ
そこそこである。これでは命中弾を得ることは難しい。では、
どこを狙うのか。エンジンと操縦席である。そのため、少し狙い
を外すのである。たとえば、機を少し右にひねって、左翼の
機銃を敵エンジンに指向するようにする。こうすれば、命中弾
を得やすい。

格田中尉は機首をずらせて正面から射撃を行い、敵の
エンジンに命中弾を与えた。白煙が上がった。しかし敵は
衝突を避けるため左上方に上げ舵をとった。機を左にひねった
際、13ミリ機銃弾が格田機の操縦席にとびこんだ。格田は
左胸と右腕に命中弾をうけた。「我被弾す」と報告。
鴛淵「格田3番 着陸せよ」、格田を狙うヘルを認め、鴛淵は
これを撃墜した。「格田3番、パラシュート降下せよ、向井2番
格田を援護せよ」。鴛淵は4番機と編隊を組み直し新しい敵に
前進した。

精鋭を誇る343松山空の紫電改が続々着陸し始めたころ、
飛行服をつけた源田司令は、飛行指揮所に出て戦果を纏めて
いた。「随分落としたなあ」。
菅野隊の豪傑、加藤兵曹の5機撃墜がこの日最高であった。
「菅野隊長被弾、北上の模様」、そこへ、鴛淵機が着陸「撃墜
3機、格田中尉機不明」。集まった」戦果を志賀飛行長が
纏めて見ると、撃墜、F6F,F4U合計48機、SB2C爆撃機4機、
他に地上砲火により、F4U4機、計57機が確実、不確実及び
撃破を入れると、60機を超える大戦果となった。
わがほうの損害は、自爆を含め10機以下と僅少であった。
松山の343空が紫電改を用いて60機以上の初の大戦果を
あげたと海軍部内に鳴り響くようになったのは、この3月19日
の戦闘以来である。
しかし悲報もあった。この日敵機動部隊を発見した高田満少尉
の彩雲偵察機(3人乗り)が新たに続行してきた、百余機の
敵戦爆連合の大編隊の中に巻き込まれてしまった。「我空戦
中、エンジンに被弾、石槌山塊上空、敵機に体当たり、自爆
する」との電報が入電した。衝突した2機の火の玉を地元の
住民が見ていた。

学習院時代からの格田の親友であった大橋中尉が紫電改の
方に走り出した。「格田の仇討ちだ」と念じながら、操縦席に
入り、エンジン全開で離陸してしまった。
鴛淵は整備士に飛行機の調子を尋ねたあと、緊急離陸した。

大橋の前方に点々と見えていた大編隊は、呉地方の爆撃を
終えた敵戦爆連合だった。急追する大橋機は四国山脈を越え
高知上空にかかる頃大編隊の後方にとりついた。
編隊の後方に1機のSB2C艦上爆撃機がよたよたしながら、
地上砲火で燃料タンクに被弾したらしく白い筋を引いていた。
後ろ上方にはF4U、ヘルキャット各1機が援護している。
可哀そうだがこのSB2Cを撃とう、そうすれば戦闘機もかかって
くるだろう。
ふいに、ヘルキャットの無線電話が鳴りだした。「我後方に
日本機を発見、攻撃してくる」。1機は急降下、他1機は
急上昇。
「それ行くぞ、格田の仇討ちだ」。SB2Cはエンジンと右の燃料
タンクに被弾したらしく、白煙を吐き、タンクからはさらに2本の
白い筋をだした。
大橋は急降下しているコルセアを追った。この時全速で大橋機
を追ってきた鴛淵機はようやく戦場に到着した。「大橋4番、
応答せよ」、「こちら大橋4番、艦爆1機撃墜、コルセア追撃
降下中」、「大橋4番、後ろ上方から敵機、注意せよ」。
コルセアが上げ舵をとり急上昇した。コルセアでもヘルキャット
でも上昇力では重量の軽い紫電改の方が上である。
4条の曳痕がコルセアの操縦席に吸い込まれた。しかし同じ
運命が大橋にも待ち構えていた。操縦席のカノピイを紅に染めた。
・・いかん、やられたか、これで今日は二人、若い部下を失ったぞ。
鴛淵は前方の敵大編隊がバンクを振って解散しつつあるのを
認めた。・・そうか、もう着艦するのか。下方の海面をみつめると、
いるいる5隻、その向こうにさらに5隻、ワラジをうかべたような
敵機動部隊の布陣。

鴛淵は自分が爆弾を抱いていないことを残念に思った。大橋機
を落としたヘルキャットを追い続けた。敵が急に右旋回した。
・・今だ。手ごたえがあった。敵機の近くをすり抜けた。若い
パイロットだった。
こんなところに紫電改が舞いこんでこようとは、敵航空艦隊の
ハルゼー長官も、58機動部隊のマーク・ミッチャー司令官も
予想しないだろう。
鴛淵は先頭を行く旗艦らしいエセックス型をめがけて、高度
3千から、全速急降下した。
紫電改とヘルキャットは色といい、形といい遠目にはよく似て
いる。対空砲火も気づいていない。編隊の帰艦準備に気をとられ
ている。この時期では沖縄上陸作戦(4月1日)はまだ始まって
おらず、米機動部隊は、昨年10月、フイリピン沖で受けた日本 
の特攻機の味を忘れかけていた。艦橋から真っ先にこの異様な
飛行機に気づいたのは、ハルゼー長官だった。「あれはカミカゼ
だ、早く撃て」と飛行長に絶叫した。
百メートルほど近く接近すると、その怪飛行機から4本の
青白い射弾が艦橋に放たれた。・・危なかった、が、体当たり
ではなかった。鴛淵機は一撃を加えて、司令官の心胆を寒から
しめると、急上昇を続け、高度3千で断雲の中に入ってしまった。
高度2千メートルあたりにいた直衛の戦闘機もあわてて追ったが
鴛淵はたくみに断雲から断雲を縫いこれを避けた。

著者豊田 穣は昭和15年8月海軍兵学校卒、鴛淵と同期(68期)
16年五月霞ヶ浦航空隊付け、第36期飛行学生、操縦。
昭和18年4月ソロモン方面イ号作戦で撃墜され、1週間海上漂流
のあと米軍の捕虜となる。21年1月帰国。48年「長良川」で
直木賞受賞。

4月1日、米軍はいよいよ沖縄に上陸して来た。日本軍は特攻
作戦でこれを迎えうつ。新しく第5航空艦隊に編入された343空
は、松山から鹿屋航空基地に進出した。任務は特攻隊の突撃路
を開くことと敵戦闘機の捕捉殲滅だった。ゼロ戦は戦闘機から
外され特攻機に回されたのだ。4月12日から6月22日まで
続いた。しかし戦果は大いにあがった。
紫電改の出撃機数165機、交戦した敵機は180機、撃墜総数
は106機。わが方の損害29機である。
戦後源田司令がアメリカを訪れた折、アメリカのパイロット達と
会った。「ジョージは強かったなあ」パイロットひとりは感嘆した
ように口笛を吹いた。或る時彼の中隊は17機がほとんど帰って
こなかった。源田が記録を調べてみると、その日は撃墜9機と
なっている。残りの8機は被弾後、母艦に帰る途中で海中に
消えたのである。(もっとも米軍は不時着パイロット救出態勢
を整えていた)。

こちらにも手痛い犠牲があった。4月15日、コルセアとヘルキャット
20機が鹿屋空南方に姿を現した。
日本側は急の発進を続ければ、離陸の途中でやられてしまう。
発進中止の命令が出たが、2機が発進直後ヘルにやられて
しまった。杉田上飛曹もやられた。杉田は個人撃墜70機、18年
4月18日、山本長官戦死の折も、6機の護衛機の中に選ばれた
ほどの、名パイロットだった。戦闘407隊長林喜重大尉が帰らぬ
人になったのは4月21日だった。

4月20日343空は鹿児島国分基地にいて、初めてB29の空襲
をうけた。紫電改はさっそく迎撃に上がったが、高高度と高速の
ためなかなか追いつかない。立ち上がりが遅れてはいかんとも
し難い。この日の夜、林大尉は菅野とB29攻撃法で論争した。
菅野は得意の前上方攻撃を主張し、林は垂直に近い後上方
攻撃を主張した。決着はつかない。「よし、実戦で白黒つけよう」
二人の若い隊長はそう約束した。
翌朝情報を早めに捉え、東京方面に向かうB29の大編隊を1万
1千メートルの高高度で捉えた。菅野大尉は得意の前上方反転
背面攻撃で先頭の隊長機に火をふかせた。しかし第2撃は難し
そである。B24よりずっと早いのだ。一方林の方は、体当たり
に近い感じで肉薄し、やはり1機に火を吐かせた。そして、彼は
さらに1機をと追尾した。このときすでに彼の機に破損があった
ようである。追尾している間にエンジンに被弾した。操縦不能に
陥り墜落した。

宿命の日、7月25日、敵は艦載機500機をもって、呉方面の
大空襲を行った。これに対する大村駐屯の343空紫電改可動
機数はわずかに21機。主戦場は豊後水道上空である。
午前10時半、百機近い敵戦闘機隊と激戦を交えた。
このうち3個小隊が鴛淵の戦闘701、菅野大尉が戦闘301、
光本大尉が戦闘407。

鴛淵1番機がヘルキャット1番機を撃墜した。そのとき千メートル
上空の断雲の陰から現れたヘルキャットの1隊が、鴛淵隊めがけ
て突っ込んできた。そのとき敵2番機を追いかけていた鴛淵機
は避退が間に合わなかった。初島兵曹が近寄ってみると、
操縦席のなかは血のしぶきで真っ赤だった。
若き撃墜王鴛淵大尉の最後である。

この日の戦果は撃墜ヘルキャット、コルセアなど16機、わが方
未帰還機6機。猛将菅野はこの日も撃墜を記録して帰ってきた。
しかし彼の命数もようやく尽きようとしていた。8月1日、屋久島
北方でB24の編隊を攻撃中、20ミリ機銃が内部爆発を起こし、
翼が敗れて、表皮がまくれ上がった。
「心配せず敵と戦え」これが怪男児の最後の言葉だった。
こうして343空紫電改戦闘機隊の3人の隊長は、あいついで
世を去り、そして8月15日がやって来た。

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米第7艦隊音楽隊 第15回コンサート 横須賀芸術劇場

かねてネットで予約しておいたコンサート2009、9月
20日(日)横須賀芸術劇場大劇場、15時開演に行く。
当日売りあり、2,3,4、5階空席あり。

第1部 米第7艦隊バンド・スペシアル・パーフォーマンス
隊員20名。

第7艦隊バンドは1943年、第7艦隊誕生とともに結成。
司令官の座乗する揚陸司令艦ブルーリッジとともに、
横須賀を中心とした西太平洋の広い地域で活動し、式典
を彩る最高の音楽隊として大きな役割を担っている。
出演内容により「セレモニアル・バンド」、「フアー・イースト・
エデイション」、「オリエント・エクスプレス」、「湘南・ブラス」
の4グループに別れ活動している。
今回の公演に出演しているのは「フアー・イースト・
エデイション楽団」である。

司会 高嶋秀武
☆第1部  第7艦隊バンドのスペシアル・パフォーマンス
○聖者の行進 ○川の流れのように 
○ニューヨーク・ニューヨーク ○プロムナード ガーシュイン
○ビッグ・バンド・メドレー
○ラプソデイ・イン・ブルー ジャズ・バンド版
 指揮 ロバート・J・レン大尉
 電子ピアノ・ソリスト MU2ダーク・デントン、MU3ドリュ-・
 ウイリアムス
 この曲の演奏は初めてと。

☆第2部 ジョイント・パーフオーマンス
前方に東京交響楽団員、第7艦隊バンドは後方に位置。
○ワシントン・ポスト 指揮 レン大尉
 1889年、アメリカの有力紙ワシントン・ポストが募集した
 児童作文コンクールの表彰式のために作られた行進曲。
 スーザー自身が海兵隊軍楽隊を指揮して初演。
○美中の美、Fairest of the Fair 指揮 レン大尉
1908年ボストンで行われた草花園芸展覧会の開会式の
 ために作曲。美しい草花を讃えた行進曲であるが、美女
 たちを讃えた意味もある。
○エル・キャピタン 指揮 秋山和慶
 ス-ザーが作曲した喜歌劇エル・カピタンの主題歌を
 もとにした行進曲。オペレッタは16世紀のペルーで悪政
 と闘う山賊の物語
○キング・コットン ジョ-ジア州アトランタで開催された綿花
 博覧会のために作曲された行進曲。1895年に作られた
 綿花(コットン)賛歌。 指揮 秋山
○忠誠 Semper Fidelis 指揮 レン大尉
 アメリカ海兵隊のモットー「常に忠誠であれ」を曲名にした
 名作で1888年作。
○士官候補生 指揮 レン大尉
 1890年、ワシントンにある士官学校がマーチング・ドリル・
 チームを結成、生徒からの依頼に応えてスーザーが作曲
 した名曲。ただしCadetsと言っても高校生である。
○ラプソデイ・イン・ブルー オーケストラ版
 指揮 秋山和慶、 ピアノ 江口 玲。
 迫力あり、弦楽器が入っているので美しい.。
アンコールは例年通り「星条旗よ永遠なれ」。秋山さんは
米海軍バンドと15年間やってきたという。
2階に「ふるさと」というカフエがあるが、その隣で第7艦隊
レセプションをやっていた。

これに刺激されて、海軍経理学校校歌を伴奏、マーチで
カシオトーンで演奏トライしたい。

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5・6分隊写真集 海軍経理学校築地校

本写真文集のはしがきを記す。

本写真集は海軍経理学校、築地本校最後の時期を
ともにした第5・第6分隊の34,35,36期生徒の
ささやかな記録である。
昭和18年11月から19年9月のことであり、極めて短い。
それにも関わらず、この築地の時代はだれしもの心の
ふるさととして深く脳裏に刻まれている。

1号であった34期生徒はこの築地の岸で、我らに
別れの帽をふり、帝国海軍の最後の海戦に参加し、
その多くが南または北の海に散華された。
その翌年には35期生徒が我らの帽ふれのなか垂水の
丘から残り少ない艦船、また基地航空隊に赴任される。
そして残された36期は敗戦の詔勅によりさまざまな思い
を抱きながら垂水の丘を降りる。

経校はわれらに素晴らしい青春と得がたい友を与えて
くれた。なかでも初めて短剣を帯びた築地の時代、その
清冽な日々の訓練の一齣一齣が走馬灯のように甦る。
編集幹事
竹田腆、和田宏、地引正雄、高橋元清、河田潤

阿部文弥 短歌 
「朝な朝な勝鬨橋の鉦の音に目覚めぬ総員起しの前に」

5分隊会は1981年から1995年まで、12回会合があり、
5・6分隊会は1995年から2009年五月まで28回会合
している。場所、出席者資料あり。

註: 編集幹事及び飯田は皆もう80才を超えているのに、
築地校建物配置図、生徒館俯瞰図、早朝駈足ルート図、
温習室机配置図、寝室ベッド配置図、資料作成等細かい
作成作業を丁寧、熱心に継続され、度々の議論、協議を
重ねられ完成に至ったことに深く敬意を表します。

5・6分隊会名簿 住所、電話番号は記載しない。
分隊監事 高木 彰 昭和20年5月30日 戦死
5分隊 27名
1号34期
目黒 静    昭和19・11・12 戦死 土浦中
中曽根真造  昭和26・05・25     群馬富岡中
福田幸弘    昭和63・12・23     福岡明善校
堀田幸一    平成18・11・29     高師付属中

2号35期
穀田 博                    仙台1中
高橋信雄                    福岡8女中
山中光太   昭和20・06・07      小豆島中
村尾順平   昭和51・01・05      奈良中
鈴木福雄   昭和60・09・06      東京市立2中
谷 太三郎  昭和63・02・02      高知土佐中
鵜飼敏哉   平成19・08・20      神戸1中

3号36期
坪井 経    奈良中   
詫間 広    丸亀中
竹田 腆    早稲田中
河野啓二    宇和島中
高橋元清    都立8中
地引正雄    木更津中
飯田和夫    戸畑中
和田 宏    芦屋中
飯野 滋    福岡鞍手中  昭和22・10・04
林  輝雄   昭和一商    昭和61・04・11
前田 洋    静岡中     昭和63・11・10
竹ノ内浩    京都3中    平成03・06・03
片山龍夫    八尾中     平成06・10・21
根本義雄    千葉佐倉中  平成08・11・07
中村文男    都立6中    平成13・12・01
大藤 巌    山口大津中  平成16・11・17

6分隊 26名
1号
阿部文弥 盛岡中
神尾清澄    昭和20・01・28 戦死 千葉中
高橋憲策    昭和20・06・29 戦死 岩手ー関中
賀集 唱    平成20・07・26      神戸2中

2号
宮崎英雄                    呉1中
吉岡博之                    大阪甲陽中
今野栄一    昭和20・05・30      東北学院中
安達 勝    昭和63・05・30      岡山師範
小川 淳    昭和64・05・17      丸亀中
大塚達雄    平成11・07・28      京都1中
六反園文雄   平成14・10・11     鹿児島指宿中

3号
高坂信一     丸亀中
宮村光重     東京中
福間 喬      松江中
加藤昭三     島根太田中
河田 潤      彦根中
安井 銈      名古屋中
山野寿雄(山屋) 海城中      昭和48・02・21
今村善之助    長野飯田中   昭和52・03・31
梅野直人      都立1中    平成05・05・22
渡辺敬一郎     都立3中    平成09・04・17
久保山盛雄    東京芝中     平成14・07・12
鈴木満男      都立8中     平成16・12・24
加賀 裕      山形中      平成20・04・22
吉井澄男      旅順工大予科  37期 昭和59-60
田中義広      福岡八幡中   37期 昭和62・08・03

5・6分隊1,2号生徒の乗組艦艇、部隊、(  )は復員業務

高木 彰  主少佐、分隊監事、24期 伊良湖ー海経監事
       昭和20・05・30 輸送機で移動中グラマンに
       遭遇、戦死、潮の岬上空
1号 5分隊
目黒 静 武蔵ー30号掃海艇、比島方面 昭和19・11・12
       戦死
中曽根真造 榛名ー天城ー呉鎮ー横鎮 昭和26・05・25病死
福田幸弘 羽黒ー第4掃海艇  昭和63・12・23病死
     戦後東大、大蔵省主計官、ワシントン大使館勤務、
     国税庁長官、自民党議員、
「最後の連合艦隊、レイテ海戦記上、下」の著者
堀田幸一 鳥海ー昭南-雄竹ー舞鶴突 平18・11・29病死
2号
穀田 博 第2河和空ー51戦司ー海202号ー(鳳翔)
高橋信雄 第2鹿屋空ー九州空ー(海8号ー八雲ー舞運ー佐副補)
山中光太 昭和20・06・07
村尾順平 大浦突ー35光突ー(佐需-佐復需ー海192号ー
       佐副補)
鈴木福雄 串良空ー九州空ー(海198号ー栗島ー佐運)
谷 太三郎 磐手ー大神突ー(輸19号)
鵜飼敏哉 天城ー山陰空ー(特別輸送艦占守)

1号6分隊
阿部文弥 最上ー奄美ー31海防隊
神尾清澄 北上ー久米、黄海方面、朝鮮南岸120哩
       昭和20年・01・28 戦死
高橋憲策 羽節ー於佐世保 昭和20・06・20 戦死
賀集 唱 能代ー橘ー53駆ー10航艦ー奥羽航 
       平成20・07・26 病死
2号
宮崎英雄 宇佐空ー川棚突ー42突ー(佐連ー掃海監部)
吉岡博之 宇和島空ー詫間空ー呉鎮12特陸ー(八雲ー海227号
       -舞連
今野栄一 鳳翔ー倉敷空ー(海102号) 昭和50・11・20病死
安達 勝  第相模野空ー(舞需) 昭和63・05・30病死
小川 淳  松山空ー呉鎮12特陸ー(呉需ー伊王ー海227号
大塚達雄  日向ー鹿島ー(横需ー竹)
六反園文雄 大和ー葛城ー日向ー鹿島空ー(横需ー横復需)
        平成14・10・11病死


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17歳の硫黄島

8月15日TBS土曜プレミアム映画「硫黄島からの手紙」
2006年米、クリント・イーストウッド監督を見る。
投降した二人の日本兵の面倒を命令された二人の米兵
が、戦闘のさなか、やってられないとして二人を射殺、
アメリカ映画としては問題場面がある。

次いで読みかけていた「17歳の硫黄島」秋草鶴次著、
文春新書、2006年12月10日第1刷発行、を読む。

志願兵として玉砕の地・硫黄島で戦い、傷つき、壕の
中で生き延びること約3ヶ月、硫黄島で死んだ仲間たち
を思い続け、61年目に初公開する少年兵の心と身体
に刻まれた戦争。

硫黄島は東京から1250キロ南にある小さな火山島で
ある。本土とサイパン島のほぼ中間地点に位置する。
日本軍の作った三つの飛行場((千鳥、元山(もとやま)、
北)があった。
米軍にとっては、日本本土への空襲を大規模に始める
には絶対に欲しい拠点であり、航続距離の小さい戦闘機
の基地として、B29の護衛にも使え、B29の不時着場と
もなる。
硫黄島は太平洋戦争終盤において、日米双方の最重要
戦略拠点となった。

すでに昭和19年6月から米軍の激しい空襲と艦砲射撃
が加えられていたが、昭和20年2月から3月にかけての
攻防戦は、史上例のない激戦となり、日米ともに甚大な
犠牲者をだした。
2万1千余の日本兵のうち、生きて帰ったものは、わずか
千23人だった。
摺鉢山の星条旗と名将栗林忠道中将をシンボルとする、
日米の勇敢な将兵たちの死闘ばかりが語られてきたが、
ひと月の徹底抗戦の末、栗林中将が決別電文を発して
戦死したあとも、島中に構築された地下壕・洞窟のあちこち
にはまだ数千人とも1万人ともいわれる将兵が潜んでいた。
投降して捕虜となることも、肉弾と化して突撃することも、
自決することもできず、逃げ場も無く、飢えと渇きの中で
苦しみ抜いて死んでいった人たちがいる。
人間が正視しかねる戦場の事実を、壕の中で通信兵、
秋草さんは見ていた。

戦いは3月26日の総攻撃で終ったわけではない。
なかったこととされてきた過酷な実態をこのまま葬って
しまっていいのか。戦後日本にもどってから、脳裏に焼き
ついた体験をひたすらノートに書きとめた。
両親がこの世を去ったとき、彼は初めて、それらのメモを
もとに、あらためて原稿用紙にしたためる決心をする。
その作業は昭和49年(1974)の初頭から始まった。
親指と小指、短くなった薬指だけの右手にペンを握って
書いてはは直し、なおしては書いた。その分量は原稿用紙
で千枚を軽く超えている。

秋草は昭和2年(1927)春、栃木県足利市生まれ。
昭和17年高等小学校を卒業するころ、少年航空兵の
募集が盛んだった。受験に際し第1志望は予科練
(飛行兵)、第2志望は通信科だった。
そして通信科に進む。昭和17年9月1日満15歳の
秋草さんは横須賀海兵団に入った。同年11月1日
横須賀海軍通信学校に入学した。同期生は728人。
(自分も昭和2年5月生まれで、16才の中学4年から
海軍経理学校東京築地校に昭和18年12月1日入校
した。終戦時最上級生1号の時は18才だった)。

教科は電磁気、電気機器、無線理論、無線機器、気象学、
数学と英語、送受信機、無線電話機、陸戦教練通信実習。
19年6月18日運命の転勤命令、赴任先は第2南方方面
派遣艦隊司令部、だがそれがどこかは知らされない。
赴任地が硫黄島と知ったのは、7月28日、小笠原諸島の
父島二見港を離れた時だった。硫黄島は地熱が高く、硫黄
ガスを噴出させており、湧き出る水などいっさいない荒涼
たる島であることをまだ知らない。この島が太平洋戦争の
なかでも、もっとも凄惨な戦場になるということなど知るよし
もない。硫黄島に上陸した秋草さんはその時17歳。手記は
赴任から6ヶ月目。米軍上陸直前から始まる。
目次の次ページに硫黄島略図が載っている。

米軍上陸は昭和20年2月19日である。

送信所に続く壕は、摺鉢山,船見台、二段岩と並ぶ玉名山
の見張り所であり、特に南地区の要所であった。
南地区は、海軍司令部をはじめ、第27航空戦隊、その下の
南方諸島海軍航空隊、海軍警備隊、海軍陸戦隊、設営隊
など約7300名となっている。

また別の壕にあってこれに呼応する陸軍部隊では、混成
第2旅団司令部、歩兵大隊、砲兵主力大隊、機関銃大隊、
速射砲大隊,工兵隊、機関砲隊、病院壕、包帯所等の
陣地に13,000名に達する将兵が地下に待機していた。
海岸線水際陣地は艦砲射撃に耐えられないとして、栗林
中将から取りやめ命令がでて、地下壕建設に注力した。
軍団司令部は北にあり、栗林壕とよばれた。

島民は、戦闘前には内地から移住してきた千人余が生活
していた。大半は東京製糖工場と硫黄鉱山精錬所で
働いていた。
昭和19年6月初旬、初めて米機動部隊の襲撃があった。
艦載機約60機の空襲、翌日、100機の艦載機と艦砲
射撃の攻撃があった。
各戸16才以上の男子一人と老人、女性、子供たちが内地
に送還された。島に残った男子は約80人、現地徴用され
軍属として海軍陣地に配属された。

秋草さんたちのこの島での初の任地である南方諸島海軍
航空隊本部壕は、南波止場から北1.5キロの元山台地に
在った。島内最大の壕で、3ヶ月くらいは篭城できるとの
噂があった。壕内の人数は約800人。ドラム缶は約500本。
重油,軽油、ガソリンそして飲料水である。

陸軍部隊の陣地は、全島4分割のうち、北、東、西に配し、
南地区は海軍の主力隊を配した。東地区には小型の
戦車隊がいた。

秋草さんの手記以前の状況はどうだったのか。 坂井三郎の
「大空のサムライ」の中の硫機島の記事を要約する。
敵はサイパンに上陸を開始し、硫黄島に対する敵の空襲も
織烈の度を加えてきた。
昭和19年6月横須賀海軍航空隊に硫黄島出動の命令が
出た。6月15日出発した。指揮官中島少佐以下零戦30機
である。
650海里の長翔に成功全機無事千鳥飛行場に着陸、ここ
からプロペラを回しながら、山を切り開いて作った曲がり
くねった坂道を登り、元山飛行場に着いた。
硫黄島について数日間は敵の空襲はなかった。
スプルーアンス提督の58機動部隊はサイパン島の攻撃に
主力を注いでいたためか、硫黄島にたいする攻撃は
それほどのこともなかった。われわれは、サイパン島の救援
に赴く予定も持っていた。

6月24日の早朝レーダにより敵機を捕捉した。当時も元山
の我々のほかに別の隊の零戦が数十機、千鳥飛行場に
待機していた。全機直ちに離陸した。
4千メートルの層雲の上下にそれぞれ1隊ずつ配置した。
その雲を突き破って敵のヘルキャット群が降ってきた。
たちまち大空いっぱいに銃撃の音がこだまし、陣形は乱れ
空戦が始まった。敵もなかなか戦意旺盛で、瞬く間に
入り乱れての大乱戦になった。雲を突き抜けて2機のグラマン
が火を噴いて落ちてきた。後で聞くと武藤金義飛曹長(あの
「紫電改の6機」に登場する武藤少尉だ)が忽ち撃墜したもの。
空中を埋める飛行機は彼我合わせて約百5,6十機、
いままでに経験したこのない壮絶な空中戦だった。

私は2機を落とすのに精一杯だった。敵を落とすには落とした
が、2回とも敵に先手を打たれてしまった。右目の視力低下
でやはり見張り能力が確実に低下してしまったんだ。一応
戦場から離脱しよう。エンジンを全速にして空戦空域の外側
を飛び回った。彼我入り乱れての空戦の状態を観察した。
敵のグラマンの真後ろ、4,50メートルのところに、わが零戦
1機が追尾して盛んに撃っている。ところがその真後ろには
こんどはグラマンが食いついている。そしてその後ろに零戦・・
と言う具合に敵味方7機が交互に一線に連なっていくのが
見えた。敵味方とも日ごろの空戦の注意事項をまるきり
忘れてしまっている。血走った目は前方の敵しか見て
いないのだ。
1番前の敵機がパっと火を噴いた。今度はそのグラマンを
喰った味方の零戦が真っ赤な閃光を発した。ところが今
零戦を喰ったそのグラマンが、またその後ろに追尾した
零戦にみごとに撃墜された。こうして敵味方が次々に落ちて
いって、最後尾にいた零戦1機だけが残って、次を求めて
急旋回で飛び去った。

この頃にはさしもの空戦も1段落を告げ、敵も味方も一応
のこりの機をまとめにかかっていた。私は味方の零戦隊に
合流しなければならない。左前方はるかな空に15機の
味方編隊がいる。近寄ったところそれは敵グラマンの編隊
だった。こうして1機の零戦に対し15機のグラマンが
追い回すことになった。
横滑りと左急旋回を何十回も繰り返し逃げまくる。この
戦闘は地上からも見られていて、高度が下がり、北地区
にかかると地上砲火が応援した。敵は慌てて反転し、攻撃
を打ち切った。

海を見下ろしていた。海面に無数の黒ずんだ丸い形が
みえる。海面に浮かんだ油のひろがり。飛行機の落ちた
跡だ。数える、70いくつだ。
後で両軍の半数が落ちたことが分る。
今日の空戦は約30分におよぶ激しいもので、坂井にとって
こんなに長い空中戦はこれ1回しかなかった。

昭和19年6月末。対空戦闘のラッパが鳴り響いた。待ち
構えていた味方の全機が飛び立った。敵はグラマン戦闘機
を先頭にした戦爆連合の約5,60機だ。敵を待ち受けて
いた約40機の零戦隊が直ちに突っ込んで行った。
TBFアベンジャー急降下爆撃機が元山飛行場に突っ込んで
きた。
この日の空戦では武藤飛曹長はじめ大奮戦して随分敵機を
落とした。千鳥飛行場も元山飛行場も大変な損害をうけ、
惨憺たる有様だった。空戦も稀に見る激しいものであり、敵を
沢山落としたが、味方もその大半を落とされた。
その夜、明日敵の第58機動部隊に対して、戦闘機と雷撃機
で白昼攻撃をかける作戦が決まった。もちろん反対論もあった。
あれだけの大戦力を持った第58機動部隊に対して、残った
僅かの戦闘機や雷撃機をかり集めて、白昼強襲をかける
なんて無茶だ。残り少ない大切な飛行機と搭乗員を意味なく
失う無謀作戦だという強硬な反対があった。
しかし、敵に一矢を報いたいとの横空の名誉のためということ
で作戦が決まった。

翌日敵の午前中の来襲があり、零戦隊は迎撃戦闘をやったが
衆寡敵せず、機も基地もそうとうに痛めつけられた。
今日までの空戦で、横空零戦隊はその大半を消耗してしまい、
残った飛行機は、横空の零戦が9機、天山艦攻が8機であり、
これが残存勢力のすべてというみじめな有様になった。
千鳥飛行場には後で3機の零戦が残っていて、敵のカタリナ
偵察機2機を撃墜したあと、着陸後機体が砲撃で破壊され、
飛行機はゼロとなった。

横空の指揮官三浦鑑三大佐の出撃前の訓示。「空中戦闘を
おこなってはならない。全機敵航空母艦に体当たりせよ」
これは昭和19年7月のこと。比島の神風特攻隊に先立つこと
約4ヶ月。特攻の始まりということになる。比島のマズラカット
飛行場を飛び立った特攻は敷島隊だった。

この白昼強襲隊は敵機動部隊を発見できず、反対に敵グラマン
数十機の迎撃をうけ、雷撃機は全機、零戦は5機が打ち落と
された。坂井小隊の3機は基地に帰還した。武藤金義飛曹長
の機も帰還していたのがわかった。しかしこの4機も後の空戦
と爆撃で失われた。

指揮所から伝令がきた。その命令によれば、とりあえず搭乗員
だけは、一応内地に帰って新しい戦闘機を整備した上、再び
進出すりことになった。木更津航空隊から輸送機が来るという
思いもよらないものだった。同日午後遅く、1式陸攻と96陸攻
が8機飛んできた。帰還者の搭乗割りは階級順だった。
坂井と武藤飛曹長を含めた11人は翌日の最後の1式陸攻で
帰ることができた。

この頃他の地域ではどうなっていたのか。海経36期宮本三夫
の作った「昭和の世界戦争記録 対比」で調べるのが便利だ。

昭和19年(1944)6月6日 連合軍ノルマンデイに上陸。
6月15日 米軍サイパン島上陸
6月18日マリアナ沖海戦
6月24日 米機動部隊硫黄島空襲
7月4日 インパール作戦中止
7月7日 サイパン守備隊、玉砕発表
7月21日ー8月10日 グアム島陥落
7月24日ー8月1日 米軍テニアン島攻略
10月20日 米軍比レイテ島上陸
10月20日 海軍神風特攻発進、天候不良で引き返し
10月23日 フイリピン沖海戦、戦艦武蔵 シブヤン海に沈没
10月25日 敷島隊、関幸男大尉らレイテ沖出撃
10月25日 エンガノ岬沖海戦で囮の日本空母全滅
10月25日 サマール沖海戦、栗田艦隊反転
11月24日 マリアナ発進B29により東京初空襲
12月2日  グアム島を基地とするB-24,硫黄島空襲開始
12月31日 米軍レイテ島制圧完了

○昭和20年1月24日
早暁多数の米艦隊が砲撃開始。無数の飛行機が現れる。
日本軍が1年近くかけて造りあげた地下壕は島内いたる
ところに散在している。壕は砂岩やそれに似た土丹岩で
囲まれているため、やわらかく天井や壁面が崩れやすい。
地熱があるため深くは掘れない。
南方諸島海軍航空隊本部壕(通称・南方空壕)も西北部
の幹線壕が直撃弾のため陥没した。何百人の生命と武器
弾薬が埋没してしまった。
照明弾は一晩じゅう全島を照らした。
○1月25日
空と海からの攻撃が始まった。通信所の玉名山にある
見張所は南海岸方面の観測所で司令部宛状況報告する
のも、通信所の役目だった。
○1月26日
外の景色は荒涼寂寞とした光景で賽の河原のようだった。
○1月31日
司令部あて状況報告のため外へ出て調査せよとの命令が
くる。
「影」とは影山昭二くんの愛称だ。横須賀海軍通信学校の
同級生で昭和2年生まれの同い年だ。自分は「秋」と
呼ばれた。横須賀からの輸送船は木造で、父島に寄航、
待機していた通信科員と合流した。そこで熊倉保夫と知り
合った。硫黄島に到着したのは7月30日だった。

南空壕の通信科から玉名山送信所,北送信所に転勤の
後、昭和20年1月2日再び玉名山送信所に勤務すること
になった。敵上陸は九分通り南海岸と見られており、玉名
山は最前線になる。影と一緒なのが救い。

2月1日未明、スコールがきた。急げ、命をつなぐ真水だ。
容器に水を満たす。雨足はほんの一時だった。南方空
本部通信科に状況報告する日だった。
道しるべになる地形はすっかり変わっていた。最大の目印
は北硫黄山、南硫黄島と摺鉢山、玉名山、二段岩、天山
などの高いものだった。砂糖キビ密集地があった。
いろいろ間違えたあと本部司令部壕の入り口に来た。熱気
に逆らって進入する。

高野通信長は北送信所で統括しており、この南方空壕本部
電信室では松本良一掌通信長が指揮していた。報告は
玉名山から見渡す風景は生物の存在を許さないほどの荒廃。
二段岩の電探用レーダーも破壊され、千鳥飛行場は土が
掘り返され激しい凸凹で機影なし。南地区はかなり被害を
被っており、病院も満員、食料も不足し1ヶ月もたせるのは
無理という。
松本掌通信長は「玉名山送信所員は、他部隊に加勢する
武器はない。送信機を扱い情報を送るのが任務だ」と。

2月11日 航空攻撃はまた一段と激しくなった。盲爆であり
猛爆だ。日本軍の迎撃はない。 この日、米軍は日本本土
に本格的な攻撃を開始した。戦艦、巡洋艦、大型空母は
護衛艦、駆逐艦を同行し、航空爆撃,機銃掃射、艦砲射撃
を行ったとのことだった。
2月14日木更津航空隊海軍索敵機からの入電、敵機動部隊
約800隻マリアナ沖出航、日本本土攻撃の機動部隊
南下中との知らせが入った。

もはや、全島にただ一つとして完璧な壕や陣地はない。
なんという物量の差異だ。大人を相手にこどもが素手で争って
いるようなもので、勝てる見込みはない。神も奇跡も信じられ
ない。なんということをしたんだ。全滅疑いなしだ。
どう転んでも、もう長くはない。いずれは野垂れ死にか、ならば
早く逝きたい、楽になりたい。この俺という人間の器の中で、
魂の葛藤が続く。本能が芽生える、死んでたまるか。

2月15日、B29の空襲を合図にいっせいに地中人になる。
防空壕は直撃弾をうけ、死傷者が増し、死者への弔いも、
荼毘に付されることもなく、生から死への流れのままに放置
されていく。
空襲の合間にはっきり敵の艦船が見えた。機動部隊だ。
対する日本軍は大和魂が約2万余、旧態然の兵器、頼みの
中型戦車が数両、他は軽戦車で、どう見ても月とスッポンだ。
それでも撃滅しろ、死守せよとの命令だ。
上層部からの指示は時々変わった。大本営や担当武官の
移動にともなう施策の変更だ。方針が変わっても働き蜂は
そのたびに動かねばならぬ。水汲み、穴掘り、土砂運び、
炊事番、笛を吹くもの、踊る役は相変わらずだ。

2月16日 手動電鍵は松下無線製造、送信機は真空管式
短波、中波、長波があり、主として川西真空管製だった。
これらと連動して97式長短波受信機がよく活躍した。

目を見張るほどの多種多様な艦船がいつの間にか接近して
いる。二重三重に包囲している。その外部にも見え隠れする
船が認められる。視野に入る数百隻の機動部隊は砲身を
旋回して標的を定めている。第2陣は約40機のB24大型
爆撃機だ。小型艦載機群約100機も赤トンボの群れのように
飛び廻っている。双発双胴のP38も北の鼻岬をかすめて侵入、
南地区を背後から銃撃する。午前7時、戦艦から合図の
砲声が響いた。真っ黒い塊が南地区に飛んできた。
上陸作戦の幕開けだった。
艦砲射撃と航空銃撃が1日中繰り返された。

千鳥飛行場の西角にあった弾薬庫が直撃をうけて誘爆した。
隣接した地下壕で死を免れた一群が送信所に退避してきた。
彼らは予備学生をふくんだ飛行兵と整備兵だ。その装束は
歴然と異なっており、その処遇の違いを示していた。飛行機
に乗ったら隣り合わせに死神がいる。それにたいする計らい
なのだろう。今となっては誰の隣にも死神がいて何の差異も
ないのに。「今度この島に飛行機が来たら俺が帰る番だ。
敵戦との交戦はしない」と一人が言う。この飛行兵の身支度
は戦闘態勢でなく、帰り支度だったのか。帰るあてがあって
いいね、そういう望みはこっちにはない。結局送信所が受け
入れた。

2月17日今日も第1陣はB24の編隊だ。100隻を超す艦船が
砲撃を開始した。間隙を縫って小型舟艇が十数隻、東海岸の
神山海岸に接近してきた。多分検索隊か掃海隊だ。綺麗な
砂浜が少しあり、上陸してきた。
この一連の行動を監視していた東地区の海軍の機銃砲台は
機銃掃射を浴びせ撃退した。敵の東方艦隊はそれを見て、
いっせいに東地区の陣地を砲撃した。この神山海岸から
摺鉢山に至る海岸線には他にも敵の一群が点在し、探査行動
を継続していた。
摺鉢山砲台は水際撃滅作戦のために造られた陣地だ。これは
海岸線の方向にしか砲撃できない。撃退された様子を見ていた
艦隊は間髪をいれず砲撃した。海洋に向かっては全く価値の
ない我が砲台はやられるがままの状態に追い込まれた。
執拗な艦砲射撃が終ると、100機に余る艦載機が機銃攻撃を
加えた。
午前9時、北地区陣地にも被害が出始めた。北地区の海軍
15センチ砲台が米巡洋艦を砲撃、炎上させた。敵艦隊は戦艦
を加え、味方の陣地に釣瓶打ちに砲撃し、その機能を消滅
させた。我が西陣地海軍部隊は高角砲を水平にして発砲して
いた。
敵探索隊はその数を増し、海兵隊は150人にも達した。

摺鉢山海軍砲台14センチ平射砲、短12センチ砲は集中攻撃
を開始、米軍もあらゆる大砲が寸断なく火を噴いた。午前11時
海と陸との未曾有の開戦となった。この地域の土砂は、破壊が
繰りかえされ、みるみる原形を変えていく。艦載機による航空
攻撃に加えて、B24やB29による焼夷弾攻撃があった。
午後五時には日没を待たず一切の交戦が終った。
本日の交戦で海軍陣地では殆どの将兵が重傷を負ったが、
陸軍陣地では将兵は壕内にあってほとんど無傷で、武器の
被害も軽微だった。接近した米軍の小艦艇はことごとく被弾し、
相当数の死傷者をだし、上陸拠点を構築することなく撃退された。
日が暮れて静かに屋外にでた。人の焼け焦げた臭い、硝煙の
生暖かい風が横面を擦っていく。

2月18日 海岸付近で腹を擦るくらい接近した戦艦は、午前8時
砲撃を開始した。摺鉢山の頂上から中腹にかけて、赤茶けた
岩肌が崩れ落ち、みるみる変容していく。今日の攻撃はだんぜん
違う。航空攻撃は200機だ。ぶち当たる鉄塊は新型だ。VT信管
を採用したもの、ナパーム弾と呼ばれるものが新戦力として威力
を発揮していた。敵の攻撃には1時間の休憩時間がある。
上陸した米兵が南海岸に立てた緑、赤、黄、青色の小旗
は部隊ごとの上陸地点を示す目印に違いない。明日は上陸だ。
西方から飛んできた友軍機が1機、抱えてきた大きな爆弾を
敵艦に離した。敵軍艦の中央部に命中し破裂した。と同時に
真っ赤に燃えた炎を引いて落ちていった。

夜間射撃が始まった。その時大音響があがり、あたり1面の
水陸を煌々とさらけだした。玉名山正面、岩肌に隠された日本軍
の魚雷庫に敵の砲弾が命中した。戦車壕をはじめ、隣接する
弾薬庫、陸軍部隊の速射砲の2個大隊以上が壊滅的打撃を
うけてしまった。この範囲内に陸軍の病院壕があった。新たな
重傷者が殺到した。

2月19日 米軍上陸のその時から島は想像を絶する地獄と
化す。6時40分戦艦の主砲が火を噴いた。午前8時、砲撃が
内陸部に伸ばされた。沖合いの船団の間の小型舟艇群が
昨日の旗の位置に向かって突進した。数十隻の上陸用舟艇が
南海岸約1キロにわたり、戦車、水陸両用車等とともに兵士を
続々と上陸させた。敵兵は6千人と急増して海岸線を埋め、
海上は行く船、戻る船でごった返していた。しかし日本守備隊
の攻撃はない。当初の水際撃滅でなく上陸後の決戦に変更に
なったためである。午前9時30分ころ、目測するところ約
9千人が上陸し、大型、中型の戦車、装甲車が150両以上
揚陸された。

第3波が沖を発進した。もはや1万人の上陸は確実と思えた。
日本軍はついに本格的な反撃を開始した。この時まで陸軍
部隊は陣地を温存するため、一発も撃っていない。日本軍の
ラッパが鳴り続けた。日本兵は遮二無二撃ちまくった。
摺鉢山、二段岩、玉名山のラッパが激しく鳴った。
正午友軍は突如40センチ噴進砲を発射し始めた。戦車を盾に
繰り出す米兵の群れに飛び込む。新兵器と物量に乗じた米軍
もこの予期しない反撃に次第に後退して海水に浸り始めた。
その時西海岸から飛来した百機を超す艦載機が超低空で攻撃
してきた。焼夷弾や銃撃で上陸軍の援護に没頭した。米軍は
午後を過ぎると太陽を背にしていた。台地から海岸線まで
1キロに満たない。噴進砲の射程距離5千ないし6千はたすき
に長しだった。
眼前の敵を撃つには具合が悪い。そのため斜め前方を攻撃
する形になる。前面の相手には機関銃類で攻撃する。
次第に陽が落ちるにつれ、砂の微粒子のダイヤモンドダストの
輝きが乱舞し射撃を妨害した。焼夷弾を含む航空攻撃は島を
隅から隅まで掘り返すほどの、爆撃と機銃掃射を続けた。

撃てー撃てーと軍刀をぬいて怒鳴ってみても、弾は飛び出して
くれない。夕陽に反射されて輝く抜き身は、陣地の所在を
相手に教える反逆行為でしかない。この世の最後の一言が
「おっかさん」と聞こえる声が多かった。
玉名山送信所には島内最大出力の送信機が設置されていた
ため、早くから発信電波を傍受されていたようで、砲爆撃の
頻度から見てわかる。多くの犠牲者が出た。夕闇が迫る頃
ようやく戦闘は終った。

19日に上陸した米軍は将兵3万人以上、戦車大型中型あわせ
約200両、大砲火器など200門以上を揚陸。ブルトーザーは
揚陸資材の運搬だけでなく、クレーターの整地、車道の整備
にもあてられた。
今日敵は摺鉢山の麓まで進攻した。千鳥飛行場を内陸に
向かう部隊は一番侵攻してきている。それらは摺鉢山に攻め
いるだろう。

2月20日 今日も航空攻撃から開始だ。主に摺鉢山を攻撃
して、帰り道に南海岸を攻撃しながら玉名山にくる。そこで
全弾をおとして空母に帰る。あの強い光は焼夷弾だ。さまざな
機能を持っている。光と熱と火力、爆発力を備えているので
怖い。
米兵たちは艦砲が攻撃している少し手前を、戦車を先頭に、
火炎放射をあびせながら進んでくる。摺鉢山山麓に向かう
敵攻撃隊は岩陰に身を潜めながらよじ登り、銃眼の左右の
死角から手榴弾を投げ入れた。陣地からは機関銃の応戦が
あり、3人の米兵が落下した。しかし尚手榴弾が矢継ぎ早に
銃眼に投げ込まれたためやがて機関銃は鳴りを潜めた。
彼我の距離1キロ足らずの地に、双方あわせて五万を超す
人間の殺戮戦が繰り広げられた。10時間に及ぶ膠着戦で
あった。
遂に米軍は摺鉢山頸部の狭い800メートルを西海岸まで
勢力下に置いたことで、摺鉢山は孤立した。
平坦な砂浜から揚陸した海兵隊と戦車はこの地域にびっしり
敷設されていた地雷原にはまった。そのため釘付けにされ、
難渋した。米軍は素早く航空攻撃の増援を送ってきた。
筆舌に尽くしがたい殺戮戦になった。
やがて案山子のごとくすっくと、仁王立ちする人影をいくつも
見た。「おっかさーん・・・・」と声を発した直後にはもうその姿
はなかった。
日本の戦車隊が来た。中型と小型だ。ちいさいなー。
でも8センチ砲を積んでいるのだ。玉名山台地のこの戦車隊
が米戦車隊に側面攻撃している。米軍の大型戦車群は
千鳥飛行場東端に進出、やがてお互い止まって撃ち合った。
日本軍戦車隊は飛行場の全面の敵と南海岸の側面の敵との
両面対抗をしいられ、一進一退が続いた。四つに組んだまま
日没を迎えた。お互いの戦車群は若干後退した。

夜になって幾分発射音が減ったように思えた。南地区砲兵隊
の噴進砲弾が米軍集積所めがけて飛んでいった。これに呼応
して、すでに守備陣地を喪失した日本軍の残存将兵が斬り込み
攻撃を敢行した。匍匐前進して昼間確認した米軍陣地に
近づき、いっせいに手榴弾を投げ入れた。決死攻は凄惨極まり
ない。ブルトーザーを駆使して築城した敵陣地は小高く土砂で
盛られた円形で、中央の窪みがかなり広い。外周の一部に
通用路がある。頂上部は少し上ったところに機関銃座がある。
この機関銃は2連装と3連装だった。また小山の外周の腹部と
株に鉄条網が張り巡らせてあった。その外周に綱がめぐらせて
あった。その綱には煙草や缶詰めの空き缶が吊り下げられ鳴子
の働きをしていた。そしてその付近にはさまざまな地雷が敷設
されていた。お盆地雷や棒地雷でピアノ線がつながれ、これに
ひっかかると爆発する仕掛けだった。

自分は飛行場付近の夜戦に乗じて外にでた。いたるところで
夜戦が展開されているが、それは斬り込み隊の活躍でしかない。
しかし米軍は砲弾戦から機関銃戦に展開、ついに艦載機も
参加した。曳光弾の軌跡が滝のように弧を描いて飛び交っている。
日本の陣地は高くなっていない。むしろ平坦な土地を丸くくぼめた
だけの青空陣地だから撃ち出すまで分らない。危険だ離れよう。
内陸から台地の裾の方に退いた。短く動く人影が映る。動かない
ものもいる。足もとにもいる。頭がない。4本の手足のついている
人など見当たらなかった。

そばにあった穴をのぞいた。中から「山」と声がした。とっさに「川」
と応えた。入り口だが蓋も無い。たぬき穴のような穴の中に入った。
この壕の主人は誰もいない。四,五人いるのは空き家に入って
来たものたちとわかった。暑さと死臭で苦しくなってきた。
弾丸と隣り合わせになりながらここまで来たのは、前線の実態を
より正確に、後方陸海軍部隊に連絡するためだ。野次馬的思考で
危ない目に逢っているのではない。
奥の方で呻き喘いでいた兵士は、飛行場からきた搭乗員だと
名乗った。横の拳銃を自分に押し付けてくる。これで撃ってくれと
頼んでいるようでもある。自分は暴発おそれともかく受け取った。
不連続に聞こえる断末魔の絶叫。「おっかさーん」と叫んだ。

自分は「死ぬんじゃねー。東に行くと小高い岩山にでる。山を上ら
ないで右から廻れば反対側は病院壕の入り口だ。外へ出れば
その山も見える。すぐ近くだ。元気をだして行くんだ。死ぬために
来たんじゃないだろう」と叫んだ。
休んでは行き、進んでは止まり、一路送信所を目指した。
機関銃弾があたりに突き刺さった。動かずにいた。ドカーっという
鈍い音がして、またしても照明弾をぶら下げる傘が開いた。
俺たちはどうにか無事に我が宿たる送信所に戻ってきた。

2月21日の朝が迫っていた。まずは昨日の見聞を報告しなければ
と中に入った。あれからまだ24時間も経っていないのに、3年ぶり
に帰ったようだ。再会の喜びを全身で感じる。状況報告を続けた。
途中残っていた者から、昨日、木更津航空隊を発進して八丈島に
到着した海軍機が硫黄島に向かったという。零戦11機、彗星14機、
天山攻撃機6機の編隊という。そうか何時ごろの到着になるの
だろうか。いや、所詮、焼け石に水だ。飛行機の数より敵の船の
ほうがはるかに多い。これじゃ気休めにもならない。来る方も、
かわいそうに飛んで火にいる夏の虫だ。気の毒に思えてならない。

どくらい経ったか、遠い花火のような音を聞いた。半信半疑のうちに
外にでた。友軍機の姿が見えた。
零戦は西の空から急に高度を下げ、南海岸沖に速度をました。
尾翼の中央部から真っ黒な煙が流れた。もう火だ。すっかり火の玉
となった。米大型空母にこの神風特攻隊の1機が突入し艦上に
火柱が立った。続いて1機、また1機と油を注ぐように大火災と
なった。操縦不能に陥り海に真っ向からぶち当たり、水柱をたてる
機もある。紅い曳光弾が鮮明に日の丸を映しだしている。が、この
圏外に飛び出すことを許されない人々がいる。あの艦上の被害も
わが方の損害も喜ぶべきか、泣くべきか、憐れみだけが重く
のしかかってくる。

送信所の上を敵戦車が通過、また引き返してくる。「命令だ、動くな。
静にしておれ」と奥田掌通信長の声だ。

2月23日
「なんだあれは」「旗だ、星条旗だ」 10時過ぎのころだった。沖の
艦船から次々に汽笛が鳴り響き、海岸の敵陣地からは勝鬨の
ような米兵たちの歓声や口笛が聞こえてくる。我が方は眼前の敵
に対する攻撃に精一杯で摺鉢山を狙撃できないでいる。
夜になると後方部隊より様々な命令ががくる。後方へはこの
玉名山より一望しうる実情を小刻みに連絡しているのに、間が
ぬけている。

2月24日
米軍は8時出勤だからそれまでに足跡などを消し現状保持の状態
に繕う。ふと摺鉢山をの望むと日章旗が翻っていた。
午前8時いよいよ出勤になった米兵がその異様を知った。
周囲のべい陣地からのロケット砲弾が摺鉢山の山肌を削りとばした。
陣地や壕の入り口がポッカリ開いた。二人、三人の米兵が入り口に
近づき手榴弾を投げ入れた。
これと呼応して別働隊が山頂に星条旗を立てた。
内陸に侵入した敵は二段岩を包囲した。二段岩は電波探知機を
設置していた重要地点だった。空からの攻撃で機能を失っていた。
この時点で木や草は一本も見当たらない。

2月25日 早朝いつの間にか取り替えたのか、摺鉢山にはまたもや
日の丸が朝日を浴びていた。昨日のより少し小さい日章旗だ。
午前8時、米軍は戦車群を先頭にして、昨日の戦線位置に驀進
している。2時間たって、米兵が日章旗の旗竿を抜き取った。
玉名山陣地が応戦する。当地区にもやたら破片や土砂が舞い
落ちる。戦車のキャタピラーの音がしなくなっと思ったら、別の音が
響いてくる。ブルトーザーの活動音だ。上陸地点より2キロ四方の
範囲はすでに校庭のように整地され、小型機やヘリコプター等の
発着が始まっている。
摺鉢山を見た。まさに米兵が星条旗を立てようとしている。毟り
取った日章旗を、ボンベを背負った兵隊が火焔放射器で焼いて
いるのが見えた。午後1時少し前だった。

上陸いらい、間断なくどこかで白兵戦が展開され、何もない
穏やかな晩などない。

2月26日 朝摺鉢山には日の丸は無かった。奇跡はその後起き
なかった。
以下章名と項目のみを記載する。
第4章 摺鉢山の日章旗
○戦車7両を破壊した阿部さんの話 ○本部に増援依頼するも
「持久戦を」 ○今日の戦闘は引き分けかもしれない ○暗く
なって壕の外にでる ○攻撃は人間地雷 ○日本の残存兵が
地下から最期のの出撃 ○二つの缶詰め ○ついに送信所の
機能は停止した

第5章 砲撃と負傷
○送信所が火焔放射を浴びる ○送信所壊滅を報告する
ために南方空本部へ ○右の腕はある。その先の指がない
○ここにいるんだ。助けてくれ ○左脚大腿部は貫通破片創

第6章 玉名山からの総攻撃
○影に伝言できなかったことが口惜しい ○郵便局員として
派遣されてきた軍属の人 ○通信科の残存兵は8日突撃と
決まる ○北地区と南地区の分断 ○玉名山地区隊、
総攻撃の日

第7章 壕内彷徨
○通信科室に火を放ち、総攻撃に出て行った ○新しい
指揮官が現れる ○六根清浄、南無阿弥陀仏 ○1発の
銃声は一命の終わり ○米軍が投げ入れた缶から煙が
○水攻めのあとに火攻めがきた

第8章 一瓶のサイダー

汚泥と強烈な臭気の壕を脱出 ○壕の外に出て食べ物を
○鳴子で気づかれる ○誰もいるはずのない南に向かう
○投降を呼びかける日本兵 ○やっと入れてもらえた壕内
には ○反抗できない。出発の決定 ○軍属のひとは
一人も戻らなかった。

第9章 石棺
○投降した飛行兵たち ○投降を拒否して散華した熊倉
○投降の呼びかけと抵抗と ○飲まず喰わずの果てに
○兵団司令部の最期を知る ○命の炭

☆終わりに
秋草さんは意識混濁に陥る。目を醒ましたとき、秋草さんは
グアム島の捕虜収容所のベッドにいた。隣のベッドにいた
日本兵から「米軍の犬に見つけられ救出されたらしい。6月
1日にここに搬送されてきた」と教えられた。
米軍資料によれば、5月17日、最後の日本兵の集団が掃討
され、63人が拘束されて、死者20人が確認された、とある。
秋草さんはこのときの一人ではないだろうか。
栄養失調と酸欠ですでにそれ以前から意識をなくしていた
だろうから、まさに九死に一生、奇跡的に助かったというしか
ない。
捕虜となった秋草さんたちは、その後、ハワイ、
サンフランシスコ、テキサス、シカゴ、ワシントンDCへと移送
された。秋草さんが日本の敗戦を知ったのはワシントンの
収容所にいた時だった。米軍は捕虜たちに映画を上映した。
「駅馬車」、「荒野の決闘」、「黄金狂時代」、「風と共に去りぬ」
等で、合間にニュース映画が流された。9月2日の米戦艦
ミズリー号上で、外務大臣重光葵が降伏文書に調印する姿が
スクリーン上に映しだされたのだ。
昭和21年1月4日、彼らを乗せた船は浦賀に帰還する。
秋草さんが故郷に帰り着いたのは1月10日の夕方だった。
2006年夏に放映さrたNHKスペシアル「硫黄島玉砕戦・・・
生還者61年目の証言」に登場した。マスコミの取材に協力
するのは、このときが初めてだった。

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マニラ市街戦

この放送は2008年7月29日に放送されたもので
その時は記録しなかったが、今回再放送となったので
記録した。
プロデューサ金本麻理子は若い人だが、しっかり取り
上げている。芸術祭優秀賞授賞。

1941年太平洋戦争勃発により日本軍のフイリピン
上陸に際し、マッカーサー司令官はいち早くマニラを
国際法上の無防備都市と宣言し、マニラから撤退し、
日本軍は無血占領した。

米軍上陸に際し、日本の第14軍司令官・山下奏文
司令官はマニラを無防備都市にする宣言をだす方針
だったが、マニラ防衛指揮官、岩淵三次海軍少将の
死守との反対で取りやめ、海軍の陸戦隊を主力とする
陸海軍の混成部隊がマニラに残され、米軍と3週間
以上の激しい市街戦を行った。
大本営海軍部が死守の方針を出したともいわれるが、
現実には岩淵は山下の指揮下にあったので、撤退
可否の決定は岩淵にあった。山下は陸軍部隊を
フイリピン山中に撤退させ、岩淵に対しても撤退を
勧めた。

岩淵はガダルカナル戦で沈んだ「霧島」の艦長であった。
他の陸戦隊の兵士も沈没した船の乗員のよせあつめで
あり、岩淵をはじめ陸戦の経験は皆無だった。
岩淵は戦争は精神主義でやれると信じていた仁で、
死守の旗振りとなり、陸戦の現実を知らない、国際法の
何たるかも知らない愚将だった。

米植民地下のマニラは美しい街だった。100万人が
住み、東洋の真珠と言われ、豊かさがあった。
1945年1月の市街戦で、この街が1ヶ月で破壊され、
死者は12万人に達した、
日本軍死者   16,555人
米軍         1、010人
マニラ市民   10万人

38人の証言の記録である。

1944年在留邦人を徴集、部隊を編成したが、武器は
殆どなかった。3,000人の1部隊をマニラに残し
陸戦隊に協力させた。
14方面軍指揮官、山下奏文はマニラ防衛には8師団
必要とするが、その兵力はないので、マニラを放棄、
山中で持久戦を行うことにした。
マッカーサーは4週間以内にマニラを奪うと宣言した。

沈没した「木曾」の下士官は船がなくて行くところがない
から陸戦隊になれと言われた。レイテ戦で沈んだ巡洋艦
「熊野」の下士官は将校は内地に帰った、あとに下士官、
兵が陸戦隊として残された。
武器弾薬は数日で使い切る量しかなかった。兵員の数
の1/4しか武器はなかった。
 
陸戦隊は農務省ビルに司令部を置いた。
1月19日、米軍ルソン島上陸。兵19万、マニラまで200
キロ。サント・トーマス大学を目指す。1ヶ月かかった。
2月3日6時半、先頭車到着、これが市街戦の始まり。
マニラにはバシグ河が流れているが、この河の南側が、
ビュウテイフル・ダウンタウンと言われ、整然とした美しい
街だった。
バシグ河には四つの大きな橋があったが、日本軍はこれ
らを爆破した。河の北側は人口密集地だが、日本軍は
ここに火を放った。焼け死んだ人が沢山でた。
米軍は落下傘部隊により、南から進攻、数十万の市民は
逃げ道を無くした。

2月7日米軍は渡河作戦開始、水陸両用車両や渡河ボート
でバシグ河を難なく渡った。
銃撃戦が住宅街で始まった。家から家への戦い。市民の
目の前で銃撃戦、判断がつかぬので市民も撃たれた。

フイリピン総業病院がマニラ中心部の南、農林省ビルの
南にあった。屋根には大きく赤十字のマークがつけられて
いた。すでに避難民がひしめき合っていた。
ここに日本兵がひんぱんにやって来て、都度米軍が攻撃
した。外での治療に行く医者も、日本兵と間違われて、
米兵に撃たれた。
この戦争は常識を超えた戦いだった。日本側は瞬く間に
劣勢になった。

海軍103病院の医師は言う。盲腸を切ると4,五日は戦闘
に行かなくてよいので、腹が痛い、盲腸だ、切ってくれと
沢山の兵士がやってきた。
中心部から5キロのところに、マッキンレーに第4大隊の
桜兵営があった。
市内から敗残兵、逃亡兵がぞくぞくと集まってきた。
その司令部は壕の中で、2月29日岩淵がやってきた。
マニラからの撤退を決心、山中の14方面軍に連絡を出した
が、応対した小林参謀は、マニラ死守は海軍が決めたこと
であるとして撤退命令は出さなかった。
マッキンレーから農務省ビルに帰った岩淵は「海軍の伝統
を発揮し最後の1兵まで戦え」との命令をだした。撤退の
機会は失われた。

日本軍は中心部の国会議事堂、農林省ビルなどに追い詰め
られ、ビルからビルの戦闘になった。米軍の死傷者も増えた。
米軍は作戦の転換に踏み切った。米国公文書館にある
第37師団戦闘報告書によると、市民を守らねばならぬが、
作戦遂行上、市民が逃げ込んだビルの砲撃もやむなしとの
砲撃許可を得た。
市民を人質にしている日本人を追い出す唯一の道は砲撃
しかないと方針転換した。2月13日、病院が要塞化している
として、国際法に反し総業病院に対して砲撃を開始した。
中にいた人の大半は市民だった。

ライフラインが破壊され、防空壕に批難していた人々には
水や食料の不足がひどかった。米軍では市民が
近づかないよう、警告発砲をしていたが、こどもが食料を
求めて発砲してもやって来た。

農林省ビルに台湾出身の防衛隊がいたが、海軍巡査隊長が
台湾の人がこの戦争に巻き込まれるのはおかしい、遺憾だ
として、投降するなり自由に行動せよといったので、台湾隊
は後に白旗を掲げた。

日本軍の間に援軍情報が流れた。実際に陸軍は600名の
支援軍を出したが、市内には入れなかった。

農林省と財務省の前にルネタ公園があったが、日本軍は
夜、斬りこみ隊を編成した。 小銃無し、日本刀を持っている
のは将校だけ、他は竹槍だった。
米側も怖がり、口笛を吹いたり歌を歌っていた。バンザイを
聞くとすぐ撃った。サーチライトを照らし片端から機銃を撃ち
込んだ。

2月17日、総業病院を制圧、7千人の市民が救出された。
降伏する兵は少なく、地下室に逃げ込み篭城したので、
米側は火炎放射器を使った。

マッキンレーの日本14方面軍は全軍に撤退を命令、桜
兵営の1900人も撤退準備をした。その中には数百名の
負傷者がいた。軍医が注射を打って殺した。
撤退命令は2000名が残っていたマニラ防衛隊にも
届いたが、脱出不能だった。米側は徹底殲滅した。

市民は憲兵隊の監視かに置かれていたが、抗日ゲリラ隊
が発生した。米軍はこれに武器を与えた。デリラは避難民
のふりをして入ってきて市民の家から攻撃した。ゲリラを
見つけたら撃ての命令が出た。男でも女でもみつけたら
撃った。
交流会館のドイツ・クラブに市民が潜んでいた。ゲリラの
疑いで2千人が銃殺された。近くのスペイン・クラブでは
ゲリラは皆殺せの命令で、建物から飛び出してくるのを、
機関銃で撃った。大多数は女だった。

桜兵営からマニラ市内に行った兵隊は、斬殺部隊の兵が
朝から酒を飲んでいるのを見た。「飲まずに入られるか」と
言った。
日本軍に対する協力者も作られマカピリ(愛国同志会)と
言われ、日本軍にゲリラと思われるものを密告させた。
米軍が進駐した地域では、市民がマカピリに復讐した。
フイリピン人同士の殺し合いを生んだ。
商務省ビルの北、イントラムロスは高い防壁で囲まれた
昔の防衛都市だったが、退避した1万人の市民が住んで
いた。そこに700名の日本兵がやってきた。
ここは終盤の戦場になるが、米軍は攻めあぐねていた。
砲撃は日本兵と何百もの市民を殺すことになるが、
やむなしとの判断で許可を受け、120門がいっせいに
砲撃を開始した。

場内を逃げまどう市民は、北西部の砦、フオート・
サンチャゴの教会に逃げ込んだ。
日本軍もここをマニラ防衛隊の本拠地とした。
イントラムロスの住民の反乱を恐れた日本軍は多数の
青年・成年男子を徴集、別のところで銃殺した。

米軍は2月22日総攻撃、翌23日は7時半から砲撃開始。
弾は185トンに達し、兵士一人当たり1万ドル相当の弾を
使った。米軍は城内に進入したが、日本兵は僅かだった。
日本兵の遺体515名、市民の死者はおびただしい数、
生き残りは3,000人ほとんど女性。
海軍巡査隊の台湾人隊員は広枝隊長の生きて帰れの
指示のもと、白旗を掲げた。
捕虜は25人。地下壕でフイリピン人600名の遺体が
発見された。

2月24日書類焼却せよとの大隊命令を出した岩淵は、
26日農林省ビルで自決した。
財務省ビルでは3月2,3日に22名投降、米軍は3月
3日戦闘終了宣言を行った。

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日本海軍最後の戦闘機 紫電改

川西航空機(現、新明和工業)が製作した紫電の改良型
で、正式名称は紫電21型。紫電改は通称。また紫電
とは名刀のこと。

もとの紫電は、水上戦闘機「強風」の機体をそのまま使い
陸上基地用の迎撃機として1942年(昭和17年)12月
に初飛行し、1,997機が生産された。

紫電11型をもとに、その性能と実働率を図るため、設計
を見直し、主翼も低翼にし、「誉21型エンジン」を搭載し、
自動空戦フラップを装備するなどで、紫電とは全く異なる
局地戦闘機して誕生したのが、紫電改で、初飛行は
1944年(昭和19年)1月。
最大時速620キロという性能は、アメリカ戦闘機に十分
対抗できる戦闘機だった。
「紫電改21型(N1K2-J)として量産に入るが、400機が
完成しただけで敗戦を迎えた。ゼロ戦を超す性能を持ち
ながら、僅か8ヶ月だけしか実戦配備されなかった。
紫電改は2,000馬力級の戦闘機(ゼロ戦は1,000馬力
級)で航続距離は約2,000キロで、ゼロ戦21型(3,500
㌔)の約半分しか飛べない局地戦闘機だったが、大戦
末期では制空権を失っており、敵機を迎撃するだけだった
から航続距離はこれで十分だった。
20ミリ機銃を4基、翼に装備していた。

紫電改展示館の紫電改は、1979年(昭和54年)7月、
愛媛県南宇和郡城辺町の久良湾からひきあげられたもの
(ダイバーが発見)で、機体を復元したものであり、日本で
現存する唯一機である。もう1機が米スミソニアン航空宇宙
博物館別館に展示されている。

自分は1980年頃家族と宇和島に帰省したとき、高速船
で「鹿の島」に渡り、船底がガラス張りの船で珊瑚礁や
熱帯魚を見たり、鹿や猿と遊んだりしたが、高速船の最終
便に乗り遅れ、対岸の御荘にわたり、タクシーで宇和島に
帰ることにした。運転手さんが引き上げられた戦闘機が
丘の公園にあると教えてくれたので見にいったが、それが
紫電改だった。その時は野ざらしのままだったが、その後
展示館ができたようだ。

後に三菱商事社長になった、近藤健男は東大航空学科を
卒業後、川西航空機に入り、紫電の設計主任菊原静男と
ともに紫電改開発に参加した。
戦後、近藤は協和交易特需部係長、ロスアンジェルス駐在
等を経て、三菱商事航空機電子機器部長、常務、副社長と
なり、昭和61年(1986年)社長に就任し、大手商社初の
技術畑出身の社長と言われたが、五ヶ月後,11月22日
に肝硬変で死亡した。64歳だった。岡崎出身。
商事顧問の元岡村海軍技術中将と共に、日本のロケット
事業発足に貢献した。

1945年(昭和20年)7月24日、九州の長崎大村基地を
発進した第343航空隊(最新鋭の紫電改によって
制空権を回復しようと、源田実大佐の構想で松山基地で
編成された)の紫電改、21機が豊後水道上空で、米機動
部隊艦載機、グラマンF6FやP51ムスタング、約200機と
交戦した。日本側は6機が未帰還となったが、引き上げれ
たのは、そのうちの1機と見られる。
この空戦の状況と引き上げの経緯が書かれた本がある。
「紫電改の6機」碇義朗著、光人社NF文庫、2004年
新装刊。又、NHK特集DVD「紫電改」がある。

四国土佐沖の敵機動部隊(英空母を含む8隻)から発進
した約500機の艦載機群は午前9時から10時ころの間に、
呉軍港地区の、主として停泊中の艦船を攻撃、少数機の
梯団に分かれて攻撃を終えた順に豊後水道をへて帰投
しつつあった。

この大敵を邀撃すべき任務を、源田指令ひきいる大村基地
の第343航空隊が担うことになったが、「剣」部隊として
さしも精鋭を誇ったこの部隊も、相次ぐ激戦で戦力を消耗し、
この日敵にぶつけられるのは、戦闘301,407,701の
3飛行隊それぞれの8機ずつの24機がすべてであった。
しかも、エンジン不調で発進取りやめや途中引き返しなど
3機あり空中にあるのは21機に減っていた。

豊後水道上空までは大村から約200キロ、巡航速度350
キロなら、編隊の空中集合時間を入れても、40分足らずで
到達してしまう。だが九州北部で編隊は地上からの指令に
よりしばし旋回を続けた。
指令を送る源田にはそれなりの計算があった。今日は500機
との情報が入っていたから、それが十数個の梯団にわかれ、
延々とつらなって豊後水道を南下することになるだろう。
それに差し向けるこのできるこちらの兵力は21機。この劣勢
の兵力で漫然と攻撃に入ろうものなら、たちまち優勢な
敵戦闘機群にとりかこまれ、なぶり殺しにあうのが関の山だ。
それで、後ろのほうの編隊にぶつけ、それも航続編隊の
戦闘機が駆けつけないうちに、サっと引き揚げさせる方法を
とらざるを得ない。九州東北部での旋回はいわば、攻撃の
タイミングをうかがう間合いをとるためのものだった。

10時をすこしまわったころ、司令からの指示で、編隊は会敵
空域に向け、別府湾を下に見ながら海上にでた。
今日の総指揮官鴛淵(おしぶち)孝大尉率いる701隊の
8機を先頭に、右翼が松村正二大尉の301隊、左翼が
光本卓夫大尉の407隊で、佐田岬を左に見ながら南に
旋回をはじめた時だった。ゴマツブを散らしたような無数の
黒点が目に飛び込んできた、米艦載機群に違いない。
高度差約3千メートル。30機あまりの編隊がわずかな
間隔をあけてぞくぞくとやって来る。

最右翼にいた松村大尉は、最右翼にいた関係で一番早く
敵を発見した。「敵発見 コチラ松村」に対し「直ちに攻撃せよ
コチラ 鴛淵」と返ってきた。すぐ増槽を落下。
敵は高度2千から3千メートルくらいで、戦爆連合の2,30機
の編隊がいくつも縦長に続いていた。
松村と武藤は1番手近な編隊に向かったので攻撃角度が深く
なりすぎ、オーバー・スピード気味だったので、まずい第1撃と
なった。幸い敵戦闘機は任務に忠実で、こちらの攻撃を邪魔
するだけで、反撃してこなかった。

鴛淵隊は先行している編隊との間が若干ひらいている、1編隊
に向かって狙いをつけた。じりじりと上方から近づき、殆ど真上
から、高度6千メートルからの後ろ上方急降下攻撃を開始。
これを合図に、701,407隊が突撃、たちまち激戦の渦を
巻き起こした。

このころになると、敵の編隊も乱れ、またそれまで上空援護の
任務についていた301隊も、近づいてきた敵の後続編隊に
攻撃し、またたくまに乱戦となってしまった。

松村大尉は、爆撃機編隊にくりかえし攻撃を加えたのち、海上
をはうようにして基地に帰ったが、ほとんどの機が単機もしくは
2,3機の小集団で帰着した。
帰ったものから順次指揮所で戦闘の模様と戦果を報告するが、
午前中にほぼその集計が出た。
F6F,F4U,SB2C合わせて16機に達することが分ったが、6人が
未帰還だった。敵があまりにも多すぎたので、編隊はばらばらに
なり、各機ごとに個別に戦場を離脱したため、この6人がどう
なったは、だれも見ていない。10時ちょっと過ぎに戦闘に入り、
10~15分の戦闘をやって、帰路は1時間もかからないから、
飛んでいたのはせいぜい2時間くらいだ。

その6機には、至宝鴛淵隊長、空の宮本武蔵として知られた
武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、今井進
一飛曹、溝口憲心一飛曹ら何れも歴戦の強者だった。
妻帯者は武藤だけ。

アメリカ側でこの日の戦闘について調査をしている、ヘンリー・
サカイダ(日系2世)の報告が紹介されている。
紫電改編隊が見たものは、延べ1700機にのぼる敵機の大群
の一部の200機であり、攻撃したのは主に空母「ヨークタウン」
の艦載機群だった。
太平洋戦争が終る前の数ヶ月間、アメリカの母艦パイロット達
は、大規模な空戦をやっていなかった。日本軍のベテラン・
パイロットの多くが、フイリピンや沖縄周辺での無謀な神風
攻撃で消耗してしまい、数が減っていたからだ。
1945年6月8日から7月10日までの間、米海軍パイロットの
撃墜報告はまったくない。日本戦闘機パイロットの技量は、
ともに渡り合えることができないほどに低下していたと一般に
信じられていた。

第88飛行隊は6月16日、空母ヨークタウン上で第9飛行隊と
交代したが、有名なクロメリン海軍五人兄弟の一人である
リカード・クロメリン少佐が隊長をしていたが、最初の日本
攻撃に向かう途上で、ヘルキャットと衝突して死ぬという悲劇
があった。そこで先任士官であるマルコム・ケーグル大尉が
代わって指揮官になった。

十分な戦闘訓練を受けながら、まだ実戦の機会に恵まれ
なかった第88戦闘中隊のパイロットたちが、彼らが予期した
以上に激しい二つの空戦を、残っていた日本の最強パイロット
たちと行ったことは皮肉なことだった。
その最初の空戦は、当時現存していた日本海軍最強の航空
部隊である精鋭343航空隊との間で行われた。
また皮肉なことに、第88戦闘隊は第2次大戦に置ける最後の
空戦を、8月15日に行った部隊であった。

7月24日午前8時、空母ヨークタウンから8機のF6Fグラマン・
ヘルキャットと4機のF4Uコルセアが発進した。各機は500ポンド
爆弾をつんでいた。8隻の空母から飛び立った数百機の攻撃隊
は、四国南岸から1万2千フイートの高度で進入しした。大編隊
は戦艦「長門」、軽巡「大淀」および「利根」ほか多くの小型艦艇
に目標を定めた。
第88戦闘中隊は「大淀」と「利根」に投弾した。
(この日の攻撃で日本側の艦艇の損害は「伊勢」「日向」「榛名」
の3戦艦のほか、「天城」「葛城」など空母6隻を含む大中小破
20隻にのぼり、ほかにも多数の船舶の被害もあった)。

任務を終えたヨークタウンの航空隊は豊後水道に直行した。
10時五分、343空とヨークタウン隊の接触は301隊が
アベンジャー雷撃機の編隊に遅れて飛んでいた2機のコルセア
を捕捉したときだった。
武藤金義少尉と僚機が後方からコルセアに迫る間に、松村大尉は
僚機をひきいてアベンジャー編隊の攻撃に向かった。

2機のコルセアのパイロットの一人、ロバート・アプルゲート中尉は
「我々は急いでスロットルを全開にした。これ等4機が我々に
向かってやってくるののを発見したとき、私と僚機のスペックマン
少尉は編隊に約1マイル遅れて飛んでいた。彼らは正確に我々を
捉えた。スペックマンが最初の攻撃で火の玉となって落ちていった。
いまやまったく独りぽっちになったアプルゲートにとって事態は最悪
に見えた。その時ケーグル大尉とネイヤー中尉がやってきた。

ケーグルは語る。「戦争末期には、日本にはもう我々とまともに
闘える航空戦力があるとは思っていなかった。神風攻撃は十分な
訓練をうけていない、飛ぶのがやっとというような未熟なパイロット
によって行われているというのが、我々の印象だった。そのうえ、
新しい日本の戦闘機にかんする情報は極めて乏しかった」
ジョージ(紫電改につけられたニックネーム)は2機のヘルキャットを
発見すると、直ちに高度をとり、交叉体系にある2機を捕捉する態勢
をとった。ネイヤーは一瞬のうちに視界から消えてしまった。
アプルゲート中尉は180度の急旋回で敵の2番機に対し、60度の
角度から射撃を開始した。射線がエンジンと操縦席付近に吸い込ま
れたかに見えた途端、このジョージは煙を吐き始め、横転し、垂直
に降下した。

1機のジョージに上方攻撃を加え、エンジンと操縦席の間に命中
させて撃破したケ-グルは、アプルゲートの後ろにとりついていた
ジョージを攻撃した。ケーグルの射弾が命中し尾部が吹っ飛んだ。
(筆者注・前の1機とこの1機のどちらかが、米田伸也、あるいは
今井進の乗機であった可能性が強い)
その時まだジョージが1機残っていて、アップルゲートに対し上方
攻撃を加え、切り返すと今度は10時の方向から射撃しながら
突っ込んできた。アップルゲートは500フイート以内に接近、弾丸
を撃ち尽くした。敵も同時に射撃を止めた。
アップルゲートは彼の射弾が機首付近に命中するのを見たが、
彼のエンジンにも数発当ったのを感じた。彼は操縦桿を前に倒して
衝突を回避したが、ジョージは10フイートまで接近して、彼の風防
グラスをきれいに吹飛ばし、横転して見えなくなった。
(サカイダ氏注・武藤少尉を落としたと思う。筆者注・米田も敵の顔
が見えるところまで近寄って撃つと知人に語っている)。
コルセアから黒煙が出はじめアプルゲートはパラシュートで機外に
脱出した。(翌日味方潜水艦によって救助された)。
まったく単機となったケーグルは何機かのジョージが彼にとどめ
を刺すべく攻撃してくるのに気づき、雲のなかに飛び込んで、帰艦
できた。

武藤少尉は30機以上の撃墜記録を持つ、日支事変以来の
ベテランで、1945年2月17日、紫電改に乗って、厚木上空で
単機出12機と交戦し、4機を落としたことで一躍有名になった。
武藤少尉はケーグルとアプルゲートとの小競り合いで戦死した
ものと思われる。彼はさらに1機落としたと考えられるがそれは
スペックマン機だろう。(サカイダ氏注・この敵機は非情に熟練し、
かつ勇敢だったとアプリゲートは語った)

驚くべきことは、武藤機か、あるいはこの戦闘に参加した別の1機
と考えられる「紫電改」が1979年、豊後水道沿岸120フイート
の海底から引き揚げられた。それは7月24日の空戦で未帰還と
なった6機の内の1機である。
海面に着水した飛行機にむけて、ボートを漕ぎだした日本の若者
がいた。不時着水時の完璧な操作も見た。パイロットはバンドを
つけたまま、シートに座っていたのが見えたという。
しかし1979年にダイバーが機体を発見したとき、操縦席は空
だった。ダイバーは風防の前の一部を叩き割って開けたが、遺体
は無く、誰が乗っていたか手がかりになるようなものは、何も
見当たらなかった。

サカイダ氏は残る3人についても彼の調査結果に基づく推論を
資料とともに筆者のもとに寄せてきた。
「鴛淵大尉と初島上飛曹の最後を、第49戦隊の空戦報告に
よって説明できる。ジョージ・ウイリアムス大尉と彼の列機
ジャック・ギブソン大尉は2機編隊の紫電改と遭遇、これを追撃
して撃墜したが、ウイリアムスが撃墜した紫電改は、大量の煙
を吐いていたと書かれている。
343空隊史によれば、鴛淵機はエンジンを撃たれて白煙を吐いた
ととあり、私の推論によれば、ウイリアムスは鴛淵を落とし、
ギブソンは初島を落としたと考えられる。

残る一人、溝口1飛曹についても、サカイダ氏は興味ある推論を
行っている。「第49戦闘中隊のウオルター・ヤンシー少尉の報告
によると、単機で飛んでいた紫電改を、豊後水道のもう一方の側
に撃墜したと言っている。これは407飛行隊でただ一人の戦死者
である溝口ではないか」

宮崎県側の門川町で、愛媛城辺町で機体があがる1年前に
エンジンがあがっており、この付近の海域に確認出来ない機体
が沈んでいると推定されている。

アプルゲート大尉が対戦したときの射弾の命中位置などから判断
して、城辺町の「紫電改」が、アプルゲートが撃墜した機体であろう
ことはほぼ間違いないだろう。

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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(6)

軍艦教授所開校後、落ち着くまもなく、下田奉行所から
江戸城に早馬の知らせが届いた。大型のアメリカ軍艦が
下田に入港したという。これによりアメリカ公使ハリスは、
断固強気な態度に転じた。ハリスは1年前から下田
玉泉寺に滞在し、下田奉行を通じて幕府との交渉を
続けてきた。だが、やり取りする手間に苛立ち、江戸に
出て直接老中に交渉したいと願い出ていた。

ハリスは江戸まで軍艦で乗り込むぞと脅しをかけてきた。
幕府は承諾を覚悟し、8月10日、岩瀬を観光丸で下田
に送り届けるよう、軍艦教授所に命令した。

矢田堀は講義を小野に任せ、岩瀬を乗せて下田に
向かった。下田湾の中央にアメリカの大型軍艦は投錨
していた。観光丸と同じ外輪船だ。
「ポータハン号です。以前浦賀に来たペリー艦隊の旗艦
だった船です」と佐々倉は言った。

ポータハンの艦上では、アメリカの士官や水夫たちが、
騒いでいるにが見えた。日本人が蒸気船を操船している
ことに驚いている様子だった。
「見ろ、効果絶大だ。これからの交渉に期待できる」と岩瀬。
矢田堀は速度を落とさず、ポータハン号に近づくと、軸先
すれすれのところで、外輪を逆転させて止め、錨を下ろした。
ポータハン号からは驚きの声に続いて、拍手と歓声が
上がり、派手な口笛が響いた。

岩瀬は満足そうに艀舟で上陸し、玉泉寺に向かった。
ハリスはポータハン号で江戸湾侵入を取りやめ、陸路で
江戸に出た。
老中掘田正睦と直接対面し、通商条約の調印に向かうと
いう合意に達した。以降ハリスは岩瀬と条約の細部を詰め
始めた。

日米通商条約が12月に調印の見込みとなった。
しかし、ちまたには尊皇攘夷の声が高まるばかりで、多くの
大名が調印反対を表明した。幕府はこの反対派を抑える
ために、林大学頭を京都に差し向けた。
大学頭が直接天皇に世界情勢を進講し、調印の許可を
得ようという目論見だった。勅許を得ることで、反対する
根拠を潰そうとした。幕府は政治権力を握っていたのだから
勅許など必要とせず、開港政策を直接実行できた筈なのに、
このような行動をとったことは解せない。

朝廷のかたくなさは、予想をはるかに越えていた。大学頭
は進講の機会も与えられず、都から追い払われたように
江戸に帰された。

年が明けた安政五年正月21日、今度は老中堀田正睦が
岩瀬を伴って朝廷説得のため上洛した。

この間、ハリスは下田に戻ることになり、矢田堀が観光丸で
送り届けた。ハリスの通詞であるヒュースケンは、オランダ語
が堪能で、矢田堀や士官たちとオランダ語で会話した。
ハリスもヒュースケンも自国の利益の主張は強硬だが、人柄
は明るく誠実だった。二人は矢田堀の操船技術を褒め、岩瀬
の外交交渉術を絶賛した。岩瀬の理詰めの弁舌は、アメリカ人
も高く評価するところだった。
だがその岩瀬の交渉術が京都ではまったく通用しなかった。
岩瀬は御所に上がることさえ許されない。単なる目付けの
分際でとんでもないというのだった。老中の堀田が世界情勢
を語ろうとしても、天皇も公家たちも聞く耳を持たなかった。
反対派の論調が、勅許のない条約など認めないという方向に
変わり、尊皇攘夷論に拍車がかかった。

この頃、13代将軍家定の後継者問題が起きていた。この
問題が開港、攘夷、尊皇、大名と公家の無知とからんで
幕末史を大変判らなくしている。

家定は元来病弱で、子にも恵まれなかった。さらに病が篤く
なったことから、14代将軍の擁立が急がれた。大名や
幕臣の意見は2分した。
紀州徳川家からの後継者を望む者は、紀伊派と呼ばれた。
水戸徳川家の一ツ橋慶喜を押す勢力は水戸派と呼ばれ、
両者は激しく対立した。
水戸派の中心人物は、慶喜の実父の徳川斉昭だった。
ここに薩摩藩など、幕府の貿易独占に反対する有力大名
が結びついた。

紀伊派の中心は、彦根藩主で、開国派の主導者でもある
井伊直弼だった。当然、将軍後継者問題は、開国派と
攘夷派の対立とも重なった。
本来、岩瀬は開国派の紀伊派だった。だが朝廷工作に失敗
してから、水戸派に転じた。斉昭の正妻は有栖川宮家から
嫁いで、慶喜を生んだ。そのため慶喜自身、有栖川の外孫
という意識が高い。心情的にも公家に近いものがあり、公家
たちからの評価も高かった。

岩瀬は、まず慶喜を将軍職に押し上げようとした。公家は
説得できなくても、優秀な慶喜ならば、開国やむなしという
状況を理解させる自信があったのだ。そこから、公家、朝廷
へと駒を進める計画だった。

しかし岩瀬の目論見はふたたび裏目にでた。4月23日、現
将軍家定の直々の命により、紀伊派の井伊直弼が大老に
就任したのだ。一ツ橋派は完敗となった。これまでは、政策は
老中の合議によって決定していたが、最終決定は大老が
握ることになり、又、大老の独裁の元となった。

井伊大老は勅許にこだわり、ハリスに調印延期を言い渡した。
6月17日アメリカの大型軍艦が来日、江戸湾に進み小柴沖
に投錨した。小柴沖とは神奈川沖に近い海域。
そのミシシッピー号は香港から来航し、ハリスに清国の最新
情報をもたらした。
イギリスはフランスと組んで総攻撃をかけ、天津を陥落させた
という。清朝は天津条約という敗戦条約を受け入れた。
これにより手の空いたイギルス海軍が、大艦隊を江戸に送り
幕府に通商条約締結を迫るという。
第2次アヘン戦争の指揮をとったエルギン卿が、対日本交渉
の全権もつとめるというものだった。
ハリスはこの情報を早飛脚で江戸城に送った。そしてイギリス
艦隊来航前に今すぐアメリカと通商条約を結ぶべきだと強く
勧めた。

イギリス艦隊40隻来航の予告が届いてから御大老も御老中
も大慌てだが、いまだに結論が出ずハリスに返事がだせない。

観光丸が岩瀬、木村、矢田堀をのせて小柴沖に着いた。船は
ミシシッピー号ではなく、昨年と同じポータハン号だった。
その軍艦から短艇が出て、ハリスとヒュースケンが甲板に
上ってきた。
アメリカはペリー艦隊来航の際、幕府に戦争をしかけることも
可能だった。そして一挙に通商条約締結までもっていけばすむ
ことだった。だがアメリカは人道主義を守り、今日まで調印を
待ったのだという。自分はたったひとりで交渉している。ひとり
と交渉するのと、40隻の軍艦を相手に交渉するのと、どちらが
得策かとハリスは言う。
岩瀬は「アメリカと通商条約を結べば、後でイギリスが難題を
押し付けようとした時にも、アメリカは日本の味方につてくれる
のですね」と確かめた。ハリスは通商条約をむすべば同盟国
となり、手助けできると応えた。岩瀬はそれを書付にして欲しい
と伝えた。すぐさまヒュースケンが仲介斡旋の約束を文章化し、
ハリスが署名した。

矢田堀は岩瀬に今が通商条約をむすぶ最大の好機ということ
は確かだと答えた。
岩瀬は「ひとつ考えがある。調印はポータハン号で行うが、
その後の批准書はアメリカで交換しようと思う。幕府使節団
をアメリカに派遣することになる。アメリカ軍艦に乗船を頼めば
ハリスは快く承諾してくれるだろう」と言う。

榎本は先月、1期生の残留組や2期生とともに江戸に帰って
きた。軍艦教授所の生徒が500人を超え、教授方の多忙が
頂点に達した。そのため長崎伝習所に、成績優秀者の江戸
帰府を促し、新たな教授方として迎えたのだ。ただ勝だけは
長崎残留を希望した。矢田堀の下風に立つのを嫌がった。

1858年7月29日(安政五年6月19日)調印をする岩瀬や
井上を乗せた番船が観光丸にやっとやってきた。
矢田堀が聞いた「御大老が調印を許したのか」。岩瀬は
「今も調印引き延ばしを命じられてはいる。だが井上が言質
を取った。どうしてもハリスが納得しなければ、調印も
やむなしと、しかし御大老は納得はしていない。当然感情的
なしこりは残るだろう。それに調印によって、尊皇攘夷の声は
さらに高まるだろう。だが勅許など待っていたら、機を逸する」
「何が攘夷だ。大名も公家も、威勢のいいことばかり口に
しおって、日本でアヘン戦争を起したいのか」

真夜中の12時少し前、ポータハン号のまじかに、錨をなげる
ことが出来た。岩瀬たちは、ポータハンに乗り移り、日米修好
通商条約に調印した。
批准書の交換場所は首都ワシントンと決まった。そしてハリス
はアメリカ軍艦での幕府使節団送迎を快諾した。

ポータハン号が香港に日米通商条約締結の情報を伝え、日本
がアメリカの後ろ盾を得たことにより、イギリスが大艦隊を送る
可能性は消えた。

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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(5)

矢田堀が長崎で海軍伝習をうけていた間に、岩瀬は
海防目付けとして、アメリカ公使、タウンゼント・ハリスを
迎えていた。ハリスは、薪水の供給を定めた和親条約
から一歩進んで、貿易を始めるための通商条約の調印
を幕府に強く求めていた。

だが攘夷論が高まり、通商条約の締結をはばんでいた。
外国人を打ち払えという風潮は、ペリー来航から
始まった。 ペリーは二度にわたって、浦賀に来航した。
二度とも、ちょうど矢田堀が甲府微典館に赴任していた
1年間のできごとだった。

1度目は浦賀奉行が対応し、アメリカ大統領からの書簡
を受け取った。2度目は幕府も一応の準備を整え、諸藩に
たいして江戸湾沿岸への布陣を命じた。
1方で幕府は、ペリーの交渉掛を林大学頭に命じた。
長い間、昌平黌の裏の顔だった外交担当が、初めて
表に出たのだった。大学頭は幕府全権として、ペリーと
交渉した。

ペリーの要求は通商の開始だったが、大学頭はこれを
拒絶した。そして函館、下田、長崎の3港で、アメリカ船に
真水と薪を供給することを約束した。
だが大学頭が交渉を始めるにあたって、幕府はアメリカ側
を刺激しないようにと、諸藩に兵の撤退を命じていた。
ちょうど諸藩では士気が最高潮に達していた時だった。
そこに日米和親条約締結が知らされ、不満が一気に
噴出した。(薩摩、鍋島、宇和島藩主が蒸気船軍艦を、
それぞれ自力で建造することを話しあったのは、この時
だった)。

外交は林家と昌平黌から、海防目付の手に移った。しかし
知識の無い者が、外交にかかわることは出来ない。そんな
経緯もあって、岩瀬をはじめとする昌平黌の卒業生が、
海防目付や外交分野に出ていった。

タウンゼント・ハリスが下田にやって来たのは、昨年、
安政3年8月のことだった。オランダ語の通詞を一人連れた
だけで来日し、以来、下田の玉泉寺に滞在して、通商条約
締結を求め続けた。

岩瀬は矢田堀と永井に語った。「私はハリスの要求を、
できるだけ早く受け入れたいと思う。だが頭のかたい連中
は日本には外国から買い入れるものも、外国に売るものは
ないの一点張りだ」
しかし現実には幕府も諸藩も、軍艦や最新式の鉄砲を
買い入れなばならない。大きな買い物だけに、オランダ以外
の西洋諸国と通商条約を結んで、価格を競わせる必要が
あった。

永井は言う。「九州の有力大名は、内心は通商開始に賛成
だ。長崎貿易がどれほどの利を生んできたかを、充分に
知っている。ただ外国と通商を始めるのなら、幕府にだけ、
その利を独占させてなるかと思っているだけだ」
長崎海軍伝習所に50名もの伝習生を送り込んだ佐賀藩は
すでに蒸気船を1隻、オランダに発注している。それだけの
買い物が出来たのは「伊万里」とよぶ質の高い陶磁器を
生産し、それをオランダに輸出して、莫大な利益を得てきた
からだった。
薩摩藩も琉球を通じて、中国と密貿易を続けて大儲けを
してきた。
永井の言葉に矢田堀も賛同した。「諸大名の考えも、もっとも
です。諸藩も貿易の利を得て、それを用いて海の守りを
固めるべきだ」。 岩瀬は「しかし藩士たちは、そこまで考え
が至らない。尊皇攘夷などと感情論を口にするばかりだ」。

尊皇攘夷という思想は、水戸藩から広まった。水戸藩は国学
を重んじ、漢学の昌平黌にたいして以前から反感を抱いて
いた。特に前藩主の徳川斉昭は、林大学頭や海防目付けの
岩瀬に対し、任せておけないと、幕府の海防掛を買ってでた。
だがペリー来航時の具体策は、返事を引き延ばすだけの
「ぶらかし術」だった。
また浦賀奉行所や薩摩藩では、いち早く洋式造船に着手した
のに対抗し、水戸藩も隅田川河口の石川島で、大型洋式
帆船を造った。しかし着水に失敗して、船体を横転させて
しまった。  その上、なかなか元に戻せず、隅田川河口で
40日間も惨めな姿をさらし、「厄介丸」と呼ばれてしまった。
岩瀬は「それでいて攘夷,攘夷と威勢だけはいい。水戸は
船だけでなく、藩そのものも厄介な藩だ」

攘夷とは外国との戦争を意味する。今の軍備で開戦に
至れば、阿片戦争の二の舞は必至だった。
「大事なのは海の備えを背景にして外交交渉にあたることだ。
これほどの短期間で、日本人がまがりなりにも洋式海軍を
創設したと分れば、諸外国は日本の潜在的な力に気づく。
幕府は内外からの侮りをはね返せるはずだ。
できるだけ早い時期に、各国と通商条約を結ぶ。そして軍艦
を大々的に買い入れる。国産の洋式造船も始める。矢田堀
は江戸湾を守りつつ、その乗員を育ててくれ」と言う。

すぐに新しい海軍学校の開校準備に入った。名称は「軍艦
教授所」と決まり、4月にいると、さっそく生徒募集を告知した。
幕臣子弟を募り、また諸藩の推挙があれば、藩士の入学も
認めることにした。

1年前から築地の海沿いに、講武所という幕府の武芸演習所
が開かれていた。とりあえず軍艦教授所はその一角を借りて
開校することになった。しかし現地に行ってみると、用意されて
いた建物は水練のため着替えする座敷一つだった。
永井は講武所側に広い場所が必要だと掛け合った。だが
軍艦の稽古をするのにどうして部屋が必要なのかとはねつけ
られた。座学の必要性が理解されなかった。
もともと講武所は洋式陸軍の訓練所として計画された。西洋
砲術や歩兵の訓練が行われるはずだった。しかしできた施設
は、弓矢や槍、剣術、柔術といった道場の集まりになっていた。

安政4年五月9日、矢田堀は教授方頭取を拝命した。永井が
総督、佐々倉桐太郎や小野友五郎など士官8人が教授方、
そして鉄砲方だった8人が教授方手伝いになった。
講義と実技の時間割は、数学、測量、造船、蒸気機関、船具
運用、帆前調練、海上砲術など長崎伝習所に準じた。
特に数学と測量には時間を割き、矢田堀と小野の二人が担当
することにした。

7月19日に開校してみると、たちまち300人もの生徒が
集まった。そのため、とうてい場所が足りず、講武所の道場を
一部閉鎖させ、なんとか建物を確保した。

矢田堀は長崎と同じように、公式な授業のほかに、数学塾を
設けた。夜間教授所の座敷をかりて、希望者を集めて補講を
したのだ。できるだけ大勢の面倒をみるために、小野と別々の
塾を開いた。

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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(4)

安政4年3月4日に長崎を出て、観光丸は玄界灘、関門
海峡、瀬戸内海、大阪湾と順調に進んできた。そして
紀伊半島をぐるりとまわり、10日前に、志摩半島突端の
安乗という港に入った。
安乗で1日風待ちをしてから、いったん出航したものの、
逆風に変わり、波も高まったことから、再び伊勢の鳥羽
に戻った。それから8日間も風待ちを余儀なくされている。

永井尚志は蒸気を焚いて走ればよいではないか。何の
ために蒸気機関がついているのだと苛立つ。
矢田堀は「ここが長崎の近くなら、私は迷わず蒸気機関
を焚きます。ここから先は遠州灘なので、無理は
できません」という。
遠州灘はまっすぐな海岸線が続き、入港できる港がない。
ここで判断を誤って、沖に流され帰ってこなかった和船は
数知れない。大阪・江戸間の最大の難所だった。
「今の我々の力量では、石炭の補給場所もないところで
蒸気機関は焚けません。石炭は万一に備えて、とって
おくべきです」と矢田堀。

「私の伝習は僅か1年半です。でも水夫は自分の経験だけ
でなく、古代からの先祖伝来の口伝を持っています。
彼らは長い経験をもとに風を読みます」。
水夫には長崎出身の火夫もいるが、殆どは瀬戸内海の
塩飽(しあく)という島々の出で、もともと和船の船乗りを
していた。
塩飽は瀬戸内海でもっとも狭い海域に位置する諸島だ。
古代から塩飽の人々は水先案内をつとめて生きてきた。
戦国時代には水軍として戦い、織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康に味方し、彼らを勝利に導いた。
九州や四国の大名たちは、ここを通過できなければ、
軍勢を上方に送れず、勝敗の鍵を握る島だったのだ。
幕府は塩飽の島民に特権を与え、ここを無税の直轄地
とした。島民は回船業をつづけ、船の技術も保ちつづけた。

近年その技術に着目したのが、浦賀奉行所だった。
番船の漕ぎ手や、洋式帆船の乗り手として、塩飽から
船乗りを徴用したのだ。
矢田堀たちが、最初に江戸から長崎に向かった際に、
佐々倉桐太郎の下で、昌平丸を動かしたのも塩飽の水夫
だった。
彼らは独特の勘で風を読む。水夫たちの天候予測は、
オランダ人も高く評価する技術だった。

その後、佐々倉がまもなく西風が吹くそうです。水夫全員
戻りましたと言って来た。観光丸は即刻鳥羽出航となった。
春の海を、観光丸は快速で進み、その日のうちに遠州灘
を越え、駿河湾口を渡り、下田に入港した。8日間の遅れは
たちどころに取り戻していた。
観光丸は」下田を出てから、いったん浦賀に寄航し、3月
26日夕方品川沖に錨を下ろした。全工程23日。昌平丸で
江戸から長崎に向かったときの約半分だった。
夕凪の江戸前の海は、幾艘もの千石船が帆を降ろして
停泊し、小船が船着き場との間を、せわしなく行き来していた。

浜御殿から出てきた幕府の番船に岩瀬忠震の姿があった。
番船が観光丸に接舷するなり、岩瀬は縄はしごで甲板に
上がり、まっさきに矢田堀の両腕をたたいた。
「よくやったな、1年半の伝習で、よくぞ日本人だけで、蒸気船
を長崎から回航した」と細面の顔を紅潮させていた。

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米第7艦隊バンドと東京交響楽団

昨年は遅くなって予約がとれなかったが、今年は注意
していたので、7月5日、18時からの予約受付開始に、
すぐネットで申し込んで空いていた2階席前列の席を
確保した。コンビニ決済をやってみることにした。

9月20日(日)15時から、於 横須賀芸術劇場
ガーシュインの傑作、ラプソデイ・イン・ブルーを二通り
で演奏する。
1.ジャズ・バージョンを第7艦隊バンドがオリジナルに
近い編曲で演奏。
2.オーケストラ・バージョンを米バンドと東京交響楽団
とピアノ、江口玲の共演

もちろん米バンドのスペシアル・パーフォーマンスや
マーチ集もある。

チケットは5,000円、宅配料500円、オペラ型劇場は
京急汐入下車、駅前エスカレーターで直ぐ。 
劇場に行くのは今回で2回目となる。事前に登録番号を
入手してないと予約できない。

請求書を送ってきたので、フアミリ・マートで決済した。
銀行口座振込みや郵便振替よりずっと楽。

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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(3)

○註 オランダ語
系統的にはインド・ヨーロッパ語族に属し、ドイツ語や
英語と同じ「ゲルマン諸語」の仲間だ。特にドイツ語とは
非常にに似ており、同じ一つの言語の方言同士と言って
いいくらいである。但しドイツ語の名詞では、男性・女性・
中性という三つの性が区別されるのに、オランダ語では
男性と女性が合流した「共生」と中性の二つしかない。
主語や目的語など名詞の文法的働きに応じた語形変化
がないこと、人称・数・時制などによる動詞の語形変化が
ドイツ語より単純なことなど、ドイツ語よりも英語に近い
側面もある。
有難うはDank u.彼はビールを飲むはドイツ語だと、
Er trinkt Bier.,オランダ語ではHij drinkt bier.(ヘイ・
ドリンクト・ビール)になる。ijは「エイ」と発音する。
またgは「へー」と発音される。画家Goghはオランダ語では
「ホーホ」と発音。私はIkだ。
自分は全日空がオランダのフオッカー社から25機の双発
ターボプロップ機、フレンドシップ(60人乗り)を購入した
さい、一時アムステルダムに出張し、その際オランダ語を
独習したことがある。

それからまもなく、矢田堀は勝とともに、永井総督の役宅
に呼ばれた。「新しく入港した中国船の話では、広州で
アロー号という船をめぐり、イギリスとの間に騒ぎが起きた
そうだ。ふたたび阿片戦争が繰り返されしそうな勢いらしい」
15年前に阿片戦争が終結して以来、イギリス商船がほぼ
公然と阿片を持ち込むようになった。清国内に反英感情が
高まり、攘夷論が盛んになる一方だった。特に広州では
阿片密輸が目にあまり、アロー号という香港船籍のイギリス
船が海賊容疑で拿捕された。イギリスがこれに抗議して
武力衝突が起きたという。

永井は「清王朝が攘夷論を押さえ切れないと、再び大きな
戦争に発展するだろう」。 攘夷論も他人事でなかった。
攘夷という概念が日本にもたらされ、またたくまに流行して
いた。これは日本に飛び火するかもしれない対岸の火事
なのだ。 永井は「幕府はアロー号事件を重く見て、1日
も早く、江戸湾に蒸気軍艦を配備したい意向だ。何とか
海軍術の習得を急いでくれ。 来年3月(1857年)には、
私は江戸に帰る。その時成績優秀者を選んで、江戸に
連れて帰る。そのつもりでいてくれ」と言った。
「来年3月といえばあと半年もない。ライケンの予定では
あと、1年はかかります」と矢田堀は言ったが聞き入れられ
なかった。

永井はさらに「私の後任は木村喜穀に決まった」と言う。
矢田堀が長崎に赴任した時、木村は海防目付けに抜擢
されていた。さらに永井の後釜になると栄転だ。
さらに、永井は「永持本人の希望もあり、病気(気鬱)
なので奉行所に戻すことにした」という。

安政4年(1857年)の正月が明け、伝習は休みに入った
が、矢田堀は従者たちと、蘭書の筆写をしていた。
江戸帰還まで3ヶ月を切った。講義を習い終えそうにない。
そのため、ライケンから蘭書を借り、習ってない部分を、
手分けして書き写し始めた。江戸にかえってから翻訳する
つもりだった。

江戸の老中から正式な辞令が届いた。矢田堀以下、1期生
のうち優秀者は、2月中に伝習を終え、練習艦の観光丸を
江戸に回航しろという。そして江戸で日本人だけの海軍学校
を開校せよというのだ。アロー号事件を重く見た結果だった。
矢田堀にはいまだ艦長としての確固たる自信があるわけ
ではない。それでも江戸までの航海は、なんとしても、成功
させねばならなかった。
観光丸の乗員は、帆前方士官の佐々倉桐太郎はじめ、各
専門分野で好成績を残した士官16人と、優秀な水夫や
火夫を選抜した。

今、長崎湾の対岸には、オランダ人技術者の力を借りて、
洋式造船所の建設を進めている。永持は元気を取り戻し
奉行所勤務に戻り、造船所の建設計画にかかわっていた。
船の整備点検のため、長崎に将来来航することが予想
された。

一方、勝は鉄砲組みを率いて陸路で江戸に戻るように命じ
られた。老中たちは勝に陸軍の砲術指導を期待していた
のだ。しかし、永井の判断により勝は残留に変更された。
勝はオランダ人との仲立ちができるし、力が発揮できるはず
だった。勝自身も残留を望んだ。江戸で矢田堀と競い合う
ことを避けたのだ。佐々倉桐太郎との仲も険悪で、水夫たち
も勝に反感を抱いている。勝にはうるさい連中がいなくなる
のは、むしろ好都合だった。

ペルス・ライケンは当初、矢田堀たちの卒業を時期尚早とし、
江戸までの日本人だけの航海も危険すぎると反対した。
だが江戸からの命令を覆せないと知ると、矢田堀に艦長
としての心得を説いた。日本人が海軍創設にあせる心情も
理解するが、航海には焦りは禁物だという。艦長は大勢の
命をあずかる立場だということを、けっして、忘れてはならず、
乗員ひとりひとりの力を最大限に生かせと語った。
矢田堀は改めてライケンの人柄にうたれた。
矢田堀は艦長が務まるのか不安を口にした。
ライケンは「矢田堀の努力は部下も見ており、尊敬される
素地は充分にある。これから日本人だけで船を動かして
いけば、矢田堀の実力が発揮されるはずだ」と言った。
「、又軍艦の艦長は外交官であり、その点、矢田堀の資質に
太鼓判を押した。海外事情に通じているし、西洋人に
対等につきあっていかれる。矢田堀なら心配ない」と。
自分にとってライケンが、岩瀬忠震につぐ師であることを
感じた。

また、長崎奉行所に勤めていた、お芳とつきあうようになって、
1子をもうけていた。

安政4年3月4日朝(1857年)矢田堀は観光丸を出航
させた。湾内で素早く外輪を逆転させ、前進後退を繰り
返して見せた。美しい長崎湾を出て、北に進路を向けた。
追い風に恵まれ、燃料の消費をおさえるために、蒸気機関
は止めて、帆走に切り替えた。
観光丸は快速で九州沿岸を北上した。それは日本人に
よる初めての蒸気船航海であり、幕府海軍の船出であった。


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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(2)

ル・フラウエンと言う大男の教官が観光丸の艦上で砲術
指導をしているときだった。伝習生全員を大砲の回りに
集め、発射手順と火薬の量の説明をした。
甲板には百人以上がひしめきあっていた。水夫以外の
幕府伝習生が50人近く、佐賀藩からもやはり50人が
参加していた。佐賀藩は長崎に隣接し、昔から長崎港
の海防を担ってきた。そのため幕府同様、蒸気軍艦を
オランダに発注しており、その乗員育成のために、特別に
伝習の参加が認められていた。
だが百人もいては後ろのほうは発射の手順さえ見えない。
その上説明も理解できない。あちこちから不平の声がもれ、
険悪な雰囲気が漂い始めた。

その時、勝麟太郎という男が前に出て、大砲の傍らに
立った。勝は矢田堀より6歳上の33歳だが、矢田堀と
同役の生徒監で、蘭学者でもあり、西洋砲術家でもある。
勝は大声で砲術の説明を始めた。
「火薬は毛織物の布にくるんで、砲口から砲身の中に
いれるのだ。日本では毛織物は手に入れにくいから、
絹織物で代用してもよい。火薬を入れるときに、砲身の
根本にある小さなこの釘みてえなものを突っ込む。釘の
中にに発火薬が仕込まれている。それでねらいをさだめ
たらこっちの金槌でたたくんだ。そうするとドカンと発射
される仕組みだ」
一番前で佐々倉桐太郎という浦賀与力が「それで標的
までの距離と、火薬の量の関係はどうなっているんです。
フラウエン先生は、今その計算の仕方について、説明
されたんじゃねえんですか」

勝麟太郎は一介の御家人だったが、幕府の意見募集に
たいし建白書を出していた。 勝は矢田堀より6才年上。
「これからの日本は海軍である。そのため軍艦が必要で
ある。さらに軍艦を操縦できる士官の養成が必要である」。
開明的な前出、岩瀬忠震、大久保忠寛に認められ、安政
2年1月翻訳御用という役に起用されていた。
勝はオランダ語の熟達者と言われていたため、西洋の
書物を片端から訳して、日本に紹介するという役目だった。
いろんな案をだすのが得意だったが、なかでも、海軍士官
の養成に海軍伝習所を作って欲しいと熱心にくりかえした。
当時の筆頭老中が開明的で人のいうことをよく聞く、阿部
正弘だったこともあって、「よかろう」ということになった。
阿部さんはこの時、勝にこう訓示した。「皆が一時の功を
争い、自分ひとりの名誉を考えたりすることがあっては
ならない。すべては国のため、この日本国のために働いて
もらいたい」と。勝は幕臣という意識から離れ、日本という
大きな立場からものを考えるようになったのも、この時から
である。

佐々倉は矢田堀や榎本同様上背があり、体格もがっしり
している。眉毛が濃く、浦賀の海の男らしく日焼けして、
りりしい顔立ちだ。
勝は平然として応えた。「それは経験をつめば、おのずから
分ってくるものだ。どのくらい離れていたら、どのくらいの量
が丁度いいか分るようになる」。
佐々倉は鼻で笑った。「そりゃ勝先生のお説でしょう。
フラウエン先生は標的までの距離を測って、火薬の分量を
きちんと割り出して計れといわれてるんじゃねえんですか」。
浦賀奉行所では、ペリー来航以前から西洋砲術を取り
入れてきた。それだけにオランダ語でも、おおむね見当が
つくのだ。そのうえ洋式造船と操船の実績もあった。
幕府は長い間、武家諸法度で、武家が500石以上の
大型船を持つことを禁じてきた。当然洋式造船も厳禁だった。
だがペリー来航により、急遽その禁を解いた。その結果、
浦賀奉行所が鳳凰丸という船を、薩摩藩が昌平丸を競う
ように造った。どちらも3本帆柱の洋式帆船だ。薩摩藩は
完成した昌平丸を幕府に献上した。それを佐々倉以下、
浦賀奉行所の与力同心9人と、20人もの水夫たちが操船、
矢田堀たち伝習生一行を乗せて、江戸から長崎まで48日
間かけて運んだののだ。

佐々倉は鳳凰丸や昌平丸の艦長をつとめただけあって、
勝など何者ぞという自信を持っている。だが勝は負けじと
言い返した。「敵の前でいちいち計算したり、はかりを
使ったりしてられねー。砲術は勘が大事なんだ」。
「その程度なら、砲術をやった者なら、もう誰でも、やっている
ことじゃねんですか。
勝先生は、ズーフハルマを2度も写されたって話だが、どうも
オランダ語はさほどわかっておいでじゃねーみていだし、
たいしたことはねーなあ」
「なんだとー」勝がむっとした。
ズーフハルマとは3千ページに及ぶ蘭和辞典だ。それを勝が
若いころ、2部写本したという自慢話を江戸からの船旅の間に
聞かされなかった者はいない。しかし長崎について、
オランダ人に会ってみると、勝のオランダ語は通じなかった。
読み書きは得意でも、発音がまずく、会話が成り立たない。

佐々倉がさらに言う。「勝先生の講義をありがたがって聞く
のは、古流の砲術しかしらねー鉄砲方のやつらくいでしょうな」
今度は江戸の鉄砲方からきた与力が目をむいた。
「なんだとー」西洋砲術の浦賀奉行所と江戸の鉄砲かたとでは
流派の違いによる反目が前々からある。勝と佐々倉の言合いが
そちらに飛び火した。このため乱闘が始まった。
その時フラウエンがピストルを発射、騒ぎは一瞬で収まった。
フラウエンはオランダ語でまくしたて始めた。通詞は訳どころ
ではない。観光丸から出て行けと命じているのだ。
あらかた伝習生が退船すると、矢田堀はフラウエンに無礼を
詫びた。フラウエンは気さくな笑顔で「士官や水夫の喧嘩など、
よくあることだ」と笑い飛ばした。

西洋砲術は訳語があるだけまだいい。だが蒸気機関や軍艦に
関するすべての専門用語に訳語をあてはめるとなると、とてつも
ない時間と労力が予想された。とにかくオランダ語が理解でねば
どうにもならない。
矢田堀は基礎的な単語と船の専門用語を次々と頭にたたき
込みはじめた。さらにオランダ語に並んで難関だったのが、数学
だった。教官長のペレス・ライケンが、これは航海術の基本だと
アラビア数字から教えた。
日本人は計算に算盤を使い、出た答えを帳面につける。一方
西洋数学はアラビア数字を使って、紙の上で筆算する。
だが筆算自体だれひとり経験がなかった。まして武士階級は
算術を商人の金勘定といやしんで算盤さえ手にしたがらない。

矢田堀はアラビア数字を覚え込むと、自分でも計算問題をつくり、
従者たち(榎本も含む、今も伝習生として認められない)とともに
筆算を繰り返した。それは意外に楽しい稽古だった。オランダ語
がわからなくても、数式が読めれば答えがだせる。そして答えが
一つしかないという点も、矢田堀の性格に合っていた。
だが計算を嫌って数学の授業に出てこない伝習生が増え
始めた。勝も計算が不得手だった。アラビア数字を覚えるのに
手間取り、足し算や引き算もとてつもなく時間がかかる。

観光丸の機関部は船底中央部にあり6畳間二間ぶんほどもある
巨大な罐が収まっている。火室の焚き口扉が六つあり、それぞれ
の扉の前に日本人の火夫が一人ずつ立って、スコップという
道具で石炭をくべていた。やり方が悪いとオランダ人火夫の
スホットマンスという火夫に怒鳴られた。
オランダ語の習得は、伝習生にとっての大きな課題だったが、
特に機械類は日本語の名前がなくて理解しにくく、オランダ教官
も苛立つ。
矢田堀は役宅で、最低限覚えるべき、機械各部や計器のオランダ
名を片仮名で書き出し、士官候補生と水夫に回して書き写させた。
同時に自分の従者たちには、機関部の仕組みを教えた。
巨大な罐を沸騰させるには数時間を要する。出航する際には、
あらかじめ火室に火をいれ、罐の水を温めておく。
石炭は長崎湾口近くの高島や端島で昔から産出されていた。

生徒監や士官候補生には、オランダ語、操船、機関、数学のほか
国際法から手旗信号まで覚えることは限りなかった。それでも
矢田堀は昼間の授業中に確実に記憶した。そうしなければ、役宅
に帰ってから、従者たちに教えることが出来ない。その意気込みが
ほかの伝習生とは違った。

梅雨が明け、いよいよ航海実習が始まった。実習は長崎港から
出て外海を航行する。
陸上の座学では、いっそう人数が減ってしまった数学の授業に、
矢田堀の従者たちの出席が認められた。すると、たちまち榎本が
好成績を収め、その能力はライケンの目にも止まった。そして
彼の推挙もあり、従者たちは員外の聴講生として、すべての授業
に出席できることになった。従者たちはそれぞれ専門職を選ぶ
ことになった。榎本は数学が出来たので充分に測量方として
やっていける力を持っていた。測量方は船の現在地を算出する
役目だ。だが榎本は機械の仕組みが面白いと言って蒸気方を
希望した。榎本はオランダ人の指導を受け、機械操作を確実に
覚えていった。

基礎的な筆算が、一通り終わり、ペレス・ライケンによる
航海術が始まった。西洋の航海術は、緯度経度を数字で、確実
に割り出す。但し数学が必要でふたたび通詞が役にたたなく
なった。落後者は増えるばかりだ。とうとう勝も顔を出さなくなった。
さすがに勝はオランダ語の上達がだれよりも速かった、会話に
不自由なくなった。総督の永井とオランダ人との橋渡しもできる
ようになり、それが自分の役目だと割り切り、数学を諦めて
しまった。
だが航海術が出来なければ艦長は務まらない。
伝習生の中に幕府天文方から派遣されていた3人の手代が
いた。彼らは和算に通じており、飲み込みが速かった。特に
小野友五郎という笠間藩士は優秀な和算家だった。
矢田堀は夜、役宅に呼んだ。するとその日の授業の道具について
説明を始めた。「あれは六分儀というもので、天文方でも使って
います。角度を測る道具です」。
海上では六分儀を垂直に持って、太陽が真南に来る時に、
水平線から太陽までの高さを測る。この高さをもとにすれば、
現在位置の緯度が割り出せるという。小野は経度の測り方も
おおむね把握していた。「先生はクロノメートルという時計を見せ
ましたね。外洋に出たときあの時計で経度を測るのだと思います」
地球は1日で一回転する。時計は2回転する。だから正確な時計
を使えば、出発地点の経度からどれほど離れたか分るのだと
言う。だがどんな時計でも狂いは生ずる。それを補正するため、
六分儀で水平線から月や星までの高度を計ったり、複雑な計算
をするのです。
矢田堀は「オランダ語の講義でよくそこまで理解できたな」と
言うと小野は「六分儀は測量でよく使っていました。ただ時計の
補正など複雑な算出方法になると、私にもわかりません」と言った。
矢田堀は小野を毎晩、出島に行かせて、ライケンから個人指導を
受けられるように手配した。謝金は永井に頼んで奉行所の御用金
から出してもらった。さらに小野を講師にして矢田堀の役宅で
数学塾を開いた。

矢田堀と勝の外に、もうひとり長持享次郎という生徒監がいた。
すでに幕府は、2隻の蒸気軍艦の造船をオランダに発注して
おり、観光丸を含めて幕府の蒸気船は3隻になる。そのため
艦長候補の生徒監も3人が任命されていた。長持は矢田堀
より3歳上で、昌平黌の先輩だった。秀才中の秀才と呼ばれ
岩瀬らと同時期にロシア外交に携わった。
幕府のとって蝦夷地は海産物の宝庫だった。昆布、貝柱、鱶鰭、
なまこなどの乾物は、長崎の中国貿易の輸出品で幕府に莫大な
利益をもたらしている。ペリー艦隊と同時期にプチャーチンが
ロシア軍艦で来航し、日本に条約締結を求めるようになった。
長持はこの応対のために、徒目付けとして長崎や下田に出向き
外交の現場を経験した。
3人の生徒監は矢田堀が中国、勝がオランダ、永持がロシアと
それぞれ得意分野を持つ人選だった。
矢田堀は永持や勝も小野塾に誘った。永持はライケンの授業に
真面目に出席しており、小野塾にも喜んで出てきた。
勝は「やっぱり無理だ。俺の頭じゃできねー。こんなのが分る
なんて、あんたたちは、さすが昌平黌の秀才だ」と肩をすくめた。
航海術ができないと艦長は務まらないぞという指摘には「俺の
艦には小野に乗ってもらう。それで用は足りるさ」と言った。

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日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(1)

鎌倉島森書店より、植松三十里著「群青」文芸春秋、
08年5月15日刊、1500円(新田次郎文学賞授賞)が
取り寄せられたとの連絡で早速取りに行く。

幕府崩壊時勝海舟は陸軍総裁、海軍総裁は矢田堀景蔵、
海軍副総裁は榎本武揚だった。

幕府の学問所である湯島昌平坂の昌平黌には年に一度
素読吟味と言う入学試験がある。幕臣子弟の多くは入学
を目指して受験勉強に励む。無事試験に」通って入学
するのは、たいてい13か14才だ。
荒井敏(養子に入り矢田堀景蔵となる)は12才、
木村勘助(のちの木村摂津守喜穀)は11才の年少だった。
入学早々気が合い二人は親友になった。
(昌平黌の跡は後の東京大学)
汐留の海辺にある浜御殿は将軍家の別邸だ。その庭園
を管理しているのが浜御殿奉行である木村の父だった。
奉行の息子でも庭園内に足を踏み入れることはできない。
だが敷地の東側、築地川沿いには御船手組の長屋が
立ち並び、生活の匂いがする。船手組は幕府の持ち舟の
管理をしている。敏は勘助とともにここへよく遊びに行った。

教授方の岩瀬忠震が言った。「ここは誰かに何かを
教えてもらう場所ではない。昌平黌は儒学の中でも
朱子学を基本にした学問所だが知識の詰め込みの
場ではない。ここは武士としての生きかたを学ぶ場だ。
それも教えてもらうのではなく、自分でもっとも武士らしい
生きかたを考えて、身につけろ。それがたとえ人と違って
いても、かまわない。自分がもっとも武士らしい生きかた
だと、確信がもてるのならそれでよい」

荒井敏は15才で矢田堀という旗本家に婿養子として
迎えられ、名も矢田堀景蔵となった。
矢田堀は20歳の時、学問御試めしという卒業試験に
合格した。学長である林大学頭から南書庫で資料を
読めと命じられた。但し読んだ内容は口外してはならぬ
と指示された。

一番奥の本棚に「通航一覧」という題名のついた、書き
文字の書類を綴じた文書集があった。それは幕府の
対外交渉や海防関係の書類だった。種子島の鉄砲伝来
から始まり、日本に来航した外国船の記録、漂流民
からの聞き書きなどが、年代ごとに纏められていた。
奥付けを見て、編集者が林大学頭なることを知った。

もっと棚を調べると清国から輸入された漢書もあった。
「聖武記」は林則徐を描いた偉人伝だった。アヘン戦争の
口火をきった人物だ。阿片戦争は広州という港町で起き、
原因を作ったの英国だった。林則徐が断固とした態度に
でて阿片を廃棄すると、英国は大艦隊を差し向けて、
戦争を仕掛けた。英側は風がなくても動く蒸気船を自在
に乗り回し、着弾とともに爆発を起す炸裂弾を撃った。
清国は敗戦を認め、押し付けられた南京条約に調印し、
莫大な賠償金が課せられ、香港を割譲した。さらに上海
など5港が貿易港として開港され、阿片の密輸は拡大
したという。
いままで簡単に概要を聞いていた阿片戦争と大違い
だった。矢田堀には蒸気船と炸裂弾というものが想像
できなかった。日本の大砲の弾は、ただの丸い鉄球で、
命中しても爆発などしない。

「聖武記」の奥づけをみると、長崎奉行所の検定印が
押してある。輸入書物については、書物掛が、キリスト教
関係などの禁書がないことを確認してから、検定印を押し
江戸や上方の書店に卸す。奉行所では中国船が阿片
戦争関係の書物をもたらすたびに、書店に卸さず、ここに
直接送ってきたに違いなかった。

ほかの棚には「発禁」の朱印が押されている本があった。
どれも日本国内で刷られたもので、阿片戦争を題材に
したり、外国情報を紹介した本だった。発禁にしたのは
昌平黌だ。江戸で刷られる書籍の出版検定も行って
いる。
矢田堀はオランダ風説書と大唐風説書の写しも読んだ。
オランダ船と中国船の船長が長崎に来航するたびに、
幕府に提出する決まりになっている。風説書の末尾には
老中一同の署名と花押がならんでいる。
矢田堀は林と昌平黌に裏の顔があるのだと気づいた。

二人が卒業する少し前に6才下の榎本釜次郎(のち武揚)
が入学した。あのころの開明派の幕臣はほとんどが
昌平黌の出身だった。

朝鮮通信使が来なくなった頃から西洋の異国船が日本
沿岸に出没するようになった。幕府には外国人に関わる
役所がない。そこで通信使応接の実績から、外国関係の
諸問題はすべて林家と昌平黌に託されたのだ。
当初幕府は異国船に対し「打ち払い令」で対処してきたが、
天保年間に阿片戦争の情報が入ると、諸外国を刺激
しないようにと、「打払い令」から「薪水令」に改めた。

矢田堀は教授の岩瀬と議論した。「先生は外国が軍艦を
日本に送り、条約の締結を迫ると言われたが、どうすべき
と考えですか」と聞いた時、岩瀬は「当然条約を結ぶしか
ない。いくさになれば、とうてい勝ち目はない。西洋人は
残酷だ。金のためとなれば、多くの中国人を平気で阿片
漬けにする。遅かれ早かれ条約を結ぶことになる。だが
結んだ後が大事だ。相手がどんなに身勝手でも、
付合っていかねばならんのが外交というものだ。
だが条約が結ばれれば函館か長崎あたりに、異国船の
入港を限定できる。幕府にも諸藩にもけっして悪い話
ではない。
条約締結後は外交や海防をになう人材が必要になる。
その人材は昌平黌から出さねばなるまい」。

日本の幕府はそれほど無能ではなく、西欧列強が次々と
東南アジアを植民地にしているといった、世界情勢をかなり
多く取り入れていた。ペリー来航については、嘉永3年に
入手していた。実際にやってくる3年前にすでに情報が
もたらされていた。日本と交際しているのはオランダと
知っているアメリカは「日本に行って交渉したい、仲介して
くれないか」とオランダに頼んだが、オランダは断った。
長崎のオランダ商館長から長崎奉行を介して、「アメリカ
艦隊がいずれ日本に行く」と幕府に伝わった。ペリー提督
の名が出たのは、嘉永五年だった。さらに来航のひと月前
嘉永6年(1853)五月、ペリー艦隊4隻が琉球に寄り、
小笠原を経由して日本に向かうという情報がもたらされた。
一方オランダは「我々に門戸を開いているだけでなく、
本格的な貿易条約を結んでは」と持ちかけたが、幕府は
つれなく断った。

岩瀬の予測通り、アメリカからペリー艦隊が、嘉永6年6月
3日(太陽暦7月8日、1853年)浦賀沖に来航し、
安政元年、3月3日1854年(嘉永7年)幕府は日米和親
条約を結んだ。 
ぺりー来航を機に元号が安政にかわった。さらに、岩瀬、
水野、永井はじめ、昌平黌の教授方や優秀な卒業生たちが
次々と海防や外交関係に抜擢された。

幕府はペリー艦隊の圧倒的な軍事力を目の当りにして、
同じような軍備を持たなければ、対等な外交はありえないと
気づいた。そのため急いでオランダに蒸気軍艦を2隻発注
した。さらにそれを操船する人材育成のために、オランダ人
に洋式海軍術の伝授を請い、長崎に海軍伝習所を開く
ことにした。
軍艦の発注から伝習生の選抜まで、伝習所の開校準備
にあたってきたのが、長崎奉行の水野と海防目付けの永井
の二人だった。矢田堀の生徒監就任もこの二人の推挙だ。
幕府は2隻の軍艦を支配下においていた。1隻は昌平丸
で、ペリー来航後、薩摩藩が建造した洋船だが、蒸気機関
は備えておらず帆船だ。オランダから将軍家に献上された
のがスンピン号という外輪の蒸気船だった。献上されてから
観光丸と名を変えた。

長崎は世界中の港を渡り歩くオランダ人でも絶賛するという、
世界有数の美しい港だ。昌平丸という3本帆柱の洋式帆船
が長崎に入港する。矢田堀は舳先にたって目先の景色を
眺めていた。矢田堀以下70名もの幕臣と水夫たちを乗せて
江戸から48日かかって10月20日到着した。
安政2年(1885年)9月1日江戸を出発していた。
長崎奉行所でも聡出で出迎えた。伝習所の教官となる
オランダ人たちも笑顔で手を振っていた。
長崎奉行の水野忠徳と海防目付けの永井尚志も姿を
見せた。この二人は矢田堀には昌平黌の先輩にあたる。
二人とも岩瀬忠震と同年代であった。永井は向後、海軍
伝習所の総督をつとめ、矢田堀は生徒監を命じられている。
生徒監とは学生長のことだ。矢田堀は24歳で妻を亡くして
から3年、すでに27歳になっていた。
昨年幕府は日米和親条約を結んだ。

伝習所は長崎奉行所西役所の一部が充てられていた。
西役所は岬の突端に位置し、オランダ貿易と中国貿易を
取り扱う役所だった。永井の屋敷の母屋が座学の教室に
なり、周囲の御長屋が伝習生の宿舎となった。
観光丸を練習艦として、オランダ人から洋式海軍術を習う。

荒井郁之介は矢田堀の甥だ。榎本釜次郎とは幼馴染で、
屋敷も近所だし、学問所でも仲がよかった。郁之助は
すでに幕府の役を得ている。一方、榎本は旗本の次男坊
で、学問所を出ても、やることがなかった。そのため榎本は
矢田堀の長崎赴任を聞きつけると、一緒に行きたいと言い
出した。
外にも長崎行きを希望する有望な若者が何人もいた。
矢田堀は彼らを伝習生に推挙したが、永井は伝習生の
身分を、与力や同心、手代などの御目見得以下の幕臣
に限ってしまっていた。
生徒監は学生長であり艦長候補である。艦長は旗本、
部下の士官は与力同心という具合に身分差がなければ、
先々命令が下しにくかろうというのが、永井の思惑だった。
矢田堀は榎本たちの道を開いてやりたくて、結局、9人
もの従者を同行することになったのだ。

江戸から長崎にくる途中で、10月11日、下関に寄航した
とき、嫌な噂を聞いた。江戸でとてつもない大地震が
起きて、下町一帯に甚大な被害をもたらしたというのだ。
安政2年10月2日安政大地震。
手紙が来た。矢田堀の箱崎の家は崩壊、長子の又市郎
と義母が圧死したと書かれていた。矢田堀は甲府から
戻ってまもなくお屋佐を後妻に迎えた。女の子が生まれて
いた。お三保と命名された。

失意を隠しつつ、矢田堀は伝習の準備に邁進した。
やがて伝習が始まると、矢田堀は呆然とした。講義が
理解できないのだ。オランダ語の授業をはじめ、いくつもの
座学があった。蒸気機関の仕組みや、風向きと帆の方向
の力学、世界地理、国際法などの講義だ。
教官長はペルス・ライケンといい、金髪碧眼の海軍大尉
だった。そのほか7人のオランダ海軍士官が各科目を指導
した。すべての授業にオランダ通詞がついた。しかし通詞
の口から出てくる言葉は、単語はオランダ語のままで、
間に「てにをは」をつけただけだった。
蒸気機関の部品も、複雑な帆の操作方法も、今まで日本
にないものだけに、単語自体がないのだ。座学だけでなく
実習でも、話が複雑になると、とたんに訳がお粗末になる。

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逃げた海軍総裁 「群青」 植松三十里著 文芸春秋

いぶし銀の歴史小説に与えられることが多い、新田二郎
文学賞に決まった「群青 日本海軍の礎を築いた男」
文芸春秋は、徳川幕府の最後の海軍総裁矢田堀 鴻
(こう、1828~87、59歳)の生涯を描いている。
作家植松三十里(みどり、54歳)が10年近く調べてきた
題材で、幕末の政変に揺さぶられながらも、日本の海軍
発展という志を曲げなかった矢田堀の姿が浮かんでくる。

矢田堀については03年に「桑港にて」で歴史文学賞を
うけて作家デビューするまえからこつこつ調べ続けてきた。
「まとまった資料がなく、あっちで少し、こっちで少しと
調べたり、教わったりした。たまたま入った沼津市の
資料館で矢田堀の日記に出会った」。
矢田堀のことは修行時代に短編小説やノンフイクション
としてまとめたことがある。当時の修行仲間からも、題材
にしにくい人物ではないかと指摘されたように、勝海舟
や榎本武揚に比べ知名度は低い。

「歴史に埋もれてしまっていたり、不当に悪役になったり
している人を代弁したい。矢田堀は(逃げた海軍総裁)
という汚名を着せられているが、逃げたのではなく、
列強を前に国内の混乱を最小限にする選択をしたのです」

東大の海洋研究所の教授である夫の転勤や子育てが
一段落ついた後、早乙女貢さんの小説教室に通い、
本格的に書き始めた。
新田賞は候補になっていることも知らなかった。

鎌倉島森書店でこの本の取り寄せを頼んだ。

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海経5・6分隊会 5月27日 09

於 如水会館、出席者 1号 阿部文弥、2号 高橋信雄
(2号 穀田博 出席通知あったが無断欠席)
3号 竹田、和田、飯田、高橋、河野、河田、加藤

阿部さん近況と挨拶。竹田より5・6分隊写真集経過報告、
尚最終チェック必要あり、6月24日または25日、
如水会館13時14階ラウンジで調整。7月10日13時
同ラウンジにて最終決定。
次回5・6分隊会は12月8日、12時 於如水会館

河田より、「36期最後の文集」編集責任者、宮本三夫が
脳大動脈流乖離で倒れ、現在杏林病院、仙川、に
入院中との報告があった。
同じ調布市に住む河田がとりあえずの業務連絡に当る
など忙しい毎日となった。

○竹田
吉岡さんより高木分隊監事の資料送付越あり、写真集
末尾資料として添付する。高木さんが伊良湖(食品補給艦)
の主計長として赴任時の准士官以上と一般主計科員に
対する訓示の写し。日本海軍には食品補給艦が2隻あり、
間宮は旧式艦、伊良湖は1万トン級の新型艦で、豆腐、
アイスクリーム、コンニャクなど製造工場をもっていた。
米はこの種補給艦を当時50隻もっており、そのうち30隻
は太平洋地域にあり、日本とは大違い。
両艦とも19年マニラ近海で攻撃され沈没。

五分隊3号大藤の父親は間宮の艦長であり、一時空母の
艦長も兼任していた。その後少将になった。

○和田
文集の表題は「かちどきのたもと」とか「かもめ」など単純な
ものにして、副題を入れればよいのでは。

○阿部
34期66名のうち、現在員は今は11~12名となり、
一人も残っていない分隊もある。
候補生は実習を受ける為、必ず戦艦、空母、巡洋艦に
乗った。海兵6名、海機2名、海経2名の割り振りだった。
海経トップの杉山は大淀、坂本は大和だった。大和の場合
横須賀・呉からシンガポールだった。当時連合艦隊旗艦は
大淀、後に大和。

○和田
大淀を見たのは、36期が横須賀で戦艦山城で乗艦実習
をしたとき。あまりのスマートさにびっくりした。

○高橋信
赴任先は第2鹿屋空。
終戦後35期は原隊復帰し、レイテ、マニラ、コロ島、台湾
などへの引き揚げ業務に従事した。
○飯田
36期でも奥野昭三と高嶋康夫が海経卒資格で復員船に
乗った。村田は機雷処理に行った。37期からも2名引揚げ
業務に参加した。
昭和20年代は密輸取り締まりに危険があり税関吏は一時
拳銃を携帯していた。
小生も射撃訓練を受けたことがある。
又戦災がひどかつたフィリピン中国の船員は悪い感情を
持つ人が多くて大変だった。

はがき回答による動静報告
○高橋信雄
家庭菜園をやり、麻雀を楽しんでいる。
○坪井 経
夫婦とも医者通い
○詫間 広
電話を戴き感謝
○河野啓二
36期サイトの高木寛の時事放談が絶好調。高木の有料
介護老人ホームは三浦市油壺の「ソノラス・コート油壺」
だった。
36期最後の文集には応募しなかった。
○高橋元清
5・6分隊会会誌作成、骨折り感謝
○飯田和夫
写真集ご苦労さま。90歳目標だがどうなることか。
○地引正雄
脚,腰は良いのだが、首から上の劣化甚だし。
○和田宏
白内障手術にて入院、電話で出席通知。
○阿部文弥
草案修正書き込みをした。大事なことは
1.36期が主体で編集すること。
2.はしがきも36期が担当すること。
○宮崎英雄
肺がん手術後9年、順調に回復。 宇佐空での爆撃や呉市
自宅空襲により経校の資料が無くなった。今回の写真集
が65年前を偲ぶ縁になる。
○吉岡博之
築地の校舎を知る生存任官者も現在106名になった。36期
を入れて250名前後だ。
○高坂信一
老妻手術入院、家事雑多、痛感内助、省力化努力中
○加藤昭三
膝の痛みは年齢か。
○福間 喬
老化との闘いです。
○宮村光重
ここのところ、肩、腕、肘の骨に痛みがでて、しゃくにさわるも
思うように動きとれず。
○安井 けい
狭い庭に花が一斉に咲き楽しい。
○河田潤
「36期最後の文集」の編集過程キーマンだった宮本三夫君が
急病入院,小生がとりあえず、業務連絡に当っている。

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坂井三郎と零戦

PHP新書「坂井三郎と零戦」三野正洋著、2008年7月
29日刊を読む。
坂井が著した「坂井三郎空戦記録」、「大空のサムライ」
は「SAMURAI」として英語、さらにフランス語、スペイン語、
フインランド語で出版され、その部数は100万部を
超えている。とくに英語版はアメリカ以外に、イギリス、
カナダ、オーストラリア、フイリピンで売られたから、合計
では200万部に達したと言われる。

零戦の制式名称は、三菱零式艦上戦闘機であり、形式
としてはA6Mである。このあとに改良のタイプ名が続き、
21型ならA6M2となる。 Aは戦闘機(艦上戦闘機)、Mは
開発が三菱、6はこの条件のもとでの6番目と言う意味。
その名は略して零戦であるが、正式な読み方としては
レイセンが正しい。しかし当時も今も人々は「ゼロ戦」と
呼んだ。

日本海軍戦闘機隊は、昭和12年の日中戦争の本格化
に伴い、中国大陸に進出し、20年の8月まで戦い
続ける。零戦の実戦登場は15年9月からである。
したがって丁度5年間となり、この間多くの操縦士が、
あるときは勝利を、ある時は敗北を経験した。
この結果多くのエースACEを生み出した。エースとは、
第一次世界大戦時から使われだした言葉で、5機以上
敵機を撃墜した戦闘機パイロットを指す。
日本の陸海軍は、もともと個人の撃墜数をきちんと記録し
それなりに評価する制度をもっていなかった。

それでも太平洋戦争が激化すると、国民の士気向上の
目的もあって、多数の敵機撃墜者として表彰するように
なった。これを授かったものが戦死した場合、2階級進級
させるのが普通である。戦死したあと昇進させても仕方が
ない気もするが、恩給などで大きな差が出てくる。
さてエースの数については、陸海軍を合わせると、少なく
とも200名を超えていたと思われる。
下記の表は5位までは本人の手記など、以後は戦史
研究家の数値。

氏名   最終の階級 撃墜数 生死 使用戦闘機
西沢広義   中尉 150以上  死  零戦
岩本徹三   中尉 202 生 96艦戦、零戦、紫電改
杉田庄一   少尉  70 死 零戦、紫電改
坂井三郎   中尉  64 生 96艦戦、零戦
奥村武雄   曹長  50 死 零戦
太田敏雄   曹長  34 死 零戦
杉野計雄   曹長  32 生 零戦
石井静夫   曹長  29 死 96艦戦、零戦
武藤金義   中尉  28 死 96艦戦、零戦、紫電改
笹井淳一   少佐  27、 54(手記) 死 零戦

ただし、撃墜数のみが優れたパイロットの基準かと
問われると、決してそうでないことが坂井の記述から
はっきりする。さらにもっとも重要なことは、坂井の手記
こそが、日本海軍戦闘機隊とそのパイロットたちの活躍
ぶりを、なににも増して生々しく、かつ生き生きと後世に
伝えていることは事実なのである。

○坂井の戦歴
多くの努力の末、霞ヶ浦の訓練部隊から巣立った坂井
たちは、昭和13年の初夏九州佐伯の基地で3ヶ月間
特訓を受ける。
これは戦闘機操縦者としての実戦に向けたものだった。
編隊飛行は勿論、空中戦、そして地上攻撃まで徹底的
に鍛えられていった。

5人の同期生とともにまず台湾の高雄に配属となる。
続いて中国南部、九江に展開していた第12航空隊に
送られた。
中国戦線ではよく整備された、十分な数の戦闘機が
用意され、若手のパイロットはベテランの指導のもと
経験を積んで行くことが可能だった。空中戦で敵機を
攻撃する場合、後方の援護も確実に実施されていた。

昭和13年10月、坂井は九江から漢口に出撃し、
初めて数機を撃墜、エースへの道を歩みだした。
その後漢口に駐留、周辺で中国軍と戦い続けた。
昭和15年夏、機種改変のため帰国、三菱96艦戦
から零戦になった。
中国大陸における坂井らの戦場は、宜昌、南昌、
海南島、成都、重慶に広がった。坂井が中国にいた
のは約2年半、この間単独でポリカルポフI15を一機、
I16を二機、ツポレフSB2中型爆撃機一機、協同で
一機を撃墜した。このころ飛行時間は千時間に達した。

昭和16年秋、坂井は上海経由で高雄に戻り、新しく
完成した台南基地に配属された。高雄の戦闘機隊は
台南航空隊となり、その戦力は戦闘機、偵察機合わせ
100機という強大なものとなる。この台南空こそ当時に
あって世界最強の名にふさわしいと思われる。そして
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。

開戦後、台南空はもっぱらフイリピンのアメリカ軍基地
を攻撃するが、相手はすべて陸軍機だった。
これらの基地は
ルソン島中部のクラーク・フイールド
"       のイパ
マニラ近郊のニコラス・フイールド  などである。
台湾南部から、これらの基地までの距離は800-900
キロあり、零戦でなければとうてい飛行は不可能だった。
フイリピンのアメリカ軍機の大半が破壊されたことにより、
台南空はスルー諸島のホロ基地(ボルネオ島の北東
200キロ、フイリピンの南50キロにある)に移動した。
台南から飛行距離2,200キロに達した。
その後坂井らは、ボルネオ、タラカンに進出、バリクパパン、
スラバヤなどで戦うが、オランダ軍も敵となった。さらに
このあとバリ島にまで進出したが、インドネシアの戦いは
一段落する。
昭和17年3月、日本軍はこの地帯のすべてを手中に
おさめた。

バリ島に駐留していた時、3月12日、山下正雄少佐が
新郷大尉の後任として内地から到着、新飛行隊長に
なったことを告げた。内地帰還の噂がここではっきりした。
帰還者の名が山下少佐から発表されたのだ。
帰還組は約半数で名目は東京防衛ということであったが、
実はこの頃すでに、ミッドウエー攻略の計画が進めらて
いて、帰還組みはこの作戦に転用されるのであった。

先兵として活躍してきた台南空は、この時点で戦力の
再編成を行い、4月中旬ラバウルに到着した。日本軍は
17年1月23日ラバウル上陸に成功していた。

ラバウル基地は活火山、花吹き山の麓に作られた二つの
飛行場、港湾施設からなっている。この基地はトラック島
とともに、海外における日本海軍最大の拠点へと成長
する。たしかにニューブリテン島は、南太平洋全域に睨み
を効かせ、オーストラリアにたいする障壁として、絶好の
位置にあった。最盛期ここには300機に達する陸海軍機
数十隻の艦船、数百門の対空機器がそろい、強力な要塞
になった。

ニューギニヤ・ラエに前進基地が作られ、ここから、約4ヶ月
ニューギニア南岸ポート・モレスビー地区で、アメリカ陸軍機、
オーストラリア空軍機と闘っている。
この間、何名かの犠牲をだしてはいるものの、日本側の
常勝の期間でもあり、比較的楽な戦闘であった。坂井の
撃墜数は順調にのび、一月あたり少なくとも5機を数えた。
これは他の同僚も同じであって、零戦とそのパイロットが
もっとも輝いていた期間と言えよう。
空戦の模様は「大空のサムライ」に詳しい。

日本海軍のポートモレスビー攻略作戦が米艦隊に襲撃され、
5月7日珊瑚海海戦が発生した。ポートモレスビー攻略は
中止となった。
ミッドウエイ海戦は6月5日だった。

7月末からは落としても落としても、ポート・モレスビー
地区の敵戦闘機、爆撃機は増えるばかりで、ラエ基地も
さんざん爆撃に曝された。陸軍のラエ南方のブナ上陸
作戦も失敗、苦戦で零戦隊の支援もあまり効果あがらず、
8月3日ラエにある零戦隊の半数がラバウルに異動した。
坂井たちがラバウルに引き揚げたころから、ラエ基地は
殆ど使われなくなった。残存の飛行機も、もはやいくらも
ない。

ニューギニア東端ラビに敵は新基地を建設中であったが、
この敵戦闘機隊を撃滅しようと、8月7日、精鋭ばかり、
よりすぐった18機の零戦がラバウルの離陸滑走路に
並んでいた。
ところが急に「出発待て」という命令がとんできた。事態が
判明した。「けさ、5時20分、優勢な敵の攻略部隊が、
ソロモン群島南端ガダルカナル島のルンガに上陸した。
同時にツラギにあった横浜航空隊の偵察飛行艇は全滅
した。敵は目下盛んに上陸中である。
我々は、敵の攻略部隊を攻撃に行く中攻隊を援護して、
いまからガダルカナルに行くことになった。」

ラバウルからガダルカナルまでの距離をはかってみた。
560浬(東京から屋久島の距離)もある。
日華事変以来、坂井の経験で一番遠かったのが450浬
だった。それでさえ、なかなか困難だったのに、今日は
それより110浬も遠い。往復にすれば220浬遠い。
これは大変なことになった。我々はこの大変な距離を、
敵の上陸地点まで飛んで、一合戦やって、同じ距離を
ラバウルまで引き揚げねばならぬのだ。

そうこうしている間に、上の飛行場(ラバウルの高台にある
ブナカナウ飛行場のことをそう呼んでいた)から、27機の
爆撃機が発進した。
零戦隊の指揮官は中島少佐、2中隊河合大尉、3中隊
笹井中尉という6機ずつの編成となり、機数は18機、坂井
は3中隊の第2小隊長として、2番機柿本2飛曹、3番機
羽藤3飛曹として出撃。

上陸作業中の敵の船団攻撃なのに、魚雷でなく爆弾が
1式陸攻の腹に積んであるのに不審をいだき、たいした
戦果は期待できそもないなと、坂井は思った。
侵攻高度は4千メートル、すぐ隣のニューアイルランド島
を飛び越えて、ラバウルから120海里の地点で、一つの
小さな珊瑚礁が目についた。馬蹄形をしていて美しい
コバルト色の島、航路図には、グリーン礁とあるが、この
印象が後に坂井の生命を助けることになろうとは。

ルッセル島の上空を通過し、ガダルカナルのルンガまで
あと50海里である。ルンガ上空では、制空隊がすでに
空戦を始めていた。敵、味方入り乱れての混戦だ。
眼下の船団は7,80隻はいる。上陸用舟艇の白い筋が
沢山見える。
その時突然太陽の中からこぼれ落ちるように7,8機の
敵機が降ってきた。母艦から飛んできた、グラマン・ワイルド・
キャット、F4Fは零戦に目もくれず,まっしぐらに爆撃隊に
襲いかかっていく。
坂井は急上昇にうつり、グラマンの鼻面を押さえるように、
20ミリと7.7ミリを連射しながら攻撃をかけた。これは
弾丸を当てるというより、零戦がついているぞという脅威を
敵に与えるためだった。
爆撃隊は絶好の地点に達し、いっせいに爆弾を投下した。
水煙がおさまった海面を凝視したが、火災を起している
船は1隻だけだった。これだけの遠距離を、これだけ苦労
して、これだけ意気込んでやってきて、このみじめな戦果、
これが雷撃だったならおそらく27機が1隻ずつの敵船を
沈められたのに。船団攻撃が目的なのになぜ爆弾を積んで
きたのだろう。なにもあんなに足許から鳥が飛び立つように
急がなくてよかったではないか。魚雷に積み替えて出撃
したらよかったのではないか。なぜこんなお粗末な作戦
指導をしたのか。
      
爆撃隊を送り狼(敵戦闘機)の危険圏外まで送ってから
零戦隊だけ引き返し、敵戦闘機と一戦交えようという計画
があった。ルッセル島を過ぎれば、送り狼の危険はもう
大丈夫と、かねての計画通り引き返しを決意した。

時に午後1時30分、我々零戦隊17機(出発時1機
エンジン不調のため引き返し不参加)はルンガ泊地の敵
船団の上空に殺到した。いよいよ宿敵米海軍の新鋭機
グラマンとの一騎打ちだ。その時またしても太陽を背に
してグラマンが降ってきた。坂井がいち早く気づき、全速
で最先頭にでた。急上昇しながら反撃した。ところが
どうしたというのか、敵も一撃をかけただけでさっと
急降下で下へ散っていってしまった。
彼らが、いわばホームグラウンドで、しかも有利な態勢に
ありながら、瞬間的なたった一撃だけで下へ散っていった
ことは我々には解せないことだった。(零戦に対する
新戦法をこの時から使い始めたのか)

列機の柿本、羽藤を見失っていたので探しまわって
いたが、高度4,5百メートルのところで、零戦2機が
グラマンに追い回されているのが見えた。その時の私の
高度は4千メートル、グルグル回りの空戦をやっていた
のは4、5百メートルのところだったので、一気に3千5百
メートルを急降下したわけであった。
1機の零戦が敵の射程圏内にはいるという瞬間、20ミリ
と7.7ミリをグラマンの頭めがけて浴びせかけた。
600メートルも離れたところから打ち込んだので、敵を
落とすというより、味方の危急を救うために撃ち込んだ。
ところが、そのグラマンは2機の零戦を追い回す強者だけ
あって、この一撃にすぐ感づいて、パッと右旋回に切り
替え射弾を回避、坂井の腹の下に食い込んできた。

その瞬間これは手強いぞと感じて、ひやりとした。
これまで相手にしてきた敵の戦法とは違っており、一騎
打ちに入らぬ前に、すでに敵の技量が相当なもであること
を悟った。

敵はぐんぐん私の腹の下に入ろうと突き上げてくる。私が
いつもとる戦法を敵がとっている。エンジンをしぼって、
のめり気味のスピードを制御しながら、得意の左旋回に
切り替える隙を見出した。そして思い切り操縦桿をひいて、
できるかぎり旋回半径の小さい私独特の旋回方法で、
2旋、3旋と旋回を続けた。
私の飛行機はまだ急降下の余力がついていて、旋回戦
にもっていくには、少しスピードがつきすぎていたのだが、
2回、3回と回るうちに、やっと絶好の横の巴戦に入る
態勢になった。

そこで、しばらくは、お互いに正反対に位置しながら、
左垂直旋回で単機巴戦に入った。左垂直旋回だから、
左翼はほとんど垂直に地面を指し、右翼はこれも垂直に
空を指している。
敵から目を離さないためには、自分の首の骨を折れる
ほどうしろに折り曲げて、その上向いた顔のうわまぶた
ぎりぎりのところに、敵機を捉えまえていなければ
ならない。
この状態を何十秒も長くつづけることは、ひどい苦痛だ。
ただでさえ荷重のために脳貧血を起しそうになるのに、
心臓の圧力が荷重にまけて、血液が下に流れ、両足が
膨れてくるのだ。これは巴戦の場合、常に起こる苦痛で
あり、しかも、敵も同じように苦しいのだ。
その苦しさの我慢くらべのうちに、自分のうわまぶた越に
チラッとでも敵機を捕まえていれば、この空戦はもうこちら
の勝ちである。

しかしたいていのものは、この苦しい姿勢と、視界に
入ってこない敵とに、精神的にも、肉体的にも耐えられ
なくなって、あきらめて他の操作にうつる。その瞬間に
敵に喰われるのだ。
私は頑張った。5旋回目のとき、チラチラうわまぶたの端
に見えていた敵が、急にすーっと前にのめってきた。
しめた・・我勝てり。そう思った瞬間、敵は急に機首を
下げた。急に速力をつけ、斜めの宙返りで引き離そう
とした。これが彼の負ける一瞬だった。この一瞬に運命
は決した。完全に敵を捕捉しながら、当の相手以外の
敵がいないか、素早く周囲を見回した。敵の気配は
ない。照準器いっぱいに当の相手を捉えているのだが、
撃たない。 よし、ここでひとつグラマンの性能をためして
やれと思いたった。
撃たずにじっと敵の真後ろに食い下がっていく。

ぐんぐん斜めの宙返りで敵グラマンを追いながら、時には
上方、ときには下方にくっついて敵を脅かし続けながら、
私は観察を続けた。そのうち、完全に敵の真後ろ50
メートル位に接近、追尾の姿勢に入った。敵は疲れ
はてたのか、やや緩降下で直線飛行に移った。私はまだ
一発も撃たないのに敵は疲れてしまったらしい。真後ろ
50メートルの距離から、20ミリはもったいないと思い、
7.7ミリだけにきりかえた。敵の操縦席を照準器の十字
線の真ん中に入れて発射した。200発ほど撃ち込んだ。
全弾が敵機を補足した。それなのに敵機は落ちる気配が
ない。さすが敵の防弾防火設備はすばらしい。
敵をよく観察しようと真上に飛びあがった時、グラマンの
スピードが急に落ち始めた。たぶん被弾していたエンジン
が、いまになって具合が悪くなったのだろう。

落ち着いた私は風防を開いて敵の操縦員の顔を見た。
向こうも風防をあけている。たぶん落下傘降下をするつもり
なんだろう。目と目がぴたりと合った。顔がはっきり見える。
私より7,8歳くらい年上だ。敵の機体には無数の穴があき、
方向舵が破れ障子のようになっている。彼は右肩をやられ
ている。服の右肩が血で真っ赤だ。
一瞬私はなにか「憐れ」なものがぐっと胸にきた。敵が憐れ
なのではない。なんと説明していいか判らないけれど、
それはたぶんお互いが憐れなのではなかろうか。それに
私自身で撃った弾丸で血をながしている人間を初めて見た
ことだ。
これが戦争というものだ。与えられた任務を果たさねば
ならない。
僅か50メートルの距離で直角に背中を曝した敵機。私は
操縦席は狙わず、エンジンの先端を狙って、20ミリを
5,6発、ダダダっと撃った。命中した瞬間、彼は落下傘
を背負ったまま、空中に飛び出した。

列機2機を見つけ。ふたたび空戦場に戻った。この日17機
の零戦隊は、敵機約77機と闘って、その36機を叩き
落とした。しかし、還らざる零戦は2機だった。その2機の
最期を見たものは一人もいなかった。

我々3機は全速上昇した。高度2千メートル、断雲の間を
抜けて輝くばかりの紺碧の上空に出た瞬間、風防に音がして
5センチくらいの大きな穴があいた。はっと思って左側に目を
移すと、複座機のSBD(急降下爆撃機ドーントレス)1機が
チラっと見えた。私はまっしぐらに敵にむかって突っかけた。
すぐに敵の後上方に回りこんだ。敵味方が互いに急降下
しながら断雲をつきぬけると、後上方から20ミリと7.7ミリ
の一連射をあびせた。SBDは錐揉みになって落ちていった。

私はまた高度を上げ、列機をそろえて、笹井中隊が行ったと
思われる方向に飛んだ。高度4千メートルまで上昇した時、
遥か前方に八つの点を認めた。約5,6千メートルまで
近寄ったとき、この八つの点は四つ四つの2組の編隊に
分かれている。これは敵の戦闘機に違いないと思った。
(いままでの疲れがでたのか、坂井はここで初めて判断
の過ちをおかした)

坂井はモレスビーの空戦でも編隊を組んだ敵機を2機ずつ
まとめて落とした経験がある。敵は後ろから私が接近して
いるのに、敵の編隊は全然形がくずれない。
60メートルと肉薄して一撃をかけようとした瞬間「あっ
しまった」と思わず叫んだ。敵はSBD艦上爆撃機ドーント
レスの編隊だったのだ。後部の銃座各2挺、8機あわせて
16挺の機銃が私に向けてピタリと擬せられていた。
私ともあろうものが何たる迂闊。全速をかけて追ってきた
のだからいまさらどうしようもない。瞬間私は20ミリと7.7
ミリの発射とってを握り締めて、突っ込んでいった。
そのとたん敵8機16挺の2連装機銃もいっせいに火を
吐いた。彼我の距離は20メートルもない。敵弾が当って
いる。同時に敵の2機がいっぺんにパーと火炎を吹きだした。
私の飛行機も衝撃を感じた。同時に私は野球のバットで頭を
一撃されたような感じがして、意識が遠くなって楽な気持ち
になっていった。

私は無意識に操縦桿をぐっと前に押しやった。何秒かの後
激しい風圧を感じて、ふと目がさめた。風圧は飛行機が
墜落しているためのようだが、私にはよく分らなかった。ただ
朦朧たる意識の底で考えたことは、とうとう俺もいま戦死か。
戦死とはこんなものか。そのとき、「なんだ、三郎、お前は
そのくらいの傷で死ぬのか、意気地なし」母の声であった。
意識がはっきりしてきた。飛行機はものすごい勢いで落下
しているらしい。
目をあけてみた。火事場のように真っ赤だ。飛行機の姿勢が
分らないまま、グーっと操縦桿を引っ張った。すると操縦席が
ガタンと落ちて姿勢が低くなったためか、急に風圧が減じた。
それとともに、目もやられたか、目から血が出ているんだな
とようやく気がついた。

飛行機の翼端を見ようとしたが、見えない。それでも無意識
のうちに機を水平にして左手でエンジンを増速しようと思った。
ところが、左手がスロットル・レバーを掴んでいない。ダラリと
している。鉛のように重い。ぜんぜん痛くはないが重い。
左足も動かない。そうか頭をやられ、目をやられ、左手も
左足もやられたのか。そう思いながら、まがりなりにも操縦桿
だけで水平飛行に移していった。

目をやられているためか、涙が溢れるようにでてくる。その涙
で血が洗い流されるためか、少し目がみえるような気がする。
高度計を見るのだが全然見えない。朦朧たる意識と霞む目で
下を見ると、黒い大きなものが翼の下を流れていく。
それは敵の輸送船団だった。高度は100メートルくらいと
考えた。下からガンガン撃たれている。
これではラバウルはおろか一番近いブカだって帰れやしない。
心がだんだん自爆ということに傾いていった。しかし、敵機が
こないということは俺に生きろということかもしれない。

操縦桿から手を離して、飛行帽のうえから頭をなでてみた。
指が飛行帽の裂け目に入っていった。飛行帽の下は血で
ぬるぬるしていた。これは相当やられている、それにしては
意識がはっきりしているのは変だな。
エンジンだけは調子よく回っている。ガソリンの臭いはしない
から、燃料タンクも無事らしい。

すると今度はからだのことが気になりだした。頭の傷から
ながれでる血が、飛行帽の内側を伝わって首筋にたまり
豆腐のようにかたまっている。顔は丸く膨れあがっている。
無数の破片が突き刺さっているのだろう。このままでは
出血多量の死は目に見えている。自爆するにしても助かる
にしても、ともかく出血を止めなくては。

右の目がとくに痛くて左より見えない感じだ。左の目だけは
助けなくてはとポケットから三角布を引っ張り出し、
一生懸命左の目を拭いた。自分の機の翼端がボンヤリ
ながら見えるようになった。今度は頭の血を止める工夫を
考えた。4枚の三角布は全部飛ばしてしまった。マフラーを
ナイフで切る。あと1回分を残してこれも飛ばしてしまった。
右手で押さえなくても止血できるか考えているうちに、
飛行帽の内面と自分の傷とのあいだに、この布を押し
込んで圧迫したら血が止まりはしないかということだった。

しかしこの操作は相当時間を要すると考えた。まず操縦桿を
離し右足でそれを上手に巻き込み、それから右手でスロットル・
レバーを全開にして、まきこんだ右足で操縦桿をグっと引いて
見た。機を絶えず上昇の姿勢にしておかないと、海面に激突
する恐れがある。
自分の感じでだいたい7,8百メートルの高度が取れたと
思ったころ、風圧を避けるため頭を思い切り座席のなかに
突っ込んだ。素早く最後のマフラーの一片を右股の下から
取り出し徐々にこめかみのあたりから飛行帽のなかに
押しこんでやった。そのあいだ、外は全然見ていないし、
方向舵を操作していない。機体がどんなに動揺しても布切れ
を押し込むことに専念した。布切れの端がこめかみを通って
一気にグっと傷口のほうに突き進んだ。それがうまくいって、
その時を境に血が止まってもう流れてこない。
その安心感のためか、今度は何となく眠気をもよおしてきた。

ついウトウトする。そして何十秒おきかにはっとする。必死に
なって睡魔と闘っているつもりなのだが、いつのまにか
操縦席からお尻が離れて、からだがフワーっと浮き上がって
いる。そのため肩バンドにギューっと重量がかかってきて、
その圧力ではっと目が覚める。
見ると飛行機は完全に背面になって飛んでいる。眠気が
一瞬に消えてすぐ操縦桿を左へいっぱいに倒して、飛行機
をもとの姿勢に直す。
眠気は激しくなるばかりで、頬や頭を殴っても駄目。
これではブカまでも還れない。勿論俺は海に落ちるだろう。
どうせ死ぬなら自爆した方が良い。自爆に決めた。引き返し
ガダルカナと思われる方向に機首を向けしばらく飛んだ。
ところが、はっと気がつくと、もうぜんぜん眠くない。
不思議だ。この分なら還れるかもしれないぞ。また元来た
方向に旋回した。そして2,3分飛んだろうか。またもや
どうにも耐えれなく眠くなってくる。やはり駄目だ、自爆だ。
私はふたたびガダルカナルのほうへ引き返しはじめた。
ふと気がつくとまたしても全然眠くない自分を発見した。
こんなことを五,6回も繰り返しているうちに、だんだん冷静に
ものを考えることができるようになった。

自爆する気持ちで引き返すと、眠くない、というのは、自分
では意識していなくても、やはり命が惜しいのだ。生命を
守る本能が最後の力をだして闘ってくれるのだ。
それなら、これから何時間かかるかわからないが、ラバウル
まで、それができなければ、せめてブカまで必死になって
頑張ったら還れないこともなさそうだ。死ぬと決めると、目が
さめる。そうだ俺はラバウルで死のう。

航空図を膝の下からひっぱりだして見た。それは血で真赤に
染まっている。つばを地図の上に吐きつけて、飛行服で
こすって、やっと血糊を拭い、はっきりしない目で懸命に、その
地図上に自分の位置を求めた。やっと推定することができた
位置はイサベル島の北端(ガダルカナルから約80海里)から
北東60海里の洋上付近ということであった。
私はここで、あらためて太陽を、反方位よりやや左のほうに
おき、行きと帰りでは大体1時間近く経過しているので、
それだけ太陽が西に寄っていることも計算に入れ、ラバウルと
おもわれる方に進路をとって飛んだ。まだ視力が不足している
のでコンパスが読み取れない。

ところが行けども行けども漠々たる海ばかりで何にも見えない。
2時間も飛んだところで考え直した。唾で手入れしたばかりの
左の目をいっぱいまでコンパスに近寄せて見た。すると今度は
やっとそれが読み取れた。その結果はまことに意外だった。
自分ではラバウルの方向に飛んでいるとばかり思っていたのに、
なんと330度を指している。
これはとんでもない方角違いである。ラバウルに帰るには、
予想地点からいえば真西へ飛ばなくてはならないのに、私は
北に向かって飛んでいたのである。
なにも見えないはずだ。自分の位置ははっきりとはわからない
けれども、だいたいソロモン群島をずっと北北東にはずれて
飛んでいることがわかった。

さらにこのとき私は、ラバウルの東側にニュー・アイルランド島と
いう南北に走る細長い島のあることを思い出した。もしここで
90度の変針を行えばきっとその島に突き当たるに違いないと
確信した。私は再び希望を持って飛び続けた。またしても襲い
掛かる睡魔、幾度か右に傾き、左に傾き、ときには海面
すれすれに飛び、あるときは背面になりひどい状態で飛続けた。
3時間も飛んだと思ったころエンジンが停止してしまった。
しかし、すぐに燃料の欠乏が頭にきたので、ほとんど無意識の
うちに操縦桿を前方につっこんだ。これはプロペラの止まるのを
防ぐと同時に失速になるのを防ぐためだった。これはメイン・
タンクが切れたのだ。後は胴体タンクに90リッター残っている
はずだ。不自由な姿勢でやっと燃料コックを探し当て、胴体
タンクに切り替えると同時にスロットル・レバーをしぼった。
そして手動燃料ポンプをついた。

エンジンのほうの自動ポンプは、エアを吸っているために、
容易に燃料を吸い上げてくれないので、手動ポンプをついて
燃料を送ったのだが、スロットル・レバーをしぼったのは、
気化器をひらいた状態のままでエンジンを再起動しようと
しても、燃料が濃すぎてエンジンがかからない場合が多い
からである。

あと1時間と4,50分しか残り時間はない。ふとなにげなく
右翼の海面を見たら、うすぼんやりと何かが見える。
馬蹄形の島らしい。あのコバルト色の美しい珊瑚礁。今朝
ガダルカナルへの途中で深く印象づけられたあのグリーン
珊瑚礁だ。自分の機位がはっきり判った。そこで手製の
計算尺で計ったラバウルまでの距離は60海里。

そうわかると今度は燃料だけが問題だ。燃料計のボタンを
引っ張ってみた。40リッターの付近をさしている。あと
40分くらいしか飛べない。できることは飛行機を正しく
水平直線に飛ばすこと、それは平常の状態ならばあたりまえ
のことだが、いまは並み大抵のことではなかった。
必死になって飛んだはるか前方に島影が見えてきた。ニュー・
アイルランド島に間違いない。ところがなんと意地の悪い
ことか、いつのまにかスコールがやってきて、密雲が山の
頂きをべったり包んでいるのだ。この雲を突っ切る自信は
今のわたしには自信がない。一難去って又一難。燃料の
消費も気にかかるが、海岸線つたいに回るほか手はない。

やっとニューアイルランド島の南端を回りきって、右旋回、
燃料計の針は20から30リッターの間をピクピク指している。
ふと下を見ると1万トン級の巡洋艦が2隻、南に向かっている
のが分った。この艦のそばに着水すれば助けてもらえるかも
しれない。しかしこの2隻はあきらかにガダルカナルの急に
かけつけているのだ。私のために止めたりできない。また
ラバウルのほうに進路を立て直した。計算では後20分弱だ。

見覚えのあるニュー・ブリテン島が見え始めた、しめた、もう
大丈夫だ。おれは助かった。ラバウルだ。さあいよいよ着陸だ。
しかし不十分な視力で、右手、右足だけでうまく着陸できる
だろうか。私はラバウルの上空をフラフラ旋回し始めた。
このままでは着陸は無理だと思うようになった。海岸近くの
海面にすべりこもうと決意し、エンジンを絞っていった。
しかし別の考えがかすめた。なんとか陸上に滑り込むだけ
なら、できないことはなさそうだ。どうせ死ぬ身だ。
やり損なってももともとだ。

危なっかし操作でエンジンを増速し、かろうじて海面との衝突
を避け、再び舞い上がり、いつもの誘導コースを回って、
そのままの姿勢でまた降下していった。チラと燃料計をみたら
針はほとんどゼロを指している。あわててプロペラ・ピッチを
高速回転の方へ引き戻して、エンジンの回転を増し、
スロットル・レバーを赤ブーストいっぱいにかけて、操縦桿を
徐々にひいた。機はまた高度を取りはじめた。もう燃料がない。
いつエンジンが止まるか。徐々に右旋回で高度を約500
メートルにとることができた。ここまであがればしめたものだ。
滑空で飛行場に滑り込むことができるはずだ。幸いエンジンは
まだ回っている。右手で脚だしの操作をした。これも被弾は
なかったらしく、着陸よろしの青ランプが右、左と続いて点灯
した。しかしタイヤが撃たれてパンクしているかもしれない。
フラップの柄を前に倒してみた。指針はフラップ全開を示した。
操縦桿を放して、エンジンを少しずつしぼり、ただ二つの動く
肉体たる右手と右足に全神経を集中した。残り少ない
燃料だが、それでも火災を起すかもしれない。飛行靴の先で
エンジンのスイッチを切った。

高度がはっきり分らないが、椰子の木の高さを20メートルと
推定し、そのこずえの先端が自分の機と同じ高さにきたとき、
今20メートルと判断して、少しずつ操縦桿をひき、接地に
入った。ズシンと衝撃がきて、接地したと思った瞬間、
操縦桿をいっぱいにひきつけて、後は左右に回らないように
必死の努力を続けながら、どうやら指揮所付近と思われる
あたりで停止させることができた。
ああ・・俺はとうとうラバウルに帰り着いた。
そう思った瞬間、ガックリ首が後ろに垂れ、同時にスーと
いい気持ちになって、なにもわからなくなってしまった。

軍医長の話では、左の手足がきかないのは、後頭部の
負傷で交感神経がやられ、運動神経が麻痺しているため
とわかった。目はいろいろな薬で洗ってくれていたが、
こいつは大変だ、小さな破片がだいぶ眼球につき刺さって
いる。おれの手には負えないなと言った。ラバウルに帰り
着いたのは5時ころだったような気がする。すると撃たれた
のが12時20分くらいだから、それから4時間半、出発
してから帰り着くまで空戦時間もいれて8時間半だ。

○○
負傷によって内地に戻った坂井は佐世保や横須賀の海軍
病院で治療を受け、ようやく部隊へと復帰する。しかし、
右目の視力は低下したままだった。
このため大村で教官の配置となり、指導に当った。
ここでの教官歴は昭和18年の春から約1年間で、その後
志願して横須賀航空隊に移る。坂井はここで再び、
実戦的な訓練に励み、空中戦へのカンを取り戻していく。

19年6月、横空の戦闘機隊は全力を挙げて、東京の南
1000キロの硫黄島に移動し、アメリカ海軍と対決する
ことになる。
この戦いは6月下旬の1週間にわたって続くが、すでに
戦力に大差がつきつつあった。80機近い零戦が駐留
していたが、僅か3日の激戦でその殆どを失ってしまう。
この島を襲った米海軍の機動部隊は、500機をこす
グラマン戦闘機を擁していた。
この硫黄島の戦闘で坂井は少なくとも2機のF6F
ヘルキャットを撃墜した。
そのうち、とりあえず搭乗員だけは、一応内地へ帰って
新しい戦闘機を整備した上で、再びでてくることになった。
そのため木更津航空隊から輸送機が迎えにくることに
なった。

午後遅くなって1式陸攻と96陸攻撃が7,8機飛んで
きて無事に着陸した。幹部連中はいそいそとそれに
乗り込む。夕方までにまた飛行機がくるということ
だったがとうとうこの日は来なかった。
翌日陸攻がやってきたが、はやい順番の人を乗せて
飛び去ってしまう。そんなことを数回繰り返して、やっと
順番が回ってきた。一番最後の飛行機だった。
その飛行機はやっと着陸したかと思うと、右エンジンが
息をついていて離陸できそうにない。
3時頃整備が終わり我々搭乗員11名が乗った。しかし
島をかなり離れてエンジンが不調。相談を受けた坂井は
「不時着して死ぬよりは、もういっぺん降りて出直そう
ではないか」と言い、島に引き返した。あっちこっち調べた
後で、発火栓を取り替えたら、それで簡単に直った。

機は無事離陸したが、木更津への途中悪天候に遭遇、
若いパイロットに代わり坂井が操縦無事着陸した。

○堀越二郎は79歳、坂井三郎は84歳で亡くなった。

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海径5・6分隊会 築地校の10ヶ月 写真集

竹田、和田、地引、高橋、河田幹事より案内あり、5月
27日の如水会館にての例会で、かねて取り纏め中の
5・6分隊会写真集の草稿を提示し、了承が得られれば
印刷に回すと連絡あった。

竹田幹事より、阿部1号の補足、校正のあった草稿を
こちらに送るゆえ、チェック方依頼あり、送付越しあった
ものを見たが、よくできており、自分としては単語、助詞
の修正にとどまり、4月26日返送、28日受領した旨、
竹田よりメールが来た。

昭和18年12月入校以来の海軍経理学校築地校の
10ヶ月は、戦時下に拘わらず、学校内に自由の匂い、
香りがあり、厳しい訓練があったものの、若い青年たちと
まことに得がたい経験をした。

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ヘンデル曲 勇者は還りぬ

海経34期1号の卒業式の時、成績1番と2番の生徒に
恩賜の短剣が渡されるとき、海軍軍楽隊が演奏した曲
が荘厳で大感激したが、初めて聴く曲で何という曲か
判らなかった。
五分隊の伍長、福田幸弘は2番であった。
後にこれは英国在住のヘンデルが作曲したオラトリオの
曲だと知った。舞台は紀元前2世紀のイスラエルで
シリアがイスラエル人を弾圧し、反乱が起こった。その時
実在の、マカベウスのユダがリーダーとして勝利し、
第3幕で歌われる合唱曲、「See the conquering Hero
comes 見よ 勝利者の英雄が来る」である。
ヘンデル61歳の時の作。現在では勝利を讃える歌、
得賞歌として演奏される。

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海経36期 最初の文集「築地、品川、垂水、それから」

平成8年12月18日発行、発行者36会記念出版物刊行
委員会から36期の最初の文集が発行されたが、「会員
の声」ページに自分も投稿したので、それをそのまま
転載する。

1927年5月、東京茅場町生まれ。3才の時、両親の
故郷である愛媛県大洲市に帰り、次いで宇和島市に
移った。宇和島藩は伊達政宗の長子、秀宗が分封
された処で、歴代開明な藩主が続き、維新時には
勤皇派、蘭学派の人々の滞在を支援していた。

宇和島中学では、ボート(エイト)のクラス、学年対抗が
宇和島湾で行われており、おかげで海軍に入ったとき、
カッター訓練には戸惑うことはなかった。

戦後1946年の大学受験は4修は受験資格ないため、
江古田の武蔵高校文2甲に転入、翌年東大経済学科
を受けてみたら運良く受かったので高校は2年で中退。

大学卒業時、これからの日本は貿易を伸ばさないと、
喰っていけないと思っていたので、三菱系の協和交易
(1954合併で三菱商事)に入った。

1951~59名古屋支店で特需関係の仕事、次いで
航空機製造業の再出発に立ち会った。

1959~71東京航空機部で、航空エンジン、旅客機、
ヘリコプター、小型ビジネス機販売。1967年には
三菱重工業とともに、ビジネス機組み立て、販売のため
米国三菱航空機㈱をテキサス州に設立。1972~75
同社に勤務。

1976~84商事機械関係勤務。。退職
1984~92 半導体製造用フオト・レジスト製造販売
メーカー、シプレイ社(本社ボストン)に勤務、退職。

近況: パソコンは20年前より注目、当初コモードール
製を購入。現在NEC製品使用中。
生来,物理、化学、生物が好きで、この傾向は一生
続いてきた。現在,水彩画教室に通い、語学関係も
引き続き勉強中。余生を生き生きと生きるよう念願
している。

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幕末史 半藤一利著 宇和島藩主 伊達宗城

新潮社刊幕末史を読み始めた。当時の宇和島藩主伊達
宗城についてもふれておきたい。

伊達政宗は関が原の戦いで徳川方についたが、家康は
恩賞として、政宗の長子秀宗に宇和島10万石の領地を
与えた。政宗の仙台の領地は第2子に継がせることに
なった。家康の深慮遠謀といわれる。秀宗以来宗城・
宗徳まで300年の統治になる。

宗城はもともと大名の若君ではなかった。江戸の旗本
の次男であったが、生家の旗本山口家が宇和島の
伊達家と親戚関係にあり、伊達家の血筋が絶えかえた
ため、宗城が伊達家の家督を継ぐことになった。

少年時代の宗城は引き続き江戸に住んでいた。近くに
水戸屋敷があった。この時の水戸藩主は斎昭だった。
宗城はこの斎昭に気にいられた。屋敷が近いこともあって
よく遊びに行った。後に宗城が幕末の情勢に藩政改革
に努めたのも、斎昭の薫陶を受けたために違いない。

1844年正式な藩主となりお国入りした。それ以後、
明治新政府の政策を先取りしたともいえる、殖産興業、
富国強兵に努めた。特に西洋兵学の輸入に熱心だった。

アメリカはペリー以前に非公式の使節として民間商船
モリソン号を送りこんでいた。幕府は砲撃して追い返して
いた。蘭学者高野長英は仲間の渡辺崋山とともに、幕府
を批判した。幕府は蘭学者の弾圧にのりだした。(蛮社の
獄)。このため地方の小藩の家老だった崋山は切腹したが
長英は逃亡者となった。逃亡期間のうち8ヶ月は宇和島に
潜伏し、宗城の庇護の下、オランダの兵学書を翻訳した。
また故郷の長州ではまったく評価されなかった村田蔵六
(のちの大村益次郎)を招いて蘭学教授として遇し、
のちの活躍のきっかけをつくった。また「蒸気で動く軍艦
1隻と西洋式砲台を一つ作れ」との密命もでた。

フオン・シーボルトの娘楠本いねが愛媛宇和町で医者の
助手をしていたが、これを宇和島に招き、日本初の女医
(産科医)が誕生した。
司馬遼太郎が小説「花神」で村田蔵六のことを書いて
いるが宇和島時代いねとの交流も記してある。のちに
映画になった時、いね役は浅丘ルリコだった。
楠本いねは宗城の世話で、伊達家の庭園天赦園で結婚
式をあげた。いねは後に東京に出、宮中や高官の夫人の
医師として活躍した。後年は長崎に帰った。この間の経緯
は、吉村昭著「ふおん・しいほるとの娘」上、下、新潮文庫
に詳しい。

宗城は初めは公武合体派だったが、機を見るに敏な彼は
尊皇攘夷派から尊皇開国派になった。
ペリーが東京湾を示威航海したとき、沿岸警備を命ぜられて
いた薩摩藩島津斎昭、佐賀鍋島藩主とともに、日本も蒸気
船軍艦の保有が必要と痛感、それぞれが軍艦建造を約した。

第1次長州征伐のときの宇和島藩主は宗城の息子、宗徳
になっていたが、幕府は長州征伐の決行にふみきり、中国、
四国、九州の21藩に出兵を命じ、11月18日総攻撃を開始
することを決めていた。
11月10日宗徳は兵をひきいて宇和島を発した。その日は
卯之町泊まりで、翌日八幡浜に至り、2日間滞陣の後、
海岸沿いに兵を進め、佐田岬の伊方浦に着陣し、そこから
宇和島艦隊に乗り長州に向かうことになった。
港には宇和島藩の支藩である吉田藩の艦隊も集結していた。
しかしその日、長州藩主敬親、定宏父子が降伏を申し出でた
ので、攻撃を見合すことになった。

第2次長州征伐の時は、幕府の親藩である松山藩が四国勢
の1番手として、長州藩攻撃の出兵準備を着々と整えて
いた。しかし伊達宗城は長州征伐に不賛成で、宇和島藩には
出兵の気配はなかった。彼は長州征伐が国内を混乱させる
愚挙であり、諸外国に日本領土の侵略を許す結果にになる
ことを恐れていた。
そのころ対立していた薩摩藩と長州藩の間で提携がその年
の1月に成立していた。
6月初旬、幕府軍は九州、四国、山陽道、山陰道から長州藩
に対する包囲態勢を固めた。しかし、宇和島藩をはじめ四国
諸藩は動かず、松山藩のみが出陣した。
6月7日、幕府軍艦が大島郡を砲撃したのをきっかけに、攻撃
を開始し、長州藩はこれを迎え撃ち激しい戦闘が展開された。

6月24日宇和島沖に蒸気艦が黒煙を吐いて現われた。
それは英国軍艦だった。人々は英軍艦が下関付近を攻撃
して長州藩の各砲台に激しい放火を加え、陸戦隊を上陸させ、
ついで鹿児島を襲って薩摩藩と砲火を交え、鹿児島の町に
火を花って大火を起させたことを聞き知っていた。
条約国の中でイギリスは、米、仏、蘭、露の各国よりはるかに
戦闘的で、宇和島を襲う為に来航してきたのだと思った。
町々にお触れが伝えられた。英軍艦は来攻してきたのでは
なく宇和島藩との親善のために来たという。
伊達宗徳が舟で英軍艦に赴き、しばらくして英人が丁重に
宗徳を送って上陸した話が伝えられた。

英艦はアーガス号で、英公使パークスガ乗艦し、通訳官の
アーネスト・サトウも随行していた。サトウはその著書「一外交
官の見た明治維新」のなかで、群集が極めて友好的であった
ことを記している。
翌日宗城、宗徳は家臣とともに舟に乗り、アーガス号に赴いた。
英側にはサトウ、宇和島藩側には三瀬周三がついて、会話が
巧みに通訳された。公使パークスは酒食をすすめ、政治、外交
問題等につき意見を交換した。英側は宗城が欧米事情に広い
知識を持っていることに感嘆した。宗城はワーテルローの兵術
なども口にし、パークスらを驚かせた。

翌日パークスは英士官と小銃隊をともない、上陸し射撃の術を
競いあった。その後浜御殿に案内され酒食の供応をうけた。
その席で宗城はパークスに「自分の考えでは、日本は天皇を
元首とする連邦国にしたほうが良いと思う。私の意見に薩摩、
長州両藩も同意している」と注目すべき自説を口にした。
パークスは「それ以外に方法はないでしょう」と答えた。

アーガス号は翌早朝抜錨、礼砲が放たれた。
宇和島に長州征伐の結果が伝えられた。長州藩の圧倒的な
勝利に終わり、四国から参加した松山藩も敗北を喫した。
長州藩は優秀な洋式火器をそなえ、戦術も優れ、士気も
高かった。

大砲は鋼鉄製でなければならぬが、日本には鋼鉄を作る技術
さえなかった。島津斉彬、鍋島閑艘、江川太郎左衛門は
反射炉(溶鉱炉)から作った。宗城も大砲を鋳造させているが
特筆すべきは領内で独力で黒船(蒸気船)を建造させたこと。
蒸気船というのは西洋文明、科学技術の結晶である。
城下の提灯やの嘉蔵という手先の器用なこと無類という男が
いた。宗城はこの男にすべてを任せた。
6年かかった。長崎へ留学したり外国船を見学したりして、
とにもかくにも蒸気船を作りあげてしまった。

幕府側は仏人ベルヌイを招聘、勘定奉行小栗上野介が中心
となって、横須賀で製鉄所、造船所の建設を進めていた。

この時の造船所、宇和島造船、三宅造船は今も存続している。
ハワイ沖で米原潜に衝突された宇和島水産高校の練習船の
悲劇も思い出す。

かくて宗城は明治政府に起用され、明治初年ころは難しい
局面の外交を担当、次いで大蔵卿(大蔵大臣)に任じられ
また全権大使として清国との条約を締結するなど活躍した。


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海経5・6分隊会 36期最後の文集

36会最後の文集委員会が設置され、本田親史委員長
から、文集作成の趣旨の案内あり、最後の感懐を書いて
くれるよう、締め切り3月31日,編集リーダー、宮本三夫
宛てで依頼があった。
この文集刊行は最後の事業になるやもしれぬとある。

自分は軍国少年ではなく、不戦派、非戦派であり、
戦後も36期会の事業には殆ど参加せず、また、会の
運営に積極的に行動したことも無い。このため、自分
は文集に応募することは出来ない。

小学5年の時母を亡くし、忽ち非情な現実に立ち向かう
ことになった。中学に入った頃、父は職を失い、友達の
つてで広島因島の造船所に職を得たものの、兄は母の
父親の学資送金により、下宿生活、妹たちは宮崎の
親類に預けられ、自分は父の細々した送金で下宿生活
をしていた。
このような状況だったから高校進学は無理で、学資、
生活費全額負担の学校施設を探さざるをえなかった。
太平洋戦争は中2の時に起こったのだが、親類が残して
いった小学生全集で自然科学や世界歴史を読んでいたし、
自然の探求を目標にしていた。
これを自分は[真実一路]と称していた。

戦争中であろうと戦後であろうと、自分の生活は立てて
行かねばならぬので、戦争が終っても役に立つ学問、
技術を取得するには、生活費もみてくれる軍学校しか
ないとすぐ判ったが、軍である以上死の危険を避ける
ことは出来ない。その時はその時と、考えてもしようが
なく、海軍経理学校が浮かんできた。陸軍経理校も
候補になったが、やはり海軍だと思った。

こんな戦争をしてどうなるんだという自分の考えは、
配属将校の察知するところとなり、散々嫌味を言われ、
お前のような奴ばかりなら日本は戦争に負けると
言った。しかし内心は負けるかもという不安があった
ともとれる。この人は後にビルマ戦線に徴収され、
戦死した。

受験勉強を集中的にしたので、幸い海経に合格する
ことができた。
東京築地校にはk関東大震災後、日本橋で雑貨商を
していた父に付き添われ出頭した。父は日本橋で株
もやっていたらしく、世界大恐慌で大洲に引き揚げた。

学校では同期、上級生や教官に自分の洞察を知られぬ
よう、目立たぬよう控えめに行動、生活した。
軍の学校だけあって、戦局はなんとなく伝わってきた。
昭和19年夏、不思議なことに約半月の夏期休暇が
あり、その時父と兄(理研に勤めており、徴兵は免れて
いた)は会社の川崎の社宅仁いたが、自分は何となく
宇和島に行くことにした。

宇和島では酒造の井上さんのところに泊めてもらったが、
二人の子持ちの女主人、久子さんには、非国民と言われ
自殺した夫がいた。宇和島にできた予科練の生徒に
日曜集会所として自宅を提供していた。この人に
「戦争は後1年で、遅くも2年以内に終る。日本の敗戦で。
しかし今は戦争中なので死の危険はいつでもある。
死なないように行動すること。他言無用」と告げた。
ほっとしたのか、その後さりげなく礼状がきた。
自分の家族にも同じことを告げていた。

戦争終結の放送を聞いたとき、「わりあい早かったな」と
思った。後に天皇たちが苦心、努力して終戦に持ち込んだ
ことを知った。
この時の心情は同期にも話していない。今回が初めてだ。

学校を去るとき、皆が色紙を残し、今それが「契神」に
纏められているが、自分のは「真実一路」であり、今でも
これを抱いて勉強している。自然科学の第1線には勿論
行けないが、成果は理解できるよう普段から気をつけて
いる。

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海径5・6分隊会 12月8日 08

一ツ橋如水会館14階梧桐の間で、13時ー15時で
昼食、歓談。後14階コーヒーショップで引き続き懇談。
出席 10名
1号 阿部、2号 高橋 3号 竹田、和田、地引、高橋
飯田、加藤、河田、河野

近況
坪井 徑 体調悪く、医者通いの連続。皆様お元気で。
詫間 広 元気に過ごしている。ご盛会を祈る。

阿部文弥 短歌
○配給品などを受け取り お逢いせし 大和主計長は
 石田教官
○戦艦大和の存在感の一端は 展示されたり模型に
 よりて
○川の名の軽巡最上に乗り組みぬ 吾と種田とコレス
 8名
○重巡の鳥海には堀田 羽黒には畏友福田ぞ乗りし

宮崎 英雄 2号
月1回の一士会(35期関西の集まり、32,34期の関西
在住者も参加)で楽しく過ごしている。

吉岡 博之 2号
27期古川信行さんの関係で、特務艦伊良湖のことを
調べて、我々の分隊監事であった25期の高木教官の
色々なことを知り、いかに立派な人であるか実感した。
生徒出の任官生存者は、賀集さんが亡くなって僅かに
112名。
「後期誠斗会会報」第2号刊行のため、目下大多忙。

高橋元清 相変わらず会計事務所の業務に従事。
飯田和夫 パソコンの講習に通っている。
地引正雄 何かと忙しく過ごしている。
和田宏   この2年は堀田、賀集両1号生徒、鵜飼2号
       生徒と続けて逝去され、何とも淋しいことだ。
高坂信一  今年も北京五輪、米国発の黒人大統領、
       金融危機を体験した。日本の将来について
       諸兄とお話ししたい。
加藤昭三 町内会や福祉法人等で忙しく過ごしている。
福間 喬  老化と闘い中。皆の健勝を祈る。
宮村光重 このところ少々古事記の読みと生釈の勉強中。
河田潤  三六会のメンバーお4割が鬼籍に入り、淋しく
      なった。賀集さん、加賀君の葬儀にお参りした。
安井 銈 遠出困難の為鎌倉市から一歩も出ず。
河野啓二 心房細動あり、本人は気にしていない。飯田の
       「神戸大水害、飯田和夫の戦い」をブログに
       載せた。ジャンルは海径。36期文集委員から
       文集を作成する。「最後の感懐」を書いて貰い
       たいとの依頼が全員に来た。
米の金融危機の要約をブログに書くのが忙し
       かった。36期サイト高木寛の時事放談が活発。

開会に先立ち、賀集さん、加賀君のご逝去を悼み黙祷する。

竹田幹事より「築地5・6分隊の写真集」作成の提案があり、
アイデアのあらまし、スケデュール、予定、出来上がり概要、
パソコンでの作業内容、部数、販価などドラフト付きの具体的
な提案があり、各自の意見を聞く。
遺族に配布の予定もあり、あまり詳しい文集などは好ましく
ない。また詳しくすると時間がかかって反って出来あがらない、
写真集だけのものが望ましい。但しデータ(日時、場所、
人名)と簡単なコメントは付けるのが良いとの意見一致、
この線で作業開始開始することになる。これだと来年2月に
完成するかも。

すでに河田が正規の写真、引継ぎ資料をサブ・ザックに入れて
持ってきてくれており、これから使える写真を抜き出すが、各自
がもっている貴重な写真は来年1月末までに竹田宛に送る
ことになった。写真もメールで送ってよい。
その上で東京在住の委員(竹田、河田、和田)が写真の選別
を行う。地引、河田、和田、高橋(元)は5・6分隊会設立の
経緯につき資料を出すことに。
製作は竹田のパソコンによる手作り。A4,横書き、片面印刷。
部数55部予定。販価1,500円程度。
今後の進捗方法については、竹田、河田、和田、高橋(元)、
地引の間で協議する。

5・6分隊会の過去の引継ぎ書類の処理方法、廃棄、整理
保存につき討論、廃棄よりも整理保存の希望が多い。

飯田和夫
径校のダビッド数につき、これまで6基とか7基と異論があった。
写真で調べたところ5基と判明、関心を持つ仁に写真を示して
5基だと説明したが、納得しない人がいる。反論しないが承伏
しなという人もいる。

阿部
写真集は2,3人でやる外ない。写真出すだけならOK。
あまり精神的な面をだすと変な形になる。
いい加減に作るのが良い。未完成のままでやるのが正解。

自分は生徒時代カメラを持っていた。久保山の家は写真屋で
当時貴重なフイルムをくれた。

地引
写真集を残すことは良いことだ。昭和32年三井本館で福田
さんに会ったことあり、当時主計局の防衛担当だった。
コーヒーに砂糖を入れないと駄目。

高橋
写真は東京の実家に置いていた。家は3回空襲に遇い、古い
ものは全てなし。

和田
1月末に完成することにする。半年先だと結局できないことに
なる。36期のサイト利用できないか。
昭和35(1960)年から5分隊の人に逢えるようにしようと
いうことになった。
最初の会合は日本橋のどこかでやったのを記憶している。
3号に成り立ての頃、堀田さんの家で写真を撮ったことあり。

加藤
お手伝いできない。

河野
川崎の社宅が空襲により焼け、古い資料がない。

竹田
この写真集は1.Affirmativeのもので2.いい加減なもので
良しとする。
長生きの煙草を吸っている。
堀田さんは立教大学卒業後、東海電極に入社。

高橋
鈴木福夫(2号)さんは浅草の料亭の息子で、一浪して
やってきただけあって、16才の少年には手におえなかった。
屋上の洗濯場で、パンツの洗いかたにつき3号に講釈が
あった。
税理士になった頃、仕事を知らないので、鈴木さんの品川の
税務事務所に行ったところ、共同経営の坂本さんが出てきた。
事務所は後、五反田に移った。
税理協会の会合で鈴木さんの息子と隣り合わせになった
ことがある。

高橋信雄
或る時電話が鈴木からかかってきて、今日は8月15日だ、
飲もうということになって、連れまわされ結局、鈴木の実家に
泊まってしまった。
(後に電話で鵜飼さんの病気は聡胆管がんと知った)。

景色の良い同じ14階のコーヒー・ショップに移り、15時45分
解散。次回例会の予定、平成21年5月27日(水)会場は
今回と同じ如水会館。

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竹田 腆のイタリア中世史 王女アデレード

竹田から地中海歴史風土誌第28号、2008年10月
25日に掲載された彼の論説を送ってきたので、要約を
書き出す。

Adelaide (独Adellheid) 931-999。南オーストラリア
州都アデレイドはこの人から名をとったのではなく、英国
王妃アデレードから採られた。

登場人物は
○アデレード イタリー王国の西の隣国、ブルグンド王
ルドルフ2世の王女
○ロタール2世 イタリア王ウーゴの王子、アデレードと
結婚、1女エーマを儲ける。 後王子は毒殺される。
○ベレンガリオ2世 イタリア王国の僭主 息子との結婚
を迫り、断られたので、アデレードをガルダ湖畔の城に
幽閉する。
○オットー1世 東フランク王、アデレードを救い結婚し、
イタリア王、神聖ローマ皇帝になる。

王女アデレードは2才の時、ブルグンド王であり、イタリア
王であった父をうしなった。ロタール2世と19歳で結婚した
が、まもなく夫が毒殺される。
王位の簒奪をした僭主ベンガリオ2世に幽閉される。
屈辱的な虐待をうけながらも、1人の侍女と共に土牢から
脱出、オットー1世に助けられ初代神聖ローマ皇帝の皇妃
となり、ザクセン朝の帝国の基礎を築く。
彼女は美しく賢く高い教養を持ち、信仰心も篤く、しかも
決断力のある女性と言われる。また4カ国語に通じ、ハープ
を巧みに奏した。10世紀西欧の最も傑出した女性の一人
に数えられる。ドイツ史上ではドイツ帝国の母として称えられ
ローマ教会からは聖女アデレードとして崇められる。

イタリア王国の誕生
イタリア王国は中世の後期855年に誕生する。
843年のヴェルダン条約により、フランク帝国が3分割され、
東、西、中フランクが生まれた。
中フランクの国王の死去により所領が3分割され、イタリア
王国、南北ブルグンド、ロートリンギアとなった。

イタリア王国のルイ2世が嫡子なく死亡するや、王国は
西、東のフランク王」たちが入れ替わり国王になる。
4代目イタリア王シャルル3世以後、男系の後継者不在と
なる。
ここで王位継承の混乱がおこり諸侯たちの王位簒奪の戦い
が始まる。イタリア東北部のベレンガリオ1世が887年に
イタリア王と称したが、再度王国は内乱状態になる。
その先頭を切ったのがアデレードの父ブルグンド王ルドルフ
2世だった。

ルドルフ2世はロンバルデイアに兵を進め、ベレンガリオ1世
を破り、イタリア、ブルグンドの双方の王となる。
しかし数年後諸侯はアルル伯ウーゴをイタリア王に推戴した。
ルドルフ2世はブルグンドに戻った。
933年ウーゴはルドルフ2世と和約し、ルドルフにプロバンス
を譲渡し、代償にルドルフのイタリア王位を放棄させる。
和約の印しとして、ルドルフの2才の娘、アデレードとウーゴ
の7歳の息子ロタール2世との婚約が決められた。

和解の4年後の937年にルドルフ2世が死去する。後継者の
兄コンラード3世はウーゴの反対にもかかわらず、ドイツ王
オット1世の庇護下に入る。母ベルタはウーゴと結婚すること
になり、アデレードもパビアのウーゴ宮廷に移った。
彼女の知的な教養はこの時期につくられた。
ウーゴはベンガリオ2世との戦いに敗れ、和約で息子ロタール
2世をイタリア王として残し、プロバンスに戻った。

948年ウーゴの死後2ヶ月後に二人は結婚する。王国の共同
統治者になる。アデレード16才、ロタール21歳だった。
3年後ロタールが突然急死する。王位を狙うベレンガリオ2世
の毒殺と言われる。
19歳の寡婦となったアデレードと娘のエーマが残された。王妃
アデレードは単独の女王になった。彼女は自らの意志で行動し
忍耐強く初志を貫徹した。その果たした役割は、イタリアおよび
ドイツの歴史の流れに大きく影響した。

ベレンガリオ2世はイタリア王を僭称し、所領を現実的に支配
している。かれは王位を合法化するために、その息子18歳の
アダルベルトと結婚するようアデレードに要求した。彼女は
拒否した。ブルグンドへの脱出を図ったが、コモ湖畔の街コモ
で追っ手に捕らえられる。
951年二人の侍女と共に、ガルダ湖(コモ湖の南東)岸の
ガルダ要塞に幽閉される。最後には一人になった侍女とともに
日の射さない土牢に閉じ込められる。
4ヶ月にわたり衣食も満足に与えられず苦悩の日を過ごした。

アデレードを支持するマルチーノと称する司祭の援助により
脱出する。司祭は城外から、アデレードと侍女は部屋の中から
素手で穴を掘る。ついに穴は貫通し3人は手配された小船の
場所に走る。脱走は発覚し、麦わらの山に槍を差し入れ探す。
幸い見つからずカノッサアに逃れた。
カノッサ伯アダルベルトはロタール2世の旧家臣であった。
ベレンガリオはなお諦めず、軍勢を率いてカノッサ城を包囲する。
司祭マルチーノはアデレードのオット1世宛ての密書を携え、
ドイツに脱出する。密書には救出を願い、オット1世とは結婚する
ことによりイタリア王国を提供することを伝えた。

951年オット1世は大軍を率いてイタリアに南下する。
ベレンガリオは他のイタリア諸侯ととみ降伏した。

尚カノッサの戦いをテーマとした「ブルグンドのアデレード」なる
ロッシーニ作のオペラがある。

951年パヴィアでオット一世とアデレードの結婚の式典があった。
オットは39歳、アデレードは20歳。952年に時の教王により
イタリア王を受冠する。共同君臨である。その後オットの第2次
イタリア遠征で、ローマに入り、教王ヨハネス12世から皇帝位を
受ける所謂「神聖ローマ帝国」の誕生である。アデレード31才。

王妃アデレードはイタリアの住民に愛されていた。その高い教養
寛容な人柄、波乱の逃避行が人々に感銘を与えた。オット1世
の北イタリア支配に多くの貢献をした。その後のオット2,3世の
摂政としてザクセン朝の確立に献身した。その業績により「帝国
の母」と称される。

それからの道は必ずしも平穏ではなかった。嫡子オット2世、孫の
オット3世の輔弼、その間オット2世の妻テオフアーヌ(ビザンチン
皇帝の姪)との確執、幼児で手放した娘エーマの探索、その後の
37年の波乱はアルザスの修道院で目を閉じるまで続く。999年
12月16日に68年の生涯を終えた。

イタリア王国はともかくも帝国の傘下の王国として存在した。
しかしその後は皇帝の空位期、乱立期をむかえ、なんら実体の
ない王国になり、イタリア王の名は、ローマ王となり、その称号だけ
が宙に舞った。

近代国家が形成されるに伴い、イタリアはハプスブルグ家、
ヴァロア家による覇権による戦い、ドイツ、フランスの「イタリア
諸戦役」の場となる。その後19世紀初頭のナポレオンのイタリア
遠征にはローマ王も王位継承の血統も無視された。
代わりの錦の御旗は啓蒙主義の自由、平等、封建制からの
開放となる。


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海軍カレー 横須賀カレー祭り

日本のカレーライスは海軍ゆかりの横須賀から広まった。
99年に「カレーの街」を宣言し、地域活性化に取り組んで
きた横須賀市では11月15,16日、三笠公園で
「よこすかカレー・フエステイバル」が開かれる。10回目
の今年は、県内外の30を超える地域からカレーを中心と
した、ご当地料理が集まる。
15日三笠公園に出かけてみた。

F地区の横須賀コーナー(野外音楽ホールの近く)では、
9種類の「よこすか海軍カレー」から4種類を選び、300円
で食べられる「カレー・バイキング」もある。
9軒の店は
1.ウッド・アイランド、2.さいか屋、3.魚藍亭、4.黒船亭
5.CoCo壱番屋、6.食肉事業共同組合、7.ハーバー
ライト(防衛弘済会)、8.ヤチヨ、9.調味商事
(よこすか海軍カレーの名称は登録店だけが使用を許可
されている)
午後1時から1時間米第7艦隊音楽隊の演奏が音楽ホール
で行われる。(16日は海上自衛隊横須賀音楽隊)

オリジナル・レシピは明治41年の「海軍割烹術参考書」に
よるもので、牛肉(または鶏肉)、にんじん、玉ねぎ、
じゃがいも、塩、カレー粉、小麦粉、米などを使用し、
登録店が独自にアレンジを加えたもの。原則としてカレー、
サラダ、牛乳の3点セットで提供する。味は各店によって
異なる。

明治期の海軍の食事は白米、みそ汁、漬物という和食中心
だった。ところが長い航海で脚気にかかる乗組員が多かった。
英国海軍から西洋食を採り入れたところ、メニューにカレー
味のシチューがあった。
日本人に合うよう小麦粉を加えてとろみをつけ、米飯に
かけて食べるようにした。これが日本のカレー・ライスの
原点とされる。

カレーライスは海軍の人気メニューとなり、故郷に帰った
乗組員が家庭に持ち込んで全国に広まったという。
肉じゃがについては海軍ゆかりの呉市と舞鶴市との間に
本家争いがある。

会場では大変な人出で落ち着いて食事が出来ないので、
帰途、目をつけていた、横須賀中央駅近くの横須賀海軍
カレー本舗で、海軍カレー・スペシアル・ビーフ、1,200円
を食べた。サラダと牛乳(小カップ)とチャツネ(果物で作った
カレーに風味をつけるもの少々)がセットになっていた。
味は甘い。隣の席の爺さんのもう少し辛味があると良い
のだがという声が聞こえてきた。

○米海軍バーガー横須賀新名物に
横須賀市は「海軍カレー」に次ぐ新たな名物に育てようと、
米海軍からハンバーガーのレシピの提供を受けた。
「横須賀米海軍バーガーとして、協力店を通じて、来年
3月以降に売り出す。米海軍のレシピは、牛肉の味を
生かした塩とコショウだけのシンプルな味付けが特徴。

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横須賀 どぶ板通り

多くの人に親しまれている横須賀市・本町商店街の
「どぶ板バザール」が今回の7月19日ー21日の開催で
100回目を迎える。
1980年から始まり、年4回定期的に開催されている。

同商店街は明治時代から軍港街として栄え、太平洋
戦後は米軍の街として賑わった。
自分は名前だけは知っていたが場所は知らなかった。
米軍基地すぐ前の本町の西1本となりの通りだった。

米基地内で活躍しているチアリーダーやダンス・グループ
によるライブ・パフォーマンスなど華やかなイベントも
行われる。

自分は今日初めて行ってみた。車道も歩道もすべて
煉瓦やタイル張りで「どぶ板」の跡などなかった。
戦後60年たつのだから当り前。
Barはパラパラと或る程度で、その一つに入れてもらって
内部をみた。
この通りは汐入駅前広場に通じ、また横須賀芸術劇場
のすぐ近く。
この芸術劇場の場所に少女時代の江利チエミが歌って
いたEMクラブ(下士官クラブ)があった。

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堀切菖蒲園

6月5日(木)逗子西部地区の一人暮らし老人を対象として、市の福祉
協議会がバス2台で小旅行を行った。自分も相沢民生委員の薦めで
参加した。
行き先は「旧古川庭園」、「浅草寺」、「堀切菖蒲園」で民生委員を
含め、総勢70人。バスは相鉄バス。朝8時半、家の近くから出発。

旧古川庭園は駒込駅近くにある。訪れるのは初めて、鎌倉文学館に
似ている。バラが満開。黒塗りの上に品種名がかいてある、気取った
表示の板が挿してある。
洋館の中ではコンサートも開かれるらしい。

浅草寺では雷門すぐ横の三定(みつさだ)でてんぷら定食をとる。
自由行動で久しぶりで、仲見世通り、新仲見世通りを探検する。
浅草寺本堂では雷門提灯に次ぐ大きさの提灯を見る。
「人形焼き」を買う。浅草公会堂近くのホテル経営の喫茶店で
コーヒーを飲む。他に1組いるだけで静か。
バス駐車場に行くときだけ、雨が小降りになり、女性と相合傘をする。

堀切菖蒲園は花菖蒲が満開。4年目になると花が小振りになるので
3年経つと株分け植え替えをするという。「菖蒲」の葉脈は高く盛り
上がり「あやめ」と区別がつく。

高速道路から綾瀬川と荒川を見る。ここで海経時代のカッター遠漕を
思い出す。
昭和19年4月30日(日)、8時半、全校生徒が短艇、カッターの
並列陣形で、勝鬨橋東京湾寄りの学校カッター・ポートより出発。
カッターは二人座席の6艇座、12挺の櫂で漕ぐ。

墨田川を遡り、永代橋、両国橋を過ぎ、堀切水門から綾瀬川に出て
荒川放水路にでる。両岸の緑が美しく、腕にちょっとした疲労感を
感じながら、漕ぐと、宇和島中学時代宇和島湾でエイトを漕いでいた
爽快な感覚が甦る。

小松川橋付近から電光雷鳴を交え、ひどい驟雨が来た。生徒は
事業服の上に、雨合羽を着用した。驟雨一過、風は強いが、日光
を見た。河口近くで上陸、飯盒炊爨で午後2時過ぎ、昼食をとる。
東京湾を左舷に見ながら、月島の水道に入り、帰校した。

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ゴルフ場整理・再建

海経36期の飯田和夫君の、ゴルフ場擁壁訴訟事件の戦いを掲載
したが、自分はゴルフ場の整理・再建に当ったことがあるので、
書いてみる。

場所は青森県八戸市在のゴルフ場会社。1980年ごろ協力を頼ま
れたので、1年間働いた。この会社は青森市の有力肥料問屋の若
旦那が作った会社だった。仙台支店がコース造成、クラブ・ハウス
建設、機械設備の納入を行った。

土地は細切れの土地を購入したり、細切れの土地借り入れで、完全
虫食い状態だった。冬は降雪のため閉鎖となる。若旦那は時勢に
乗ろうと、ボ-リング場も3箇所ほど投資、運営していた。

ボーリング場が経営不振に陥り、ゴルフ場の売り上げを持ち出した
ので、今度はゴルフ場が経営困難となり、問屋自体も苦境に陥った。
従って仙台支店の債権は全て不良債権になった。

若旦那は法律上の整理など世間体の悪いことは、いっさい拒否して
いた。こちらが主導権をとらない限り、事態改善の見込みは無かった。
また、土地が虫食い状態なので、転売の見込みは全く無かった。
会社の法務部と相談したが、会社更生法は主に産業会社を対象と
したもので、ゴルフ場などエンタータインメント業は適用しておらず、
これは駄目と判明。

ついで簡素な手続き構造の和議法が考えられたが、債権計画の
可決要件や履行計画において、代表取締りの行為や債権者銀行の
立場でこれまた実行困難とみられ、行き詰まった。
ただ、商法上の会社整理では、代表取締りの同意がなくても、
取り締まりと大口債権者が連名して、裁判所に申し立てできること
が判り、これを推し進めることにした。

ゴルフ場の経営に真剣で、能力も高い取締りが一人いたので、
この人と組み、秘密裏に書類作成、八戸裁判出張所に申請する
ことにした。当日はその取締りと同行、八戸裁判所に行き、申請、
裁判官の尋問をうけた。債権者として今後とも、誠実に協力するか
との質問で、勿論すると答え、受理された。
青森銀行八戸支店にも事前了解を求めに行った。

裁判所の決定が発表されたとき、若旦那は烈火のごとく怒ったが
あとのまつり。
一般的に利益の出ている企業にとっては、滞り債権を切り捨て、
損金処理することは税務上有利になる場合がある。
損金処理すると利益が減るが、その利益部分には法人税40%が
かかる筈のところ、かからなくなるのだから、税金を節約できる。

しかし税務当局にしてみれば、なんでもかんでも損金処理されたの
では、税収が減るわけだから、一定の基準を設け、法的な議決や
取り決めがあった場合、すべての手を尽くして回収につとめた証拠
がある場合は損金処理を認め、回収努力もしないで、安易に損金
処理した場合は、相手先に対する贈与とみなし、高額の60%の
贈与税を課すことにしていた。
商法上の整理でも決まった案での切り捨て額は損金処理できる。

その後、若旦那は商法上の整理の利点を認め、本体の肥料問屋の
整理申請を行ったと聞いている。

問題は会員権の処理で、会員権所有者は「むしろ旗」を立てて
東京に行くとの噂が伝わってきたことで、常務はオタオタしていた。
実際はそんことは起こらなかった。会員権も一般債権として処理
されたものと思う。その頃は自分はこの件から離れていた。

平成12年(2000)民事再生法施行に伴い、和議法は廃止。
また、商法上の整理も利用価値が激減したこともあり、会社法の
施行に伴い廃止された。

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神戸豪雨水害訴訟 飯田和夫(元海経)の戦い

海軍経理学校・5分隊飯田和夫から神戸六甲ゴルフ場、集中豪雨に
より発生した、石積擁壁崩壊に係る死亡事故の刑事訴訟事件に
ついての、青木建設在勤中の手記が届けられた。

飯田は大蔵省門司税関に勤務していた時、青木建設の青木益次
社長(当時ブルトーザ工事)が、飯田を指名して大蔵省に働きかけ、
(大蔵省には海軍経理短期現役制度で海経の青木教官の薫陶を
うけた大学からきた多くの学生のうち、かなりの人が戦後大蔵省に
入省したので、コネは多かった)飯田を法律専門家として引き抜こう
としていた。

青木建設滝明洋次郎取締り福岡支店長が門司税関に来たり、
大蝶取締りが本庁関税局に来ていた。本人は大蔵省を辞める気は
なかったが、結局押し切られる形で青木建設に入社した。この経緯は
当時大蔵省に勤務していた、海経36期の垣水孝一が知っている。

入社すると社長秘書を命ぜられと共に、刑事事件訴訟担当となった。
事件の概要は、昭和36年梅雨時の集中豪雨で、六甲山頂の六甲
ゴルフ場にある、高さ2メートルの石積擁壁が崩壊し、下の人家の
一人の女性が埋まって死亡した。

2,3ヶ月に一回の公判に対する対策を、金子弁護士、業務上過失
致死罪で起訴された池谷群造工事所長(元)と立てることになった。
最終的には1審無罪、2審有罪(執行猶予付き、禁固刑)、
最高裁で棄却、有罪確定。
昭和44年まで足掛け9年の長期裁判となった。

六甲ゴルフ場、神戸市中央区は、昭和36年(1961)5月頃完成した。
布引の滝の近くにある世継山の山頂にゴルフ場を造成したものである。
現在は「布引ハーブ園」になっている。

六甲山系は花崗岩質で岩盤が風化に脆くなっている。鉱物学上、地形
状も危険地帯である。その頂上にゴルフ場を造ること自体問題は
ないのか。造成許可を出したのも疑問である。
六甲山系では以前、昭和13年、7月3日ー5日に集中豪雨があり、
最大時間あたり降水量が60.8ミリ、六甲山の総降水量616ミリ。
急峻な山地から、芦屋川、住吉川、石屋川、生田川に流れた水は
決壊、浸水、土石流などの 土砂災害を起し、死者616名、家屋の
倒壊・流失3623戸の阪神大水害が起こった。

それ以降、国の六甲砂防事務所は治水砂防事業を実施し、新規工事
はすべて設計段階からチェックされ、厳重な施行監督が実施されている
という。

第1審で神戸地検は石積擁壁の施行で裏込め栗石が不足と主張して
いる。
金子弁護士、池谷所長と再三打ち合わせ、鑑定証人を立てることになり
道路公団の方にも相談、武蔵工大の教授を鑑定人として申請した。
鑑定結果は、一つは石垣の上の約10メートルの「のり面」の角度が急
であるので崩れた。もう一つは土質が悪く、その中に木の根、草等が
混入していたので崩れたということになった。
一方、地検側は神戸大の教授の意見をとっていた。地検はあくまで
施行の瑕疵と主張した。

石積が正しかったのか、のり面の設計に問題が無かったのかについて、
神戸市土木部長等の参考人尋問が行われたが、問題は無いとの証言
がなされた。又、現場の工事写真では、栗石は十分に入っていると
見られた。

神戸地裁も困って、裏込め栗石があるかどうか、現場発掘を行うこと
になった。
しかし、崩壊箇所は既に修復されているので、ほかの場所を発掘する
ことになるが、崩れていないので原因が判明すす筈はなかろう、現場を
発掘すると2次災害引き起こす懼れありという問題が出てきた。
昭和39年現場発掘検証が行われることになった。
石垣自体を崩すことは出来ない。石垣の背部を掘削するのである。
底部まで2メートル近く、検証にあたる人が入れる穴を掘ることは、現場
状況からして大変なので1メートル強掘ることで終ってしまった。
1日がかりの検証ではこれが限度だった。
裏込め栗石を取り出してみると、施行時の写真ではかなりあった筈だが、
案外少ない。長年月の間に底のほうに沈みこんだのではないかと思った。
施行時現場では、栗石の材料となる石が沢山手にはいったので、余分に
入れたとの証言もあった。

池谷所長は朴訥で田舎のお百姓さんの感じで正直な人間である。公判
時の印象もよかった。裁判官は「ここにも栗石がありましたよ」と好意的
である。そのとき、これは無罪の確率は高いなと感じた。
結局昭和40年(1965)の1審判決は無罪だった。

無罪判決に対し検察側は控訴したので舞台は大阪高裁に移った。
高裁では双方の主張に対し、判断に苦しみ、またまた鑑定することに
なった。
しかし、地元の京都、大阪、神戸の大学はすべて辞退した。それではと
九州大学の教授に鑑定を依頼し、教授はうけた。
九大教授は、さらに現場発掘検証をしたいというので、再び発掘する
ことになった。昭和41年、発掘の結果、裏込め栗石は前回よりさらに
少なかった。

発掘後全員が歩いて生田川まで下りて、川のすぐ傍の茶屋に立ち寄り、
休憩したが、裁判官が持ち帰りのため、つつじの木を引き抜いた。
それを見て茶屋の20代後半の美人が「法律を守る人がどうしてこんな
ことをするのか」と烈火のごとく怒った。つつじは茶屋に返された。
皆に茗荷の苗がお土産として渡された。

昭和41年末、提出された九大教授の鑑定では工事の手抜きが原因と
あった。このため、42年春に福岡地裁に赴き出張尋問となった。
寒い日で石炭ストーブで全員暖をとった。 嫌な判決が予想された。

後年建設省で、どのくらいの降雨量で崩れるか、どんな時間降雨量で
崩れるか実験をしたが、突然の土砂崩れで犠牲者がでるなど、中途
半端に終った由。当時はっきりした定説はなかった。

現地では悪いことにさらに、昭和42年7月5日ー9日に大集中豪雨が
が起こった。

神戸地検で調書をとられていたのは、泉光秋専務と池谷所長の二人で
あった。池谷氏は36年末に退職しており、裁判の都度名古屋から来て
いた。泉氏は昭和41年4月に退職、42年4月には顧問も退職したので、
飯田が一人で戦うことになった。
当時総務課長と人事課長を兼務し、債権回収の仕事もやらされていた
ので、シンドイことであった。午前中は一階総務、午後四階人事、
時間外は法律事案と目の回る忙しさだった。

昭和42年5月、検察側の申請で現地で、六甲ゴルフ場の専務の証人
尋問があった。同専務は崩壊の原因は工事の手抜きであるとの証言が
なされた。ゴルフ場の企画・設計に問題がなければ、後は不可抗力の
天災か、工事ミスかどちらかになる。

42年7月5日から、今まで経験したことがない激しい雨が阪神地方を
襲った。断続的に9日まで降り続いた。昭和13年に匹敵する大水害
だった。
雨が止んで、六甲ゴルフ場の様子が心配になり、宮崎英雄土木部長と
共に六甲山を登った。途中の道には石や木がゴロゴロし水が流れ、
歩くより仕方なかった。やっとのことで、生田川沿いに歩いて茶屋付近
まで来て驚いた。なんと茶屋が土砂で流されて跡形もない。
茶屋の主人が一人でいる。聞くと家族全員が行方不明とのこと。彼は
当時家にいなかった。
上を見るとゴルフ場のコースの端から、扇状に土砂崩れが、数十メートル
にわたり、発生して茶屋を樹木もろとも押し流しているではないか。
このコースは、青木建設が造成後、ゴルフ場側が増設したところである。
このため、後日、ゴルフ場の専務が起訴されたと聞いている。

別の道を通って上に上ってみると、なんと、どのコースの芝生の上にも、
大量の水が流れていて、凄じい光景である。
石積擁壁のすべての水抜き穴から、激しく水が噴出している。また石垣
の間からも水が流れている。
ただ、擁壁は全部大丈夫である。全部のコースがコースと言えない状態
である。今回の土砂崩れは天災と思った。

後日、茶屋の若い女性は布引の滝で遺体で収容され、あとの二人は
海で遺体で発見された。

これから数ヶ月後のわれわれの2審判決は有罪(執行猶予付き禁固刑)
となった。早速上告したが、上告の理由に当らずとして棄却され、
池谷群造氏の有罪が確定した。昭和44年春のことである。
(飯田が入社した時には、既に民事で遺族とブルドーザ工事の間で
和解が成立していた)

飯田は某有力者の機嫌を損ね、昭和43年8月、形式的には会社退職と
なった。茶屋で貰った茗荷は、どうしても捨てる気にならず、転勤の都度
運び、今でも毎年美味しい茗荷を食べている。

追記
本件判決後、海経36期の藤井俊彦君(当時大阪地裁判事)に「大体
判決文を見ると、刑事、民事を問わず白か、黒かのみである。100%
白か、黒かということはおかしいと思う。世間の常識ではない。何割の
責任があるか、%で言われると納得できるが」と話した。
その後、藤井君は名古屋地裁で、昭和53年1月30日に起きた
飛騨川バス転落事故・国家賠償訴訟で、国の責任が何割であるとの
比率判決を下した。多分日本で初めての判決と思われる。

地球温暖化に伴い、豪雨被害が多発している。
なんとかならないものか。     (終)


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海軍経理学校 5・6分隊

海軍経理学校、築地校に昭和18年(1943年)12月入校した、
第36期生は学年別の単位のほかに、生活単位の分隊にそれぞれ、
配属されたが、その時の分隊名である。
分隊は最上級の1号生徒4名程度、2号生徒7名程度、新入生3号
16名からなる。分隊リーダー1号を伍長と称した。
士官が分隊監事(両分隊担当)(高木 彰)を勤める。

この分隊会はかなり長期に続いているが、今後この会の例会の
模様および関係者の思い出や現在の動静を書いていくつもりだが、
文責は一切自分にあり、今後、思い違い、誤り、不十分、説明不足
等多々あると思われるが、間違いの指摘を望む。
ブログ右側、下部のジャンル別検索で「海経」をクリックすると、該当
記事が出てくる。

最初の分隊会の幹事は地引正雄(5分隊だけを対象)、次に加賀裕
(このときから5・6分隊合同)、加賀病気のため地引再登場、ついで
河田潤、現在の竹田腆。
分隊の名簿は別記する。亡くなった方の年月日がわかる竹田の労作。
前回の会合より場所は、一の橋、如水会館(東西線竹橋下車)14階
に変更。会費6千円。13時より15時、次回は12月8日。
会での話しは順不同。

○高橋元清
入校後恒例の3号に対する1号の初の気合入れビンタのイベントが
剣道場で行われた。ビンタなんか知らないのが殆ど。ショックを
受けたが、なんとこのとき高橋は歯科治療のため、1号の池田卓三と
共に歯科医のところへ行っており、ビンタを免れた。同期より通算で
20ケは少ないと誇っている。歯科医院は校門を出てすぐ右側に
あるが、外出扱いになるので、出退とも届けを出し、正式軍装を
着用せねばならなかった。分隊に帰った高橋は、5分隊の1号から
何も言われなかったのが不思議でならない。
軍医長は学校にいた。
阿部1号によると、ビンタは陸軍の悪しき例を取り入れた悪行事と。

○竹田腆
父は舞鶴で水兵をしていたが、同期には、将官や佐官の息子が
たくさんいることを知り、肩身の狭い思いをした。
貧乏社員だった昭和29年、向こう見ずにも帝国ホテルで結婚式を
あげることにし、ホテル勤務の偉くもない36期の山野(旧姓山屋)
に頼み込んだ。人数は出来るだけ減らし15人とするから、一人
1万円でやってくれと言ったら、受けると言う。感謝している。

○河田潤
築地校のなかで最も景色のよい、環境の良い部屋は、1号館4階
6分隊寝室だった。窓から校庭と隅田川が見え、勝鬨橋の開門を
知らせる朝の鐘の音がよく聞こえ、それが総員起しの少し前だった
ので、起床の準備が手早くできた。
しかし窓際のべッドを占領していた6分隊の3号の背の高い人たち
7人は今や全部亡くなってしまった。なんたる仕打ちだ。
同室の5分隊は道路側だった。

6分隊寝室の横に非常階段があり、そこを通って降りてくる1号の
姿が格好よく、3号の憧れのまとだった。とくに5分隊1号の堀田の
姿は阿部(1号)も抜群と認めていた。

勝鬨橋は3年前にできた新しい橋だったが、2号館の分隊の人達は
橋の鐘は聞こえなかったはずだ。

★勝鬨橋
1933年着工、1940年6月完成。
月島側アーチ 石川島
築地側アーチ 横河橋梁  開閉橋 川崎車両 橋脚 宮地鉄工所
可動部 機械 渡辺製鋼所 電気 小穴製作所
1947-68 都電が通行した。現在は大型船の通行がないため
閉鎖。 開閉工事の話あるが、費用も莫大なので計画なし。

○河田
6分隊加賀裕君が4月22日逝去された。食道がんの手術で、声も
出せず、栄養は腹腔に開けた菅から消化器に注入するという、悲惨
な状態での7年だったという。
パソコンで文章をつくり意思表示をしていた。
次号の36会会報に「偲ぶ記」をのせる。

○阿部文弥(1号)
軍人恩給欠格者への慰謝の品、希望し万年筆を受領。蒔絵仕立て。
福田総理の書状も。

34期74名のうち、14名生き残り。
3号は1号の神尾清澄、高橋憲策が怖かった。阿部によると二人とも
活発だった。1号は分隊監事から1度も注意されたことはない。分隊
監事は生徒館に寝泊りしていたわけでなく、背広で通勤していた。

野球では堀田はピッチャー、キャッチャーは一ノ関中出身、野村だった。

短歌をやっているので、今後作品を河野のブログにのせる。
会の後、同じ階のコーヒー・ラウンジに移ったが、その際1首書いて
もらった。
新1号になり昭和18年5月、1号だけの新鹿沢、群馬行きの行軍が
あったが、山本長官戦死の報が知らされた。
「長官の歌ひしという唄を聞く なんと我が知る白頭山節」。
行軍係り・・堀田、西沢

短信で1首「おほどかに墨田河口に渡したる 勝鬨橋は日露の記念」

○加藤昭三
垂水校での外出時接収したジェームス・ハウス(山側)のプールで
泳いでいた。

○河野
日本、2006年も長寿世界一と報道去れていること報告。WHOの統計。
06年時点で、日本男女合わせた平均寿命は83歳で世界一。
日本女性は86歳で単独首位、アンドラ、モナコが85歳で2位。
日本男性は79歳で05年に続き2位、首位はサン・マリノの80才、
オーストラリアは79歳で日本と並んだ。

国内の市区町村別では(05年毎ベース)、横浜青葉区が81.7歳で
前回3位から1位に急浮上、2位は川崎市麻生区。(5年ごと公表)。
沖縄は老人男は長寿なのだが、若くして死ぬ人が多い。

和田が飯田がなにか自慢していたようだったがとの発言にたいし、
娘が東大出で旦那も東大、娘は化粧品会社の重役と補足する。

○和田 宏
山形出身だが家族が神戸に移り、自分は創設されたばかりの芦屋
中学第一回入学生。芦屋の実家は垂水校に近いが、実家に帰ると
直ぐ警戒警報で学校に帰らねばならず、落ち着けなかったとぼやく。
山形出身なので、藤沢周平の「蝉しぐれ」の舞台は、庄内藩だと直ぐ
答える。

○故 谷 太三郎(2号)
海軍経理学校の紹介映画が作られたことがあるが、主役は美男子
の典型であった、谷生徒だった。高知県中学の出身で水泳の名手。
36期の水泳の達人は大六野だった。北川は詩吟の名手だった。

○地引正雄
出席と通知しておきながら来ないので、加藤が電話したら、歯科の
予約がとれて安心したところ、この会のこと忘れたと、
3時前にやって来て、駆けつけ3杯で大急ぎの昼食。人気者なので
皆、笑いとばす。胸が苦しい時があり、放っておくと直るが、気に
かかるというので、阿部、河野が問題ないというが、兆候は出て
いるので、循環器内科へ行けという。血管を広げる薬くれる筈と。
阿部さんは狭心症(冠状血管が細くなる心臓病)をやったことがあり、
カテーテル経験あり。薬は継続している。河野は心筋梗塞初期
経験者、カテーテルで小さな血栓を吸い取ったことあり。

○竹田、河田、和田
コーヒー・ラウンジで前立腺がん」について、薀蓄を傾け、群盲、象を
論じている。
PSAの正常値は1-4.竹田は6-8で薬を貰っていると。

○飯田和夫
旅行世話役で欠席。河野が飯田が36期サイトに投稿している2編
を紹介。
1.青木教官の後年の様子がわかった。
2.19年夏帰省したら、19年6月B29の北九州爆撃で、飯田の
実家の前の一家が爆弾でやられ、全員が亡くなっていた。
3.北海道に出張した時、会社命令で1日早く帰京したが。予約
していた次の日の全日空便は雫石で、自衛隊機と衝突墜落した。

短信
○賀集 唱(1号)
リハビリ中、足が不自由。(白血病 発症)
○宮崎 英雄(2号)
関西で元気に活躍。加賀君の死去残念です。
○吉岡 博之2号
右腕尺骨を骨折、先日やっとギブスを脱す。加賀君のご冥福を
祈る。
○高坂 信一
加賀君とはベッドを並べ、私の両親も山形県出身だったので、
たいへんお世話になりました。なんといっても、棒倒しで鎖骨、骨折
しながら最後までスクラムを崩さなかった闘魂が今でも忘れられない。
○福間 喬
今春結婚60周年、現在孫7人、曾孫5人。倅たち3組夫婦。
○宮村光重
阿部先輩によろしく、皆さん、お元気で。
○安井 銈
元気、鎌倉市から出ない生活、自宅から富士が見え楽しみ。皆様に
よろしく。

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イタリー 彷徨える鉄王冠

海経36期の竹田腆君から歴史小冊子が送られてきた。
ローマ崩壊後ナポレオン侵攻までのイタリーの歴史はよく判らないが
この部分をとりあげて記述した労作。

王冠の変遷をテーマに王朝の栄枯盛衰を興味深く読ませる。
一つの小さな王冠がイタリア王国の王位と共に旅を続ける。
6世紀後半、ロンバルドのイタリア王国の首都パヴィアに始まり、19
世紀後半ナポレオンの王国後、イタリアの国家統一運動、リソルジ
メントにより統一されたサヴォイ朝の首都ローマで終る。
Quo vadis, la Corona Ferrea

この王冠はロンバルデイアの鉄王冠、ラ・コロナ・フエレーアと呼ば
れる。欧州最古の王冠であり、イタリア王国の王位継承の徴として、
伝統的に受け継がれた。云わばイタリア王国の3種の神器である。

ロンバルド族はゲルマンの1枝族であり、6世紀なかばイタリアに
侵攻し、イタリア王国を建てる。北伊のパヴィアを首都とし、2世紀
以上にわたり、安定した政権を保った。最盛時には南部を支配した
ビザンチンと半島を2分した。

内径15センチの小さい王冠。
内側の鉄リングは、キリストの十字架に使われた、釘の一つを
延ばして造られたもの。ロンバルド王国の王妃、テオデリンダ作成。

王冠をめぐるファンタジー物語とも読める。

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横須賀芸術劇場専属 少年少女合唱団

全国でも珍しい劇場専属のアマチュア児童合唱団が3月29日横須賀
芸術劇場で10周年記念コンサートを開いたので見に行く。当日券千
5百円。
京急汐入駅前から直ぐのエスカレータで劇場入り口へ。便利。オペラ
劇場風ホールで5階まで席がある。新しくきれい、とてもいい感じだ。
今日は当日売りの3階席。3階にも飲みもの、軽食売りのサービス・
カウンターがある。

合唱団は小3から高3まで主に市内在住者を中心に構成、普段は週
一回、2時間ていど練習に取り組んでいる。
Jクラスは小学生3年ー6年50名、Sクラスは中1-高3、48名。
常任指揮者 武田雅博、ピアノ 渕上千里、客演指揮者 長谷川冴子
毎年の定期演奏会に加え、世界合唱シンポジウムへの参加や東京
交響楽団との共演など活躍の場が年々広がる。

第1部 
○女性合唱による日本の四季
早春賦、若葉、さくら貝の歌(Sクラスのみ)、浜辺の歌、宵待草(S)、
どこかで春が、花のまわりで。

○グリーク「子供のための歌曲集」から七つ、ノルウェーからの贈り物
Jクラス(小学生のみ)、小学生だけなので北欧の和音発声に難しい
ところがあった。
北極海の船乗り、神様のおくりもの、つかのまの春、漁夫の歌、
おやすみブラッケン、ノルウエーの山々、美しきわが祖国。
日本の歌曲に似ている。

今年度から編成変え。小2-小6はジュニヤ、中1-中2はミドル、
中3-高3はシニアとする。

第2部 Sクラス 客演指揮 長谷川冴子
1.De Angelis 天使について P.Eben曲
2.Trois Antiennes a la Sainte Vierge Marie 聖母マリアのための
三つのアンチフォナ H.Busser曲、3.Nigra Sum ニグラ・スム 
P.Casals 曲。
プログラムに歌詞対訳がついている。

越天楽 Jクラス(5,6年生とSクラス)
この曲は05年7月、京都で行われた第7回世界合唱シンポジウム
にて演奏した。 箏は富永雅美智(横須賀三曲会)、小太鼓は団員
二人がたたいている。

○思い出のアルバム
With you Smile,Smile Again,スタートライン、Believe,地球の家族。
清らかな声はウイーン少年合唱団も真っ青だ。
10年間で86曲CD録音をした。今の高3の生徒は、98年の次の年
に小3で入った生徒。

卒業した人がいっしょに歌わせてもらいたいとのことで、今回30人が
参加し、「友達はいいな」、「さよならの歌」全員、身振り、手振りが
きれいに揃って迫力あり。帰りにCD「スプリング・コンサート07」を
購入したが、この中にも入っている。

帰りに、海岸のベルヌイ公園に行く。幕末、横須賀製鉄所や造船所
の建設・運営に貢献した仏人ヴェルヌイ(Verny)を讃えて名をつけた。
幕府側の建設推進者は小栗上野介勘定奉行だった。
桜が満開。潜水艦2隻、イージス艦2隻が見える。
戦艦「長門」の碑の横に、戦艦「山城」(乗員千6百名を乗せ、昭和
19年10月25日、スリガオ海峡で砲撃、魚雷艇の攻撃をうけ沈没)
の碑を発見(平成7年建立)。 感慨深し。

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高木 寛のナイロビ駐在

海経36期のサイトで高木 寛が時事放談を出しているが、3月1日付け
67号の中で、1961-64年ナイロビに駐在していたことを知った。

ケニヤでは1961年独立(キクユ族英雄、ジョモ・ケニヤッタによる)
以来一度もなかった、国内暴動が先般発生。
主要な種族キクユとルオーがほぼ交代しながら政権を担ってきたが、
今回の大統領選挙でルオーのオデインガが終始優勢で、開票後も
続いていたが、終盤直前に現大統領のキクユのキバキが突然優勢と
なり当選した。

これに対し、ルオー側はこれは不自然でおかしい、不正ありとして
初めての国内暴動を起こした。死者が多数でる抗争が続いたが、
現在は双方による連立政権で落ち着いた。

サハラ砂漠以南の黒人諸国に住んでいるのは、ニグロとバンツーの
二つの民族(Race)である。ニグロは西側に住み、太って筋肉隆々で
あるが、バンツーは東側に住み痩せ型で、アベベのようにマラソンなど
長距離を得意とする。それぞれ無数の種族(Tribe)があると。

自分のブログでは、宗教、政治、思想についてはいっさい書かない。

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オッキタニア

オック語(Oc)が話される地域、オッキタニアとくれば、ファンタジーの世界
と思ってしまう。
事実はその昔、南フランスが「オッキタニア」(Occitania)と呼ばれていた
のだ。ロワール川は1,012Kmの長さをもつ仏最大の川であり、フランスを
南北に二分する。ロワール川以北の仏語とは異なるオック語が使われて
いた。(オック語のOCはOui(Yes)を意味する。英語のOKの語源とも言わ
れる。仏語の方言というより、スペインのカタルーニャ語により近いと言わ
れる。現在も南仏、北伊ピエモンテ西部、スペイン・アラン渓谷、南伊
カラブリアなど約200万人に使われる。)

前6世紀ごろから、オッキタニアの地中海の沿岸地区に、ギリシャ人、
フエニキア人、リグリア人、ケルト人が定住し始め、マルセーユ、ニース
などの沿岸都市が生まれ、地中海文明の要衝になる。ローマの属州に
なったのは前2世紀頃。

海径36期の竹田あつし君が、今回「地中海歴史風土誌」07年10月25日
第26号に掲載された、同君の論考「地中海世界の崩壊・・南フランス、
オッキタニアの世界」を送ってくれた。

こっちはローマ帝国崩壊後神聖ローマ帝国のことをちょっとしか知らないが
この論考で初めて知ったことが多く、目からうろこの感じがする。
参考文献はネットの原語サイトも多く、その読解力はただものではない。
イスラムはスペインから南仏にも侵攻していたのだ。
教王は同じキリスト教徒カタリ派に十字軍を出し、惨劇をおこしている。

多様な民族、宗教を許容するこの地中海世界は6-8世紀にフランク帝国
に従属したとされながらも、現実には13-15世紀にいたるまで、フランクを
継承するフランスに帰属されなかった。

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米海軍第7艦隊音楽隊

11月4日横須賀三笠公園で2007よこすか産業まつりがあり、それに
第7艦隊音楽隊が出演演奏するとのことで見に行った・
これはジャズバンドで軍楽隊では無い。人数も20名くらい。

まず久しぶりで三笠に乗艦、上甲板の喫茶コーナーでコーヒーを飲み
ながら、海や猿島行きの船を見たり、日産自動車の専用船積み込み
波止場を見る。たくさんのテント張り屋台がでていてにぎやか。京急
横須賀中央駅から徒歩15分。

自分が海軍経理学校生徒の時、横須賀軍港で戦艦山城に乗艦、1週間
乗艦実習をうけたことがある。この艦はレイテ海戦時、スリガオ海峡夜戦
でレーダーによる集中砲火をうけ沈んだ。

三笠公園の北端に屋外演奏ホールがあり、前が芝生と海になっている。
時間は11時から11時45分。
音楽隊の最初の曲は、ペンシルバニア6-5000、2曲目から男性隊員
の歌がつく。「I got you under my skin」から始まる。6曲目から若い
可愛いい女性隊員が歌う。6曲目は「涙そうそう」(日本語)。この曲は
ハワイの「KA NOHONA PILIKAI」にそっくりで、どちらがはやいのか。
もちろんハワイにきまっている。(そのほか「夏の思い出」はハワイの
「マウイ・ワルツ」にそっくりだ)

7曲目に地元のじいさんがジャズ・ダンスを踊り始めたが、これは
前もっての演出だろう。 ピアノはヤマハの電子ピアノCMO.ベース・ギター
の独奏もあった。

7曲終わったあと、気の利いた司会者の支援で、アンコールがあり、
女性も勿論歌った。午後3時から2回目がある。

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アジア・太平洋戦争 吉田 裕著

岩波新書 シリーズ日本近現代史⑥「アジア・太平洋戦争」を読む。
身構えて読み始めると肩すかしを食った気分になる。淡々とした叙述から
伝わってくるもは、もっぱら約60年前に総力戦として戦われた戦争を、
先入観なしに振り返りたいとの著者の思いが伝わってくる。
概説書なので当然という見方ができるが、筆致が抑えられ、誰にでも
違和感なく、読みやすくなっている。

本書によると。敗戦直前の時期に、日本の証券市場は、ポツダム宣言に
敏感に反応し、日本郵船株などが値上がりしたという。カバーする時代が
短いのが 難点だが、経済や社会生活に関する記述も多く、その射程は
広い。雑音なしに振り返るとなにが見えてくるのか。

ここでこの戦争での戦没者の数を確認しておきたい。
日本
軍人・軍属           230万名
外地一般法人        約30万名
空襲など国内死没者    約50万名
合計 310万名  この中には朝鮮人・台湾人の軍人・軍属の戦没者
           約5万名が含まれている。
           外地での戦没者30万名のなかに算入されている沖縄
           県民の戦没者数(準軍属を含む)9万5千名は過小な
           見積もりで、15-16万名に及ぶのではないかのとの
           推計もある。
           川崎市や那覇市など大規模空襲をうけているにかか
           わらず、死亡者数が空欄になっている都市が数市ある。
           この数字は大規模空襲をうけた全国113都市の数字 
           だけを、集計しており、ほかにも空襲を受けた地域は
           かなりある。このようにみれば、日本人の戦没者は
           310万名を超えると考えられる。
外国人
アメリカ軍(アジア・太平洋戦域)  10万名
ソ連軍(ノモンハン事件を含む)    2万7千名
英軍                    3万名
オランダ軍                2万8千名
中国軍と中国民衆の死者     1千万名
朝鮮死者                20万名
フイリピン               111万名
台湾                    3万名
マレーシア・シンガポール       10万名
ベトナム、インドネシア等
総計        1900万名 
日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは、
間違いない。

戦後冷戦への移行は、社会主義陣営との対決姿勢を強めたアメリカは、
日本の非軍事化と民主化という当初の占領政策を、大きく転換させて、
同盟国としての日本の強化、安定に軸足を移していった。
この結果再軍備が開始されるとともに、戦犯容疑者が釈放されるなど、
日本の戦争責任の追及も中途で打ち切られた。
51年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約は寛大な講和の性格を
色濃く持っていた。
この条約では主要参戦国が対日賠償の請求権を放棄した。また戦争
責任問題にかんする直接的言及は無かった。

こうした一連の事態は、国民の意識の上に複雑な影響を及ぼした。
第一には加害の記憶が封印され、国民は戦争の犠牲者であり、被害者
であるという認識を基盤にして、独特の平和意識が形成された。この
被害者としての自己認識は、戦場の悲惨な現実や戦争による国民生活
の悪化を直接の基盤としていただけに、国民意識の中に深く根をおろした
ものになった。そうした平和意識は、アジアに対する加害の歴史を忘れ
させることになった。
第二に、国家指導者の国民にたいする責任までもが曖昧にされた。
この問題は昭和が終わり、戦後50年以上たっても尚止むことは無い。

自分は宇和島中学在学時、この戦争に疑念を抱いており、配属将校に
さんざんいやみをいわれたが(このひとは後にビルマ戦線で戦死した)、
いろいろ事情があって、海軍経理学校を受験した。試験は松山中学で
受けたが、試験法がとてもユニークで驚いた。1日目の試験が終わると、
その日のうちに、合否が発表され、不合格者は翌日来るに及ばずという
ものだった。
昭和18年、1943年12月、4修で東京築地校に入校したが、愛媛県
からはもう一人、今治中学から来ていたが、この人は入校時の身体検査
で結核が判明し採用されなかった。
後で判ったことだが、この時点ではもう戦局の大勢は決まっていた。

海経は一般に文科系と思われているが、法律、経済、簿記、英語、
ドイツ語のほかに数学(微分積分、統計数学)、物理、化学、航空力学、
栄養学等があり文理カレッジと言えた。そのほかに、武道、軍事学、
軍事訓練があり、多忙を極め、予習が精一杯で、復習は殆どできない
ので、授業に集中するほかなかった。
英語はカーライルの衣裳哲学で、4修の自分には手に負えなかった。
ドイツ語を習う手がかりを得た。
自分は中学時代エイトのボートを漕いでいたが、海軍のカッターはごつく、
特に櫂は材木を漕いでいるみたいだった。

部外からの講師は多士済々で、東大、商大等の教授が来ていた。近代
経済学の洗礼もうけた。特に国文学の講師が、「しんいの説」によって、
古代天皇の在位が引き伸ばされ、2600年という紀元が意図的に作ら
れたことなど、自由な講義に魅せられた。残念ながらこの講師はそのあと
解任された。

入校時、最上級生の一号生徒は、鍛錬された体格を持ち、知性的であり、
きびきびしており、スマートで、圧倒的で美しかった。

非国民と言われて自殺した男を夫に持ったある女に、昭和19年の夏
ある男が「この戦争は早ければあと1年、遅くとも2年以内に終る、日本
の敗戦で。今は戦争中だから何時でも死の危険がある。死なないよう
行動すること。他言無用」と告げた。


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王朝の変遷 英国とイタリア 竹田あつし著

海経36期の竹田あつし君から送られてきた労作を再読した。
これは「地中海歴史風土記」第25号、2007年4月25日に掲載された
ものである。

中世から近世にかけて、西欧には多くの王国が生まれた。ここでは英国
とイタリア、それも英国はイングランド、イタリアは南イタリアのナポリ王国
の王朝を中心に見ている。

英国の王朝は1066年、北フランスのノルマンデイ公のイングランド征服
以来、現在のウインザー家に至るまで9王朝、合わせて41人の国王に
より継承される。
他方南イタリアは西ローマ帝国の崩壊後、500年をこえる混乱の時代を
へて、11世紀北仏のオートヴィル家によりようやく統一されナポリ王国が
誕生する。8王朝が登場し、1860年ブルボン王朝の崩壊をもって、歴史
の幕を閉じる。その間9世紀。

両王国の王朝の推移を見ると、寄しくも英国の一王朝、スチュアート家を
除いて、すべてが大陸からの外来の王朝なのだ。また両王国の最初の
王朝がともに北仏のノルマンであり、しかもほぼ同時期の11世紀である
ことなど、目からうろこの感がする。

この論考は7ページにわたり、判りやすい表が六つある。

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「あの戦争 太平洋戦争全記録」のデジタル化 宮本三夫編集

海経36期の宮本三夫君が、産経新聞社編の「全記録」(上・中・下巻
2001年刊、産経新聞社編、ホーム社発行、集英社発売)のデジタル化を
2006年11月に完成された。私製のCD-ROMに入ったものの配布を
うけた。
この「全記録」は日米の膨大な戦史資料を要領よくまとめている点で、
一般人にとり貴重な資料となっているが、惜しむらくは索引が時系列を
辿る以外まったくないので、必要な記事を簡単に探し出せず、その利用
価値が半減している状態であった。

そこで同君は略図、見取り図を含め、その内容の約90%をスキャナーで
Excelに読み取り、日・週別索引に加え、地名索引を作成し、関連見取図
に簡単にアプローチできるようにした。
さらに地名・人名・部隊艦船名・作戦名・海戦名等のキーワードを入力
すれば、全巻を通じての関連記事が抽出され、プリントアウトできるように
してある。

構成は週況編(本文)、日誌編、鎮魂編、戦争見取り図よりなる。
尚、Wordを利用して入力した、「終戦後の自決者」も同ROMにある。

本デジタル化完成にあたっての心境として「海山のかばねとはてし 
戦争の犠牲者哀れ とはに忘れじ」と記されている。

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ゼロ戦 いまも世界の空を飛ぶ

「零戦は、いまも世界の空を飛ぶ」藤森 篤著 えい文庫 2006年7月
30日初版を読む。

3万余機が生産された日本軍機のなかで、博物館等に原形を保って現存
する機体はわずか100機。その最多数をしめるのは勿論ゼロ戦である。
日本軍機総生産数のほぼ三分の一に相当する1万400機が生産され、
各戦線に広く展開していたことが主因。
原型を保っているゼロ戦は世界各国に21機が現存する。また残骸状態や
組み立て途中の機体までふくめると総数29機が確認されている。
さらに未確認現存機や情報非開示の個人所有機、これから復元、新造
される零戦もあるので、実質的には40機近いと推定される。

現存する零戦の出所は大別して1。戦時中の捕獲機2。敗戦後の接収機
3.戦後の回収機4.新造機の4区分になる。

○零戦52型61ー130
スミソニアン航空宇宙博物館、ワシントンD.C.
最も忠実度が高い。昭和19年6月サイパン島で捕獲。

○零戦52型61-120
プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館、カリフォルニア、チノ空港
昭和19年3月中島飛行機小泉工場で製作されたもの。
サイパン島で捕獲。
強度を確保して米FAAの承認を得るため、8本の主桁はすべて新造され、
主翼外板も全面的に張替えられた。
栄エンジンも状態が良好だったため、一部部品を現行規格品に交換し、
稼動するようになった。ちなみに栄エンジンはパーツの確保が困難のため、
飛行時の出力は通常で60%、最大でも80%に制限しているという。零戦の
勇壮な爆音は21世紀になっても健在なのだ。


戦後の零戦についてもっとも見識が深いステイーブ・ヒントンは「零戦を
飛ばしている時に味わう感覚はポルシェのようなピュアスポーツカー
をはしらせるのに似ている。 300ノット(約時速556km)以下なら、
あらゆる速度域で、昇降舵、方向舵、補助翼の3舵とも軽い操作で、
機敏な反応を示し、まさにスポーツカーを操っているように爽快な気分に
浸れる。」という。
79年と95年の二度、日本に里帰り飛行をした。

○零戦63型ヨー143
サンデイエゴ航空宇宙博物館
現存する唯一の63型でオリジナル度が高い。敗戦後横須賀海軍基地で
接収された。ボランテイヤの手で復元された。

○零戦21型EⅡー140
ペンサコラ海軍航空博物館、フロリダ
カナダ人ボブ・デイマートがソロモン諸島バラレ島から回収した8機分の
残骸から3機の復元したなかの第一号機、CAF所属EⅡー120ふぐの
兄貴分に当たり、かなりの部分がつくり変えられている。
実は戦後初めて飛行した復元零戦。エンジンは1700馬力を発生する
B-25用カーチスライトR-2600.

○零戦21型EⅡー120
この機体の出所は上記ボブ・デイマートが1968年バラレ島で回収した
8機の残骸から復元した3機の中の1機である。
この機体が所属する世界最大の大戦機保存組織CAFとは
Commemorative Air Forceの略で、邦訳すれば「記念空軍」になる。
現在では140機を越えるまでになった。しかも動態保存を原則とする
ため、保有機のすべてが飛行できる状態を維持している。
世界でただ1機飛行可能なB-29がある。
現在のCAFはテキサス州ミッドランドに司令部を置き、全米はもとより
フランスやオーストラリア、ニュージーランドなど海外支部と総計70以上
もの飛行隊を擁し、メンバーは1万1千人以上にものぼる巨大組織に
なっている。

○ダコタ・ブレイド社製零戦21型
前出ボブ・デイマートがソロモン諸島から回収した8機の残骸が計画の
基本である。8機分の残骸からすでに3機が復元されていたため、
めぼしい部材は残されていなかった。
99年1月にノースダコタ州で4人の航空関係者が、ダコタ・ブレイド社を
創設、ブレイド社が新造した部材と組み立て途中の機体はすべて、
ダコタ社に引き取られた。第一号機は04年7月初飛行に成功した。

○ダコタ社復元零戦21型
空母祥鶴艦載機A1-1-129(中島製6544号機)がルッセル島攻撃時
に撃墜され回収されたもの。
エンジンはP&W R1830-94ツインワスプでプロペラ共々DC3輸送機から
転用した。

○ロシア製零戦22型
ソ連の崩壊後、民主化に伴い軍需産業が活路を見出すべく、大戦機の
新造に乗り出した。そのロシアの実情に目をつけたのが、カリフォルニア
サンタモニカにある航空博物館のデビット・プライスだ・人気の高い飛行
可能な零戦を新造すれば、間違いなく売れると判断。ニューブリテン島
バボ飛行場跡で回収した、零戦22型の残骸をロシアのストレラ・
プロダクションに送り込んだ。三菱重工の協力で入手した300枚あまりの
図面を参考にして、ごく短期間のうちに3機の零戦22型が新造された。
完成した機体は直ちにチノの再生所に送られ、P&WR-1830-94エンジン
の架装と飛行調整を行い、第一号機と第三号機が無事進空した。

この二機は折りしも撮影が進んでいた映画「パール・ハーバー」に出演
して銀幕を飾った。
この零戦22型は、外板が原型機より厚さを増し、機体強度が大幅に
向上、現行規格で新造され、エンジンの信頼性も格段に高い。激しい
荷重のかかる空戦機動を難なくこなし、いわば「スーパー・ゼロ」だ。
直線が見当たらないと形容された零戦の曲線美。高アスペクト比の12m
主翼で機首形状が洗練された22型のシルエットは零戦型式の中でも、
際立って美しい。ロシアで新造されても零戦のDNAは不変だ。
零戦22型は生産数560機と少ないが一番美しい零戦だ。
零戦の主任技師、故堀越次郎も22型が最も美しいと言っている。
堀越さんとは自分も戦後、仕事関連でたびたびお会いしている。

日本では様々な施設で、10機の零戦が現存する。
○零戦21型53-122
国立科学博物館、上野
戦線の後方に取り残された、ラバウル海軍工廠で複数の機体を組み
合わせて、製造した。現地改造複座機。
ラバウル西方ランバート岬沖に墜落したが、戦後豪人戦史研究家が
回収して復元。日本大学元教授が引き取り、同博物館に寄贈した。

○零戦21型オヒー101
河口湖自動車博物館
オーナーの原田信夫氏がヤップ島で回収した5機分の残骸から復元
した中の1機。零戦52型も復元が進んでいる。

○零戦52型甲43-188
航空自衛隊浜松広報館
グアム島ジャングルで発見、64年に日本に返還、三菱重工大江工場で
修復された。記念すべき国内復元第一号機。

○零戦52型甲
三菱重工小牧工場資料館。社内資料として所蔵。ヤップ島から回収
した残骸を復元したことになっているが、実態はほとんど新造機に近い。

○零戦62型210-118B呉市大和ミュージアム
78年に琵琶湖から引き揚げられ復元された機体。

○零戦22型2-152
オークランド戦争記念博物館、ニュージーランド
現存する唯一のオリジナル22型。ブーゲンビル島に進駐したニュー
ジーランド軍がカラ補助飛行場で接収した機体。状態は非常に良好。

○零戦21型V-173
キャンベラ戦争記念博物館、キャンベラ、オーストラリア
ニューブリテン島ガスマタ飛行場で被爆、放棄されていた機体を、豪軍が
回収、同博物館が80年代末に復元。
ちなみに台南航空隊所属機V-173は撃墜王・坂井三郎一飛曹の愛機
そのもの。

著者と坂井氏との対談から。
1.一般的に零戦が強かったのは、「空戦性能が優れていたから」と
されているが、実は航続距離・滞空時間の長さこそが強さの根源だった。
航続距離延長に貢献した330リットル増槽は地味だが、零戦の傑出した
特徴と言える。信頼性も非常に高く、一度も脱落や投下不良を経験
していない。
2.水滴方風防による視界の良さ。後方視界は抜群。先手必勝の空戦
では、見張り能力が勝敗の分かれ目。
3.零戦の強さの決定的要因になったのは、日華事変で鍛え上げれれた、
熟練搭乗員の卓越した技量。
4.総計14回改修された型式のすべてに搭乗したが、一番零戦らしかった
のは、やはり21型。機首が自分の額のように、主翼先端は指先のように、
体と機体が一体化して思いどうりに飛ぶことができた。
主翼を切り詰めて防弾装置を取り付けた52型以降は、エンジン出力も
ほとんど向上せず、翼面荷重が高くなったので、空戦性能と滞空時間が
低下し、零戦の持ち味が随分と薄れてしまった。
設計主務者の堀越二郎技師も「理想の零戦は21型」と明言されていた。

零戦の20ミリ機銃は全くの役立たず。戦記や小説にでてくる、20ミリ
機銃に関する華々しい記述は、実戦を体験したことの無い者、当時の
記憶が乏しいものが、かってに想像して作り上げた虚構が多い。
その証拠として、私は大小64機を撃墜したが、格闘戦で20ミリ機銃を
使って撃墜したのはごくわずかです。大部分は装弾数も多く、信頼性も
高い7.7機銃を集中的に撃ち込んで落としています。
米国でP51Dムスタングを操縦したが、零戦では絶対真似のできない
スパイラルダイブを300ノットで苦もなくこなしたのには、舌をまいた。
零戦が運動性能を発揮できたのは、せいぜい200ノットまでだから、
もはや「零戦の空戦性能は世界一」などとは言えない。

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A.Tのイタリー歴史論稿

海経36期A.T君の語学の天才振りは、先にラテン語のタイトルで書いた
が、今回「地中海歴史風土誌」に掲載された、日本語による3篇(愛用の
マックで打ち出したもの)を送ってくれた。

1.ガエータのヒロイン、マリア・ソフィア(掲載2006年4月25日)
リソルジメント(Risorgimento)イタリー統一時代、19世紀後半の歴史。
イタリー語の素養、歴史認識、文献解読、ネットのイタリー語資料を
読破できないと、とても書けない作品。
「ローマ人の物語」を書いた、塩野七生さんに匹敵する労作だ。

2.シチリア王マンフレデイの家族(掲載2006年10月25日)
11-13世紀シチリア王国とナポリ王国の歴史
このあたりの歴史は、日本ではあまり知られていない。中公文庫「世界
の歴史」3中世ヨーロッパの「陽はすでに傾く」でシチリア王国の話しが
出ている。

3.イタリアの傭兵軍団、コンドッテイエリー(2005年4月25日掲載)
14世紀カラ16世紀
諸侯、教王によるイタリアの戦国時代は14世紀に始まる。一応の終は
15世紀半ばとなる。
多くの王国、都市国家は、その防衛には住民による軍隊でなく、よそもの
の傭兵を利用していた。その雇用は騎士、農民を個々に雇用するのでは
無く、多数の傭兵を手元にもつ、傭兵隊長との契約であった。この隊長は
一定した主君、領土をもたない、傘下に部下をもつ自由企業主であった。
契約条件に従うだけで、支払いが遅滞すれば、すぐにでも戦場から離脱
する。
2大傭兵軍団はスフォルツアとプラッチオ。

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ゼロ戦に欠陥あり 技術者の記録

8月13日(土)NHK教育テレビで「ゼロ戦に欠陥あり 一技術者の
記録」が柳田邦男さんのガイドで放送された。

三菱重工の主任技術者、堀越二郎の次席技術者、曽根嘉年の
メモたる技術記録,設計から終戦まで、17冊が、嘉年の長男
曽根一さんにより初めて公開され、その内容に基づき、柳田さんが
従来の資料、映像も加え、ゼロ戦の歴史を語ったものである。

これを書くにあたり、柳田邦男著{零式戦闘機」1977文春刊を
並行再読した。
曽根さんとは会社は違うが、戦後一緒に仕事をさせて頂いたので
感慨が深い。
堀越さん、東条さんのお話も聞いたことがある。昭和26年から
8年間名古屋に勤務したことがあり、名古屋航空機製作所、川崎
重工業各務ヶ原製作所に出入りしていた。
尚、吉村昭著「零式戦闘機」新潮社1968刊も再読した。

○ゼロ戦設計開始は昭和12年(1937)
12年10月「12試艦上戦闘機計画要求書」が三菱にやってきた。
12試艦戦は後のゼロ戦である。

要求性能は
最大速度 270Kt(500Km/Hr)於高度4,000m
上昇力 高度3,000mまで3分30秒以内
過荷重状態(増槽タンク装備)航続距離 巡航で6時間
(2,000Km)以上
20mm機銃 2個装備(世界最大級)、7.7mm機銃 2個
爆弾 60キロ爆弾 2個

13年1月 主任技術者となっていた堀越二郎(34歳)、次席技師
になっていた曽根嘉年(27歳)は、海軍との合同会議で、要求は
両立しないもが多い、優先順位を示せと迫った。
源田実少佐は格闘戦性能を高めよ、柴田武雄少佐は格闘戦能力
にスピードと航続力を高めよ、と言うだけで、堀越、曽根の要求は
却下された。
設計は1月から開始、その時、学校でたての東条輝雄(23歳)が
計算担当であった。

○1号機完成 14年3月
軽量化を図るため、表面の強さ、ぎりぎりを探して板圧を薄くした。
板厚は1mm以下
エンジンは900馬力、三菱の瑞星を採用(設計の途中で海軍航空
本部から中島製の「栄」950馬力に換装の要求が出て、結局試作
2号機までは、瑞星、試作機3号から「栄」となり、強い希望だった
三菱側エンジン採用はならなかった。
完成機は500Km/hrが出た。要求性能をすべて超えていた。

○横須賀で試験飛行中、空中分解が起こり、パイロット死亡。
15年3月22日 事故調査委員会で、曽根が機体全体につき、
残骸を基に、破壊状況を報告。
海軍技術側から、昇降舵のマスバランスが飛び散っており、これに
よりフラッターが起こり、空中分解したと思われると。
マスバランスは軽量化のため、腕に穴があけてあり、金属疲労で
その穴から壊れていた。
これは、すぐ鋼鉄に変えられた。
フラッターとは部品、部材がある条件を超えると、振動を起こし、
それが機体の固有振動と共鳴し、機体が分解する現象。

○この頃、日中戦争が泥沼化し始めた。戦闘機の航続力が無い為
爆撃機は護衛無しだった。 このため中国戦闘機にやられていた
ので、試作機段階でも要請により、投入することになった。
結果、15年9月13日13機のゼロ戦で中国機27機全機撃墜した。

○16年4月 曽根はA6M2計画を担当することになった。
135号機はテスト飛行中急降下から反転時、空中分解した。パイロット
は死亡。
残骸調査の結果主翼表面に皺があり,主翼つけね部分のが大きい。
超々ジュラルミンは2000Kニュートン以上で張力が元に戻らず、皺
になることが判った。 そのため、空気抵抗が増えフラッターを起した
ものと考えられた。
曽根は主翼の薄さに懸念を抱いた。軽量化すると安全性が下がり、
機体強度足りぬため、二度の空中分解を起こすことになった。

○16年6月14日 主翼板厚を0,5mmから0,6mmに引き上げた。
また急降下時速度を350Ktに下げることにした。

○16年12月8日 ハワイ
ゼロ戦隊73機で相手戦闘機撃墜、地上機を破壊。
ゼロ戦は9機が失われた。

○2号ゼロ戦 改良A6M3
1,200HPで馬力2割アップ、高高度戦闘力 改善
空母搭載のため、主翼の丸い端50cmが折りたためるようになって
いたが、これを無くすことになった。翼の端は角型になった。
軽量化と量産化のため。
ゼロ戦の決定版になる筈であった。

○17年5月 ガダルカナル戦が始まった。
ラバウル航空隊の2号ゼロ戦は4割、1号ゼロ戦は6割。
ガダルカナルまで、1,000Km,片道4時間、帰り4時間
2号ゼロ戦は行ったら帰れないという、戦に参加できないという
致命的な欠陥が判明し、現地からは、1号ゼロ戦を送れとの要請に
なった。

○何故航続性能が低下したのか
1.丸い翼端を角型に変えたため、渦の発生で空気抵抗が高まり
燃費が悪化、航続力を下げた。
2.エンジンの大型化により、胴体タンク容量が135リットルから
60リットルに減った。

海軍側は
1.機銃弾倉を500発減らす。
2.7.7mm機銃廃止は不可。攻撃力を弱める。
3.翼端を丸型に戻す。
4.胴体タンクはそのまま。 翼にタンク二つ増設(防弾が無いため
これが被害甚大となる原因になる。)
18年12月ガダルカナルは断念。

○2号ゼロ戦」失敗の責任
実施部隊との連携、連絡に落ち度あること明らかだったが、海軍
航空本部長の責任は問われなかった。日本軍の悪い組織的体質
が明らか。

○米側北太平洋孤島でゼロ戦確保
米側テストパイロットによりゼロ戦の弱点が明らかになった。
1.軽量のため高速の急降下ができぬ。
2.防弾無し

○ゼロ戦キラー グラマンF6F
エンジン2000馬力、時速650Km,急降下速度は900Km。
対ゼロ戦 後ろにつかれたら急降下で逃げろ。急上昇して時速
650Kmで降下、急上昇して攻撃しろ。
18年10月F6Fとウエーク島で初めて対戦、燃料タンクが狙われた。
F6Fは3層のゴムタンクを持ち、防弾ガラス、シート後ろは鋼鉄の板。
日本では攻撃力強化のため防弾は見送られた。

○18年4月 山本五十六 戦死
○19年6月 マリアナ海戦
日本側 524機 F6F472機 日本側200機以上損失
未熟パイロットが多かったせいもあり、違いをはっきりさせた。
空母3隻を失う。

○烈風 開発促進 F6Fを凌ぐもの
2000馬力、早い急降下速度、防弾装備
19年9月 試作機完成 A7M2
342Kt 633Km/hr, F6Fより30Km速い。
しかし19年10月25日特攻攻撃開始、最初の特攻機はゼロ戦で
烈風の登場場面はなかった。
曽根さんの最後の設計メモは20年7月29日である。
烈風8機は戦後米軍により焼かれた。

○ゼロ戦の総生機数は10,430機で、戦闘機の一機種でこれほど
まで大量生産された例は、世界にもない。

○柳田さんの感慨
最初の成功に油断した。状況が変わった時、新しい設計に変えて
行かねばならぬ。改良の失敗を含め、8年間海軍の組織という
大きな壁があった。

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ラテン語

ローマ法王ヨハネ・パウロ 2世の死去にともない、コンクラーベという
法王選出会議が、始まっている。
Conclaveは英語で、ラテン語ではcum clave (cumは共に、
claveは鍵, =with a key)。

ラテン語といえば、Navyの生徒時代の同期の、A.T君が戦後の
大学で、ラテン語の教科で「優」をとったという話が伝わって来て、
こちらも他の大学の学生だったが、ラテン語の教科は無く、しかし、
自分もやってみようと考え、神田神保町の古本屋で、かなり厚い
「ラテン語文法」なる本を買い込んだ。
この本はもう手元にない。今持っているのは、「はじめてのラテン語』
大西 英文 著講談社 現代新書。 横浜の本屋で語学の棚を
見ていたら、CDつきのラテン語本をみつけた。 「CDエクスプレス 
ラテン語」 岩崎 務 著 白水社 Y2,600。
世の変遷に驚いたが、同じく白水社で、「CDエクスプレス 
古典ギリシャ語」もあったので、またまた、びっくりした。

A.T君はその後、8年間ドイツに駐在、香港にも8年間駐在、定年
退職後は、イタリー語でビジネスをやっていた、(イタリー語の
翻訳ソフトを駆使、いちはやくTEPCOの光回線に加入)、語学の
達人で、敬愛する人物である。

蛇足だが、ラテン語の文法上の性は、男性、女性、中性があり、格変化がある。
ドイツ語はもとより、ギリシャ語、ロシア語にも、男性、女性、中性の区別がある。

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