回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(6)
ラバウルも昭和19年2月以降、敵大型機によるじゅうたん
爆撃を受け始め、街は廃墟と化し、10万の陸海軍将兵
は穴居生活を強いられるに至った。しかし、これは私が
ラバウルを去った後の話で、私がいた頃は、少なくとも
街並みは健在だった。
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年10月
12日であった。
当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ
てきた。
ブインの情勢はますます険悪になっていたが、204空が
ブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の
建て直しを図ることになった。
10月12日、敵はB17,B24などに戦闘機をつけ、200機
ちかい大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場
の中攻や、港湾の船舶に大きな被害がでた。
15日には敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸
を開始したとの報が入ったので、わが艦爆隊も攻撃に
参加した。船舶6,7隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊
は16機中15機が還らなかった。当隊は立て直す暇もなく、
大損害をうけたことになる。
ラバウルは昭和19年2月以降、敵大型機によるじゅうたん
爆撃を受け始めた。街は廃墟と化し、10万の陸海将兵は
穴居生活をしいられるに至った。しかしこれは私がラバウル
を去ったのちの話で、私がいた頃は少なくとも街並みは
健在だった。
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年10月12日
であった。
当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ、
帰ってきた。ブインの情勢はますます険悪になっていたが、
204空がブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の建て直し
を図ることになった。
10月12日、敵はB17,B25などに戦闘機をつけ、200機ちかい
大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場の中攻や
港湾の船舶に大きな被害がでた。
15日には、敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸を
開始したとの報が入り、わが艦爆隊も攻撃に参加した。船舶
6,7隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊は16機中15機が
還らず、当隊は立て直す暇もなく大損害をうけたことになる。
敵の挟撃態勢はますます整い、大編隊によるラバウル
空襲は日課となりだした。27日には敵はショートランド島の
南にあるモノ島にも上陸してきた。地図にも載ってない小島
であるが、ここからも日ならずして、敵機が飛び立ってくる
のである。28日には新任の小川弥彦軍医科分隊長が着任
した。小川さんはわたしの6高の2年先輩で岡山医大に
進んだが、卓球の練習を何時も一緒に行った。
10月29日も100機以上の空襲をうけた。11月1日、敵は
ブイン、ブカを砲撃するとともに、ブーゲンビル島西海岸
中央部のタロキナに輸送船約70隻をもって上陸してきた。
その夜、水雷戦隊が夜襲をかけ、戦果もあげたようだが、
巡洋艦「川内」、駆逐艦「初風」、「白露」などが沈没した。
11月2日、敵は正午前、戦闘機主体の数百機が超低空で
ラバウル市街と船舶を銃撃した。
敵機が銃撃が終って帰途についた時、それまでいち早く上空
に避退していた、わが零戦隊が襲いかかり、約200機撃墜の
大戦果をあげた。この時は本当に面白いほど
墜ちたという。その間私は防空壕で小さくなっていたのだ。
部隊の主力はカビエンに移った。11月4日、私はあさから体
が重く、熱は38度あまりあった。マラリアとも違うようだ。
5日も100機以上の空襲が2回あった。7日には第3艦隊の
航空隊がタロキナ上陸援護艦隊を攻撃した。
私の熱は一進一退が続いた。発熱後2週間の18日には、
39.5度まで上がった。
敵はマキン、タラワに上陸し、内南洋に迫りつつあった。私が
毎日記していた海軍日記は23日で終っている。小川軍医も
A型パラチフスでないかと言い出した。
11月27日は私の23歳の誕生日だった。熱は40度に
近づいていた。翌28日ついに第8海軍病院、重症室に入れ
られた。2週間以上も40-42度の高熱が続いた。従兵が
一人つきっきりであった。病院には看護婦も何人かいた。
空襲だけはおかまいなしに毎日やってきた。そのつど担架に
のせられて坂を200メートルほど下り、山の中腹に掘られた
防空壕に運びこまれた。2週間余、12月中旬になって熱は、
39度台、38度台、37度台と急激に下がった。
昭和19年の元旦を迎えた。私は最高のお年玉いただいた、
内地転勤の辞令であった。1月1日付けで「横須賀鎮守府
付け」を命じられた。私の病気がやっと峠を越えたころ、小川
軍医大尉が「内地にかえれるように考えてやる」と言ってくれ
たが、その厚意が実現したのである。病気の為内地送還とは
多少気恥ずかしい思いもあったが、ともかく日本に帰れるのは
なにものにもかえがたい喜びであった。
このころ夜間には味方の夜間戦闘機が哨戒していた。偵察機
を改造したもの。1月9日の黎明時、空襲警報が鳴り響いた。
あわてて浴衣1枚でベッドから起き上がったが、まだ走ることは
できない。トボトボと杖をついて、防空壕まで200ほどの道を
下っていった。
突然ものすごい爆裂音とともに、頭上に稲妻が光ったように、
パアッと明るくなった。本能的に坂道の上に身を伏せ、目を
つぶった。「今死ぬのは馬鹿らしいなあ」との思いが走った。すぐ
脇で「ドガーン」という轟音がおこり、続いて5,6発後ろのほうで
轟音が響いた。地面がぐらぐら揺れた。爆風は・・・来ない。
破片がくる・・・破片も当らなかった。「直撃だ」と感じた最初の
60キロ爆弾は、真横の谷川20メートルのところで爆発した。
もし平地か山側に落ちていたら危ないところだった。
このようにして病院生活は終り、やっと退院できる1月12日が
やってきた。入院以来45日目であった。
昭和55年9月ラバウルを再訪した私は、かって海軍病院が
あった官邸山を登っていった。中腹のラバウルの街を見下ろす
場所に「南太平洋戦没者の碑」が建てられていた。厚生省が
中心になって、4千万円の経費をかけて作られた、高さ6.5
メートル、横16メートルもある大きなコンクリート製の碑である。
内地に帰れることになっても、転勤者の乗れる便はもうあまり
なかった。軍艦はほとんど動いておらず、トラックまでの輸送機
の便を待つことになる。
ラバウルの空襲は、ますます大規模に日課として続けられた。
入院中の12月15日には、敵はニューブリテン島西部の
マーカス岬に上陸していた。ブーゲンビル島の敵も増強され、
数次の航空戦はわがほうの消耗を増すだけだった。
2月の初め、582空はラバウルの街をはなれ、ブナカナウの
西飛行場に移動することになった。ブナカナウはラバウル南方
の椰子のプランテーシヨンのある山のなかで、車で1時間あまり
かかった。この飛行場は第2飛行場または山の飛行場と呼ばれ
滑走路も長く、大型機の発着に適していた。宿舎は広大な椰子
林のなかにあった。
出発の日が決まった。2月11日の輸送機に乗れることになった。
主計科のデッキで送別会をひらいてくれた。ながらく労苦をわかち
あった部下たちを残し病気の為とはいえ、分かれて先に帰る
のは辛かったが、彼らは私の回復と帰国を心から祝福してくれた。
みな大いに飲んで歌った。当時ラバウルで一番はやっていた歌は
「南洋航路」で、帰国してみると、内地では、「予科練の歌」や
「ラバウル航空隊の歌」とともに大流行していた。現在では
「ラバウル小唄」として親しまれているものがこれで、ただ当時
のわが隊では、いくらか歌詞がちがっていた。
2月11日の朝、久しぶりの東飛行場では1式陸攻の輸送機が
3機エンジンの調整をしていた。だいぶ待たされたが2番機に乗る
ことになった。
ラバウルの山々や海が眼下にかたむいた。
「さらばラバウルよ また来るまでは・・・・」
軽くバンクした機は北へ向かって進路をとった。
かえりみれば、内地に帰れたのはまったく偶然の幸運の連続の
おかげであった。まずパラチフスにかからなければ、内地帰還に
ならなかったことは確実であった。パラチフスにかかったのは、
私だけが予防注射をうけなかったからであった。注射のとき小川
軍医大尉がすでに着任していたら、無理にもうけさせれたであろう。
島軍医少尉の注射が下手でイヤだったから私は逃げたので
ある。つぎにパラチフスがもう少し重かったり、持病のマラリアを
併発していたら、私は助からなかった。もう少し軽かったならば、
いくら小川大尉でも内地帰還を申請してくれなかったであろう。
すれすれの重症だったわけであろう。
その後飛行機のなくなった582空は4月に解隊となり、全員が
横鎮付けとなって内地に帰還できることになった。4月初旬には
582空からは小川軍医大尉他が、伊号第2潜水艦に便乗し、
トラックに向けて出航した。だが伊2潜はラバウル北方海域で
行方不明となり、5月4日全員戦死と認定された。もしそのとき
私がラバウルにいたならば、とうぜん最優先で潜水艦に乗って
いたにちがいない。だれかが私の身代わりになったのである。
このように運命の歯車は、すべて私に幸いしたのであった。


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