日本海軍400時間の証言(4) 開戦 海軍あって国家なし
反省会に参加した元海軍士官は確認できただけで42人。
会は昭和55年から平成3年まで月に1度行われ、130回
以上続いた。会の様子を写した写真は1枚もない。カセット
テープの数は225巻に及んだ。貴重なテープを傷めない様
全てがCD-Rに録音し直された。収録時間はおよそ400
時間。
右田から「海軍反省会主要参加者一覧」が渡された。略歴
の欄をみると多くのメンバーが軍令部に在籍していた。
明治憲法下では、軍隊の最高指揮権である「統帥権」は
大元帥である天皇の大権の一つとされ、軍への命令は
全て天皇の名の下に行われた。
その天皇を補佐するのが軍令部であり、具体的な作戦や
編成計画を立案していたのは、軍令部員(参謀)たちで
あった。
トップに天皇、その下に政府と軍令部が並列している。
軍令部は政府からも独立した存在で、総理大臣でさえ
作戦に口を差し挟むことはできなかった。これを一般に
統帥権の独立という。どんな作戦が計画、遂行されている
のか、軍令部は政府に知らせる必要すらなかったという。
戦争反対者、米内光政、艦隊派の山本五十六、井上成美
も軍令部を動かすことは出来なかった。
国力の全てを戦争に注ぎ込む総力戦ともなれば、軍令部
の権力が絶大となるのは必然だった。
軍令部は総長をトップに四つの部からなっていた。
作戦や編成を担当していたのは中枢が第1部。第2部は
兵器の選定、整備、研究など軍備の充実を担った。
第3部は諸外国の情報分析、インテリジェンスを担当。
第4部は暗号などの通信を受け持っていた。
軍令部第1部第1課、通称作戦課。軍令部員のなかでも
限られた参謀しか入室が許されない奥の院だった。
作戦課に所属する参謀は僅か10人ほどだったという。
作戦課は今もってブラック・ボックスになっている。
右田が手渡した海軍反省会主要参加者1覧に出席回数や
発言が多い24人。その半数が1度は軍令部に籍を置いて
いた。昭和16年12月の真珠湾攻撃直後に。軍令部の
作戦室で撮られた写真がある。大勝の後とあって写って
いる9人の参謀は胸を張り、誇らしげだ。
二人の人物、佐薙毅大佐(1901~1991)と三代一就
大佐(1902~1994)。
開戦の真相をを知っているこの二人が反省会に参加
している。
昭和55年3月28日、反省会での最初の発言は、野本為輝
元少将(1894~1987、航空母艦の瑞鳳、瑞鶴の艦長)
この時85歳、彼こそが反省会の発起人であった。
司会は寺崎元大佐、幹事が土肥元中佐。
野本元少将が残したメモには、負け戦をした当事者として、
いわば敗軍の将として、その原因を反省して後世に残す
べきであると書かれていた。
反省会という名称に反対した人物がいる。末国元大佐だ。
「反省会という名前がついているから、結論を出さねば
ならぬように思うのだ。これは反省会でなく海軍の施策、
経緯を考察する程度にとどめるべきだ」。
これに対して、反省に重点をと呼びかけたのが、佐薙元
大佐だった。開戦時軍令部作戦課に在籍していた。
反省会のキーパーソンである。
「どこが悪かったか、なぜ負けたかという点を反省し
なければならない。先輩,大先輩、長官以下、軍令部
総長以下に対して非常に批判、辛辣な攻撃を含むことが
あるかもしれぬ。それはもうやむを得ない」
佐薙大佐の思いのうらには何があったのか。大佐が
膨大な日記を残していたことがわかった。長男の恭氏は
父を「真面目で几帳面」と評したが、その言葉通り、
日記帳はきれいな、小さな字で毎日びっしり書かれていた。
日記には事実がきちんと伝えられていないという思いが
滲んでいた。
当時防衛庁が編纂していた「戦史叢書」に対する
不信感である。政府が日中戦争、太平洋戦争を記録した
いわば公式の戦史について、日記の中で繰り返し批判
している。
「海軍の元少佐が記した開戦経緯は、戦史室陸軍側から
反対が出て重要な部分を削られたという。従って公刊され
たものは根本に触れていないところが多々ある」。
陸海軍の対立は有名な話だが、戦後20年以上を経て
戦史を記す祭にも対立を引きずったとは興味深い話である。
反省会の参加者が「自分たちこそが事実を伝え残すのだ」
という共通の思いを共有していたことは間違いない。
しかしこのことは会のあり方とは矛盾していた。会は関係者
以外立ち入り禁止の非公開で行われていた。世間に出す
ことは全然考えていなかったと、のちに幹事を務める平塚
元少佐は述べ、もしそれを考えたなら、本当のことを皆さん
話さないから、ざっくばらんな真相をやろうということで、部外
には出さないということで始まったわけですと言い、非公開
が自由な発言をし、海軍の恥を含めてさらけ出す重要な
担保になっていたと指摘した。
しかし時代の変化と共に、反省会のテープはNHK取材班の
手元に届いた。
●初めて明かされた、開戦の驚くべき内幕
チーフプロデューサーの藤木は「何を読んでも、なぜ日本が
戦争を起こしたのか、今ひとつピンとこない。開戦から70年
近く経っているのに、日本社会全体が確固とした回答を
持っていないんじゃないか」
当時の為政者や軍人たちは、事実を十分明らかにしてきたと
いえるだろうか。
第10回反省会、昭和56年1月30日、この日初めて開戦の
経緯が詳しく語られたのだ。
口火を切ったのはこの日初めて参加した保科善四郎、89歳
元中将(開戦時の兵備局長で終戦時は軍務局長、戦後は
衆議院議院を4期つとめた)だった。
対米戦争に踏み出すのか、回避するのか、政府、軍部で
激論が交わされていく中、開戦に傾いていく海軍首脳の姿を
証言する。
「私は嶋田さん(開戦時の海軍大臣、嶋田繁太郎大将)に
聞いたんです。もし陸軍がいうことを聞かなかったら、あなた
は大臣を辞めたらどうかと。 嶋田さんがね、お前そんな
子どもらしいことを言うな」と言われたのです」。
当時の日本は軍部が作りだした危機によってがんじがらめに
なっていた。
中国を支援する米国は、日本の勢力拡大を阻止しようと、
日本に対する石油の輸出を禁じる経済制裁を発動、中国、
仏インからの撤退を求めた。
時の陸軍大臣東條英機中将は、これまでの戦闘で数十万に
及ぶ死傷者を出しており、いまさら撤退できない。撤退すれば
陸軍はガタガタになる、統制が出来なくなるとし、対米強硬論
を主張していた。
嶋田海軍大臣が恐れていたのは、陸軍による内乱・クーデータ
だったと保科元中将は言う。嶋田大臣が対米開戦に反対
すれば陸軍が内乱を起こす、内乱が起こったら今の状態より
悪くなるから始末ができなくなると。
内乱に対する危機感は昭和天皇も証言している。終戦直後の
昭和21年に作成された「昭和天皇独白録」に以下の言葉が
ある。「もし開戦の決定に対し拒否したとしよう。国内は必ず
大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の
生命も保証できない」
こうした危機感の背景にあったのは、昭和11年に陸軍の青年
将校たちがひきおこした2・26事件であろう。現役の大蔵大臣
をはじめ、天皇の側近である内大臣が殺害され、侍従長が
重傷を負ったこの事件は、宮中、政治家、軍人たちに衝撃を
与えた。こうしたキナ臭さが、開戦直前にも存在していたと
いうのである。
しかしこうした危機感に対しては異論もある。具体的な計画が
あったわけではないし、起こったとしても憲兵隊や警察によって
封じ込まれる規模であっただろうと、歴史学者たちは指摘して
いる。(徹底検証昭和天皇独白録)
「内乱の恐れ」は戦争をとめられなかった人々が、自らを正当化
するために持ち出した論理ではないかというのである。
海軍の中枢は「内乱の恐れ」をどの程度まで深刻に受け止めて
いたのだろうか。当時の空気をリアルに証言したのは開戦時の
軍令部作戦課参謀、佐薙元大佐である。
「陸軍と接触していた感触から言うと、私は内乱が発生すると
思っていました。国内の一般世論、マスコミ、政治家も興奮して
いる時に米国の言いなりになれば、内乱が発生すると、陸軍の
参謀本部に接触する範囲ではそういう空気でした。
私もやっぱりこのまま米国の言い分を飲み込めば内乱は必至
だと率直に感じておりました。
佐薙元大佐はこの日の日記に、昭和天皇の弟で、開戦時は
陸軍大佐だった秩父宮擁仁親王を担ぐクーデターの噂があった
ことを記している。結果としてクーデータが成功したかどうかは
別として少なくとも軍令部の参謀たちがこうした事態を恐れて
いたことは確かなようだ。
しかし内乱の恐れがあったのであれば、それを未然に防いだり、
起きたときにどう鎮圧するのかを考えるのが軍上層部の
責務であろう。外国との戦争に踏み切る理由にはならない筈だ。
ここで同じく作戦課参謀だった三代元大佐が衝撃的な証言を
する。軍令部のトップ、永野修身総長は陸軍のクーデーターに
よって、海軍が陸軍の支配下に置かれる事態を恐れ、開戦を
決意したというのだ。
永野は「内乱を起こすと人数上海軍は陸軍にかなわないから、
何ヵ月後に海軍が鎮定されて、右翼の政府が出来て、時期を
失して、日本としては不利な時期に戦争をやらなきゃならぬと
いうことになる。どうせ戦争をやななきゃならぬというのなら、
少しでも勝ち目のある間にやるべきだ。」ということが永野の
考えだとこう言った。
確かに永野総長は、開戦の半年前、米国が対日石油禁輸に
乗り出す直前に昭和天皇に対し「寧ろこの際打って出るの外
なしと」という考えを伝え(木戸幸一日記、昭和16年7月31日)
その後は一貫して主戦論を唱えている。
なぜ中国戦線でほとんど犠牲者を出していない海軍がここまで
開戦に前のめりだったのか、常々疑問の思っていたのだが、
その理由が海軍の組織防衛にあったとは。
国家の存亡、国民の命がかかっていたこの時期に、海軍
首脳部は自分たちの組織のことばかり考えていたのである。
軍部は陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた。海軍を守る
ために、一か八か米国と戦争するというのは、まさに「海軍
あって国家無し」という思考そのものである。
怒りの声を上げた人、本名進元少佐
「相当のものが、本当に日本の自存自衛のために、日本の
独立を保っていくために、戦争をせざるを得ないんだと、その
考えで戦争に走ったと思うんです。そうじゃないんでしょうか」。
大井元少佐 「そうじゃないから問題になっているんですよ」
「戦争に負けると思った方は、内乱を恐れてやったと。内乱を
起こそうという連中は勝つと思っていたわけです」。
戦争は避けられるはずだった。・・保科中将が語気を強めた。
「東條さんがね、最後に開戦の決を決める時に、海軍が反対
すりゃできません。と言った。海軍が反対すれば陸軍はどうにも
しようがないということ。海軍が戦わなきゃ米国と戦争できない
でしょう。だからその辺りはどうもおかしいんだよ。軍令部は
内乱が起こるという。内乱が起こったって、海軍が反対すれば
結局戦争にならない。あれだけの人を殺して戦争するよりも、
若干譲歩して決をとる方法があったんじゃないですか。そういう
ことがあったということは反省していいと思うのだ。当然」
よく海軍は陸軍に引きずられて開戦を決意したと言われる。
しかし統帥部にみる限り、主戦論であることに陸海の差はない。
開戦を主張し続けた軍令部の責任は、厳しく問われなければ
ならない。
その一方取材班は何故軍令部を止められなかったのかという
疑問を抱き始めた。
海軍は海軍省、軍令部、艦隊という三つのグループから成り
立っている。海軍省は予算や人事など海軍の役所部門、
軍令部は国防計画や作戦計画を立案し、天皇の統帥権を補佐
した。いわば海軍の頭脳である。
艦隊は軍令部の作戦の下に戦う。連合艦隊司令長官は
軍令部の指導をうける立場だ。
海軍省が軍令部より優位だった時期は、それは大正から昭和
初期にかけての海軍休日(Naval Holiday)と呼ばれる軍縮体制
に象徴される。米国、英国と結んだ軍縮条約によって、保有
する軍艦の量が制限されていた。
条約締結前軍令部は猛反発した。昭和五年のロンドン軍縮
条約では「統帥権干犯問題」が起こり、軍令部、海軍省、政府
政党、右翼などをまきこんだ大騒動に発展したが、軍事費を
抑えたい政府と政府の一員だる海軍省が押し切る形で条約
締結が実現した。この頃までは軍令部の影響力に一定の
歯止めがかかっていたのだ。
ところがその10年後には軍令部は陸軍と共に主演論を唱え、
政府を太平洋開戦にひきずっていったのである。この間何が
あったのだろうか。
反省会でこの点に問題提起していた人物がいた。野本
元少将だ。
軍令部の権力が拡大した背景には一人の皇族の存在があり
この問題に正面から向き合う必要があると主張した。
「つらつら考えるに開戦1年前の永野、嶋田量大将のことを
批判するだけではそれは甚だ範囲が狭いのである。
大正2年に兵学校に入ったが、米国とは必ず戦争をするのだと
我々は教育されておった。
皇族の博恭王が9年間も軍令部総長をやっている。皇族に
対しあるブレーキをかける空気がなかったのははなはだ遺憾
である。
伏見宮博恭王は明治8年生まれ、18年から海軍兵学校に
通い、37年の日露戦争では勝利を挙げた黄海海戦に参加、
戦艦三笠の分隊長だったが近くで弾が炸裂し、肋骨を負傷
したと言われる。軍隊でモノをいうのはなによりも実戦経験で
ある。日露戦争以来本格的な海戦を経験していない海軍の
中にあって、名誉の戦傷を負い、しかも皇族であった伏見宮
元帥はまさしく英雄であったに違いない。
昭和7年に海軍軍令部長に就任、直後に元帥府に。
昭和8年に軍令部の改訂があるのです。それまで軍令部は
海軍省の下にある関係できている。昭和8年に軍令部の権限
が強化され、それから伏見宮が軍令部総長としてやってくる。
この後、海軍の内部でいわゆる良識派という人たちが次々と
止めていくわけです。
軍令部の権限の強化を図るため、法令を通したいため、高橋
三吉(軍令部次長を務めた海軍大将)が宮様を持ってきた
のだ。これ謀略ですよ。(末国元大佐)
軍令部の改訂の中身は「海軍軍令部令」と「業務互渉規定」
である。より重要なのは互渉規定の第3条である。
そこには「兵力量に関しては軍令部総長が起案」とある。
軍艦の数や装備といった兵力量にかんして軍令部が主導
することを明記したのだ。これが日本の進路にとって決定的に
重要な意味を持つことになる。
二つの条約は軍備拡大を図りたい軍令部にとっては足かせ
だった。兵力量決定の主導権を自らの手におさめるため、
新たな法令を制定しようとしたのである。決定を天皇の大権の
範囲であるとして、「統帥事項」にできれば統帥権の独立を
盾に、海軍省や政府の干渉を排除することができる。
軍縮体制からの脱却も可能となるわけだ。
海軍省との交渉の最後の登場は宮様である。これこそが謀略
でないのか。海軍大臣との対応を不満として皇族が公職を
辞したとなれば大問題に発展することは間違いなかった。
勝負ありの瞬間だった。
しかしことはすんなり運ばなかった。巨大な壁は昭和天皇
だった。大角岑生海軍大将は天皇から、口頭説明だけでなく
文書にして提出せよと厳命した。昭和天皇はがすんなり御裁可
しなかったのは何故なのか。これより2年前陸軍の暴走を目の
辺りにしてきた。
苦々しい思いを抱いていた昭和天皇は軍の動きに神経を
尖らしていた。しかし立憲君主を自認する昭和天皇は、翌日
には法令を裁可している。
伏見宮総長は昭和16年、海戦の直前まで軍令部総長の座に
あり続けた。戦争で海軍士官だった息子を失い、紀尾井町の
邸宅は空襲で消失している、終戦の翌年に70歳で亡くなった。


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