サンタンジェロ 聖天使城 ローマ
海経36期の竹田腆から論説「イル・パセット・・聖
ペトロ大聖堂の抜け穴」を送ってきた。これは「地中海
歴史風土誌 第30号」10月25日掲載予定のものだ。
ローマの城壁やヴァチカンの城壁は歴史的に重要遺跡
として喧伝されているが、どのようにして建設されたのか
については、今ひとつはっきりしなかったが、竹田の
論説で大筋が見えるようになった。
文末の竹田の作成した城壁図が分りやすいので、まず
それを要約する。
○皇帝の城壁
1.Romalus Wall 紀元前8世紀
個別の城を守った城壁 7箇所
2.Servian Wall 紀元前 6世紀から1世紀
個別の城全体を守る城壁
3.Aurellia Wall 紀元後3世紀
2・の周りをすっぽり囲む広大な城壁で、テベレ川の
左岸に達しており、1部はテベレ川を越えている。
○ヴァチカンの城壁
4.Passetto抜け穴(道)
5.Leo Ⅳ Wall 紀元後 9世紀
6.Pius Ⅳ Wall 16世紀
7.Urban Ⅷ Wall 17世紀
8.Sant Angeo城
9.スイス傭兵住居区画
1527年仏王フランソア1世と皇帝カール5世との西欧の
覇権を争うイタリア戦役の最中。
メデイチ家出身の教王クレメンス7世はフランスと同盟
していた。1927年の五月、カール5世の傭兵軍が、ローマ
に侵攻し、ボルゴ地区(大聖堂の前の地区)に殺到、ペトロ
聖堂の正面階段までカノン砲で破壊された。
教王は聖天使城への避難を決意、秘密通廊から脱出する。
ヴァチカンの城壁も破られ、最後の接戦となった、大聖堂の
石階段では、189人のスイス傭兵の殆どが殺戮され、
残るは教王に従った42人のみになった。
教王が通った秘密の通廊がパセットである。この道は
聖ペテロ広場北側のスイス傭兵屯所の脇から始まり、
聖天使城の西側に直結する。長さは約800メートル、
高さは8メートルと言われる。この通廊が造られたのは、
13世紀教王ニコラス3世の時であり、その後補修、改修。
日本の戦国の抜け穴ともいうべきこの通路は、想像される
地下トンネルではなく、地上の城壁の内部をくりぬいて
造られた抜け道である。
この城壁は6世紀のものであり、ヴァチカンを含む城壁の
最古のものである。
聖ペトロ聖堂が造られたのは4世紀、場所はヴァチカンの
丘、テベレ川の右岸であり、ローマ(左岸のパラチノ、カンピ
ドーリオを中核)の市外である。
往時のローマ帝国には城壁の必要がなかった。外敵による
防衛は、ローマからはるかに離れた辺境に配置された軍団
で十分だった。
ローマ皇帝による防衛の城壁は、有史前の時代を除けば
3世紀のアウレリアヌスの城壁(3)のみである。
皇帝アウレリアヌスはパックス・ロマーナを象徴する5賢帝
の3代目であるが、この時代ローマ帝国繁栄の翳りを示し、
近隣諸族の侵攻に対する城壁構築の必要が出てきた。
ピウス4世の城壁(6) 16世紀
ピウス4世はレオ4世の城壁の外側に新しい城壁をつくる。
これには聖天使城、パセットの北に拡張したボルゴ地区、
ヴァチカン、スイス傭兵居住地区が囲われている。
この城壁は1929年のコンコルダートによりヴァチカン市国と
イタリア共和国との境界になる。
それまでは両者に間に境界はなかった。
ウルバヌス8世の城壁(7)17世紀
ヴァチカンの南、ジャニコーロの丘の西側に沿う長い城壁。
これら城壁の増改修の意図は、異教徒の侵攻に対する
ものだけではない。歴代教王は中部イタリアに所領を増や
しており、この城壁は近辺都市国家に対抗したものである。
聖天使城
本来この地はローマ皇帝ハドリアヌスの霊廟であり、生前
の紀元後135年から建設開始、没後の139年に完成した。
その後、セルヴィウス帝まで多くの皇帝もここに葬られた。
方形の地階、円形部、小さい円形部の3層からなり、その
上には4馬チャリオットを御するハドリアヌスの像がある。
395年のローマ帝国の分裂以来、異教徒の蛮族に破壊
され、次第に軍事目的の城塞、教王の避難先、居城、牢獄
などさまざまな役割を演じた。
教王たちが、手を入れ始めたのは、パセットを造った13世紀
ニコラウス3世の時からである。歴代の教王により、防塁、
城壁、堀、豪華な居室、礼拝堂、庭園、地階の牢獄が造ら
れた。そして歴代教王、教王派、反教王派の攻防の拠点
として、数々の血なまぐさい歴史の舞台になる。
城の所有権は、最終的には教王の所有となった。1377。
大天使ミカエル像
帝国分裂後200年の6世紀、ペストの猛威があり、教王さえ
犠牲になった。
ペスト終焉を祈る群衆の先頭にいた修道院院長グレゴリウス
は霊廟の頂に大天使ミカエルの姿を見る。背に白い翼をつけ
右手に剣を持ち、サタンを踏みつけている姿だった。ミカエル
はサタンと戦い、罰することを」任務とする天使軍団のリーダー
である。
グレゴリウスの祈りは叶いペストは終結した。
そして剣を鞘に収める大天使ミカエルの木造の像が頂に捧げ
られた。この像は戦乱により幾たびか破壊され、現在の
ブロンズ像は1753年のフランドルの巨匠、ヴェルシャッフェルト
によるものである。
10天使像
テベレ川に架かる聖天使橋は全長130メートルのかなり大きな
橋である。この橋の素晴らしさは欄干にそそり立つ10の天使像
にある。1669年教王クレメント7世が建て替え、聖パウロ、
聖ペテロの像は残し、バロック期の代表的巨匠、ベルニーニに
よる10天使の像となる。キリスト受難の象徴を持った10天使
である。
教王の二つの顔
そもそもペトロ大聖堂はローマ教会の聖所であり、戦国の武将
の居城ではない。しかし城壁で守られ、抜け道まで持ち、城塞
聖天使城に通じる。まさに城塞化された聖所であり、違和感を
覚える。
教王は大聖堂では、神の代理として神に仕え、信者にその
祝福を等しく与え、他方聖天使城では教王国家の専制君主と
して戦国の諸侯と相変わらぬ所行をする。いわば、これらの
教王たちは聖俗両面の顔をもち、その橋渡しの役をしたのが
パセットの象徴的意味だ。
歌劇「トスカ」、作曲プッチーニ、は聖天使城を舞台にしている。
なんと血が流されるオペラだろう。第2幕で悪人の警視総監の
スカルピアが歌姫トスカに刺し殺される。第3幕では恋人
カヴァラドッシが銃殺され、第3幕の幕切れは、なんとトスカの
聖天使城からの投身自殺である。
「ローマの休日」で聖天使橋の左岸のたもとの作られた、水上
舞踏場で、オードリ・ヘップバーン扮する王女とグレゴリー・ペック
の新聞記者が踊っていたところ、王女の国の秘密警察隊員が
王女を連れ出そうとしたため、大乱闘となり、ヘップバーンは
バンドのギターを叩き回し大活躍、二人が無事脱出した場面
が印象深い。


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