回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(6)

ラバウルも昭和19年2月以降、敵大型機によるじゅうたん
爆撃を受け始め、街は廃墟と化し、10万の陸海軍将兵
は穴居生活を強いられるに至った。しかし、これは私が
ラバウルを去った後の話で、私がいた頃は、少なくとも
街並みは健在だった。
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年10月
12日であった。
当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ
てきた。

ブインの情勢はますます険悪になっていたが、204空が
ブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の
建て直しを図ることになった。
10月12日、敵はB17,B24などに戦闘機をつけ、200機
ちかい大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場
の中攻や、港湾の船舶に大きな被害がでた。

15日には敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸
を開始したとの報が入ったので、わが艦爆隊も攻撃に
参加した。船舶6,7隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊
は16機中15機が還らなかった。当隊は立て直す暇もなく、
大損害をうけたことになる。

ラバウルは昭和19年2月以降、敵大型機によるじゅうたん
爆撃を受け始めた。街は廃墟と化し、10万の陸海将兵は
穴居生活をしいられるに至った。しかしこれは私がラバウル
を去ったのちの話で、私がいた頃は少なくとも街並みは
健在だった。
歴史的なラバウル大空襲の皮切りは、昭和18年10月12日
であった。

当隊はその前日、ブインから司令や艦爆隊が引き揚げ、
帰ってきた。ブインの情勢はますます険悪になっていたが、
204空がブインの主体となり、練度の落ちた当隊は、ラバウル、
カビエンと後方のトラックの分遣隊において、陣容の建て直し
を図ることになった。

10月12日、敵はB17,B25などに戦闘機をつけ、200機ちかい
大編隊で白昼、ラバウルの空を覆った。西飛行場の中攻や
港湾の船舶に大きな被害がでた。
15日には、敵大部隊がニューギニアのオロ湾口に上陸を
開始したとの報が入り、わが艦爆隊も攻撃に参加した。船舶
6,7隻を撃沈したと報告されたが、艦爆隊は16機中15機が
還らず、当隊は立て直す暇もなく大損害をうけたことになる。

敵の挟撃態勢はますます整い、大編隊によるラバウル
空襲は日課となりだした。27日には敵はショートランド島の
南にあるモノ島にも上陸してきた。地図にも載ってない小島
であるが、ここからも日ならずして、敵機が飛び立ってくる
のである。28日には新任の小川弥彦軍医科分隊長が着任
した。小川さんはわたしの6高の2年先輩で岡山医大に
進んだが、卓球の練習を何時も一緒に行った。

10月29日も100機以上の空襲をうけた。11月1日、敵は
ブイン、ブカを砲撃するとともに、ブーゲンビル島西海岸
中央部のタロキナに輸送船約70隻をもって上陸してきた。
その夜、水雷戦隊が夜襲をかけ、戦果もあげたようだが、
巡洋艦「川内」、駆逐艦「初風」、「白露」などが沈没した。
11月2日、敵は正午前、戦闘機主体の数百機が超低空で
ラバウル市街と船舶を銃撃した。
敵機が銃撃が終って帰途についた時、それまでいち早く上空
に避退していた、わが零戦隊が襲いかかり、約200機撃墜の
大戦果をあげた。この時は本当に面白いほど
墜ちたという。その間私は防空壕で小さくなっていたのだ。

部隊の主力はカビエンに移った。11月4日、私はあさから体
が重く、熱は38度あまりあった。マラリアとも違うようだ。
5日も100機以上の空襲が2回あった。7日には第3艦隊の
航空隊がタロキナ上陸援護艦隊を攻撃した。

私の熱は一進一退が続いた。発熱後2週間の18日には、
39.5度まで上がった。
敵はマキン、タラワに上陸し、内南洋に迫りつつあった。私が
毎日記していた海軍日記は23日で終っている。小川軍医も
A型パラチフスでないかと言い出した。
11月27日は私の23歳の誕生日だった。熱は40度に
近づいていた。翌28日ついに第8海軍病院、重症室に入れ
られた。2週間以上も40-42度の高熱が続いた。従兵が
一人つきっきりであった。病院には看護婦も何人かいた。

空襲だけはおかまいなしに毎日やってきた。そのつど担架に
のせられて坂を200メートルほど下り、山の中腹に掘られた
防空壕に運びこまれた。2週間余、12月中旬になって熱は、
39度台、38度台、37度台と急激に下がった。

昭和19年の元旦を迎えた。私は最高のお年玉いただいた、
内地転勤の辞令であった。1月1日付けで「横須賀鎮守府
付け」を命じられた。私の病気がやっと峠を越えたころ、小川
軍医大尉が「内地にかえれるように考えてやる」と言ってくれ
たが、その厚意が実現したのである。病気の為内地送還とは
多少気恥ずかしい思いもあったが、ともかく日本に帰れるのは
なにものにもかえがたい喜びであった。

このころ夜間には味方の夜間戦闘機が哨戒していた。偵察機
を改造したもの。1月9日の黎明時、空襲警報が鳴り響いた。
あわてて浴衣1枚でベッドから起き上がったが、まだ走ることは
できない。トボトボと杖をついて、防空壕まで200ほどの道を
下っていった。
突然ものすごい爆裂音とともに、頭上に稲妻が光ったように、
パアッと明るくなった。本能的に坂道の上に身を伏せ、目を
つぶった。「今死ぬのは馬鹿らしいなあ」との思いが走った。すぐ
脇で「ドガーン」という轟音がおこり、続いて5,6発後ろのほうで
轟音が響いた。地面がぐらぐら揺れた。爆風は・・・来ない。
破片がくる・・・破片も当らなかった。「直撃だ」と感じた最初の
60キロ爆弾は、真横の谷川20メートルのところで爆発した。
もし平地か山側に落ちていたら危ないところだった。
このようにして病院生活は終り、やっと退院できる1月12日が
やってきた。入院以来45日目であった。

昭和55年9月ラバウルを再訪した私は、かって海軍病院が
あった官邸山を登っていった。中腹のラバウルの街を見下ろす
場所に「南太平洋戦没者の碑」が建てられていた。厚生省が
中心になって、4千万円の経費をかけて作られた、高さ6.5
メートル、横16メートルもある大きなコンクリート製の碑である。

内地に帰れることになっても、転勤者の乗れる便はもうあまり
なかった。軍艦はほとんど動いておらず、トラックまでの輸送機
の便を待つことになる。
ラバウルの空襲は、ますます大規模に日課として続けられた。
入院中の12月15日には、敵はニューブリテン島西部の
マーカス岬に上陸していた。ブーゲンビル島の敵も増強され、
数次の航空戦はわがほうの消耗を増すだけだった。

2月の初め、582空はラバウルの街をはなれ、ブナカナウの
西飛行場に移動することになった。ブナカナウはラバウル南方
の椰子のプランテーシヨンのある山のなかで、車で1時間あまり
かかった。この飛行場は第2飛行場または山の飛行場と呼ばれ
滑走路も長く、大型機の発着に適していた。宿舎は広大な椰子
林のなかにあった。

出発の日が決まった。2月11日の輸送機に乗れることになった。
主計科のデッキで送別会をひらいてくれた。ながらく労苦をわかち
あった部下たちを残し病気の為とはいえ、分かれて先に帰る
のは辛かったが、彼らは私の回復と帰国を心から祝福してくれた。
みな大いに飲んで歌った。当時ラバウルで一番はやっていた歌は
「南洋航路」で、帰国してみると、内地では、「予科練の歌」や
「ラバウル航空隊の歌」とともに大流行していた。現在では
「ラバウル小唄」として親しまれているものがこれで、ただ当時
のわが隊では、いくらか歌詞がちがっていた。

2月11日の朝、久しぶりの東飛行場では1式陸攻の輸送機が
3機エンジンの調整をしていた。だいぶ待たされたが2番機に乗る
ことになった。
ラバウルの山々や海が眼下にかたむいた。
「さらばラバウルよ また来るまでは・・・・」
軽くバンクした機は北へ向かって進路をとった。

かえりみれば、内地に帰れたのはまったく偶然の幸運の連続の
おかげであった。まずパラチフスにかからなければ、内地帰還に
ならなかったことは確実であった。パラチフスにかかったのは、
私だけが予防注射をうけなかったからであった。注射のとき小川
軍医大尉がすでに着任していたら、無理にもうけさせれたであろう。
島軍医少尉の注射が下手でイヤだったから私は逃げたので
ある。つぎにパラチフスがもう少し重かったり、持病のマラリアを
併発していたら、私は助からなかった。もう少し軽かったならば、
いくら小川大尉でも内地帰還を申請してくれなかったであろう。
すれすれの重症だったわけであろう。
その後飛行機のなくなった582空は4月に解隊となり、全員が
横鎮付けとなって内地に帰還できることになった。4月初旬には
582空からは小川軍医大尉他が、伊号第2潜水艦に便乗し、
トラックに向けて出航した。だが伊2潜はラバウル北方海域で
行方不明となり、5月4日全員戦死と認定された。もしそのとき
私がラバウルにいたならば、とうぜん最優先で潜水艦に乗って
いたにちがいない。だれかが私の身代わりになったのである。
このように運命の歯車は、すべて私に幸いしたのであった。

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戦時歌謡研究 飯田和夫

海経36期の飯田和夫より戦時歌謡考察を送ってきた。

○同期の桜
元歌は西条八十が「少女倶楽部」(昭和13年2月号)に
上海陸戦隊の戦友物語「二輪の桜―戦友の歌」として
発表したものである。                

一番 
君と僕とは二輪の桜 同じ部隊の枝に咲く 
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて別れ
られぬ

二番 
君と僕とは二輪の桜 積んだ土嚢の蔭に咲く 
どうせ花なら散らなきゃならぬ 見事散りましょ国の為

三番 
君と僕とは二輪の桜 別れ別れに散ろうとも 
花の都の靖国神社 春の梢で咲いて会う                                  

レコードはキングから昭和14年7月新譜「戦友の唄」と
して発売された。 作詞 西条八十 作曲 大村能章 
歌手 樋口静雄                       

それが海軍風に「貴様と俺とは同期の桜」と改作され
昭和19年半ば頃より大いに歌われた。 
作詞は帖佐裕(海兵71期 第三回天隊),海兵時代に
江田島の金本倶楽部にあった「戦友の歌」を覚えて
歌ったのが「同期の桜」の誕生だった。

一番 
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 
咲いた花なら散るのは覚悟  見事散りましょ国の為

二番 
貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 
血肉分けたる仲ではないが 何故か気が合うて
別れられぬ

三番 
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 
仰いだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機

四番 
貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く 
あれ程誓ったその日も待たず
なぜに死んだか散ったのか

五番 
貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 
花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう

1、2番の兵学校を自分の所属部隊名に変えて歌って
いた様です。ただ3、4番は航空隊の歌であり接続に
疑問があります。昭和20年3月21日野中少佐率いる
第一神雷特別攻撃隊は沖縄に突入しましたが桜花隊
の中で「神雷」として盛んに歌われていた様です。

○明日はお立ちか
「明日はお立ちか」のレコードは昭和17年3月新譜で
ビクターから発売された。 作詞 佐伯孝夫 
作曲 佐々木俊一 歌手 小唄勝太郎
歌詞については次の様に1、2番が異なっています。

一番
明日はお立ちかお名残り惜しや なまじ逢わねば
泣くまいに 心と心つないだ糸は なで切れましょ
切れはせぬ  (あ)                 

同じ一番    
明日はお立ちかお名残り惜しや 大和男児の晴れの旅 
朝日を浴びていで立つ君よ 拝む心で送りたや (い)

二番  
思うばかりで口には言えず 握るこの手を忘れずに 
お山も今朝は泪で曇る 君を見送る峠道  (あ)

同じ二番  
駒の手綱をしみじみとれば 胸にすがしい今朝の風 
お山も晴れて湧き立つ雲よ 君を見送る峠道  (い)

三番  
時計見つめて今頃あたり 汽車を降りてか船の中 
船酔いせぬか嵐は来ぬか あれさ夜空に夫婦星

は同じ歌詞です。1、2番は1あ2あ、1い2あ、1い2い、
の3通りの組み合わせがあります。

私は1い2あ、と思っています。 

尚「お立ち酒」として次の2つがあります。
お前お立ちかお名残り惜しい 名残り情けの酌むみ酒 
またも来るから身を大切に

お前お立ちかお名残り惜しや 名残り情けの酌むみ酒 
めでた嬉や思うことかのさ 末はつるたびこよのお祭り

追記  帖佐裕氏は第1期の回天搭乗員で1人生存。
同氏は「潜校の中尉の歌」も作詞しています。

○潜校の中尉の歌
この歌は元歌が昭和18年の松竹映画「サヨンの鐘」の
主題歌「サヨンの歌」です。
作詞 西条八十 作曲 古賀政男 歌手 李香蘭。
レスはレストランのこと。

一番 
酒を飲み飲みレスからレスへ 歌い暮らして夜更けに帰る 
俺は気ままな潜校の中尉 親は馬やら鹿じゃやら 
ハイドー ハイドー

二番 
まずい顔でもハートはナイス いとしあの娘の歌声聞いて 
俺は朗らか潜校の中尉 向こう鉢巻ひと踊り 
ホイサー ホイサー

三番 
可愛いあの子の写真を抱いて 何故に涙がホロホロ落ちる 
俺は年頃潜校の中尉 大竹育ちの若いネービー 
ロング― ロング―

四番 
レスの柱にふらふらもたれ 遠く眺める太平洋上 
泣くなOOお前が泣けば 俺の顔には酒の涙 
ホロリー ホロリー

サヨンの歌は 
一番 
花を摘み摘み山から山を 歌い暮らして夜露に濡れる 
私やきままな蕃社の娘 親は雲やら霧じゃやら 
ハイホー ハイホー

帖佐裕氏は佐世保中学4年修了で海兵71期として入校、
昭和17年11月卒。武蔵、時雨、潜水艦10号、潜水学校、
回天、最古参搭乗員、戦後は京都大学法学部卒、
親和銀行勤務平成7年死亡、寡黙な人で音楽の才能があり。

飯田君は上記にたいし異論、補足事項あればお知らせ
願いたいと言っている。                     

。 

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回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(5)

昭和18年6月は太平洋戦争の重大な転機にあたって
いた。米軍はこのころより本格的反攻に転じ、圧倒的な
物量をもって、2年後の終戦まで押しに押してきたので
ある。

反攻の緒は北方では、5月中旬に始まったアッツ、キスカ
への進攻であり、南においてはニューギニアへの進出と
ソロモン戦線における飛び石作戦だった。

ブインを第1線とするソロモン方面においては、少なくとも
6月の初めまで、昼間の制空権はわが方にあり、敵の
空襲はおおむね夜間に限られていた。しかしこの頃より
敵は白昼堂々と攻撃してくるようになり、正攻法の寄せ身
をみせてきた。この第1の原因は航空戦力の補給の差
であった。
わが方は依然旧式の97艦攻や足がでたままの99艦爆
で戦っており、零戦もスピードと防御力において、劣勢に
おかれざるを得なかった。そのうえ、機材そのものの補給
が思うにまかせず、優秀な搭乗員は、連日の戦闘で、
櫛の歯をひくように欠けていった。
これにたいし米軍はB24爆撃機やグラマンF6F,P51ムス
タング、コルセアF4Uなどの新鋭戦闘機を、無限に投入
してくるのだった。

第2の大きな原因は建設機械力の差であった。ソロモン
戦線で、海軍の飛行場で実働しているのは、わがブイン
のみであった。他にパラレ、ブカに飛行場と名のみの
滑走路があるだけだった。そしてこれらの飛行場も、大勢
の設営隊員が椰子を切り、モッコをかついで、何ヶ月もの
苦労のすえ、やっとつくりあげたものであった。
一方米軍はガ島占領後、日ならずしてラッセル島に飛行場
をつくり、6月末には、レンドバ島,ニュージョージア島、
ベララベラ島、モノ島と飛び石作戦で進出し、上陸すると
10日もたたぬうちに飛行場を作り、爆撃機以外の小型機
が出撃していくのである。

かれらはこの後ブーゲンビル島の中部で、とても飛行場など
作れないとおもわれていた、クロキナに上陸し、ニューギニア
の進出勢力とともに、ラバウルを猛爆して孤立させ、内南洋
に矛を進めてきたのである。

6月5日のブインにもどろう。
6月5日は山本元帥国葬の日だった。午後戦爆連合約40機
が、ブインに攻撃をかけてきた。わが零戦もただちに迎撃し
壮烈な戦いが我々の上空に展開された。 重爆を追尾する
零戦、そうはさせずと追いすがるグラマン、敵味方入りまじって
マンジトモエの空中戦、我々は海岸に立ち、固唾をのんで
眺めていた。
大型機の撃墜こそ見られなかったが、小型機の墜落のシーン
は数多く見られた。もみあっているうちに、やられた機はスーッ
と糸をひいたように垂直に落下していき、いとも簡単に、音も
なく海中にポトリと落ちる。遠方なので敵か味方かよく分らない
が。メラメラと黒煙をあげて落ちないかぎり、浜辺からは拍手
喝采が起こった。燃えて黒煙をあげるのは零戦であることを
よく承知していたのであった。
この日の戦果は敵19機撃墜(不確実3)、わが損害3機と
発表された。

翌々7日には、お返しに204空、251空、582空、約80機で
ラッセル島方面を攻撃し、約30機を撃墜して全機帰還している。
まだまだ、わが軍は意気軒昂であった。

6月10日、戦爆連合数十機がやってきて、飛行場と倉庫を
ねらった。そのため零戦9機が被弾した。
わが方は、ガ島やラッセル島方面に増強してきている敵の
航空兵力や輸送船団を叩き、その進出を抑えるべく、204空、
251空、582空連合で12日と15日に総攻撃を予定していた。

6月12日、582空、204空、251空連合してガ島方面の攻撃
に向かった。敵は増強した新鋭機で迎え撃ってきたが、32機
撃墜(不確実13)の戦果をあげた。わが方未帰還機は2機だった。

15日の作戦が1日延期となり、艦爆隊は15日にラバウルから
戻ってきた.23機だった。この日は再び飛来した204空、251空
の搭乗員が加わり士官室はがぜんにぎやかになり、活気に
あふれていた。

16日の攻撃はムンダ方面への敵の上陸を未然に潰そうという、
26航戦の全力をあげた大作戦であった。
0900、全搭乗員が指揮所前に集合した。こげ茶色の飛行服に
同色の救命胴衣を着け、飛行帽に半長靴で身を固めた帝国海軍
の誇る「ラバウル航空隊」の精鋭である。クビにまいた純白の絹
マフラーが凛々しく美しい。
攻撃の聡指揮官は1日付けで少佐に進級したわが隊の進藤三郎
戦闘機隊長であった。
582、204、251空の零戦機は70機、わが艦爆隊は24機。

戦果はあがり大本営は次のように発表した。
「輸送船大型4隻撃沈、中小型3隻撃沈、駆逐艦1隻撃沈、飛行機
32機以上撃墜、わが方未帰還機20機。
本戦闘をルンガ沖航空戦と呼称する」。
敵に与えた損害は明瞭ではない。しかしわが軍の損害はこの発表
をはるかに超えるものであった。
わが隊の艦爆隊24機のうち、じつに13機が未帰還で、戦闘機
未帰還18機(うち582空4機)というものであった。
わが隊は当隊開設以来の32名の戦死者、未帰還者をだしたので
あった。
251空も分隊長、分隊士を失った。
204空も宮野隊長、山本長官の直援機の隊長だった森崎中尉など
多くの勇士が基地に還ってこなかった。
あまりにも大きな損害だった。

582空艦爆隊はこのあと、後方のラバウル、カビエンに引き上げ
建て直しをはかるのであるが、帝国海軍最強の基地艦爆隊は、
事実上この日をもってその力はつきはてたのであった。
1年余年前の17年五月、横須賀で第2航空隊として編成されて
以来、250名以上の艦爆搭乗員の勇士が、ソロモンにニューギニア
に勇戦奮闘したが、負傷などにより帰還し、現在も健在なのは
わずか数名にすぎない。
このルンガ沖戦闘では、ロッキードP38、グラマンF4F、コルセアF4U
などの敵戦闘機が3段構えで待機しており、わが軍の完全な敗戦
であったことが知られる。
ともあれ、この6月16日をもって、南東方面における彼我の制空権
は完全に逆転することになったのである。

582空は戦闘機隊が外されて、204空に移った。ブインの基地には
204空、251空の一部が進駐していた。しかし主隊はいぜん582空
であった。582空は近くカビエンに転進するという噂が流れていた。
これは我々も内心大歓迎であった。ニューアイルランド島のカビエン
は、三箇所を行き来する搭乗員の間で「ブイン田舎で、ラバウル都、
花のカビエン極楽浄土」という言葉があるくらいよい所らしかった。
8月10日当隊の主力はラバウル、カビエンに行って建て直しを図る
ことになった。しかし司令はブインに残るという。しかし翌日の会議の
結果、庶務はラバウルに帰り、私もラバウルに引き上げと決定した。

当方の事情にはおかまいなく、ベララベラ島上陸を目指した敵の
攻撃は、ますます、しきれつになった。
12日には戦爆連合の大空襲で、避退の遅れた虎の子の飛行機
30機近くが炎上するという大被害をうけた。

ラバウルへの出発は17日と決まった。その2日前には、米軍は
ベララベラ島に上陸してきた。1ヶ月半のあいだに、レンドバ、ムンダ、
ベララベラと進出してきたのだ。

17日、1式陸攻でブインを離陸した。半年間苦楽を味わったブインを
去るのは哀惜に似た感傷があった。私はこのあと、ブインの部隊に
帰ることはなかったのでこれがブインとの別れであった。
ブーゲンビル島は11月に米軍がクロキナに上陸し、戦闘、飢餓、病気
によって4万名以上の陸海将兵がこの島に骨を埋めた。ブインにも
絶望的な運命がやってきた。

昭和55年、慰霊巡拝団の一員として、37年ぶりにブインの地を踏み
しめた。地のはてのブインも文明の波に洗われているようにも
思われたが、ジャングルに入ると昔のままだった。純朴な人々は
椰子の実を割り、「愛国行進曲」を歌って歓迎してくれた。
明日をも知らぬ戦闘の日々の間、搭乗員がデッキで威勢良く歌って
いた八木節が懐かしく耳朶にひびいてくる。
「ブインよいとこ一度はおいで  狭い滑走路に着陸すれば
横にはみだし飛行機こわし  そこで分隊長に整列くらい・・・・・・・
飛行機壊すなこわすな飛行機 オーイサネー」

ラバウルには1式陸攻で帰った。途中ブカ島に着陸した。
ラバウルでは夜起されることもなく、グッスリ眠れた。大勢の同期
も元気でいた。心は晴れ晴れとしているはずだが、私の健康状態は
あまりよくなかった。ブインのマラリア以後38度くらいの微熱もずっと
続いていた。第8海軍病院で胸部のレントゲン写真を撮った。右胸
膜に異常ありだった。
私が入院した時、となりのベッドに251空の鴛淵孝大尉がマラリア
で入室していた。兵学校68期の戦史にのこる撃墜王で、赫々たる
武勲をあげた後、終戦間際に松山343空で、紫電改搭乗、豊後
水道上のグラマン戦で散華された。

退院してみると部隊が大編成替えとなっていた。新たに艦攻隊が
増え分隊数は20に増え我々は第20分隊となっていた。

9月10日には欧州ではイタリアが降伏し、ブインの空襲もますます
激しくなっているとのことだった。そのころのラバウルは、まだ
のどかなものであった。

昭和18年10月20日同期とバレーボールをやった。なかなか楽しい
会であった。
翌日主計長の許可を得て、念願のカビエンまで俸給を渡しに行った。
カビエンはラバウルの北西方に細長く伸びているニューアイルランド
島の北の端にあり、ラバウルから中攻で約1時間だった。俸給袋を
渡すと出張目的は完了した。隊の本部は、海を見下ろす丘の上の
立派な建物で、広い庭園には芝生が敷き詰められ、いたるところに
熱帯樹や草花の植え込みがあった。それは佳美苑のなかの
「花美園」であった。
大空は清澄に、紺碧の海は明るく、原色の草花は妍をきそい、緑の
芝生と濃緑の木立は、色彩の乱舞に疲れた目を休ませてくれた。
まさしくカビエンは「極楽浄土」だった。
夜がきた。昼間、繚乱としていた庭の茂みに、おおきな光の玉が
ともった。なにごとかと近づけば、光はパっと消え、別の茂みが光り
だす。光の玉はあちこちで点滅している。蛍であった。無数の大きな
蛍が、花の蜜にむらがり、集団となって、点滅している。空からは
満天の星。翌日も優雅な生活をエンジョイした。丘を下りると「南花苑」
というコーヒー店がある。現地産の香り高いコーヒーに、真っ白い砂糖
をいれて味わうことができた。
このカビエンも翌年には惨憺たる戦場となり、地獄と化すのだが、
当時はまことに天国だった。

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坂の上の雲 築地海軍兵学校 明治2年~明治21年

坂の上の雲、原作 司馬遼太郎、のテレビ・ドラマがNHK
で始まっている。

先日秋山真之が艇長を務めるカッター競争で、伊予の
民謡お囃子を歌って優勝した画像を見たが、築地海軍
兵学校の概要を原作から記録する。

明治2年、旧幕府最高の学校であった昌平坂学問所を
あらためて「大学校」と称した。その機能を2分し、大学
南校と大学東校と言い、南校では人文科学、東校では
医学を教えた。
明治12年には学生改革、明治19年の帝国大学令で
帝国大学の設置が規定された。

子規や真之らは、帝国大学以前の制度のとき入学して
いる。かれらが入学した「大学予備門」というのは、大学
に付属した機関で、のちの高等学校もしくは大学予科に
相当する。

明治海軍が築地をもってその技術訓練の根拠地にした
のは、すでに明治2年からであった。場所は築地安芸橋
内である。
建築にあったては、多くの大名屋敷をつぶした。尾張藩
蔵屋敷、芸州広島藩下屋敷、奥州白河藩下屋敷、一ツ橋
家下屋敷、山城淀藩中屋敷、増山河内守上屋敷、それに
旗本屋敷5軒のぶんを加え、すべてで五万坪の用地だった。
校舎は最初バラック2棟だったが、明治4年和洋折衷の
新しい建物が建てられた。
さらに明治16年、築地川にそうて二階建てレンガ造りの
建物ができあがり、東京屈指の洋館になった。

真之は予備門在学中に海軍に入ることを決意した。
海軍士官の養成学校が「海軍兵学寮」という名前だった
のは明治9年までだった。その後は「海軍兵学校」となった。
真之は大学予備門の退学手続きを終え翌日兵学校への
志願手続きを行った。このことは子規には黙っていた。
入学試験は2回にわけて行われた。

真之は合格した。保護者である兄好古の下宿へ海軍省
からその通達が来た。
好古は「おまえ、秋山家の先祖が伊予水軍であることを
知っているか」といった。真之は知らない。
伊予は水軍の国である。源平のころにはすでに瀬戸内海
の制海権を持ち、源氏も平家もそれぞれこの水軍を抱き
いれようと腐心し、最初平家に属したため、平家は瀬戸内
海岸に源氏を近づけなかった。後に源氏に属したため、
制海権は源氏に移り、平家は壇ノ浦でほろんだ。
戦国期にも伊予水軍は生きている。さらに江戸末期に
いたっても、伊予の水夫の実力は天下にひびいており、
幕末、幕府の遣米使節をのせた米艦の伴走艦として咸臨丸
が太平洋をわたるとき幕府はその水夫を伊予から徴募した。

秋山氏は、伊予の豪族河野氏の出で、戦国期から江戸初期
まで、讃岐や伊賀を転々とし、この兄弟から7代前の
秋山久信が伊予松山にもどり、久松家に仕えた。

明治19年12月の寒い日に海軍兵学校に入学した。この期
は55人であり、入試では真之は15番だった。一学年終って
首席になり、それでずっと通した。

「大英帝国の権威はその海軍によって維持されている」という
言葉を兵学校の生徒の胸にきざみつけたのは、英国からの
雇い教師、アーチボルト・ルシアス・ダグラス少佐だった。

真之の1年上には広瀬武夫という偉丈夫がいた。
真之らの在学中、学校が移転することになった。広島県
江田島に行くという。その理由はいくつかあるが、華美に
なった東京都下の風が海軍教育にふさわしくないというのが
主なものであるらしい。移転は明治21年8月1日に行われた。
真之の入校3年目の年である。生徒の輸送は学校の練習船
である東京丸があたった。

尚、この時期における海軍経理学校の沿革は、
明治7年10月 会計学舎を設け、生徒教育開始。東京芝
 山内天神谷
明治9年8月 主計学舎と改称する
明治10年11月 主計学舎を廃止する
明治15年11月 主計学舎を再興する、芝公園三嶋谷
明治19年7月 海軍主計学校と改称
明治21年10月 校舎を京橋区築地4丁目1番地に移す。

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海経築地 5・6分隊会 12月8日09 如水会館

出席者 1号 阿部、3号 河野、高橋、飯田、地引、
河田、竹田

出欠回答来信概要
○高橋信雄(2号)
老いを強く感じるようになった。歩くとき体が重くテンポが
遅くなった。
○坪井 経
病院通いの連続。皆様お元気で。
○河野啓二
黄色すずめ蜂に首筋を刺された。台風でやられた家の
外回りを補修中。日航再建、オバマの医療保険改革に
大関心。
○高橋元清
日々相変わらず会計事務所の仕事に従事。
○飯田和夫
写真集について。33頁、軽巡最上は主砲を20センチに
換装するため、昭和14年1月~15年5月呉工廠に入渠し
重巡になった。また佐世保で昭和17年8月~18年5月
まで航空巡洋艦への改装をうけ、後部砲塔を取り除き、
3座水偵11機を搭載した。
若野君、佐々木麟太郎君も写真集を購入した。
○地引正雄
家内が他界し後始末に追われている。
○和田 宏
11月9日手術で入院、11月20日退院の予定
○阿部 文弥
くしゃみがだんだん大きくなる。声も大きくなる。
「老いては死にもの狂いになりゆくのかも」
・・・出席者一同この言葉に感銘しきり・・・
○宮崎 英雄
今年から耳が少し遠くなったような気がし、ゆっくり老化が
進んでいる。
○吉岡博之
上京参会困難。
大阪駅近、私の福島事務所利用毎月第1土曜日有志で
懇談。
最長老は23期の松本剛太郎、32期は梶間、33期は佐藤、
前田、34期は橋口、佐藤貞三、35期は藤崎、宮崎、鍋島、
村中、36期は橋本、木谷は回復途上、37期は柴田。
○高坂信一
老妻の乳がんは早期発見で転移も無し。
○加藤昭三
膝と腰の痛みは相変わらず。
○宮村光重
学校の研究課題として「卸売り市場」を持っていたので、築地
には何度も足を運んでいた。築地と築地文化愛好者である
こと変わらず。
○安井 
10月末白内障の手術、日常問題なきも遠出には自信もてず。

写真集収支
出金 73,541 入金88,500(内高橋元寄付五万円)
印刷部数 30部、1部2千円

幹事竹田 挨拶
この分隊隊は今回で40回目にあたる。5分隊だけで11回、
5・6分隊で29回である。
そろそろ5・6分隊会の終りの時期を考えなくてはならない。
自分はよろめくほどではないが杖を使っている。
注:後の14階のカフエで阿部さんより、米寿88才までやって
もらいたい、あと2年ということになるとの提案があった。

○高橋
もっぱら相続問題を扱っているが、遺留分の問題について
弁護士をたてて、財産獲得で攻めてくる。遺産を多くとれば
弁護士の手数料も多くなるとの思惑だ。
昔の家督相続のほうが良いなとふと思ってしまう。

○河野
12月5日横須賀米軍基地に、原子力空母ジョージ・ワシントン
を見学にいった。見学者約2万人。格納甲板と飛行甲板を
見せるだけ。甲板にF18Eが1機展示されていた。
海自のヘリ空母「日向」も見学できるようになっている。

有料介護老人ホーム研究中の報告にたいし、今後ブログに
分析、状況等皆の参考になることを書けとのことで、そうとう
しっかりしたリポートを書かないといかぬことになった。

○飯田
青木会年2回の幹事をしている。この会は10数年続いている。
旅行している。孫たちが大きくなるのを楽しみにしている。
○竹田
飯田は典型的法律家だと思う。1字1句見逃さない。テニオハ
にも厳しい。文章を法律的に読んでいる。校正係りに適任。
竹田は早く読むため斜め読みでそれが習慣になっている。
永年それをやっている。
飯田の奥さんが気の毒だ。
○飯田
奥さんはもっと細かい。36会にはほとんど法学部出身者が
いない。なーなーでやっていると、つめが甘く、どこかで行き
詰まってしまう。今の鳩山首相がそれだ。
鵜飼さんが細かかった。甲板掃除でもそうだった。
○河田
6分隊の寝室窓側では、毎朝起きると同時に窓を開けていた。
夜も寝るまえに窓を閉めていた。1プロセス作業が多いため
窓際の7人が亡くなったのはこの所為かもしれぬ。
36会最後の文集では、草稿が1メートル以上集まっていた
時に、宮本が左心室からでている大動脈に剥離が起きて
倒れた。自分はもともと校正係りだったが、編集サブの粕谷
に代わり自分が編集担当になった。校正は滝本にお願い
した。宮本の牛込在の長男と協力、自宅に行き進行状況を
しらべた。原稿は下請けに出していた。横書きの束があった。
ワードは振り仮名つき文章には使えぬ、空行ができる。
河田のは一太郎なのでそういうことは無く便利だ。
その長男が河田のコンピュータに半日で移してくれた。
2月に36会新稿が出来上がる予定。

宮本は杏林大病院から薬をもらっている。奥さんは脳梗塞で
左半身不随で施設にはいった。宮本は今は調布の自宅に
いる。多少動けるようになった。パンは無塩パンでないと駄目
なので、バスで調布駅前に行き、作りおきパンを持って帰る。


14階カフエにて
竹田は昭和3年3月26日生まれで、36期のなかで一番若い
はず。河野は昭和2年5月9日生まれ。

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回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(4)

ブインは四国の半分もある長い島ブーゲンブルの南
の端にある。灼熱の飛行場の上を無数のハエが飛んで
いる。原住民らしき男は、ガダルカナルから引き上げて
きた陸さんで体の利くのが作業にきているのだという。
骸骨が歩いているみたいだった。撤退した兵隊を目の
あたりにして、しかもそれが元気の好いほうだと聞いて
身の毛がよだつ思いをした。

本部や兵舎は爆撃を避けるため、飛行場から4キロほど
離れた西の海岸にあり、海岸沿いに埃だらけの道が
1本通じていた。
兵隊の幕舎がつきるところに、木造の司令室と士官室
があった。士官室といっても、食堂兼用の広間がある
だけ。士官室の裏のパネル張りが士官の寝室だった。
副官部は同じくパネル張りで、ここが私の勤務と生活
の本拠だった。

寝室の裏は沼地のスワンプになっており、左手には
小川があった。前の海は瀬戸内海をしのばす美しい
風景で静かな波が砂浜を洗っていた。
須磨から見た淡路島の位置に大きな島があり、
ショートランド島といった。左手に見える島はファウロ島
であった。正面の水平線に低い小さな島が点々と浮か
んでいた。その一つがパラレ島で、滑走路が造られて
いた。

582空と交替で204空がラバウルに帰るので、ブインに
着任していた仁尾、杉本、金子主計中尉が、士官室で
掃海艇の便を待っていた。

ここブインに私は18年8月まで、途中しばらくラバウルに
帰ったが、約半年いた。この年の11月、敵が上陸して
から、ブーゲンビル島は惨憺たる戦場と化し、数万の
陸海将兵が敵襲と、飢えと疾病に倒れたのである。
餓島のガダルカナルにたいし、ブーゲンビル島は墓島と
言われた所以である

航空隊としては、我々582空だけがこの最前線に進出
していた。この地を統括するのは、第1根拠地隊司令部
であり、佐世保陸戦隊、呉第7特別陸戦隊などが属し
ていた。その他第131,121,26などの設営隊がおり、
飛行場の維持管理は第131設があたっていた。
陸軍もあちこちに駐屯していた。ブイン東方のエレベンタ
地区には熊本の第6師団がおり、島の南部や、ニュー
ジョージア島、イサベル島などの守備にあたっていた。
ガダルカナルから引き上げた陸軍は、いくらか残って
いたが、大部分はニューギニアに転進したのことだった。

空襲は3日目から毎日あった。当時米軍の基地はガダル
カナルおよび周辺の小島にあった。わが軍も陸戦隊や
通信隊がイサベル島のレカタ、ニュージョージア島の
ムンダ、ベララベラ島、コロンバンガラ島などに配置され
ていた。

空襲の標準的なパターンは、午後8時すぎに現れる敵機
で数は多くて数機、B25などの双発爆撃機だった。
偵察をかねた嫌がらせ爆撃で、2時間乃至五時間上空を
旋回し続け、時々爆弾を落とした。敵は海上に吊光弾を
落とすがこれが実に明るく美しくブインの海上を照らしだす。

生鮮品がないので、缶詰め料理が主体だった。銀飯、ギン
シャリの食事は航空隊ならではのものであった。
田中コック長と竹中上等主計兵は戦後わが国の超一流
ホテルの調理部長になったくらいだから、戦地とはいえ
我々は一流の手になる料理を食べていたわけである。

3月は案外に早く、無事に過ぎ去った。搭乗員は連日
ガダルカナル、ラッセル島方面に出撃した。着任早々の
艦爆の宮坂分隊長、高橋中尉、戦闘機の樫村飛曹長
などの未帰還機がでた。米軍はガダルカナル、ラッセル島
に航空兵力を増強し、またニューギニアでもブナ方面で
日本軍に打撃を与えて、進攻作戦の準備を着々と
進めていた。

かくて暦は4月に入った。当時の日記を転載する。
○4月1日
204空とともに、ラッセル島攻撃、敵戦闘機31機撃墜
(不確実5)、わが隊1機、204空2機未帰還。
第二次攻撃 253空、22機撃墜(不確実2)、自爆6。
わが戦闘機と敵戦闘機との優劣を現したもので稀にみる
大戦果。
○4月7日、 フロリダ沖海戦
582空、瑞鶴、瑞鳳、204空、253空、隼鷹と飛鷹の
艦爆と戦闘機、ガダルカナル、ツラギ攻撃。敵地上空
天候悪い。当隊艦爆4、戦闘機1が行方不明。
○4月8日
昨日の戦果判明せるだけで、巡洋艦1、駆逐艦1轟沈、
商船約10隻撃沈、火災3.
わが方損害18機。
○4月15日
数日前よりのニューギニア作戦。モレスビー、ブナ、ラビ
方面において戦果。わが隊戦闘機損害皆無。敵機数十機
撃墜、艦船十数隻撃沈、地上施設粉砕。
ソロモンからニューギニアまでの距離は700キロ。
○4月16日
戦闘機の1部、進藤大尉等ラバウルに帰る。18時ー20時
空襲、20機、B25,ボーイング来る。
○4月17日
司令、副長、軍医長、整備長、14分隊長ラバウルに帰る。
18時ー20時空襲、約50機。貨物船竜南丸沈み設営隊員
30余名死す。

この作戦は全体を「い号作戦」、ガダルカナル方面攻撃を
「X作戦」、ニューギニア方面攻撃を「Y作戦」と呼ばれ、
相当な戦果をあげた。

山本五十六司令長官は4月3日にラバウルにこられ、出撃
将兵を激励し、士気を鼓舞した。

4月1日のラッセル島攻撃は、X作戦の前哨戦のようであるが
戦闘機では、当時の零戦はまだ世界最強だった。
米国もグラマン、P38、シコルスキーF4Uなど、優秀な戦闘機
を多数配置してきていたが、零戦はスピードはともかく旋回
性能は抜群であった。さらに、歴戦の搭乗員がまだ多く残って
いたから、その強さは自他ともに許すものであった。

このころブインーラバウル間は完全にわが方の空であり、
定期便の輸送機が安全に運航していた。
しかし、4月12日に初めて敵戦闘機が空襲に参加してきた。
宇垣纏参謀長が、この戦闘機参加を気づかなかったことを
後で悔やんでいた。この変化が次の悲劇につながった。

4月17日に司令以下がラバウルからブインに帰ってきた。
Y作戦の終了と、翌日、山本長官を迎えるためだった。

海軍の機密書類は、部内限、秘、極秘、軍極秘、軍機と
分かれていたが、庶務主任の仕事を見習っていた私は
初めてみる「軍機」の重々しい朱印が押してある封筒を
受け取って緊張した。
阿川弘之著「山本五十六」によると、この行動日程は、4月
13日に南東方面司令長官から関係部隊の長に発信された。
それは4月1日に更改されたばかりの新暗号電報で打た
れた。すでに当隊の司令もラバウルで受け取っていたと
思われるから、この文書は確認のために各司令に伝え
られたものであろう。

この行動日程は、文献によれば次のごとくであった。
4月18日、0600中攻(戦闘機6機を付す)にてラバウル発
0800「パラレ」着、直ちに駆潜艇にて0840「ショートランド」
着、0945「ショートランド」発、1030「パラレ」着、1100
中攻にて「パラレ」発、1110「ブイン」着、1400「ブイン」発、
1540「ラバウル」着、天候不良の際は1日延期。

4月18日の朝はさわやかに明けた。
山本長官はショートランドで第11攻戦司令部、水上偵察隊
などを視察後、再び飛行場のあるパラレに戻り、ブインに
飛来するはずであった。
時は刻々とすぎ、予定の11時になったが、上空には飛行機
の影も見えず、海上にも船の姿はない。飛行場からは何の
連絡もなく、時計はいつしか正午を過ぎていた。

15時すぎ、士官室は私ひとりだった。すでに黄昏がせまり
かけていた。そこへ1台の乗用車が帰ってきた、工作科
分隊長の中嶋大尉だった。汗まみれの大尉は工作科の
小向兵長を呼び寄せて「ガン(棺のこと)を三つ、大急ぎで
作れ」とささやいた。私は長官の戦死を直感した。
長官機はこのとき、まだ発見されていなかった。だから、この
棺は海上に不時着した2番機のものであったろう。
「P38が20数機きた」という声が聞こえた。

長官機の捜索は第1根拠地隊の陸戦隊により直ちに行われ
たが、2日後、陸軍の浜砂少尉らにより発見された。
長官の死体検案書は1根の田淵軍医長が書き、遺骸は
1根司令部にて荼毘に付された。遺骨の1部は飛行場の
側に埋葬され、長官の好んだパパイアの木が2本植え
られた。
長官機の残骸は今なおブーゲンビル島のジャングルの
奥深くにあり、戦後草鹿長官や阿川弘之氏らが訪れて
いるが、パパイアの木の墓はその所在を没している。

悪夢の翌日主計長よりラバウルに行き経理事務をやるよう
言われた。4月21日飛行場に赴いた。ラバウルから来て
いた同期同班の福田主計中尉に会い、彼から刀弥館主計
中尉の死を聞いた。3月末にニューギニアのラエで黒水熱
という悪性のマラリヤにかかって、戦病死したという。同期
第1号の犠牲者だった。

陸攻の搭乗員は7名で便乗者は数名。2基のエンジンは
快調だった。その直後「後方よりP38が1機追跡」と伝言。
機は1転2転し雲のなかに身を隠そうとするが、雲はすぐ
きれてしまう。長い長い緊張の時間が続いたあと、機は
水平飛行と巡航速度にもどった。敵機は去っていた。

我々の身習い機関は3ヶ月と知らされていたので、5月1日
付けで転任の発令があるはずだった。私は内心582空残留
を願っていた。私はいわゆる「ラバウル航空隊」の花形である
582空に愛着を感じていた。5月5日電報がきた。私は
残留だった。それにしても主計長まで転任とは意外だった。
本チャンの佐藤主計中尉は厳島主計長兼分隊長だった。

とにかく私は早くも富樫掌衣糧長に次ぐ古参になった。
ひとりになってみれば、庶務主任の仕事もけっこう忙しい。
庶務主任は一般文書の取り扱いのほか、功績調書、任用
新旧事務、普通科練習生の試験実施、戦死者の特進事務、
酒保物品の管理もあった。

部隊ではまるで半舷上陸みたいに交替でマラリアにかかって
いる。マラリアの熱は普通の発熱にくらべて息苦しく、
ともすればウナされそうになる、2日熱、3日熱、熱帯熱など
の種類があり、3日熱がいちばん、たちがよかった。

内地からの慰問団がやってきた。男女の漫才2組と曲芸師
の一行でブインまで慰問団が来たのは、この1回だけだった。


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回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(3)

昭和18年2月3日、我々第9期補修学生出身の海軍
主計中尉数十名は、呉軍港を出航した最新鋭重巡
「鈴谷」に便乗し内南洋のトラック島に向かっていた。

2月10日、トラック基地に到着した。トラックは内南洋
最大の海軍基地で、環礁に取り囲まれた数多くの島より
なっている。環礁内は広く、深く、しかも波穏やかで
絶好の泊地になっていた。連合艦隊は、ミッドウエイで
痛手をうけたとはいえ、まだまだ健在であった。
どっしりと身を横たえている威容並びなき戦艦「大和」と
「武蔵」、浮島のような空母「瑞鶴」、まじかに見る「金剛」
「榛名」は古武士のごとく、「那智」、「愛宕」型の重巡は
黒糸縅の剽悍な武士である。その他無数とも言ってよい
ほど軽巡、駆逐艦、小艇が歴戦の一刻を憩っている。
空には戦闘機が飛び交い、艦爆が急降下訓練をくり
かえしている。

「大発」に乗り移り、艦艇の間をアリのように苦闘して
1時間半、やっと夏島の902空の基地に着いた。
任地に向かうまでここの兵員デッキで寝泊りすることに
なった。

我々はそれぞれの任地への便があるまでここで待機し
なければならなかった。この兵舎は殺風景で食事は
まずい。大きな蟻が這い上がってきてくらいつく。
海軍士官の集会所である水交社に行って食べたカレー
の味が忘れられず、水交社で寝泊りするようになった。
ここには碁、将棋はもちろんビリヤードもピアノもあり、
海軍ではご法度のはずの麻雀もあれば、米軍放送が
はいる短波ラジオまであった。そのラジオはさかんに
ガダルカナル島における日本軍の敗戦を日本語で
伝えていたが、その方面に行く我々は緊張しながら
聞いた。

夏島には士官用のレストランとして、小松と南華寮の
2軒があった。
トラック環礁には水道と呼ばれる出入り口が五つあった。
中心部に春、夏、秋、冬島とよばれる4島を含む四季
諸島と西の7曜諸島とよばれる群島があり、月曜から
日曜まで揃っていた。

なかなかラバウルの便がない。「朝潮」という駆逐艦が
ラバウルに行くというので、大発に乗って側まで行った。
しかし便乗は2,3名しかできないというので、司令部
付きの者が乗っただけで我々は引き返した、
後日談だが、「朝潮」は陸軍51師団の将兵7300名を
のせた輸送船8隻を護衛して、ニューギニアのラエに
向かったが、3月3日ラエ目前のダンピール海峡で、
敵機の猛襲にあい、輸送船は全滅、「朝潮」も僚艦の
「白雪」、「荒潮」、「時津風」と共に撃沈され、全員が
艦と運命を共にしたのである。

やっとラバウルに行ける日が来た。1週間目の2月18日
飛行艇に乗れることになった。双発の飛行艇は0700
朝陽の輝くトラック泊地から白波を立てて発進した。
生まれて初めて舞い上がった大空で、エメラルドグリーン
の海の美しさと、環礁のみごとな構図に目をうばわれる。

1200過ぎ、小島のある静かな湾内に着水した。ゴム・
ボートで上陸。バンガロー風の建物が並んでいる街並み
のなかの、第582空本部に入り、主計長に3人の着任
を報告した。

582空の司令は山本栄大佐、副長は八木勝利少佐、
主計長の氷見昌司主計大尉は補修学生第4期、浦和高
東大法、内務省の経歴、長身痩躯、ロイド眼鏡の秀才型
ながら、暖かい雰囲気を持った人であった。
我々を直接指導してくれる庶務主任の佐藤亮哉主計中尉
は山形の鶴岡中学から経理学校に進んだ方で、我々と
同年輩ながら、はきはきと親切な態度はさすが本チャンと
敬意を覚えた。

ラバウルは草鹿任一中将が司令長官の南東方面艦隊の
根拠地で、その下の第11航空艦隊、第26航空戦隊に
属する特設航空隊が当隊である。零戦隊と99艦爆隊
よりなり、東飛行場というラバウルの街に近い飛行場を
使用している。

582の5は艦爆隊をあらわし、8は舞鶴鎮守府所属を、
最後の2は偶数番号として特設部隊をあらわす。204空
は戦闘機、横須賀鎮守府、特設部隊ということである。
四つの飛行分隊(分隊は陸軍の中隊に相当)のほかに
整備、兵器、内務、工作、通信、衛生、主計分隊がある。

主計長から「この隊は元来、ニューカレドニア島に進駐する
計画で編成されたのだが、珊瑚海海戦やソロモン海戦の
結果、作戦変更で現在ラバウルに留まっている。
しかし今度、ブーゲンビル島の204空と交替することになり、
1週間以内に主力はブインに行くことになるので、君たちも
一緒に行ってもらう」との言葉にがぜん緊張した。

坂井三郎の「大空のサムライ」に米軍ツラギ上陸に際し、
昭和17年7月戦爆連合で攻撃したさい、右目を負傷し、
機体も損傷し、一人でラバウルを目指した坂井が、まずは
ブインの飛行場にたどり着くことを考えているので、その頃
すでにブインには不時着飛行場があったらしい。

搭乗者たち
搭乗員は別格の存在であり、新参ものには近づきがたい
ムードがあった。整備その他の地上勤務士官も思いは同じ
であった。隊内のつきあいも、自然と搭乗員とその他との
二つのグループに分かれていることが、理解されてきた。
戦闘機隊長の新藤三郎大尉はハワイ空襲の猛者で、その
技術と統率力は零戦隊の誇るべき指揮官だった。
兵学校出の士官には、68期の鈴木宇三郎中尉、野口義一
中尉がいた。
艦爆隊長の高畑辰雄大尉は気さくな人だった。

一般に戦闘機乗りは一匹狼だけに気性が激しく、艦爆乗りは
二人だからそれだけ協調性があり、さらに7人乗りの陸攻
搭乗員はより性格が穏やかだと聞いていたが、当隊もそう
ではないかと思った。彼らの下には多数の歴戦の飛曹長や
飛曹がひしめいていた。
樫村寛一飛曹長はブインでの最初の未帰還機になった。
582空編成以来の戦死者の履歴票も数多く残っていた。
着任の翌日ニューギニヤの空に散った海兵首席卒業の
坂井知行少佐の名もあった。

ラバウルの最初の夜がやってきた。南の空に
「あれが南十字星」だと教えられた。夜もふけると次は空襲
の番だった。「空襲は時々あるが、嫌がらせ程度で気にする
ことはない」、皆平気な顔をしていた。

ラバウルはオーストラリア委任統治領の首府だった。この町
があるニューブリテン島は九州の半分くらいの広さで南緯
五度の線に上向きの三日月型に広がっている。
ラバウルはその東端にあり、北に突き出たガゼレ半島の
中央部に位置する。三方は山にかこまれ、東に湾口をもつ
シンプソン湾(日本名は松島湾)をだいている。
山はせいぜい2~300メートルにすぎないが、火山群で、
現に、湾の北口の花吹山は噴煙をあげていた。
戦争の直前には、4千人くらいの白人、原住民、中国人が
住んでいたが、白人は戦争勃発と同時にオーストラリアなど
に逃げ、彼らの役所や住居は日本軍に接収された。
街の北西部に植物園があり、外人墓地があった。日本人の
墓も10数基あった。

582空の兵舎の北にある山は官邸山とよばれ、
南にラバウルの街を、北は外海を見晴るかす眺望絶景の
頂上に旧総督の官邸があり、11航艦や204空の本部に
なっていた。中腹には海軍病院がある。

海軍の飛行場は、わが隊などが使用していた東飛行場
のほかに、南西方のブナカナウという山の上に広い
西飛行場があり、この二つがニュウギニア、ソロモン作戦の
基地になっていた。また東方のココボ近くに、トベラという
訓練用の飛行場があった。

ラバウルは絶好の泊地で、第8艦隊の基地をなしていた。
火山爆発による陥没でできた湾は深く静かで、三方を山に
囲まれ天然の要塞をなしていた。

暑いのは当然だったが、なんとなくジメジメしてスカッとした
暑さではなかった。スコールは定期的にあったが、この気候
は火山のせいらしかった。
風土病はマラリア、デング熱、アメーバ赤痢などあらゆるもの
があるということだった。

ラバウル生活も1週間がたち、隊にも街にもだいぶなじんだ
と思うころ、ブインへの出発の日が来た。兵隊たちは2隻の
輸送船ですでに出発していた。
ブインはラバウルの南東300キロ、ブーゲンビル島の南端
に位置し、ガダルカナル島とは約200キロへだてて対峙した、
ソロモン戦線の最前線飛行基地であった。
3月25日、主計長らとともに、搭乗員用の半長靴という軽装
で、東飛行場から双発の96式陸攻に乗り込んだ。


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回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(2)

任命式の後、作業服に着替えた我々は生徒隊の教練を
見学した。10月1日より訓練が始まった。初日の日程は、
0600起床、校庭で体操、駈足投。0700~0800
学生舎の大掃除、0900~1000校長などの訓話、
1000~1200陸戦教練、昼食後1300~1500衣料、
教科書、支給品などの身辺整理、1500~1600構内
旅行と称する経理学校内の見学、1600~1700ラッパ、
号令の説明。夕食、寝具用意のあと1930講堂で教官の
講話。巡検が終り2200の消灯ラッパを聞いたときは
クタクタになっていた。

第1は頭の改造だった。「お前たちはもう学生でない。
軍隊では批判は許されない」とどの教官も必ず口にした。
「五分前の精神」とか「スマートで目先がきいて几帳面、
負けじ魂これぞ船乗り」など海軍のモットーもよく聞か
された。

我々が苦しまなければならなかったのは、頭よりむしろ
体だった。0600に起床するや、洗面もそこそこに校庭
に整列し、点呼を受けた後、海軍体操をする。これは
デンマーク体操をとりいれたもので、合理的に体をほぐし
たが、最初のうちはギコチなかった。
難儀なのは、それに続く駈足であった。校外に出ても、
あたりの風景などは目にはいらず、あえぎあえぎ、足を
引きずりながら走らされた。」
午前は砲術とよぶ陸上訓練やカッター訓練、午後は
座学が組まれていたが、午前中でアゴをだしてしまう
始末だった。
そして夕食前は手旗信号や軍歌演習、時間があれば
号令調整といって、空に向かって大声をはりあげる。

入校5日目の10月5日のことであった。朝の駈足の時
誰かが倒れたという話が伝わった。さらにそれは2部
11班の原田学生で、心臓麻痺ですでに死んだという
ことであった。
その日のうちに、武道場で葬式が行われた。軍楽隊が
きて、荘重な「生命を捨てて」という弔いの曲を演奏した。
小銃を持った下士官3名が「生命をすてて」の1節の
急速な演奏に合わせ、指揮官の「テー」の号令で空に
向けた小銃の一斉射撃、それが3度繰り返されて霊魂
は大空に飛び立ったのである。
ゆっくりと棺が進むにつれて、第1種軍装の我々は挙手
の礼で見送った。それは荘厳な光景であった。わずか
数日の海軍生活にもかかわらず、このような荘厳な葬儀
が行われる海軍に感激した。
われわれのうち何人かは、まもなく必ず原田君の後を
追うだろう。「海軍で死んでも満足せねばならない」と、
そのとき感じたのであった。

半月間、経理学校に缶詰めにされたのち最初の外出日
は10月18日(日)であった。この日は幸せで輝かしい
日となった。これからは毎週外出するようになり、外出
慣れしてきた。1番にかけつけるのは、銀座4丁目の
若松という汁粉屋であった。ここは経理学校公認の店で、
甘味に飢えていたわれわれは、なにはともあれ、ここに
走りこむのであった。

海軍ではひとりでも帰艦が遅れると出航できないから、
もっとも厳重に戒める。だがとうとう遅刻者がでた。この
班は総員が殴られたうえ、次の週は外出止めになった。
だが彼らはカッター訓練を志願して校外に出て、隅田川
から銀座の小料理屋にあがり、なにくわぬ顔をして
帰ってきたということである。

「月月火水木金金」ほどではなかったが、日曜、祭日以外
は猛訓練であった。駈足の距離はだんだん延長された。
聖路加病院の側を走って、隅田川端にでたり、銀座を
走ったり上野まで行ったこともあった。周囲を眺める余裕
もでてきた。帰りは1キロほど手前の歌舞伎座のあたり
から隊伍を解いての全力疾走であった。この後の海軍
体操での深呼吸は爽快なものであった。

陸戦教練については、経理学校は狭いので、勝鬨橋を
わたって2キロ以上も離れた月島の連兵場で行われた。
往復着剣の駈足である。指導するのは下士官の教員で、
彼らは生白い上官の我々を締め上げるのに、生きがいを
感じている様子だった。なかでも鼻髭を生やした熊坂1曹
にはいじめられた。勝鬨橋は長く高い弧になっている。
ヘトヘトになって経理学校が目と鼻の先の橋の頂上にくる
と「回れ右、前へ」の号令をかける。恨めしげな我々を
セセラ笑うような態度の熊坂1曹の顔は忘れられない。

カッターは初めての経験であった。両舷に六つずつの櫂座
のある重いボートで、川端のデリックに吊るされていた。
まず二人が乗り込んでもやい綱をとき、平行に水面の下ろす
ことからして、なかなか上手にいかなかった。隅田川の本流
にまででるのが大変だった。硬い樫の木は長くて重い。
いったん水に入れた櫂は、「櫂立て」の号令があっても、
よほどはずみをつけて跳ね上げないと持ち上がらない。
川のなかに立てられた杭を回転して避けるとき、内側にいた
私は「櫂立て」の号令でも櫂が上がらなかった。櫂は杭に
ひっかかり、取っ手は腹に食い込んで、さしもの硬い櫂が
折れてしまった。

尻の皮がはげても、カッターは好きだった。品川のお台場を
めぐったり、隅田川の橋をくぐって漕ぎ上がるのは楽しみ
だった。遠漕にも一度行った。荒川の放水路をぬけて上流に
出て、薩摩汁の昼食にしたつづみをうった。

軍歌演習はけっこう楽しかった。軍歌帳をもった左手を前に
突き出し歩調をとりながら、輪になって廻るのである。
1番人気があったのは「如何に強風」という日清戦争の軍歌
だった。

座学というのは、庶務、金銭会計、物品会計、原価監査、
軍事学など15科目が1週39時間も組まれおり、各部ごとに
講義をうけるのであるが、座学の1番の敵は睡魔だった。
海軍諸例則という4冊の規定集がそれぞれ貸与されていた。
一冊の厚さが10センチもあったから、それを机の前において
壁にし、そのうしろに頭を沈めて、聞いているふりをしながら
居眠りをする者が多かった。しかしどの教官も寛大で見て
見ぬふりをしていた。
座学の筆記試験は12月の末に13科目が五日間にわたって
行はれたと記録にある。

我々は1月15日主計中尉任官、1月末卒業となっていた。
校外に出ることも次第に多くなった。11月3日の明治節には
宮中い参内、明治神宮に参拝した。航空隊の見学より前に
横須賀にも行き、「三笠」を見て、戦艦「陸奥」を見学した。
この日一緒だった小泉、加来学生は7ヵ月後に柱島で「陸奥
爆沈」で運命をともにするのだったが、誰もそんなこと予感
していなかった。
12月中旬に3日間行われる辻堂演習は大変だということは
よく聞かされていた。とくに三日目には追撃線があり、6キロ
の砂浜を着剣で駈足するのだとおどかされていた。だが
私はついていた。松尾と私は烹炊係りを命じられ、走らなくて
よいことになった。
訓練が3ヶ月もたつと、故障者や病人が次々とでた。ことに
23班は多かった。

我々は暮れの30日から1月4日まで与えられる特別休暇に
胸をはずませていた。晴れの海軍士官姿で、郷里に帰ること
ができるのである。しかも士官だから汽車は2等席である。

昭和18年となった。任官式は1月15日。中尉となったが、
経理学校の生活に変化はなかった。さて我々の最大の関心
は卒業後の配置だった。個別面接や志望を書かされたことも
ある。
我々の配置には、第一線の部隊勤務、経理部などの内地の
役所、工場監督官などあったが、やはり戦地を望まない者
が多かった。勿論志望がそのまま聞き入れられるものでなく、
最初は実習のためのダブル配置で、3ヶ月後に正式な配属に
なるのであった。

自分は外地に行きたかったし、第一線部隊でも働きたかった。
第1志望は「南西方面航空隊」とした。南西方面とは、
自分には、シンガポールやジャワのつもりで、あこがれの
外地だった。
配置が言い渡されたのは卒業式の前々日の1月28日だった。
私への命令は「第582海軍航空隊付け」であった。任地は
どこか尋ねた結果、それは南東方面で、ラバウルに行くことが
わかった。
後で分ったのだが、582空は戦闘機と爆撃機を組み合わせた
航空隊だった。
トラック諸島などやラバウルに行く者は、2月2日に呉を出航
する巡洋艦「鈴谷」に乗るよう命じられた。

卒業式が終り、校門を離れることになった。玄関には校長
はじめ教官たちが並んでおられた。
この472名のうち、あたら戦いに身を捧げたものは92名に
のぼった。実に2割近い数字で、1期から12期までの主計科
補修学生で、もっとも多数の犠牲者をだしたのだった。
幸い生き残った者も、21世紀に入って、その数は半数以下に
なった。靖国神社で2回慰霊祭を催し、54年12月には、
第9期海軍短期現役主計科士官の記録として「5分前の青春」
という1200ページの記念文集を発刊した。
「枯れ木も山のにぎわい」と言われた「たかが主計短現」、
長い人生のなかの「たかが3年」の海軍生活であっても、そこに
青春を賭した、私にとっては、やはり「されど海軍」なのである。

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回想のラバウル航空隊 短期現役主計科士官の手記(1)

守屋 清著「回想のラバウル航空隊」光人社NF文庫の
要約を書く。

昭和17年9月30日、東京築地の勝鬨橋のほとりにある
海軍経理学校に突如として473羽の白い鳩がうまれた。
われわれ海軍主計短期現役第9期補修学生である。

昭和13年に入った第1期から前年の第8期まで、約
900名の先輩がいた。さらに10期、11期、12期と
それぞれ約700、550、910名の後輩が続く。

海軍には兵学校、機関学校、経理学校という専門の
士官学校があり、全国から選り抜きの俊才が、4ヵ年の
厳しい英才教育を経て、初めて海軍少尉になれるので
ある。それを大学をでたからといって、4ヶ月の訓練後
いきなり中尉に任用しようというのだから、この制度が
採られるとき、猛烈な反対があったのは当然だった。
しかし、この制度は海軍首脳部の英断をもって採用
された。
それは「優れた人材を陸軍で腐らさせずに海軍で活用
すること」や「将来、国家有数の人物に海軍経験者の
ネットワークを作ること」などを目指したものだった。
戦後のわが国の中心になって活躍した人たちに、
おびただしい海軍シンパを生じたのは事実であった。
敗戦によって、むしろ海軍が活躍することになったのは、
当時英断をくだした人たちも想像しえなかった。

我々は同時期に任官したものを「コレス」という。我々の
コレスは、兵学校、機関学校、経理学校の生徒出身の、
いわゆる本チャンは393名に過ぎないのに対し、主計、
軍医、技術などの短期現役に兵科予備学生を加えると、
じつに2800余名が海軍の飯を食ったのである。

われわれが入校した東京築地の海軍経理学校は、
中学から入った生徒のほかに、下士官の高等科練習生
も教育を受けていた。しかし、数から言えば、われわれ
補修学生が絶対多数だった。

われわれ9期473名は4部24班に編成され、各部に
それぞれ指導官と指導官付けがついた。

我々は全国22の大学の法,経、商学部から選ばれた。
東大が209名(法138、経71)で断然多く、東京商大
62、慶大49、早大34、京大27、神戸商大23、東北大
18、大阪商大15が続いた。あとは10名以下で、早慶
以外の私立大学はなぜか少なかった。著者は東大法。
旧制高校出身者は263名で過半数を超していた。トップ
は一高で33名、6高は11名で第7位だった。

就職先は高文に合格して官庁に決まっている者が74名
とさすがに多く、三菱商事29、日銀27がこれに次いだ。
私の就職先の横浜正金銀行は14名で4番目の多数
だった。
席次の1番から4番までが各部の最初の班、すなわち
1,7,13、、19班の班長になり、学生長は1部1班の
班長であった。
後年聞いた話だが、補修学生の採用は書類審査で大体
決まっていたらしい

戦中派
大正9年、1921年生まれといえば」、戦中派の代表的
年代である。小5の昭和6年に満州事変が始まった。
高校1年の7月、つかの間の平和もむなしく北支事変が
起こり、やがて大陸に戦火が拡大して支那事変となり、
泥沼の戦争状態になった。

昭和15年、大正9年生まれは満20歳になり、徴兵検査
の年であったが、この年大学に入った私は、徴兵猶予の
特典があったので、軍靴の足音を感じながらも、まだ自分
の出番は先のことだと思っていた。

昭和16年12月8日戦争勃発。昭和17年に入るとともに
すでに覚悟はしていた学生の徴兵猶予制度の廃止が
具体的になり、さらに文科系は卒業短縮の措置がとられる
ことがはっきりしてきた。まず卒業するための単位を取ら
ねばならなかった。卒業論文は無かった。
2年の学年末に数だけこなそうと10科目受験した。
なんとか卒業のメドはついた。
3年の4月になると学年は半年短縮されて9月末卒業が
決定し、4月18日の小石川区役所での徴兵検査の通知
が来た。

当日突然サイレンの音と鈍い爆音がした。窓の外を見ると
銀色の飛行機が2機、牛込の方へ低空で飛んでいくのが
見えた。これが空母ホーネット発のドウリットルの16機の
B25の日本初空襲だった。
この後1ヶ月後、「10月1日、中部第66部隊に陸軍二等兵
として入隊すべし」という赤紙の葉書がきた。

陸軍二等兵から逃れる方法はないか、無いことは無かった。
それは海軍主計か予備士官に志願することであった。
ことに海軍主計士官に合格すれば、すぐ海軍主計中尉に
なれる。陸軍二等兵とは天と地の相違であった。
しかし、それに合格するには全国の大学の法、経の学生
100名くらいの採用ということで、不勉強な自分にとっては
難関中の難関だった。

五月の初め頃卓球部キャプテンだった斉藤政之助さんが
来られた。斉藤さんは仙台の2高から医学部に進まれ、
短現で海軍に入り、空母「加賀」乗り組みの海軍軍医中尉
だった。インド洋作戦で日焼けした、短剣を吊ったこの人の
「海軍はいいですよ」の一言で海軍主計を受けることにした。
(斉藤さんは1ヵ月後、ミッドウエーで「加賀」と運命を共に
された)。
また短現8期の先輩から8期は300名の採用で、9期は
もっと多くなるらしいとの情報も入ってきた。

法学部の事務室に志願の書類を貰いに行った。「海軍主計
見習い尉官、2年現役、志願の栞」があった。5月25日まで
に所定の手続きを終えれば、6月中旬頃、東京、大阪などで
行われる試験がうけられるのであった。

6月中旬、築地の海軍経理学校で、面接と身体検査を行う
という通知が来た。当日、自分は散髪もせず、髭も剃らず
のんびりと出かけた。控え室に入って驚いた、物凄い人数
である。みんな頭をクリクリにし、部屋中緊張の熱気で濛々。
2千人以上いると感じたが、一人づつ呼び出しに応じて
面接室に入って行く。試験管の二人は中佐と少佐だった。
「東大だな。好きな学科は何か」と来た。考えていた作戦
どうり「政治史と政治学」と応えた。ロシア革命の第1インター
とか第2インターとか尋ねてきたが適当に答えた。
「憲法や民法は分るか」と来たので「わかります」と答えたら
「予算と財政」とか「登記の公信力」とかありきたりの質問
だったので私でも一応答えることができた。

「尊敬する人物は誰か」に対し「和気清麻呂と西郷隆盛です」
「何故か」「清麻呂は岡山出身の偉人、西郷はその度量と
人格」と答え、「髪も髭も伸びてる」にたいしては」「徴兵検査
のとき刈りました。髭は3日前に剃りました」。「よし帰れ」と
開放してくれた。

就職試験も月初めころ終わっていた。学年短縮で夏休み返上
だから忙しい。戦争でどうなるか分らないが、とにかく就職
だけは決めておかねばならなかった。
願書は住友本社、日本郵船、川崎重工業、横浜正金銀行に
出した。受かったのは横浜正金だった。川崎は試験辞退。

8月上旬海軍省人事局から採用の通知がきた。
身体検査は9月28日、海軍軍医学校でおこなわれた。翌
29日は東大全学の卒業式だった。午後横浜正金銀行に
出頭した。「書記を命じ、月額75円を給す」という辞令を頂いた。
ただ、銀行はすぐ退職せねばならなかった。徴兵と違って、
海軍に志願して官吏になったのだから、2重に在籍することは
できず、75円も幻の給料だった。但し復員したら直ちに復職
するという保証があった。会社によっては復員するまでも給料
をくれるところがあったらしい。

9月30日の水曜日は晴天だった。築地の海軍経理学校の
校門をくぐった。0800集合を命じられ班別にわけられるので
あった。守屋清は第23班だった。午後になると、各科の短期
現役士官がそれぞれ軍服姿で集まった。同期の軍医科、
薬剤科、技術科、歯科、法務科の見習い尉官全部の任命式
が行われる。
彼らはこの後ただちに、技術科は大陸の青島というように
それぞれの訓練地におくられるのであった。全部で2千人
ちかくもいたろう。 

私は4部の23班に編入された。指導官は前中貴主計大尉
で、本チャンの生徒23期。いずれもまだ30歳そこそこの青年
士官でよい兄貴といった感じだった。
指導官付けの風間栄一主計大尉は短現2期で、早大時代
ベルリン・オリンピックのレスリング第5位入賞という猛者
だった。

われわれ23班の20名の仲間たちもいまや過半数の11名
が欠けてしまった。20名のうち、東大10、東商大5、
大商大2、神商大1と官立大学が18名もおり、私大はわずか
2名にすぎなかったことは、わが班が優等生的な感じで、やや
野生味に欠けていた原因かも知れない。しかし、今振り返って
みても、懐かしい好い男がそろっていた。それだけに亡くなった
連中が惜しい。幸い生きている仲間は半世紀がたった今も、
顔をあわせれば、たちまち、4部23班の昔に帰るのである。


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サンタンジェロ 聖天使城 ローマ

海経36期の竹田腆から論説「イル・パセット・・聖
ペトロ大聖堂の抜け穴」を送ってきた。これは「地中海
歴史風土誌 第30号」10月25日掲載予定のものだ。

ローマの城壁やヴァチカンの城壁は歴史的に重要遺跡
として喧伝されているが、どのようにして建設されたのか
については、今ひとつはっきりしなかったが、竹田の
論説で大筋が見えるようになった。

文末の竹田の作成した城壁図が分りやすいので、まず
それを要約する。
○皇帝の城壁 
1.Romalus Wall   紀元前8世紀
 個別の城を守った城壁 7箇所
2.Servian Wall   紀元前 6世紀から1世紀
 個別の城全体を守る城壁
3.Aurellia Wall   紀元後3世紀
2・の周りをすっぽり囲む広大な城壁で、テベレ川の
左岸に達しており、1部はテベレ川を越えている。

○ヴァチカンの城壁
4.Passetto抜け穴(道)
5.Leo Ⅳ Wall 紀元後 9世紀
6.Pius Ⅳ Wall     16世紀
7.Urban Ⅷ Wall    17世紀
8.Sant Angeo城
9.スイス傭兵住居区画

1527年仏王フランソア1世と皇帝カール5世との西欧の
覇権を争うイタリア戦役の最中。
メデイチ家出身の教王クレメンス7世はフランスと同盟
していた。1927年の五月、カール5世の傭兵軍が、ローマ
に侵攻し、ボルゴ地区(大聖堂の前の地区)に殺到、ペトロ
聖堂の正面階段までカノン砲で破壊された。
教王は聖天使城への避難を決意、秘密通廊から脱出する。
ヴァチカンの城壁も破られ、最後の接戦となった、大聖堂の
石階段では、189人のスイス傭兵の殆どが殺戮され、
残るは教王に従った42人のみになった。

教王が通った秘密の通廊がパセットである。この道は
聖ペテロ広場北側のスイス傭兵屯所の脇から始まり、
聖天使城の西側に直結する。長さは約800メートル、
高さは8メートルと言われる。この通廊が造られたのは、
13世紀教王ニコラス3世の時であり、その後補修、改修。
日本の戦国の抜け穴ともいうべきこの通路は、想像される
地下トンネルではなく、地上の城壁の内部をくりぬいて
造られた抜け道である。
この城壁は6世紀のものであり、ヴァチカンを含む城壁の
最古のものである。

聖ペトロ聖堂が造られたのは4世紀、場所はヴァチカンの
丘、テベレ川の右岸であり、ローマ(左岸のパラチノ、カンピ
ドーリオを中核)の市外である。

往時のローマ帝国には城壁の必要がなかった。外敵による
防衛は、ローマからはるかに離れた辺境に配置された軍団
で十分だった。
ローマ皇帝による防衛の城壁は、有史前の時代を除けば
3世紀のアウレリアヌスの城壁(3)のみである。
皇帝アウレリアヌスはパックス・ロマーナを象徴する5賢帝
の3代目であるが、この時代ローマ帝国繁栄の翳りを示し、
近隣諸族の侵攻に対する城壁構築の必要が出てきた。

ピウス4世の城壁(6) 16世紀
ピウス4世はレオ4世の城壁の外側に新しい城壁をつくる。
これには聖天使城、パセットの北に拡張したボルゴ地区、
ヴァチカン、スイス傭兵居住地区が囲われている。
この城壁は1929年のコンコルダートによりヴァチカン市国と
イタリア共和国との境界になる。
それまでは両者に間に境界はなかった。

ウルバヌス8世の城壁(7)17世紀
ヴァチカンの南、ジャニコーロの丘の西側に沿う長い城壁。

これら城壁の増改修の意図は、異教徒の侵攻に対する
ものだけではない。歴代教王は中部イタリアに所領を増や
しており、この城壁は近辺都市国家に対抗したものである。

聖天使城
本来この地はローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟であり、生前
の紀元後135年から建設開始、没後の139年に完成した。
その後、セルヴィウス帝まで多くの皇帝もここに葬られた。
方形の地階、円形部、小さい円形部の3層からなり、その
上には4馬チャリオットを御するハドリアヌスの像がある。
395年のローマ帝国の分裂以来、異教徒の蛮族に破壊
され、次第に軍事目的の城塞、教王の避難先、居城、牢獄
などさまざまな役割を演じた。
教王たちが、手を入れ始めたのは、パセットを造った13世紀
ニコラウス3世の時からである。歴代の教王により、防塁、
城壁、堀、豪華な居室、礼拝堂、庭園、地階の牢獄が造ら
れた。そして歴代教王、教王派、反教王派の攻防の拠点
として、数々の血なまぐさい歴史の舞台になる。
城の所有権は、最終的には教王の所有となった。1377。

大天使ミカエル像
帝国分裂後200年の6世紀、ペストの猛威があり、教王さえ
犠牲になった。
ペスト終焉を祈る群衆の先頭にいた修道院院長グレゴリウス
は霊廟の頂に大天使ミカエルの姿を見る。背に白い翼をつけ
右手に剣を持ち、サタンを踏みつけている姿だった。ミカエル
はサタンと戦い、罰することを」任務とする天使軍団のリーダー
である。
グレゴリウスの祈りは叶いペストは終結した。
そして剣を鞘に収める大天使ミカエルの木造の像が頂に捧げ
られた。この像は戦乱により幾たびか破壊され、現在の
ブロンズ像は1753年のフランドルの巨匠、ヴェルシャッフェルト
によるものである。

10天使像
テベレ川に架かる聖天使橋は全長130メートルのかなり大きな
橋である。この橋の素晴らしさは欄干にそそり立つ10の天使像
にある。1669年教王クレメント7世が建て替え、聖パウロ、
聖ペテロの像は残し、バロック期の代表的巨匠、ベルニーニに
よる10天使の像となる。キリスト受難の象徴を持った10天使
である。

教王の二つの顔
そもそもペトロ大聖堂はローマ教会の聖所であり、戦国の武将
の居城ではない。しかし城壁で守られ、抜け道まで持ち、城塞
聖天使城に通じる。まさに城塞化された聖所であり、違和感を
覚える。
教王は大聖堂では、神の代理として神に仕え、信者にその
祝福を等しく与え、他方聖天使城では教王国家の専制君主と
して戦国の諸侯と相変わらぬ所行をする。いわば、これらの
教王たちは聖俗両面の顔をもち、その橋渡しの役をしたのが
パセットの象徴的意味だ。

歌劇「トスカ」、作曲プッチーニ、は聖天使城を舞台にしている。
なんと血が流されるオペラだろう。第2幕で悪人の警視総監の
スカルピアが歌姫トスカに刺し殺される。第3幕では恋人
カヴァラドッシが銃殺され、第3幕の幕切れは、なんとトスカの
聖天使城からの投身自殺である。

「ローマの休日」で聖天使橋の左岸のたもとの作られた、水上
舞踏場で、オードリ・ヘップバーン扮する王女とグレゴリー・ペック
の新聞記者が踊っていたところ、王女の国の秘密警察隊員が
王女を連れ出そうとしたため、大乱闘となり、ヘップバーンは
バンドのギターを叩き回し大活躍、二人が無事脱出した場面
が印象深い。

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