昭和18年6月は太平洋戦争の重大な転機にあたって
いた。米軍はこのころより本格的反攻に転じ、圧倒的な
物量をもって、2年後の終戦まで押しに押してきたので
ある。
反攻の緒は北方では、5月中旬に始まったアッツ、キスカ
への進攻であり、南においてはニューギニアへの進出と
ソロモン戦線における飛び石作戦だった。
ブインを第1線とするソロモン方面においては、少なくとも
6月の初めまで、昼間の制空権はわが方にあり、敵の
空襲はおおむね夜間に限られていた。しかしこの頃より
敵は白昼堂々と攻撃してくるようになり、正攻法の寄せ身
をみせてきた。この第1の原因は航空戦力の補給の差
であった。
わが方は依然旧式の97艦攻や足がでたままの99艦爆
で戦っており、零戦もスピードと防御力において、劣勢に
おかれざるを得なかった。そのうえ、機材そのものの補給
が思うにまかせず、優秀な搭乗員は、連日の戦闘で、
櫛の歯をひくように欠けていった。
これにたいし米軍はB24爆撃機やグラマンF6F,P51ムス
タング、コルセアF4Uなどの新鋭戦闘機を、無限に投入
してくるのだった。
第2の大きな原因は建設機械力の差であった。ソロモン
戦線で、海軍の飛行場で実働しているのは、わがブイン
のみであった。他にパラレ、ブカに飛行場と名のみの
滑走路があるだけだった。そしてこれらの飛行場も、大勢
の設営隊員が椰子を切り、モッコをかついで、何ヶ月もの
苦労のすえ、やっとつくりあげたものであった。
一方米軍はガ島占領後、日ならずしてラッセル島に飛行場
をつくり、6月末には、レンドバ島,ニュージョージア島、
ベララベラ島、モノ島と飛び石作戦で進出し、上陸すると
10日もたたぬうちに飛行場を作り、爆撃機以外の小型機
が出撃していくのである。
かれらはこの後ブーゲンビル島の中部で、とても飛行場など
作れないとおもわれていた、クロキナに上陸し、ニューギニア
の進出勢力とともに、ラバウルを猛爆して孤立させ、内南洋
に矛を進めてきたのである。
6月5日のブインにもどろう。
6月5日は山本元帥国葬の日だった。午後戦爆連合約40機
が、ブインに攻撃をかけてきた。わが零戦もただちに迎撃し
壮烈な戦いが我々の上空に展開された。 重爆を追尾する
零戦、そうはさせずと追いすがるグラマン、敵味方入りまじって
マンジトモエの空中戦、我々は海岸に立ち、固唾をのんで
眺めていた。
大型機の撃墜こそ見られなかったが、小型機の墜落のシーン
は数多く見られた。もみあっているうちに、やられた機はスーッ
と糸をひいたように垂直に落下していき、いとも簡単に、音も
なく海中にポトリと落ちる。遠方なので敵か味方かよく分らない
が。メラメラと黒煙をあげて落ちないかぎり、浜辺からは拍手
喝采が起こった。燃えて黒煙をあげるのは零戦であることを
よく承知していたのであった。
この日の戦果は敵19機撃墜(不確実3)、わが損害3機と
発表された。
翌々7日には、お返しに204空、251空、582空、約80機で
ラッセル島方面を攻撃し、約30機を撃墜して全機帰還している。
まだまだ、わが軍は意気軒昂であった。
6月10日、戦爆連合数十機がやってきて、飛行場と倉庫を
ねらった。そのため零戦9機が被弾した。
わが方は、ガ島やラッセル島方面に増強してきている敵の
航空兵力や輸送船団を叩き、その進出を抑えるべく、204空、
251空、582空連合で12日と15日に総攻撃を予定していた。
6月12日、582空、204空、251空連合してガ島方面の攻撃
に向かった。敵は増強した新鋭機で迎え撃ってきたが、32機
撃墜(不確実13)の戦果をあげた。わが方未帰還機は2機だった。
15日の作戦が1日延期となり、艦爆隊は15日にラバウルから
戻ってきた.23機だった。この日は再び飛来した204空、251空
の搭乗員が加わり士官室はがぜんにぎやかになり、活気に
あふれていた。
16日の攻撃はムンダ方面への敵の上陸を未然に潰そうという、
26航戦の全力をあげた大作戦であった。
0900、全搭乗員が指揮所前に集合した。こげ茶色の飛行服に
同色の救命胴衣を着け、飛行帽に半長靴で身を固めた帝国海軍
の誇る「ラバウル航空隊」の精鋭である。クビにまいた純白の絹
マフラーが凛々しく美しい。
攻撃の聡指揮官は1日付けで少佐に進級したわが隊の進藤三郎
戦闘機隊長であった。
582、204、251空の零戦機は70機、わが艦爆隊は24機。
戦果はあがり大本営は次のように発表した。
「輸送船大型4隻撃沈、中小型3隻撃沈、駆逐艦1隻撃沈、飛行機
32機以上撃墜、わが方未帰還機20機。
本戦闘をルンガ沖航空戦と呼称する」。
敵に与えた損害は明瞭ではない。しかしわが軍の損害はこの発表
をはるかに超えるものであった。
わが隊の艦爆隊24機のうち、じつに13機が未帰還で、戦闘機
未帰還18機(うち582空4機)というものであった。
わが隊は当隊開設以来の32名の戦死者、未帰還者をだしたので
あった。
251空も分隊長、分隊士を失った。
204空も宮野隊長、山本長官の直援機の隊長だった森崎中尉など
多くの勇士が基地に還ってこなかった。
あまりにも大きな損害だった。
582空艦爆隊はこのあと、後方のラバウル、カビエンに引き上げ
建て直しをはかるのであるが、帝国海軍最強の基地艦爆隊は、
事実上この日をもってその力はつきはてたのであった。
1年余年前の17年五月、横須賀で第2航空隊として編成されて
以来、250名以上の艦爆搭乗員の勇士が、ソロモンにニューギニア
に勇戦奮闘したが、負傷などにより帰還し、現在も健在なのは
わずか数名にすぎない。
このルンガ沖戦闘では、ロッキードP38、グラマンF4F、コルセアF4U
などの敵戦闘機が3段構えで待機しており、わが軍の完全な敗戦
であったことが知られる。
ともあれ、この6月16日をもって、南東方面における彼我の制空権
は完全に逆転することになったのである。
582空は戦闘機隊が外されて、204空に移った。ブインの基地には
204空、251空の一部が進駐していた。しかし主隊はいぜん582空
であった。582空は近くカビエンに転進するという噂が流れていた。
これは我々も内心大歓迎であった。ニューアイルランド島のカビエン
は、三箇所を行き来する搭乗員の間で「ブイン田舎で、ラバウル都、
花のカビエン極楽浄土」という言葉があるくらいよい所らしかった。
8月10日当隊の主力はラバウル、カビエンに行って建て直しを図る
ことになった。しかし司令はブインに残るという。しかし翌日の会議の
結果、庶務はラバウルに帰り、私もラバウルに引き上げと決定した。
当方の事情にはおかまいなく、ベララベラ島上陸を目指した敵の
攻撃は、ますます、しきれつになった。
12日には戦爆連合の大空襲で、避退の遅れた虎の子の飛行機
30機近くが炎上するという大被害をうけた。
ラバウルへの出発は17日と決まった。その2日前には、米軍は
ベララベラ島に上陸してきた。1ヶ月半のあいだに、レンドバ、ムンダ、
ベララベラと進出してきたのだ。
17日、1式陸攻でブインを離陸した。半年間苦楽を味わったブインを
去るのは哀惜に似た感傷があった。私はこのあと、ブインの部隊に
帰ることはなかったのでこれがブインとの別れであった。
ブーゲンビル島は11月に米軍がクロキナに上陸し、戦闘、飢餓、病気
によって4万名以上の陸海将兵がこの島に骨を埋めた。ブインにも
絶望的な運命がやってきた。
昭和55年、慰霊巡拝団の一員として、37年ぶりにブインの地を踏み
しめた。地のはてのブインも文明の波に洗われているようにも
思われたが、ジャングルに入ると昔のままだった。純朴な人々は
椰子の実を割り、「愛国行進曲」を歌って歓迎してくれた。
明日をも知らぬ戦闘の日々の間、搭乗員がデッキで威勢良く歌って
いた八木節が懐かしく耳朶にひびいてくる。
「ブインよいとこ一度はおいで 狭い滑走路に着陸すれば
横にはみだし飛行機こわし そこで分隊長に整列くらい・・・・・・・
飛行機壊すなこわすな飛行機 オーイサネー」
ラバウルには1式陸攻で帰った。途中ブカ島に着陸した。
ラバウルでは夜起されることもなく、グッスリ眠れた。大勢の同期
も元気でいた。心は晴れ晴れとしているはずだが、私の健康状態は
あまりよくなかった。ブインのマラリア以後38度くらいの微熱もずっと
続いていた。第8海軍病院で胸部のレントゲン写真を撮った。右胸
膜に異常ありだった。
私が入院した時、となりのベッドに251空の鴛淵孝大尉がマラリア
で入室していた。兵学校68期の戦史にのこる撃墜王で、赫々たる
武勲をあげた後、終戦間際に松山343空で、紫電改搭乗、豊後
水道上のグラマン戦で散華された。
退院してみると部隊が大編成替えとなっていた。新たに艦攻隊が
増え分隊数は20に増え我々は第20分隊となっていた。
9月10日には欧州ではイタリアが降伏し、ブインの空襲もますます
激しくなっているとのことだった。そのころのラバウルは、まだ
のどかなものであった。
昭和18年10月20日同期とバレーボールをやった。なかなか楽しい
会であった。
翌日主計長の許可を得て、念願のカビエンまで俸給を渡しに行った。
カビエンはラバウルの北西方に細長く伸びているニューアイルランド
島の北の端にあり、ラバウルから中攻で約1時間だった。俸給袋を
渡すと出張目的は完了した。隊の本部は、海を見下ろす丘の上の
立派な建物で、広い庭園には芝生が敷き詰められ、いたるところに
熱帯樹や草花の植え込みがあった。それは佳美苑のなかの
「花美園」であった。
大空は清澄に、紺碧の海は明るく、原色の草花は妍をきそい、緑の
芝生と濃緑の木立は、色彩の乱舞に疲れた目を休ませてくれた。
まさしくカビエンは「極楽浄土」だった。
夜がきた。昼間、繚乱としていた庭の茂みに、おおきな光の玉が
ともった。なにごとかと近づけば、光はパっと消え、別の茂みが光り
だす。光の玉はあちこちで点滅している。蛍であった。無数の大きな
蛍が、花の蜜にむらがり、集団となって、点滅している。空からは
満天の星。翌日も優雅な生活をエンジョイした。丘を下りると「南花苑」
というコーヒー店がある。現地産の香り高いコーヒーに、真っ白い砂糖
をいれて味わうことができた。
このカビエンも翌年には惨憺たる戦場となり、地獄と化すのだが、
当時はまことに天国だった。
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