日本海軍400時間の証言(4) 開戦 海軍あって国家なし

反省会に参加した元海軍士官は確認できただけで42人。
会は昭和55年から平成3年まで月に1度行われ、130回
以上続いた。会の様子を写した写真は1枚もない。カセット
テープの数は225巻に及んだ。貴重なテープを傷めない様
全てがCD-Rに録音し直された。収録時間はおよそ400
時間。

右田から「海軍反省会主要参加者一覧」が渡された。略歴
の欄をみると多くのメンバーが軍令部に在籍していた。

明治憲法下では、軍隊の最高指揮権である「統帥権」は
大元帥である天皇の大権の一つとされ、軍への命令は
全て天皇の名の下に行われた。
その天皇を補佐するのが軍令部であり、具体的な作戦や
編成計画を立案していたのは、軍令部員(参謀)たちで
あった。

トップに天皇、その下に政府と軍令部が並列している。
軍令部は政府からも独立した存在で、総理大臣でさえ
作戦に口を差し挟むことはできなかった。これを一般に
統帥権の独立という。どんな作戦が計画、遂行されている
のか、軍令部は政府に知らせる必要すらなかったという。
戦争反対者、米内光政、艦隊派の山本五十六、井上成美
も軍令部を動かすことは出来なかった。
国力の全てを戦争に注ぎ込む総力戦ともなれば、軍令部
の権力が絶大となるのは必然だった。

軍令部は総長をトップに四つの部からなっていた。
作戦や編成を担当していたのは中枢が第1部。第2部は
兵器の選定、整備、研究など軍備の充実を担った。
第3部は諸外国の情報分析、インテリジェンスを担当。
第4部は暗号などの通信を受け持っていた。
軍令部第1部第1課、通称作戦課。軍令部員のなかでも
限られた参謀しか入室が許されない奥の院だった。
作戦課に所属する参謀は僅か10人ほどだったという。
作戦課は今もってブラック・ボックスになっている。

右田が手渡した海軍反省会主要参加者1覧に出席回数や
発言が多い24人。その半数が1度は軍令部に籍を置いて
いた。昭和16年12月の真珠湾攻撃直後に。軍令部の
作戦室で撮られた写真がある。大勝の後とあって写って
いる9人の参謀は胸を張り、誇らしげだ。
二人の人物、佐薙毅大佐(1901~1991)と三代一就
大佐(1902~1994)。
開戦の真相をを知っているこの二人が反省会に参加
している。

昭和55年3月28日、反省会での最初の発言は、野本為輝
元少将(1894~1987、航空母艦の瑞鳳、瑞鶴の艦長)
この時85歳、彼こそが反省会の発起人であった。
司会は寺崎元大佐、幹事が土肥元中佐。
野本元少将が残したメモには、負け戦をした当事者として、
いわば敗軍の将として、その原因を反省して後世に残す
べきであると書かれていた。

反省会という名称に反対した人物がいる。末国元大佐だ。
「反省会という名前がついているから、結論を出さねば
ならぬように思うのだ。これは反省会でなく海軍の施策、
経緯を考察する程度にとどめるべきだ」。
これに対して、反省に重点をと呼びかけたのが、佐薙元
大佐だった。開戦時軍令部作戦課に在籍していた。
反省会のキーパーソンである。
「どこが悪かったか、なぜ負けたかという点を反省し
なければならない。先輩,大先輩、長官以下、軍令部
総長以下に対して非常に批判、辛辣な攻撃を含むことが
あるかもしれぬ。それはもうやむを得ない」

佐薙大佐の思いのうらには何があったのか。大佐が
膨大な日記を残していたことがわかった。長男の恭氏は
父を「真面目で几帳面」と評したが、その言葉通り、
日記帳はきれいな、小さな字で毎日びっしり書かれていた。

日記には事実がきちんと伝えられていないという思いが
滲んでいた。
当時防衛庁が編纂していた「戦史叢書」に対する
不信感である。政府が日中戦争、太平洋戦争を記録した
いわば公式の戦史について、日記の中で繰り返し批判
している。
「海軍の元少佐が記した開戦経緯は、戦史室陸軍側から
反対が出て重要な部分を削られたという。従って公刊され
たものは根本に触れていないところが多々ある」。
陸海軍の対立は有名な話だが、戦後20年以上を経て
戦史を記す祭にも対立を引きずったとは興味深い話である。
反省会の参加者が「自分たちこそが事実を伝え残すのだ」
という共通の思いを共有していたことは間違いない。

しかしこのことは会のあり方とは矛盾していた。会は関係者
以外立ち入り禁止の非公開で行われていた。世間に出す
ことは全然考えていなかったと、のちに幹事を務める平塚
元少佐は述べ、もしそれを考えたなら、本当のことを皆さん
話さないから、ざっくばらんな真相をやろうということで、部外
には出さないということで始まったわけですと言い、非公開
が自由な発言をし、海軍の恥を含めてさらけ出す重要な
担保になっていたと指摘した。

しかし時代の変化と共に、反省会のテープはNHK取材班の
手元に届いた。

●初めて明かされた、開戦の驚くべき内幕
チーフプロデューサーの藤木は「何を読んでも、なぜ日本が
戦争を起こしたのか、今ひとつピンとこない。開戦から70年
近く経っているのに、日本社会全体が確固とした回答を
持っていないんじゃないか」

当時の為政者や軍人たちは、事実を十分明らかにしてきたと
いえるだろうか。

第10回反省会、昭和56年1月30日、この日初めて開戦の
経緯が詳しく語られたのだ。
口火を切ったのはこの日初めて参加した保科善四郎、89歳
元中将(開戦時の兵備局長で終戦時は軍務局長、戦後は
衆議院議院を4期つとめた)だった。

対米戦争に踏み出すのか、回避するのか、政府、軍部で
激論が交わされていく中、開戦に傾いていく海軍首脳の姿を
証言する。
「私は嶋田さん(開戦時の海軍大臣、嶋田繁太郎大将)に
聞いたんです。もし陸軍がいうことを聞かなかったら、あなた
は大臣を辞めたらどうかと。 嶋田さんがね、お前そんな
子どもらしいことを言うな」と言われたのです」。

当時の日本は軍部が作りだした危機によってがんじがらめに
なっていた。
中国を支援する米国は、日本の勢力拡大を阻止しようと、
日本に対する石油の輸出を禁じる経済制裁を発動、中国、
仏インからの撤退を求めた。
時の陸軍大臣東條英機中将は、これまでの戦闘で数十万に
及ぶ死傷者を出しており、いまさら撤退できない。撤退すれば
陸軍はガタガタになる、統制が出来なくなるとし、対米強硬論
を主張していた。

嶋田海軍大臣が恐れていたのは、陸軍による内乱・クーデータ
だったと保科元中将は言う。嶋田大臣が対米開戦に反対
すれば陸軍が内乱を起こす、内乱が起こったら今の状態より
悪くなるから始末ができなくなると。
内乱に対する危機感は昭和天皇も証言している。終戦直後の
昭和21年に作成された「昭和天皇独白録」に以下の言葉が
ある。「もし開戦の決定に対し拒否したとしよう。国内は必ず
大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の
生命も保証できない」

こうした危機感の背景にあったのは、昭和11年に陸軍の青年
将校たちがひきおこした2・26事件であろう。現役の大蔵大臣
をはじめ、天皇の側近である内大臣が殺害され、侍従長が
重傷を負ったこの事件は、宮中、政治家、軍人たちに衝撃を
与えた。こうしたキナ臭さが、開戦直前にも存在していたと
いうのである。

しかしこうした危機感に対しては異論もある。具体的な計画が
あったわけではないし、起こったとしても憲兵隊や警察によって
封じ込まれる規模であっただろうと、歴史学者たちは指摘して
いる。(徹底検証昭和天皇独白録)
「内乱の恐れ」は戦争をとめられなかった人々が、自らを正当化
するために持ち出した論理ではないかというのである。

海軍の中枢は「内乱の恐れ」をどの程度まで深刻に受け止めて
いたのだろうか。当時の空気をリアルに証言したのは開戦時の
軍令部作戦課参謀、佐薙元大佐である。
「陸軍と接触していた感触から言うと、私は内乱が発生すると
思っていました。国内の一般世論、マスコミ、政治家も興奮して
いる時に米国の言いなりになれば、内乱が発生すると、陸軍の
参謀本部に接触する範囲ではそういう空気でした。
私もやっぱりこのまま米国の言い分を飲み込めば内乱は必至
だと率直に感じておりました。

佐薙元大佐はこの日の日記に、昭和天皇の弟で、開戦時は
陸軍大佐だった秩父宮擁仁親王を担ぐクーデターの噂があった
ことを記している。結果としてクーデータが成功したかどうかは
別として少なくとも軍令部の参謀たちがこうした事態を恐れて
いたことは確かなようだ。
しかし内乱の恐れがあったのであれば、それを未然に防いだり、
起きたときにどう鎮圧するのかを考えるのが軍上層部の
責務であろう。外国との戦争に踏み切る理由にはならない筈だ。

ここで同じく作戦課参謀だった三代元大佐が衝撃的な証言を
する。軍令部のトップ、永野修身総長は陸軍のクーデーターに
よって、海軍が陸軍の支配下に置かれる事態を恐れ、開戦を
決意したというのだ。
永野は「内乱を起こすと人数上海軍は陸軍にかなわないから、
何ヵ月後に海軍が鎮定されて、右翼の政府が出来て、時期を
失して、日本としては不利な時期に戦争をやらなきゃならぬと
いうことになる。どうせ戦争をやななきゃならぬというのなら、
少しでも勝ち目のある間にやるべきだ。」ということが永野の
考えだとこう言った。
確かに永野総長は、開戦の半年前、米国が対日石油禁輸に
乗り出す直前に昭和天皇に対し「寧ろこの際打って出るの外
なしと」という考えを伝え(木戸幸一日記、昭和16年7月31日)
その後は一貫して主戦論を唱えている。

なぜ中国戦線でほとんど犠牲者を出していない海軍がここまで
開戦に前のめりだったのか、常々疑問の思っていたのだが、
その理由が海軍の組織防衛にあったとは。
国家の存亡、国民の命がかかっていたこの時期に、海軍
首脳部は自分たちの組織のことばかり考えていたのである。
軍部は陸海軍あるを知って、国あるを忘れていた。海軍を守る
ために、一か八か米国と戦争するというのは、まさに「海軍
あって国家無し」という思考そのものである。

怒りの声を上げた人、本名進元少佐
「相当のものが、本当に日本の自存自衛のために、日本の
独立を保っていくために、戦争をせざるを得ないんだと、その
考えで戦争に走ったと思うんです。そうじゃないんでしょうか」。

大井元少佐 「そうじゃないから問題になっているんですよ」
「戦争に負けると思った方は、内乱を恐れてやったと。内乱を
起こそうという連中は勝つと思っていたわけです」。

戦争は避けられるはずだった。・・保科中将が語気を強めた。
「東條さんがね、最後に開戦の決を決める時に、海軍が反対
すりゃできません。と言った。海軍が反対すれば陸軍はどうにも
しようがないということ。海軍が戦わなきゃ米国と戦争できない
でしょう。だからその辺りはどうもおかしいんだよ。軍令部は
内乱が起こるという。内乱が起こったって、海軍が反対すれば
結局戦争にならない。あれだけの人を殺して戦争するよりも、
若干譲歩して決をとる方法があったんじゃないですか。そういう
ことがあったということは反省していいと思うのだ。当然」

よく海軍は陸軍に引きずられて開戦を決意したと言われる。
しかし統帥部にみる限り、主戦論であることに陸海の差はない。
開戦を主張し続けた軍令部の責任は、厳しく問われなければ
ならない。
その一方取材班は何故軍令部を止められなかったのかという
疑問を抱き始めた。

海軍は海軍省、軍令部、艦隊という三つのグループから成り
立っている。海軍省は予算や人事など海軍の役所部門、
軍令部は国防計画や作戦計画を立案し、天皇の統帥権を補佐
した。いわば海軍の頭脳である。 
艦隊は軍令部の作戦の下に戦う。連合艦隊司令長官は
軍令部の指導をうける立場だ。

海軍省が軍令部より優位だった時期は、それは大正から昭和
初期にかけての海軍休日(Naval Holiday)と呼ばれる軍縮体制
に象徴される。米国、英国と結んだ軍縮条約によって、保有
する軍艦の量が制限されていた。

条約締結前軍令部は猛反発した。昭和五年のロンドン軍縮
条約では「統帥権干犯問題」が起こり、軍令部、海軍省、政府
政党、右翼などをまきこんだ大騒動に発展したが、軍事費を
抑えたい政府と政府の一員だる海軍省が押し切る形で条約
締結が実現した。この頃までは軍令部の影響力に一定の
歯止めがかかっていたのだ。
ところがその10年後には軍令部は陸軍と共に主演論を唱え、
政府を太平洋開戦にひきずっていったのである。この間何が
あったのだろうか。
反省会でこの点に問題提起していた人物がいた。野本
元少将だ。

軍令部の権力が拡大した背景には一人の皇族の存在があり
この問題に正面から向き合う必要があると主張した。
「つらつら考えるに開戦1年前の永野、嶋田量大将のことを
批判するだけではそれは甚だ範囲が狭いのである。
大正2年に兵学校に入ったが、米国とは必ず戦争をするのだと
我々は教育されておった。
皇族の博恭王が9年間も軍令部総長をやっている。皇族に
対しあるブレーキをかける空気がなかったのははなはだ遺憾
である。

伏見宮博恭王は明治8年生まれ、18年から海軍兵学校に
通い、37年の日露戦争では勝利を挙げた黄海海戦に参加、
戦艦三笠の分隊長だったが近くで弾が炸裂し、肋骨を負傷
したと言われる。軍隊でモノをいうのはなによりも実戦経験で
ある。日露戦争以来本格的な海戦を経験していない海軍の
中にあって、名誉の戦傷を負い、しかも皇族であった伏見宮
元帥はまさしく英雄であったに違いない。
昭和7年に海軍軍令部長に就任、直後に元帥府に。

昭和8年に軍令部の改訂があるのです。それまで軍令部は
海軍省の下にある関係できている。昭和8年に軍令部の権限
が強化され、それから伏見宮が軍令部総長としてやってくる。
この後、海軍の内部でいわゆる良識派という人たちが次々と
止めていくわけです。
軍令部の権限の強化を図るため、法令を通したいため、高橋
三吉(軍令部次長を務めた海軍大将)が宮様を持ってきた
のだ。これ謀略ですよ。(末国元大佐)
軍令部の改訂の中身は「海軍軍令部令」と「業務互渉規定」
である。より重要なのは互渉規定の第3条である。
そこには「兵力量に関しては軍令部総長が起案」とある。
軍艦の数や装備といった兵力量にかんして軍令部が主導
することを明記したのだ。これが日本の進路にとって決定的に
重要な意味を持つことになる。

二つの条約は軍備拡大を図りたい軍令部にとっては足かせ
だった。兵力量決定の主導権を自らの手におさめるため、
新たな法令を制定しようとしたのである。決定を天皇の大権の
範囲であるとして、「統帥事項」にできれば統帥権の独立を
盾に、海軍省や政府の干渉を排除することができる。
軍縮体制からの脱却も可能となるわけだ。
海軍省との交渉の最後の登場は宮様である。これこそが謀略
でないのか。海軍大臣との対応を不満として皇族が公職を
辞したとなれば大問題に発展することは間違いなかった。
勝負ありの瞬間だった。

しかしことはすんなり運ばなかった。巨大な壁は昭和天皇
だった。大角岑生海軍大将は天皇から、口頭説明だけでなく
文書にして提出せよと厳命した。昭和天皇はがすんなり御裁可
しなかったのは何故なのか。これより2年前陸軍の暴走を目の
辺りにしてきた。
苦々しい思いを抱いていた昭和天皇は軍の動きに神経を
尖らしていた。しかし立憲君主を自認する昭和天皇は、翌日
には法令を裁可している。

伏見宮総長は昭和16年、海戦の直前まで軍令部総長の座に
あり続けた。戦争で海軍士官だった息子を失い、紀尾井町の
邸宅は空襲で消失している、終戦の翌年に70歳で亡くなった。

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日本海軍400時間の証言(2) テープの入手

第1章 超1級資料との出会い  右田千代

戦後60年の節目だった2005年。勉強会で、ある時戸髙氏
が「特攻」について語り始めた。
特攻隊員のことは戦後もたくさん語られてきているけれど、
誰がどのように特攻作戦を考えたか実はあんまり知られて
いないんだよ。
大体、特攻隊員を送りだす時、幹部は必ずこういったん
ですよ。必ず自分も後から行くから。なのに本当に約束を
守って死んだ幹部なんてほとんどいなかった。

特攻隊員は死んだら2階級特進といって、遺族が軍人恩給
を沢山もらえる制度があった。それを聞いたある兵士は、
特攻命令を受けた時、こういって断ったんだそうだ。
「あと少し待って下さい。昇進時期が過ぎて階級が一つ
上がったら必ず特攻に行きます。上官が何故昇進後がいい
のだと聞くと、自分が死んだあと、母親に少しでも多くの
手当てを遺せる。それしか親孝行が出来ないのでと言った。

夕食をとりながら歓談している時、「歴史についての番組と
いうと、どうしても第1級資料があるかどうかが問われて
しまうんですよね」と話していると、戸髙氏が語りだした。
「海軍反省会と言うのがあって、その録音テープが何十時間
分も家にしまってある。もと海軍幹部だった土肥一夫中佐
から預かったものだけど、参加者が生存中は絶対非公開が
条件だって言われて、20年以上ずっと大事にしまってきた」と
言った。

NHK側から、テープを聞かせてもらいたい、番組化を検討
したい。との申し入れに戸髙氏は「もう関係者は鬼籍に
入っていると思うので、ご遺族の了解を取れば公開は可能
かもしれないと答えた。
ただテープは昭和50年代に録音されたものなので、果たして
再生できるかどうか心配された。
NHKの技術でデジタル・コピーして安全に聞ける方法があった。

戸髙氏からはテープ45本第25回まで。反省会が始まった
のは昭和55年、1980年であった。戦後35年も経って何を
語ることがあったのだろう。少し不思議な気がした。テープが
入手できたのは2006年夏。
しかし紙資料でその後も会議が続けられていることが明らか
になった。

戸髙氏の紹介で連絡をとったのは平塚清一元少佐。
最初はとりつく島もなかった。戸髙氏は後半のテープはきっと
平塚さんしか持ってないだろうと言った。
戸髙氏によれば反省会の幹事は二人いた。
土肥一夫元中佐は当初幹事として反省会を取り仕切っていたが、
五年ほどたってから、後輩である平塚元少佐にその仕事を
託していた。

2007年7月末平塚少佐に戸髙氏とともに訪問したいと電話した。
訪問は8月22日ときまった。この時平塚少佐は92歳だった。
海軍反省会62回から131回(平成3年4月)までの110本の
テープがあった。

残るは第26回から第61回までの大きな空白と、第13,15回
など途中で欠けているテープをどこまで見つけられるか課題
だった。
さらなるテープ発見。土肥さんの息子から2008年6月、連絡が
入った。欠番となっていたもののうち、第37回、43回から59回
まで飛び飛びに、あわせて35本のテープが見つかった。これで
終りかと思っていたところ、土肥一忠氏から、沢山のテープ
発見と電話があった。
かくて26回から46回、欠番はあるものの、最初に借りたものと
あわせると、前半部分はほぼ網羅できたといってよかった。
後世にこの議論を伝えて欲しいという土肥もと中佐の執念を
感じる。

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引き裂かれた兄弟 沖縄戦で敵味方 フジテレビ

8月13日フジテレビ 午後9時~、最後の絆
実録ドラマ、脚本はひかわ かよ外

1944年(昭和19年)米軍の攻撃により沖縄は激戦の地
へと変貌。
16才の康治(佐藤 健)は中学の学友とともに極秘部隊
「鉄血勤皇隊」の少年兵として徴集される。一方家族に
仕送りするためにアメリカで働いていた兄の盛勇(要 潤)は
アメリカ軍の日系情報兵となる苦渋の決断をする。

沖縄北部名護に住んでいた東江(アガリエ)一家は、夫婦、
男の子3人、女の子1人の家族だった。夫婦は米国に
出稼ぎに行っていた事があり、長男盛勇(せいゆう)は米国
生まれだった。盛勇は26歳の時家計を助けるため米国に
出稼ぎにでることをj決意した。10才違いの二男康治
(ヤスハル)は16才、3男は平之と言った。

米国では外国人であっても戦時徴兵をする制度ができ、
20才以上の外国人男性に徴兵に応ずるか、帰国するかを
迫られた。盛勇は迷ったが、言い聞かされていた母親の
「ぬみどう宝」、生きていることが1番大事で、生きてさえ
いればどんなことがあっても会えるとの教えを思い出し
1941年10月米陸軍に入った。

開戦とともに状況は一変した。戦況の悪化にともない、沖縄
の男子中学生、14才~17歳、1400人は熱血勤皇隊を
結成することとなり、教練に励むことになった。14才の平之
も参加になった。

一方盛勇はテキサスの陸軍情報機関MISに属し、無線傍受
暗号解読、投降呼びかけの仕事をすることになった。

米軍は南シナ海側から上陸し、名護も占領された。住民や
熱血勤皇隊はヤンバルの森に避難した。
粗末な兵器ではたちうちできず、敗走、山にこもった。米側の
最終北部掃討作戦に際し、盛勇は自分の家族を探したいと
上官に申し出、1日だけの余裕だったが許可をもらった。
山で小さな女のこがうずくまっているのを発見、良く見ると、
昔の盛勇の家の隣の子であることを発見、沖縄語で話し
かけた。女の子たちも隣の盛勇兄ちゃんなることを認識した。
しかし女の子は家族のいる場所を明かさなかった。

康治は敵弾を受け出血多量だったが、古謝佐知子、娘津江子
(現在69歳)に助けられ、父の小屋にも運ばれた。
盛勇兄ちゃんが米兵としてきていることを、女の子から知った
父は、地雷の埋まった森を駆け下り、盛勇と再会することに
なった。
弟康治は兄を敵として心をとざしていたが、盛勇が母の命さえ
あれば必ず会えるとの言葉を繰り返し、兄弟の情が甦った。

名護の慰霊祭で現在交流している。米国在住の兄(沖縄県
女性と結婚)は92歳、弟は82才。3男平之は戦死した。

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原爆投下 生かされなかったテニアン発B29情報

NHK総合、8月6日(土)、午後9時ー10時。
想定外の奇襲とされた広島、長崎への原爆投下。
実は、日本軍は米軍の動きを掴んでいたことが明らかに
なってきた。それなのに、なぜ多くの市民の命を守ることが
できなかったのか。
当時の資料や当事者の証言などから、国民の生命の安全
よりは、国の担当者の事情やメンツを優先させた驚きべき
実態が浮かび上がってきた。

大本営参謀本部第2部は情報担当であり、広島に米情報
入手分析の特別機関があった。
米29の部隊は基地の島ごとに、部隊のコール・サインが
違っていることは、参謀本部でも掴んでいた。文章の内容は
わからないのだが、初めに出てくるV400シリーズはサイパン
所在B29部隊、V500シリーズはグアム所在、V700は
他の島所在でB29を多数かかええる大部隊であることが
わかっていた。

20年6月にいたり新たにV600シリーズが加わったが、
これは新しく出来たテニアン島の滑走路を使う、12,3機
編成の少数B29部隊であることがわかった。
これが特殊部隊だとの認識はあったが、原爆攻撃機との
認識はなかった。

大本営では米側の原爆開発の話を掴んでおり、日本でも
仁科博士の理化学研究所に開発を命じていた。日本では
資源も資材も乏しく原爆開発は無理と判断した。米国は
資源豊富でいずれ実現するだろうが、今次大戦には
間に合わぬと判断していた。
米国ロス・アラモスでの原爆実験の成功の話は、外交筋
を通して大本営も知ったが、これは通常型の大型爆弾の
成功とみなしていた。
 
8月6日以前には関西、中国無差別爆撃が行われていたが、
広島だけは爆撃されておらず、近く空襲があると予想されて
いた。
6日テニアン発のコールサインを持つ2機のB29が北上開始、
五時間前にこれが広島を目指していることが判明。すぐ
大本営に報告されたが、空襲警報はだされなかった。
参謀本部第2部の生き残りによれば、この時空襲警報が
でていれば、エノラ・ゲイによる投弾まで五時間あったので
あり、避難処置が相当程度できていたはずで、死者の数は
ぐっと減っていたと思われる。

長崎の場合も豊後水道北上中のテニアン発B29を発見して
おり、この機は小倉上空の気象条件が悪いため、急遽
方向を長崎にかえた。
この時日本の大村海軍航空基地には、高空戦闘に対応でき
B29を撃墜しうる「紫電改」が残存しており、十分B29を撃墜
出来る時間的余裕があったに拘わらず、大本営は空襲警報
も出さず、大村航空隊に何等の指示をだしていない。

大本営の恐るべき怠慢、人命軽視極まれり。

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日本海軍400時間の証言 軍令部参謀の語った敗戦(1)

著者NHKスペシアル取材班、新潮社刊、2011年7月15日

太平洋戦争の本当の戦犯は誰なのか?
彼らは何のために戦争を始めたのか?

戦後日本海軍中枢のエリート約40人ガ密かに集まり
語り合っていた内容が400時間分ものテープに残されて
いた。

プロローグ 藤木達弘
NHKスペシアル「日本海軍400時間の証言」(2009年8月
放送。全3回)は放送の五年前、2004年8月にひとりの
研究者と出合ったことから始まった。責任者として私が
謝らなくてはならぬ相手は「昭和館図書情報部長、戸髙一成
氏であった。

戸髙氏は戦後生まれであるに拘わらず、子どものころから
軍関係の本や雑誌が好きでのめりこんで行った。

戸高氏のコメント。「平時はいいけど、戦時になると偉いひと
ほど責任を問われない。作戦を失敗しても責任者の責任を
問わないケースが多くなってしまう。人事も問題が多い。
戦時にも拘わらず平時と同じように行われている。
ミッドウエイ大作戦の前にも平気で大幅な人事異動をしている
んだから。戦争をするための適材適所とはとても言えない」。
旧海軍という「組織」が抱えた問題や犯した罪はおおまかに
まとめるなら、
「責任者のリーダーシップ欠如」
「身内を庇う体質」
「組織の無責任体質」

戸髙氏は出会ってから約2年後、「海軍反省会」とその録音
テープの存在を明かした。
「海軍反省会とは何なのか」
1980年から1991年まで分っているだけで131回に
わたって、ほぼ毎月海軍士官のOB組織である「水交会」で
開かれていた。メンバーの多くが太平洋戦争当時、軍令部
や海軍省に所属していたエリート軍人であった。

戸髙氏は反省会の幹事役の土肥一夫氏に頼まれ資料作成
や整理などを手伝い、そしてその肉声テープを20年以上
保管していたのである。
「自分たちが生きている間は決してその存在を表に出しては
いけない」との反省会の幹事からの申し渡しを頑なに守って
きたのである。

しかし同時に反省会の議論で話されている内容の重要性は
十分に認識し、歴史の空白を埋める資料であることを重く
受け止めていた。
公表のチャンスをずっと待ち続けていたのではないか。
メンバーがほとんど鬼籍に入った時に現われたのが、我々で
あった。戸高氏は我々とともにその責任を果たそうとしたと
思えるのである。

それにしても131回、総計400時間の議論である。しかも
参加者は当時既に70代から80代の老人たち。そこまでして
議論を続けた老人・旧海軍士官たちの「執念」とは何であった
のか。
戸髙氏は反省会のメンバーが「胸のつかえ」を晴らそうとした
のではないか、と私たちに話した。「胸のつかえ」とは何なのか。
私はそれを、旧士官たちが「空白の歴史」に対する責任を
果たそうとしたことではないかと今は考えている。

そう考えるようになったのは、反省会テープを聴き続けていた、
2007年春の取材先での出来事がきっかけだった。
この頃、私とデイレクターの右田千代、内山拓、リサーチャーの
土門稔は反省会が開かれていた「水交会」に毎日通って
いた。私たちが通っていたのは、そこに保管されていた「小柳
資料」を閲覧するためだった。
「小柳資料」は1956年から61年にかけて、小柳富次もと中将
が、海軍大臣や軍令部総長、軍務局長など、旧海軍の最高
指導者たちから聞き取りを行いまとめたものである。

ただその当時小柳資料は一般に公開されていなかったため
管理責任者にその閲覧とコピーを願い出た。資料管理の責任者
である古賀雄二郎はとりあえずの閲覧を認めてくれたものの
「皆さん、資料をこの場所で一度読み、それから番組の構想を
練ったらいかがでしょう。複写についてはそれから相談しましょう」
と言う条件を提示した。

この条件はのちにとても大きな収穫となって、私たちに返ってくる
ことになった。ともかく読まなければ先に進めないとなると。この
作業がやがて海軍士官たちの「胸のつかえ」を知ることにつな
がってゆくのである。
「小柳資料」はやはり1級資料であり、番組でも取り上げる重要な
新事実やおおくの参考情報を得ることができた。
しかし資料を読んで、私が最も重要だと感じたのは、逆に歴史的
に重要なおおくの事実を当事者たちが「述べていない」、「遺して
いない」と言う点だった。
小柳資料が作成されたのは戦後10年以上が既に過ぎていた頃
である。それだけの時間を経過しても、軍の指導者たちはなお
多くのこと、(こちらが知りたいこと)を語っていないし、遺して
いなかった。

反省会では、この小柳資料で「語られていなかったこと」、「遺され
ていなかったこと」が数多く議論されていた。
それは、自分たちが知る本当の事実が伝えられていない
「それはどうしても遺したい」という旧海軍士官の思い。そして
「空白の歴史」をすこしでも埋めておこう」という「責任」ではなかった
のか。

「命じられた側でなく「命じた側」に迫るという番組。
反省会の議論で我々がとりあげるべきだと考えたテーマは、
大日本帝国海軍というこの組織が抱えた問題は、現代日本の
官僚組織、企業でも起きているのではないか、というものだった。
「組織優先で、個人を軽視する」
「失敗した時の責任の所在の曖昧さ」
「流れに身を任せた結果生まれるやましき沈黙」
などの教訓である。

確かに反省会の旧海軍士官たちは、おおくの重要な歴史的事実
をじぶんたちの「責任」において遺した。議論では率直に語り、
先輩たちなども厳しく批判している。
私が注目したのは反省会が開かれた時期だった。
反省会メンバーの多くは「小柳資料」でとりあげられている。
旧海軍の最高幹部たちの直属の部下であった。
反省会が始まった昭和50年代と言うのはかっての上司たちの
多くが既に亡くなって初めて批判を始めたとは言えないだろうか。

私はもうひとりのプロデューサー高山仁と議論を重ね、取材デスク
の小貫武を代表として出演させその決意(反省会で話されている
海軍の失敗を決して過去のこととして語らず、現代への教訓を
さがす。その際、そのことを自分たちの問題として語る)を伝える
ことにした。この番組は過去のことを伝える「歴史番組」でなく
すべてを現代の問題として伝える「報道番組」であるということで
あった。

放送後若い視聴者を中心に大きな反響を呼び、その多くが自分
たちの問題と重ね合わせて視聴してくださっていることが分った。
番組は多くの賞を受賞した。右田千代は放送ウーマン賞を受賞
した。
番組について作家の佐野真一氏は「日本海軍の病理というだけ
でなく、いまの日本に生きる私たちの病理でもある。視聴者に
消費されるために作られたしか思えないテレビ番組が横行する
なかで、圧倒的な存在感で底光りしている」と述べてくださった。

今回の書籍化にかんしては分担して執筆を行った。われわれが
番組で伝えたかったことは何か、十二分に伝わる内容になった
と自負している。
原稿の最後のチェックを行っていた2011年3月11日に東日本
大震災が起きた。

軍令部の士官の多くが、
「太平洋戦争には反対だった」
「戦争をやればかならず負けると考えていた」などと述べている。
日本人だけで300万人、アジアなど諸外国を含めるとさらに
膨大な犠牲者を生むことになる開戦へのながれの中で、決定的
な役割を果たした軍令部の士官たちが、そのことをどこか「他人
事」として語り、開戦の責任も曖昧になっていったと、私には感じ
られるのだ。

尚、開戦時軍令部1部1課作戦担当、課長 佐薙 毅海軍大佐
(戦後は自衛隊空幕長となる)は、れいの三菱の佐薙の父親だ。

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中島三郎助 ペリー来航 海軍創設 函館戦争 ラスト・サムライ

7月6日NHK総合、午後10時~10時45

中島三郎助は浦賀藩の1与力であった。15歳で出仕。
幕末とはペリー来航から戊辰戦争、函館戦争終結までを
いう。
浦賀奉行所は海の関所であり与力は地方採用の中間
管理職。当時の浦賀奉行所では武器の開発製造、艦船の
建造、船員の訓練もおこなっていた。

米モリソン号が浦賀に通商を求めて浦賀にやって来た。
1852年嘉永五年のことである。
中島はモリソン号に大砲を撃ったが勿論届かなかった。
当地は外国船打ち払い令が改正されされ、水や薪炭の
供給はしても良いことになっていた。中島は通訳をつれ、
横断幕にフランス語で書かれた、貿易を望みものは長崎
奉行所に行けとの文章を見せた。又、I can speakEnglish
とも叫んだ。
それに対しモリソン側は上級役人以外とは話をしないと
いうことで、中島は一策を案じ「自分は副奉行だ」とはったり
をかけ乗船することになった。先方から食事をサービスされ、
日本側も芸をひろうした。

通商を進めるために来たとの書状を浦賀奉行から江戸の
上層部にとどけることでモリソン号は了解退去した。
かくして中島は黒船に始めて乗船し交渉を行った、人物に
なった。

1853年嘉永6年米東洋艦隊の4隻が浦賀に現われた。
外国船に退去命令をだす応接係になっていた、中島は他
与力2人と共に早舟をし立て、旗艦サスケハナ号に
向かった。通訳も2人乗せていた。この頃に通訳もかなり
存在していたのも驚きだ。
例のフランス語の貿易を望むなら長崎の奉行所に
行けとの横断幕を見せたが、ペリーの副官コンテイ大尉が
地位の高い人以外のひとは話はできないというので、例の
手で自分は副奉行のNo.2だと言い、答えは明日まで
待ってくれと告げた。

庶民のほうは黒船になれ、黒船の模型や絵やみやげ物を
売るやからがあらわれた。

7日後、又船に行き、国書は久里浜で受け取ると伝えた。
米側は中島らに接待をおこなった。

一方浦賀奉行所では国産初の軍艦を建造し、3本柱の
36mの船、大砲10門を搭載する軍艦を完成させた。
鳳凰丸だ。薩摩藩は昇平丸をつくり幕府に献上した。中島
が艦長になり桂小五郎や、幕府高官もこれに乗った。
中島は洋式船の専門家として知られるようになった。
安政五年長崎の海軍伝習所で訓練を受けるよう指示された。

浦賀奉行所ではペリー来航以前から西洋砲術を取り入れて
きた。それだけにオランダ語でも概ね検討がつくのだ。洋式
造船と操船の実績もあった。
伝習所には、浦賀奉行与力9人、20人の水夫が参加した。
リーダーは佐々倉桐太郎、中島三郎助だった。
勝麟太郎は生徒監の一人であったが、砲術者、オランダ語
堪能というこであったが、いずれも未熟で又コンパス操船が
分らず化けの皮がはがれ、浦賀組みから批判され、伝習所
内で対立抗争がおこり、オランダ人教官の収拾があった。

のちに築地の軍艦教練所の教員になった。喘息のため41歳
で辞職した。

咸臨丸の米国行きのさいは中島は外された。伝習所での
対立があったためと言われる。尚、咸臨丸の操船は奉行所
与力、水夫、しあく諸島出身水夫によりなされた。
桂小五郎から造船与力にならぬかとの勧誘もうけた。
のちに北海道函館市に住んだ。
戊辰戦争では幕府に恩を受けているとして、息子恒太郎、
英次郎とともに戦った。幕府艦隊に参加。オランダから購入
した開陽丸は世界に3艦しかないという最大の戦艦だった。
江差地区に1大根拠地を作るべ出動したが、暴風雨のため、
海岸に押し寄せられ、大砲を全部打ってその反動で岸を
離れようとしたがならず、沈没した。

中島親子は5稜郭の最後の砦、千代ケ岡陣地に善戦、
戦死した。ついで五稜郭も開城,降伏した、1869年5月
戊辰戦争終結、幕末の終り。黒船が来てから16年。
1853年~1869年
函館市には中島親子が住んでいた中島町が残り、顕彰碑
が建っている。

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海軍経理築地校5・6分隊会解散 5月27日(金)

於いて如水会館12時ー、14階。
出席 5分隊
高橋信雄、河野啓二、高橋元清、地引正雄、和田宏、
竹田あつし(腆)
6分隊
阿部文弥(岩手中央部出身)、加藤昭三、河田 潤

○阿部文弥
この5・6分隊会は何年になる。
(竹田) 今回で31回目、15年、毎年2回、欠かさず
やってきた。自分は中断があったが7年間担当した。

34期谷輪の葬儀の際は36期から2人、佐々木、北村
の両君が来てくれた。自分は今88才だ。
この会は終りにしたほうが良いかも知れぬ。これが
最後であっても、阿部、高橋が何らかの形でこの種
会合に出れたら良いと思っている。

(河田)新36会の世話人と話したが、飛行会館の
スエヒロに来て戴くのはかまわない、他の分隊と釣り
合いが取れないなどということは言わないと言って
いますから、来て下さい。

岩手には阿部姓が多い。 短歌を2首披露したい。
★釜石の甥の消息を伝え聞く 家族皆無事、
  家は駄目らし
★選抜の女子の柔に勝ち抜きぬ 
  嬉し、阿部香菜は石巻人
海経34期の生き残りは、今や7~8人、東京は阿部
だけ。

○竹田
今回の地震、津波。原発には驚かされた。阿部さんは
盛岡出身、穀田さんは仙台出身、和田は山形
(問題なし)、地引は千葉(問題なかった)。
5・6分隊会は最後の会にさせていただきたい。有志の
方は毎月第2木曜に飛行会館スエヒロで仲良し会
サロンがあるので利用願いたい。
5・6分隊会の写真集を作っておいて良かった。

河野からFACEBOOKを利用したネット同窓会の提案
あったが、会員のPC利用程度から難しい。
(河野)PC利用状況からみて実現性ないので断念する。

長女の亭主が石巻出身、長男の妻が岩城市、福島
出身で出入りが慌しい。竹田の妻は目下入院中。

如水会館は学士会館より良い、5,6人用の小部屋も
ある。今後も利用可能。囲碁設備、麻雀設備も揃って

○加藤昭三
昨夏の胃がんの手術そのものは順調に経過したが、
9月ころ傷の近くが化膿し、肋骨が犯され1月初旬
再入院、1月末手術した。

ケアハウスの手伝い、学童の運営委員会の協力を
1年続けている。

○地引正雄
麻雀、囲碁、将棋を近くの公民館で楽しんでいる。耳、
眼それに脳のほうも劣化著しく、老いの悲しみを
味わっている。ただ食欲と意欲は盛ん。
今までテニスをやってきたが、3年前の正月、初打ちを
したが、前方の球を打ちに行ったら、つんのめって顔面
制動をしてしまい、足がついていかないのを悟り、テニス
は止めた。
今後随時集まりたいと思う。
(和田)サロン36に出かけてください。
狩野が仙台に住んでいるが、若林の高地にいたので
大丈夫だった由。

○高橋元清
マンスリーのお客の仕事と相続の仕事、相続は6件
進行中。兄弟の関係が昔と変わっている。
碁を打っている。仲間は日本棋院のアマチュア4段と
3段、4級の人とその下の人と打っている。自分は3級。
土曜、日曜が待ち遠しい。

築地校在学時休暇のときは家に帰っていたので、銀座
4丁目の喫茶店「若松」には行った事がない。
高橋信雄さんが当時の「若松」の名刺を持っていて、
見せて貰う。また、築地校前には、天丼屋、てんぷら屋
があったという。

○河野啓二
ホーム生活もそろそろ1年、外から帰ってくると何かしら
ほっとして板についてきた。問題は自宅処分なるも、おい
それとはできず時間をかけてやるほか無し。
解散は了解。最後の幹事、ご苦労さまでした。
有難く思っています。

米国での若い人のFacebook,Twitter,Blogによる活動に
より、資金援助も得て、オバマ大統領が選挙に大勝した
が、日本でもFacebook,Twitterの活動が始まり、今回の
東日本大震災でもいち早く大活躍した。
若い人の間では、Facebookを利用した同窓会が行われ
ているが、無料、幹事不必要で今後とも発展して行くもの
と思われる。このFacebookを36会同窓会に使えないか
竹田、飯田に提案したが、パソコン利用者が少ないこと
が難色と指摘され、認めざるを得ず、断念する。

○高橋信雄
年を重ねるごとに体力が弱ってくるのを感じる。
朝6時25分からのテレビ体操10分間、10年以上やって
いる。月2回水彩画教室に行っているが、苦痛になって
いる。
書道では賞状書きをやっている。2月初めから3月初め、
小・中学校の卒業証書の名前書きに忙しい。皆で分担
しているが1回あたり120枚くらい、月1回研修会をして
いる。
月1回神田で麻雀をしている。畑100ヘーベやっている。
86歳。昨年車を運転していて壊したので、運転は止めた。
そのかわり、原付自転車を買った。電動式ブリジストン、
95000円。
家は木造建物だが荷物がいっぱいだ。
(竹田)何となく理想的な生活だ。

○飯田和夫
会社OBの旅行が5月27日に決まったので欠席。小生
幹事、12名。
地震以来足もとがよたよたになり、年をとったことを痛感
しています。 家内リューマチのため、買い物、洗濯などを
しています。皆様のご健康を祈ります。

○河田 潤
6分隊3号は加藤と河田だけになった。
(竹田)5・6分隊会にならねば、5分隊会はここまで続か
なかったと思う。

息子の兄の方が所有するマンシヨンの部屋を借りていた
テナントが出て行き1年以上になる。息子の代わりに
オーナー報告会に河田が出ている。
昨年7月、外出先で突然脳出血を起こし、救急車で病院
に運ばれた。これが元で介護保険「要支援1」になった。
以来、歩行が怪しくなり、小走りができなくなったが、
リュックを背負って5Kgの米をかって帰るなどはできる。
築地まで買出しもできる。
還暦のころ、北八つ縦走や大菩薩峠、丹沢縦走をやって
いた頃が懐かしい。

(河野)4年前、庭で作業中脳梗塞で倒れ救急車で入院
した。幸い軽くすみ、少し発音障害があるだけ。
そのとき「要支援1号」になったが、ケアマネージャーとの
面接で元気だということで外された。

○和田 宏
碁では高橋信雄さんに1回も勝てなかったが、ある時
こてんぱんに勝ったことがある。信雄さんはそのとき酔って
いた。
山形の家はごみ屋敷になっている。山形の蔵を3代目の
自分が壊すことになった。今後整理を進めたい。
いまの公団住宅は入ってから45年になる。

有志の会合であれ、自由に気楽に集まれる機会を
持ちたい。

○穀田 博
老妻入院中で一喜一憂の状態。故郷仙台の復興に
役立てるような企画をしています。

○坪井 経
夫婦とも体調悪く医者通い。皆様お元気で。

○詫間 広
何とか元気で過ごしています。祈るご盛会。

○宮崎英雄 
とうとう1回も出席しないまま終ることになり
申しわけない気持ちでいっぱいです。

○福間 喬
諸兄のご健勝、ご多幸を祈ります。

○宮村光重
皆さん元気でお過ごしください。

○吉岡博之
足はすっかり弱りましたが、呆けはまだ。
海経最先任の23期松元鋼太郎さんが今年節分に白寿
寸前で亡くなり、26期1名、27(4)、28(2)、29(7)、
30(4)、31(3)、32(10)、33(14)、34(9)、35(38)
で残る任官者は92名。

5月10日は宇治へ誠斗海歩こう会の春季遠足行軍、
これは平均20名くらい、37,38,39期が主力です。
木谷君が老人ホームに入った由。

○高坂信一
「勤倹力行」の時代に育った私たちにとって、グルメとか
ブランドなどと驕慢に浮かれた世情、能天気なバラ撒き
マニフェストで騙し取った平和ぼけの政権・・・・。
四国の田舎にいても日本の将来について、何となく不安
な思いがありました。
そんな不安が東日本大震災として出現したのには驚き
ました。さらに意外だったのは、「はやぶさ」、「スカイツリー」
「株券電子化」などの高度の科学技術がありながら、計測
ロボット、住民データ、放射能対策などに、大変もどかしさ
を感じたことでした。

あの終戦直後の状態に比べれば、今度の災害からの復興
には条件が恵まれていると思います。若い世代の勤倹力行
に加えて非常事態に対応できる国家体制、新エネルギー
の開発など「新しい科学技術の開発」に日本の将来を期待
したいと思います。
憂国の思いは切々ですが、できるだけ周りに迷惑をかけ
ないよう心がけながら、「行雲流水」、「身辺整理」の日々を
送っています。
認知症直前、末期高齢者の最後の近況報告とさせて
頂きます。

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海軍経理学校36期総会 5月24日(火)解散

築地校5・6分隊会で和田宏君から、当日のリーフレット
「平成23年度三六会最後の総会 メモリアル」西村忠弘
作成を見せてもらい、コピーを作成する。
グランドヒル市谷 3階 真珠の間

参加者 総数44名
教官のご遺族 4名
会員      30名
会員のご家族 3名
会員のご遺族 7名

期間中の物故者五名 宮尾、上田、姉川、定野、安岡

三六会解散について 河田 潤
世話人代表の挨拶  本田親史

有志からのスピーチ
亀井敦、門脇検治、木谷二平、高木寛、渡辺満雄、
小沢慶久、石田恒章(長男)、久保山夫人、中尾睦美
(長女)、吾郷研次(長男)、安岡卓児(長男)

三十六期生徒の絆を結ぶ親睦の場を無くすことは
忍びないので、気楽な老後の活力涵養の場として、
会費制の三六会(新)を新たに設ける。
場所は航空会館8階「スエヒロ」とする。
毎月第2木曜日に懇親会を開催する。午後2時ー5時、
12月の忘年会は1時から4時まで。会費3600円。

本会の会員の情報を把握するため、予め会員に送付する
情報連絡用葉書による通信を要請する。
世話人有志は次の業務を処理する。
1.会員情報の集約と総括表の作成
2.現存会員の名簿の作成
3.最近1年間の物故者のリスト
4.必要に応じ「36会便り」の発行
5.世話人がいなくなった場合は自動的に本会は
  解散する。

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電磁パルス兵器 中国開発か

先に台湾紙が中国が電子パルス兵器を開発中の可能性
ありと報じた。
中国共産党中央軍事委員会が10月1日の建国60周年
の直前に、南京市解放軍理工大学の周首席教授に1等
功労賞をを授与したことに注目した。授与の理由は電磁
パルス兵器の分野で卓越した功績があったという。

電磁パルスは急激に増減するパルス状の電磁波で
大出力であれば、電子機器・設備の機能を止めたり、
永久的な損傷を与える。核兵器使用の際に発生するが
電子回路によっても作りだせる。ただし、相手の電子装備
に損傷をを与えるほどの大出力の実現が難しい。

電磁パルスは人畜に対し、非破壊的とされる。米軍も
研究しているとされるが、これまでのところ実用化の
発表はない。
台湾紙は地上数百キロの高さで原爆を爆発させれば、
電磁パルスにより地上のコンピュータやシステム機器の
回路を永久的に損傷するので、米国攻撃に使いうると。

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爆撃機「銀河」特攻 米ウルシー環礁

第二次世界大戦中、ウルシー環礁はアメリカ海軍を中心
とした連合国軍の重要な基地であった。日本軍は大戦
初期に無線所と気象測候所を建設し、ウルシー潟を艦船
の停泊地として使用したが、1944年になるとアメリカ海軍
の航空母艦によって攻撃を受ける。
ウルシー環礁はフィリピン、台湾、沖縄からほとんど
等距離に位置したため、部隊集結地点の役割を果たした。

1944年9月23日、アメリカ陸軍の連隊が抵抗もなく上陸
を果たし、数日後には大勢の設営部隊が続いて
上陸した。調査船サムナーは潟を調査し、700隻の艦艇
が停泊できることを報告した。その数カ月後、沖縄戦に
備えた617隻の艦艇がウルシー環礁に集結した。これに
対して日本軍はすでに孤島と化したトラック島に新型
偵察機「彩雲」を送り、しばしば偵察を行っている。

1945年3月11日 日本軍は本土から海軍の新型双発
陸上爆撃機「銀河」24機による特攻機を出撃させ
攻撃した。銀河15機がウルシーに到達し奇襲は完全に
成功した。しかしながら、ウルシーは、すでに夕闇が
覆っており、1機が空母ランドルフに突入したものの空襲
に驚いたアメリカ軍は灯火管制を実施、このため目標を
視認できず珊瑚礁を敵艦と見間違えて突入したり低空
で敵を探すうちに海面に突入したものが多かった。

突入をあきらめた3機(隊長機=黒丸直人大尉機を含む)
はヤップ島に不時着した。空母ランドルフの被害は損傷
にとどまった。戦後の調査によりランドルフに突入した
のは攻撃隊の第二中隊長、福田幸悦大尉機と判明した。
米軍側戦死傷者は100名を超えた。

戦後はアメリカによる統治を経て、現在はミクロネシア
連邦のヤップ州の管理下にある。


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