加藤陽子は1960年埼玉県生まれ。東京大学大学院人文
社会系研究科教授.専攻は日本近現代史。
神奈川県の栄光学園の生徒を対象にクリスマスから正月まで
の休みに5日間行われた講座を纏めたものである。
集まったメンバーは歴史研究部が中心で20名くらいだった。
中一から高2まで(3年生は受験期なので参加していない)。
関係者の努力によって本になったのは1年半後だった。
はっとした文章や独自評価を書き出していく。
○皆さんは、30年代の教訓はなにかと聞かれてすぐに答え
れれますか。ここでは二つの点から答えておきましょう。
1.帝国議会衆議院議員選挙や県会議員選挙の結果など
からみるとわかるのでうが、1937年の日中戦争の頃まで、
当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主
主義的な改革(例えば労働者の団結権や団体交渉権など、
戦後GHQによる諸改革で実現された)を求めていたという
ことです。
2.民意が正当に反映されることによって、政権交代が可能と
なるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた
強く待望していた。
然し戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにする
筈の社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院
枢密院など多くの壁に阻まれて実現できなかった。
改革は既存の政治システムでは無理だということで、擬似的
な改革推進者としての軍部への国民の人気が高まっていった。
そんな馬鹿なという顔をしてますね。しかし、陸軍の改革案
のなかには、自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の
改善など、項目それ自体はとてもよい社会民主主義的な改革
項目が盛られていました。
擬似的とは本物とは違うということです。つまり、陸軍であれ
海軍であれ、軍という組織は国家としての安全保障を第一
に考える組織ですから、ソ連との戦争が避けられない、
あるいはアメリカとの戦争が必要となれば、国民生活の安定
のための改革の要求などは最初に放棄される運命にあった。
ここまで述べたかったことは、国民の正当な要求を実現しうる
システムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない
夢を擬似的に見せることで、国民の支持を得ようとする政治
勢力が再び現われるかもしれないなどというつもりはありません。
「レイテ戦記」、「俘虜記」の作者大岡昇平も、歴史は単純には
繰り返さないと述べています。
ならば、現代における政治システムの一つには現在の選挙
制度からくる、桎梏が挙げられます。衆議院選挙においては、
比例代表制も併用していますが、議席の6割り以上は、
小選挙区から選ばれます。一選挙区ごとに一人の当選者を
選ぶ小選挙区制度下では、与党は、国民に人気がない時には
解散総選挙は行いません。これは2008年から09年にかけて
まさに起こったことです。
本来ならば国民の支持を失ったときにこそ、選挙がなされ
なければならないはずです。しかしそれはなされない。
○満州事変と日中戦争
満州事変のほうは1931(昭和6年)年9月18日、関東軍参謀
の謀略によって起こされたもので、日中戦争のほうは、37年
(昭和12年)7月7日、小さな武力衝突をきっかけにして起こった
ものです。
満州事変のほうは、2年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾
らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。
関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州
(旅順、大連中心)の防備と、これまたロシアから譲渡された
中東鉄道南支線(南満州鉄道)の鉄道保護を任務として置かれた
軍隊のこと。
その鉄道線路の一部を自ら爆破し、それを中国側のしわざだと
して、中国東北部(満州)のなかでも、遼寧省の奉天(瀋陽)に
あった張学良の軍事根拠地など、重要ポイントを一挙に占領
してしまう。
張学良は、この時、東三省(とうさんしょう、遼寧省、吉林省、
黒竜江省)の政治的、軍事的支配者であり、南京を首都とする
国民政府の蒋介石首席とも良い関係を築いていた若きリーダー
でした。9月18日の夜は北京にいました。これも手のこんだ
謀略で、日本の特務機関が、張に対する反乱を起こさせ、反乱
鎮圧のため、張が本拠地を留守にするように仕向けたのです。
張は自らの軍隊である東北軍の精鋭11万を率いて、万里の
長城を越えて華北にいました。満州にはいなかった。
日本側はなぜこのような手の込んだ謀略を行ったうえで、満州
事変を起こしたのでしょうか。それは兵力の差です。
関東軍は、内地から2年交替で派遣されてくる師団と独立
守備隊から構成されていましたが、合わせて約1万人しか
いなかった。それに対し、張学良の率いる東北軍は約19万人
いた。石原莞爾は戦後軍事裁判所に提出した宣誓供述書の
なかで、装備が優れ、20万人ほどもいた張学良軍にくらべ、
装備もおとり、1万人ほどしかいない関東軍がいかに心細い
思いをしていたかという点を強調して、満州事変が謀略であった
ことを隠していました。
石原の述べている兵力差は、19万を20万としているだけで、
大体正確といえますが、東北軍のうち11万が満州に
いなかった点、ここが実は一番重要なのですが、この点を正直
に述べていない。
石原は関東軍の参謀として満州事件を計画した人ですが、
自らが参謀本部の作戦部長であったときに起こった日中戦争
に関しては拡大に反対して、さっさと作戦部長を辞して、
関東軍の参謀副長として満州に行ってしまったという変わった
経歴の持ち主なので、当時も人気がありましたし、今もなお
人気があります。
1936年(昭和11年)2月におきた陸軍の反乱事件、2・26
事件の判決が下りたとき満州にいた石原が、2・26事件の
黒幕といわれた真崎大将にたいし、陸軍が無罪判決を下す
のは間違っていると批判していたとの内務官僚の記録がある。
石原は陸軍中央をののしることが多かったために、反体制的
な落ちこぼれであったとも言われるが、エリート、であるのは
間違いない。のちの太平洋戦争中、石原は東条英機陸相から
睨まれ、自分の著書「戦争史大観」という本を発禁にされた。
満州事変の計画性にたいして、1937年7月7日に起きた
日中戦争のほうは偶発的な事件、魯溝橋事件をきっかけに
していました。
この橋は12世紀末につくられた、北京郊外の栄定河に
架けられた橋で、マルコ・ポーロが「東方見聞録」でその
美しさ称えたことで有名です。
この橋の北側の河川敷で夜間演習を行っていた日本軍、
当時は支那駐屯軍と呼ばれていたのですが、この軍隊と、
中国側の第29軍との間で小さな衝突が起こってしまいます。
1900年の北清事変(義和団事件)の解決のための北京
議定書という条約があって、英独仏露とともに、日本在留
邦人保護の為、天津周辺に軍隊を駐屯させることを認められ
そして置かれたのが支那駐屯軍でした。ですから確かに
条約上の根拠はある。
ですが、事件の前年、36年6月日本側はこれまで1771人
であったものを、中国側との事前の協議なしに5774人に
増強してしまった。
このとき新しく造られた駐屯地が、魯溝橋事件にかかわる
豊台の兵営だった。豊台は重要な地点で北京の西南郊外
にあって鉄道の分岐する場所だった。豊台の隣には中国軍
の兵営がありました。
そのような場所で夜間演習をやっていた。是では事件が起こ
らないほうが不思議でしょう。抗日意識は中国の兵士の間
にもだんだん溜まってきていた。
○リットン調査団 国際連盟脱退
9月21日、満州事変は、中国が連盟に訴えたことで、その
処理が連盟に委ねられることになりました。
中国側が根拠にした連盟規約の条文は第11条であり、
簡単にいえば「戦争の脅威につながる事変があると加盟国
が訴えた場合は、連盟理事会を招集するという項目です。
当時のヨーロッパで明らかになってきたことは、英仏とドイツ
の対立。アメリカ発の世界恐慌の結果,ドイツ政府がこれまで
英、仏政府に支払っていた第1次世界大戦の賠償金支払い
が遅れたことにより生じた対立ですが、英としてはこちらに
対処したい。
関東軍や日本がよっぽどひどいことをしなければ、英は
東アジアの秩序は日本に依拠して確保したかった。
基本的にはこのような観点から発出された調査団ですから、
日本側有利の報告書が書かれる公算が大だった。
32年10月2日、スイスのジュネーブと北京、東京で報告書
の全文が公表された。
まず日本側に有利な部分は経済的な権益に配慮した
ところでしょう。日本は張学良政権による無法律状態により
他の国よりも一層苦しんだと認定、対日ボイコットは永久に
停止すること、日本人の居住権・土地賃借権を全満州に
拡張すること、を書いて日本の経済的権益が擁護されるよう
配慮していた。つまり中国は日本の経済上の利益を満足
させるべきだと述べられていたのです。
日本の要求が経済的なものに留まっているならば、調査団
の処方箋は効果的だったでしょう。
然し軍人たちの考えは違うわけですね。
日本に不利と思われる報告書の項目を見ておきましょう。
報告書は日本の行動が連盟規約違反であるとか、不戦
条約違反であるなどとは書いてありませんでした。
ただ9月18日の日本軍の行動は、合法的な自衛の措置
とは認めないと書かれていた。
満州国という国家は、住民の要求から、つまり民族自決の
結果生み出されたものでないと。
そして日本は満州地域における「中国的特性」容認せねば
ならないと求めていました。つまり、日本は満州が中国の
主権下にあることを認めなさい。
昭和戦前期において何時も問題をおこすのは陸軍でした。
1933年2月、陸軍は、満州国の南部分、万里の長城の
北部分に当る中国の熱河省に軍隊を侵攻させたのです。
この作戦自体は現地軍の独断や暴走でなく、天皇自身が
1ヶ月前の1月、閣議決定をうけて裁可したものだった。
陸軍は満州国も独立(32年3月1日)して、国家として
やっていこうとしているのに、満州の一部である熱河省に
張学良の軍隊が入りこんで反抗している。これを追い払う
ために軍を動かすだけだと理解していた。
天皇もそのように説明されれば何の疑問も生じなかった
でしょう。
海軍の誇る大秀才であった、斉藤首相が陸軍がとんでも
ないことをしでかしたと気づいた。
連盟規約第16条は「第15条による約束を無視して、戦争
に訴えたる連盟国は、当然他のすべての連盟国にたいし
戦争行為をなしたるものとみなす」というものでこれはなか
なか怖い条項であった。つまり連盟が一生懸命、解決に
努力している時に、さらに新たな戦争に訴えた国は、すべて
の連盟国の敵と見なされるということです。
斉藤首相は大変な事態になったと気づく。陸軍は、満州
事変の連続したものが熱河作戦に過ぎないと考えている
けれど、そうではない。
この時連盟は何をしていたか。
連盟は満州国を認めてなくて、中国の領土だといっている。
だから、日本が「満州国内で軍隊を動かしている」と考えて
いても、連盟からはそうとはとらない。
33年2月というのは、まさに連盟側が和協案を提議して
日本側に最後の妥協を迫っているときでした。
33年2月8日、斉藤首相は天皇のところに駆け込み、熱河
作戦を決定した閣議決定を取り消し、また、天皇の裁可も
取り消して欲しいと頼みます。是に対し天皇は取り消したい
と侍従武官に求めた。
このとき、斉藤首相と天皇の考えどうりになっていれば、
日本の歴史はまた別の道を歩んだかもしれない。
しかし侍従武官の奈良や元老の西園寺公望の考えは
消極的なものだった。
もし、ここで天皇が一度出した許可を撤回したとなれば、
天皇の権威が決定的に失われる。陸軍の勢力は天皇に
対して公然と反抗し始めるだろうとして、取り消さないこと
を進言した。
自分の考えに従うことを禁じられた天皇はとても苦しみ
ます。クーデターを怖れる元老や宮中側近に阻まれた
斉藤首相は、やむなく、2月20日の閣議で、このまま
では連盟から経済制裁をうける恐れがでてくること、また
除名という日本の名誉にとって、最も避けたい事態も
考えられるとして、連盟の準備していた日本への勧告案
が総会で採択された場合には自ら連盟を脱退してしまう
という方策を選択することになりました。
この決定がなされた2日後、日本軍は熱河に侵攻した
のです。松岡が連盟総会の議場から退場するのは、
その2日後、2月24日のことでした。
日本が國際連盟から脱退するとの詔書が出されたのは
3月27日のことです。
除名や経済制裁をうけるよりは、先に自ら連盟を脱退
してしまえ、このような考えの連鎖で、日本の態度は
決定されたのです。
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