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中国新幹線 脱線事故 人為ミスも

追突された列車の運転手が事故後線路に下り、事故は自分
の責任ではない、運航司令から停止せよとの指示があり、
停止ししたのだと叫び続けていたのを多数の乗客が見守って
いた。
上記の記事を中国誌「南部週刊」(電子版)が7月27日報
じた。

鉄道省は「落雷による設備故障」を停止の理由にしてきたが
運転士の話から指揮系統に乱れが出ていたと思われる。

ところで落下した車両の残骸は堀戻された車両も含め、
温州駅近くの路傍にビニール・シートをかけられたまま、放置
されているが、原因究明の動きは全くない。世間が忘れた
ころゴミとして処分するのだろう。追突先頭運転席をぶち
壊しているのだから原因究明どころの話しじゃない。

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中国新幹線 地方鉄道小役人の嘘と証拠隠し

高速鉄道の追突、脱線事故から一夜明けた24日早朝、中国
当局は追突したとみられる車両の運転席部分を、現場に
掘った孔に壊して埋めてしまった。24日午前4時半過ぎ、
現場に入った記者が一部始終を目撃した。
(朝日新聞 温州 奥寺淳)

追突した後続の先頭車両が真っ二つになっていた。空が明
るくなり始めた午前6時ごろ、7台のショベル・カーが直ぐ
横の野菜畑に穴を掘り始めた。深さは4~5m、幅は約20m
と大きい。
午前7時半過ぎ、ショベルカーがアームを振り下ろし、大破
した先頭車両を砕き始めた。計器が詰まっている運転席も
壊した。そして残骸を、廃棄物のように穴の中に押しやって
しまった。

証拠は飛散して見当たらずと見え透いた嘘をつく心算の
ようだが近代鉄道の事故調査でこんなことで済むはずがない
が、頭隠して尻隠さずのおとぎ話とそっくり。笑ってしまう。

そもそも近代鉄道が落雷ぐらいで停車するなど乗って
おれるか。

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中国新幹線 脱線 やっぱりなー 7月23日、2011

午後10時前温州付近で脱線した。杭州発温州行き列車が
緊急停車していたところに、北京発温州行きの後続列車が
追突した。 6両が脱線、追突車の4両のうち、3両が高架
橋下に落下、1両がぶら下がっている。

死者は32名、怪我人191名と報じられている。
先月開業した北京・上海新幹線では急停止の故障が
相次いでいた、
中国新幹線はドイツ・シーメンス、日本新幹線の技術をとり
いれたものだが、中国側は両技術を中国側が渾然一体に
したとして、中国の新技術として米国で特許を申請していた。
新幹線運行は1年繰り上げられた、開業以来様々な故障が
発生していた。

朝日新聞の論評
脱線、運行システムトラブルか 日本技術は車両のみ 

 中国の高速鉄道事故。何が起きたのか。

日本の新幹線の技術に詳しいJR関係者によると、中国の
高速鉄道で日本の技術が採用されているのは車両だけで、
信号などの運行システムは中国独自のものが使われて
いるという。

この関係者は「パンタグラフの損傷など車両自体の問題で
なければ、運行システムの不具合の可能性がある。衝突
であったとすれば、車両ではなく運行システム上のトラブル
としか考えられない」と指摘する。

日本の新幹線の場合、輸送指令室による制御に加え、
車両同士が一定の距離以上に近づかないために幾重もの
対策が講じられている。「他に考えられるとすれば、レール
など構造物の問題もありうる。中国の高速鉄道は日本や
ドイツなど多くの国の技術の寄せ集め。何が原因か解明
するのは容易ではないだろう」と話す。

国内外の鉄道に詳しい専門家によると、中国の高速鉄道
では一つの路線に異なる方式の信号システムが使われて
いる場所があるという。

この専門家は「列車同士が衝突や追突をしないため、一定
の区間にほかの列車を入れないというのが世界共通の鉄道
の安全の原則。今回の事故は、信号や制御システムに
何らかのトラブルが起きた可能性がある」と指摘。複数の
システムの制御が適切だったかどうかもポイントとみる。

Twitterで過去3回問題を指摘してきたが、やっぱりなーと
いうことになった。

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日本海軍400時間の証言 軍令部参謀の語った敗戦(1)

著者NHKスペシアル取材班、新潮社刊、2011年7月15日

太平洋戦争の本当の戦犯は誰なのか?
彼らは何のために戦争を始めたのか?

戦後日本海軍中枢のエリート約40人ガ密かに集まり
語り合っていた内容が400時間分ものテープに残されて
いた。

プロローグ 藤木達弘
NHKスペシアル「日本海軍400時間の証言」(2009年8月
放送。全3回)は放送の五年前、2004年8月にひとりの
研究者と出合ったことから始まった。責任者として私が
謝らなくてはならぬ相手は「昭和館図書情報部長、戸髙一成
氏であった。

戸髙氏は戦後生まれであるに拘わらず、子どものころから
軍関係の本や雑誌が好きでのめりこんで行った。

戸高氏のコメント。「平時はいいけど、戦時になると偉いひと
ほど責任を問われない。作戦を失敗しても責任者の責任を
問わないケースが多くなってしまう。人事も問題が多い。
戦時にも拘わらず平時と同じように行われている。
ミッドウエイ大作戦の前にも平気で大幅な人事異動をしている
んだから。戦争をするための適材適所とはとても言えない」。
旧海軍という「組織」が抱えた問題や犯した罪はおおまかに
まとめるなら、
「責任者のリーダーシップ欠如」
「身内を庇う体質」
「組織の無責任体質」

戸髙氏は出会ってから約2年後、「海軍反省会」とその録音
テープの存在を明かした。
「海軍反省会とは何なのか」
1980年から1991年まで分っているだけで131回に
わたって、ほぼ毎月海軍士官のOB組織である「水交会」で
開かれていた。メンバーの多くが太平洋戦争当時、軍令部
や海軍省に所属していたエリート軍人であった。

戸髙氏は反省会の幹事役の土肥一夫氏に頼まれ資料作成
や整理などを手伝い、そしてその肉声テープを20年以上
保管していたのである。
「自分たちが生きている間は決してその存在を表に出しては
いけない」との反省会の幹事からの申し渡しを頑なに守って
きたのである。

しかし同時に反省会の議論で話されている内容の重要性は
十分に認識し、歴史の空白を埋める資料であることを重く
受け止めていた。
公表のチャンスをずっと待ち続けていたのではないか。
メンバーがほとんど鬼籍に入った時に現われたのが、我々で
あった。戸高氏は我々とともにその責任を果たそうとしたと
思えるのである。

それにしても131回、総計400時間の議論である。しかも
参加者は当時既に70代から80代の老人たち。そこまでして
議論を続けた老人・旧海軍士官たちの「執念」とは何であった
のか。
戸髙氏は反省会のメンバーが「胸のつかえ」を晴らそうとした
のではないか、と私たちに話した。「胸のつかえ」とは何なのか。
私はそれを、旧士官たちが「空白の歴史」に対する責任を
果たそうとしたことではないかと今は考えている。

そう考えるようになったのは、反省会テープを聴き続けていた、
2007年春の取材先での出来事がきっかけだった。
この頃、私とデイレクターの右田千代、内山拓、リサーチャーの
土門稔は反省会が開かれていた「水交会」に毎日通って
いた。私たちが通っていたのは、そこに保管されていた「小柳
資料」を閲覧するためだった。
「小柳資料」は1956年から61年にかけて、小柳富次もと中将
が、海軍大臣や軍令部総長、軍務局長など、旧海軍の最高
指導者たちから聞き取りを行いまとめたものである。

ただその当時小柳資料は一般に公開されていなかったため
管理責任者にその閲覧とコピーを願い出た。資料管理の責任者
である古賀雄二郎はとりあえずの閲覧を認めてくれたものの
「皆さん、資料をこの場所で一度読み、それから番組の構想を
練ったらいかがでしょう。複写についてはそれから相談しましょう」
と言う条件を提示した。

この条件はのちにとても大きな収穫となって、私たちに返ってくる
ことになった。ともかく読まなければ先に進めないとなると。この
作業がやがて海軍士官たちの「胸のつかえ」を知ることにつな
がってゆくのである。
「小柳資料」はやはり1級資料であり、番組でも取り上げる重要な
新事実やおおくの参考情報を得ることができた。
しかし資料を読んで、私が最も重要だと感じたのは、逆に歴史的
に重要なおおくの事実を当事者たちが「述べていない」、「遺して
いない」と言う点だった。
小柳資料が作成されたのは戦後10年以上が既に過ぎていた頃
である。それだけの時間を経過しても、軍の指導者たちはなお
多くのこと、(こちらが知りたいこと)を語っていないし、遺して
いなかった。

反省会では、この小柳資料で「語られていなかったこと」、「遺され
ていなかったこと」が数多く議論されていた。
それは、自分たちが知る本当の事実が伝えられていない
「それはどうしても遺したい」という旧海軍士官の思い。そして
「空白の歴史」をすこしでも埋めておこう」という「責任」ではなかった
のか。

「命じられた側でなく「命じた側」に迫るという番組。
反省会の議論で我々がとりあげるべきだと考えたテーマは、
大日本帝国海軍というこの組織が抱えた問題は、現代日本の
官僚組織、企業でも起きているのではないか、というものだった。
「組織優先で、個人を軽視する」
「失敗した時の責任の所在の曖昧さ」
「流れに身を任せた結果生まれるやましき沈黙」
などの教訓である。

確かに反省会の旧海軍士官たちは、おおくの重要な歴史的事実
をじぶんたちの「責任」において遺した。議論では率直に語り、
先輩たちなども厳しく批判している。
私が注目したのは反省会が開かれた時期だった。
反省会メンバーの多くは「小柳資料」でとりあげられている。
旧海軍の最高幹部たちの直属の部下であった。
反省会が始まった昭和50年代と言うのはかっての上司たちの
多くが既に亡くなって初めて批判を始めたとは言えないだろうか。

私はもうひとりのプロデューサー高山仁と議論を重ね、取材デスク
の小貫武を代表として出演させその決意(反省会で話されている
海軍の失敗を決して過去のこととして語らず、現代への教訓を
さがす。その際、そのことを自分たちの問題として語る)を伝える
ことにした。この番組は過去のことを伝える「歴史番組」でなく
すべてを現代の問題として伝える「報道番組」であるということで
あった。

放送後若い視聴者を中心に大きな反響を呼び、その多くが自分
たちの問題と重ね合わせて視聴してくださっていることが分った。
番組は多くの賞を受賞した。右田千代は放送ウーマン賞を受賞
した。
番組について作家の佐野真一氏は「日本海軍の病理というだけ
でなく、いまの日本に生きる私たちの病理でもある。視聴者に
消費されるために作られたしか思えないテレビ番組が横行する
なかで、圧倒的な存在感で底光りしている」と述べてくださった。

今回の書籍化にかんしては分担して執筆を行った。われわれが
番組で伝えたかったことは何か、十二分に伝わる内容になった
と自負している。
原稿の最後のチェックを行っていた2011年3月11日に東日本
大震災が起きた。

軍令部の士官の多くが、
「太平洋戦争には反対だった」
「戦争をやればかならず負けると考えていた」などと述べている。
日本人だけで300万人、アジアなど諸外国を含めるとさらに
膨大な犠牲者を生むことになる開戦へのながれの中で、決定的
な役割を果たした軍令部の士官たちが、そのことをどこか「他人
事」として語り、開戦の責任も曖昧になっていったと、私には感じ
られるのだ。

尚、開戦時軍令部1部1課作戦担当、課長 佐薙 毅海軍大佐
(戦後は自衛隊空幕長となる)は、れいの三菱の佐薙の父親だ。

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東京電力の経営(24)  政府・東電、改訂工程表 7月19日

福島第Ⅰ原発の事故終息に向けた政府と東電は事故終息
改訂版工程表を発表し、10月から来年1月までに避難区域
の解除を検討する前提条件として、原子炉から放出される
放射性物質量の目安と、原子炉の冷温停止の定義を盛り
込んだ。その後3年間で廃炉に向けた準備をするという。

7月までの第1段階で目標にしてきた「原子炉の安定的な
冷却」は達成できたとした。理由は高濃度の放射性汚染水を
原子炉の冷却区に使う循環注水冷却システムが稼動
したことを挙げた。
水素爆発も、1-3号機では格納容器に窒素を注入して、
水素を追い出し、再爆発の恐れは減らせたとした。

外部への放射性物質の放出量は、炉心の冷却がすすんで、
事故直後に比べて200万分の1(6月末時点)に減少して
いるとした。
これまでの放出分を除き、現時点で外部にでている放射性
物質による被爆線量は年間1.7msVt(計算値)になって
いるとした。

原子力圧力容器の底部は100度以下で原子炉からの放射
性物質の放出による敷地構内の被爆線量が年間1msVT
以下になることだとした。

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みんなの歌 50年 NHK

放送開始50年を迎えた“みんなのうた」。いつの時代も子ども
たちと向き合い歌を届けてきた。みんなのうたが見つめた50
年を通して、子どもたちの今、未来について考える。7月12日

【出演】音楽プロデューサー…つんく【キャスター】国谷裕子
みんなの歌は1961年に開始。初めての高度成長時代に入り
いろいろな音楽が花開いた。子どもの歌は在来文部省唱歌が
主体であったが、子どものうたにも新時代がやってきた。
従来暗い歌が多かったがあかるい、きれいな歌声に変わった。
NHKではいち早くこの動きを捉えて開始した。

○北風小僧の寒太郎
○おお牧場は緑
○山口さんちのつとむくん
○誰もしらない○チムチムチェリー 手のひらを太陽に
小学生が作曲、歌う曲も現われた、
○1984メトロポリタン・美術館 ○1985鮨食いねー
○19901円玉の旅がらす

NHKのサイトにはクイズみんなの歌があり年齢を入れて検索
すると5問の3選択肢問題あり、やってみたら5問とも正解
だった。このサイトでは登録すれば1曲ずつ指定して全曲
聴くことができる。

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中島三郎助 ペリー来航 海軍創設 函館戦争 ラスト・サムライ

7月6日NHK総合、午後10時~10時45

中島三郎助は浦賀藩の1与力であった。15歳で出仕。
幕末とはペリー来航から戊辰戦争、函館戦争終結までを
いう。
浦賀奉行所は海の関所であり与力は地方採用の中間
管理職。当時の浦賀奉行所では武器の開発製造、艦船の
建造、船員の訓練もおこなっていた。

米モリソン号が浦賀に通商を求めて浦賀にやって来た。
1852年嘉永五年のことである。
中島はモリソン号に大砲を撃ったが勿論届かなかった。
当地は外国船打ち払い令が改正されされ、水や薪炭の
供給はしても良いことになっていた。中島は通訳をつれ、
横断幕にフランス語で書かれた、貿易を望みものは長崎
奉行所に行けとの文章を見せた。又、I can speakEnglish
とも叫んだ。
それに対しモリソン側は上級役人以外とは話をしないと
いうことで、中島は一策を案じ「自分は副奉行だ」とはったり
をかけ乗船することになった。先方から食事をサービスされ、
日本側も芸をひろうした。

通商を進めるために来たとの書状を浦賀奉行から江戸の
上層部にとどけることでモリソン号は了解退去した。
かくして中島は黒船に始めて乗船し交渉を行った、人物に
なった。

1853年嘉永6年米東洋艦隊の4隻が浦賀に現われた。
外国船に退去命令をだす応接係になっていた、中島は他
与力2人と共に早舟をし立て、旗艦サスケハナ号に
向かった。通訳も2人乗せていた。この頃に通訳もかなり
存在していたのも驚きだ。
例のフランス語の貿易を望むなら長崎の奉行所に
行けとの横断幕を見せたが、ペリーの副官コンテイ大尉が
地位の高い人以外のひとは話はできないというので、例の
手で自分は副奉行のNo.2だと言い、答えは明日まで
待ってくれと告げた。

庶民のほうは黒船になれ、黒船の模型や絵やみやげ物を
売るやからがあらわれた。

7日後、又船に行き、国書は久里浜で受け取ると伝えた。
米側は中島らに接待をおこなった。

一方浦賀奉行所では国産初の軍艦を建造し、3本柱の
36mの船、大砲10門を搭載する軍艦を完成させた。
鳳凰丸だ。薩摩藩は昇平丸をつくり幕府に献上した。中島
が艦長になり桂小五郎や、幕府高官もこれに乗った。
中島は洋式船の専門家として知られるようになった。
安政五年長崎の海軍伝習所で訓練を受けるよう指示された。

浦賀奉行所ではペリー来航以前から西洋砲術を取り入れて
きた。それだけにオランダ語でも概ね検討がつくのだ。洋式
造船と操船の実績もあった。
伝習所には、浦賀奉行与力9人、20人の水夫が参加した。
リーダーは佐々倉桐太郎、中島三郎助だった。
勝麟太郎は生徒監の一人であったが、砲術者、オランダ語
堪能というこであったが、いずれも未熟で又コンパス操船が
分らず化けの皮がはがれ、浦賀組みから批判され、伝習所
内で対立抗争がおこり、オランダ人教官の収拾があった。

のちに築地の軍艦教練所の教員になった。喘息のため41歳
で辞職した。

咸臨丸の米国行きのさいは中島は外された。伝習所での
対立があったためと言われる。尚、咸臨丸の操船は奉行所
与力、水夫、しあく諸島出身水夫によりなされた。
桂小五郎から造船与力にならぬかとの勧誘もうけた。
のちに北海道函館市に住んだ。
戊辰戦争では幕府に恩を受けているとして、息子恒太郎、
英次郎とともに戦った。幕府艦隊に参加。オランダから購入
した開陽丸は世界に3艦しかないという最大の戦艦だった。
江差地区に1大根拠地を作るべ出動したが、暴風雨のため、
海岸に押し寄せられ、大砲を全部打ってその反動で岸を
離れようとしたがならず、沈没した。

中島親子は5稜郭の最後の砦、千代ケ岡陣地に善戦、
戦死した。ついで五稜郭も開城,降伏した、1869年5月
戊辰戦争終結、幕末の終り。黒船が来てから16年。
1853年~1869年
函館市には中島親子が住んでいた中島町が残り、顕彰碑
が建っている。

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東京電力の経営(23) 海外の輸入規制による日本側の被害

政府の原子力損害賠償紛争審査会は7月1日の会合で、
損害賠償の対象に、海外での食品の輸入規制や、外国人
観光客の減少による風評被害も含める方針を確認した。
どこまで賠償すべきか今後詰める。
外にも幅広い被害を賠償対象とする方針で、7月末までに
まとめる中間指針に盛り込む。

2次指針では、農産物の風評被害を幅広く認定。観光業に
ついては福島県に営業拠点を持つ業者に限って賠償の対象
にした。

今回の事故を受け、各国政府は日本の食品などの輸入停止
や、放射能汚染の検査要求などの規制を実施、輸出業者
には損害や費用負担が生じている。
外国人観光客の減少も広範囲にわたっている。

被爆に対する不安など、心的外傷後ストレス障害(PTSD)
などの精神的疾患を賠償を対象とすべきか、といった課題
が挙がっている。

住民や企業でなく、自治体が被った損害の賠償も課題の
一つ。茨城県高萩市は6月16日、水道水や大気中の放射
性物質の測定費や人件費として、約200万円を東電に
請求した。

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横須賀の休日 鎌倉女学院オーケストラの第6回コンサート

予ねて予定されていた鎌倉芸術劇場でのコンサートが東北
大震災のため延期になっていたが、姪のA子さんから、7月
1日に開催になったとの知らせがあり、A子さんと12時半に
大船駅で待ち合わせのこととなった。(高2の娘さん在学、
オーケストラ・メンバではないが小1からピアノを弾く)。

待ち合わせは首尾よく成功したが、A子さんとは、これまで
話をする機会が少なかったので、熱い陽射しになりかけたが、
歩きながら話をし鎌倉芸術館に向かった。
A子さんは黒い日傘、自分は麦わらの小さな帽子。

芸術館に着いて一休みしている時、何となく様子がおかしい
と気づいたA子さんが学院の案内書を開いたところ、会場は
横須賀芸術劇場と書いてあるではないか。
コンサートが延期になった時、会場が変わっていたのだ。

さてここで思いついたのは、「ローマの休日」で新聞記者が
王女を引き回して移動した情景だ。タクシーと電車を使って
迅速に動くことを考えた。A子さんは横須賀芸術劇場は
初めてなのだが、自分にとっては勝手しったる場所だ。

コンサートには途中参加になるが、横須賀に行こうと二人
とも同時に決意した。   劇場から大船駅までタクシー。
大船から逗子まで横須賀線、逗子駅から京急新逗子まで
タクシー。南口から乗ると階段がなく、ホームに出れることを
運転手さんが教えてくれた。自分は初めて知った。
金沢八景で普通に乗り換え、汐入で下車、エレベータで降り、
駅出口からすぐのエスカレーターで横須賀芸術劇場に入る。

当日のプログラムは
○こうもり序曲 ○トリッチ・トラッチ・ポルカ ○鍛冶屋の
ポルカ ○雷鳴と電光 と進むがこの時到着、演奏が終る
のを待ってホールに入り、指定席に座る。
次いで○南国のバラ やさしく、清らかで力強い。
15分の休憩後
○ドヴォルザーク 交響曲第8番
この曲は彼の第2の故郷となったボヘミアのヴィソカー村で
作られた。実はこのヴィソカ村、ボヘミアの首都プラハから
汽車で1時間以上、そこから馬車で8キロという、美しい自然
だけが取り柄のド田舎だった由。しかし鉄道マニアで都会と
社交が苦手の彼にとっては、この村は理想の地であり、
ドヴォルザークはこの大曲を2ヶ月ちょっとで書上げた。
この作品は「ボヘミアの自然を」最も巧みに描いた交響曲」と
言われている。

自分はバスでハンガリーからプラハに向かう途中ボヘミアの
風景に接し、描いておきたいと思ったことがある。

このオーケストラは中学生と高校生からなっている。
1st Violin 11名、 2nd Violin 12名、 Viola 9名、Cello 7名、
Contrabass 4名、 Harp 2名、Flute 13名、Clarlinet 12名、
Oboe 3名、Fagotto 4名、Trumpet 9名、Trombone 5名、
Horn 4名、Percussion 5名
指揮者 上田耕平先生

アンコール曲は流れ星・・ハウルの動く城の挿入曲、
パイレーツ・オブ・カリビアンのメドレー曲、いずれもA子さん
より教わる。アンコールというより秋の演奏会での曲を、自信
を持たせるための舞台での演奏の意味合いがあるとのA子
さんの解説あり。

演奏終了後劇場内のカフエ、「ふるさと」でケーキとコーヒー
をとる。空いている。おばさんとおじさんの店主がいる昔風
喫茶店の感じ。

ローマの休日に匹敵する慌しく楽しい1日だった。

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東京電力の経営(22) 放射線低線量 子の影響は

低い線量の放射線は胎児や子供にどんな影響があるのかが、
内閣府の食品安全委員会で焦点になりつつある。
現状では、年間被爆量の上限や食品中の放射性物質の
基準値は大人もこどもも同じである。
「年齢別に食品の影響を評価すべきだ」との意見もでた。

食品安全委員会は厚生労働省の諮問を受けて、食品からの
被爆による健康への影響を検討しており、外部からの被爆も
含めて調べている。

子どもは成長期で細胞分裂が活発なため、放射線で細胞が
傷つく可能性が大人より高い。
子どもも含めて、100ミリ・シーベルト(mSv)より少ない量の
場合は、被爆と発ガンのはっきりした関係は認められていない。

30日の作業部会では、放射線の胎児や子どもへの影響に
ついて、これまでに明らかになっているデータを整理した。
特に100mSvより低い線量では、短時間に放射線を浴びる
急性被爆の場合、「低線量でも影響がでる」とする論文も
複数あり、評価にどの程度影響するのか慎重に検討していく。

具体的には「胎児期に医療上のX線を10mSv浴びた時、
15才までの小児がんが1700人に1人発生する」とした
國際放射線防護委員会(ICRP)の報告書や、「不確実では
あるが10mSvを一度に浴びた胎児で、小児がんのリスクを
増加させる」とした調査研究などが報告された。

現状の食品の暫定規準は子どもへの影響を考慮している。
ただ委員からは「放射線への感受性が年齢で違うことを踏まえ
年齢別に3グループぐらいにわけて、別々に評価したほうが
いいのではないか」との意見も出た。

避難区域の目安となる年間被爆量20mSvは大人も子どもも
同じ。妊婦や子どもの基準値があるわけでなく、この同一
基準を不安視する声は少なくない。

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東京電力の経営(21) 6県JA請求155億円(お茶被害含む)

農畜産藻のへの被害について、福島、茨城など6県のJA
グループが、30日、出荷制限などに伴う農家の3~5月分の
被害額として、計約155億円を東電に追加請求した。
お茶の被害が出た神奈川のJAグループが初めて請求に
加わった。神奈川は1番茶の生茶について、農家の損害約
1億4千万円を請求した。

今回は3回目。請求額累計は約290億円。

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