徳川慶勝なくして明治維新はならず
8月23日(日)BS3で尾張藩主徳川慶勝(ヨシカツ)の
足跡を見る。慶勝は御三家(水戸、尾張、紀伊)筆頭で
ありながら倒幕を決断、明治維新の成立に多大の貢献
を果たした。
徳川家康の次男松平秀康を家祖とする一門全体を越前
松平家という。幕府に於いて御家門筆頭の扱いを受けて
いた。一門の藩は福井藩、津山藩、尾張藩、その支藩
美濃国高須藩。
高須藩主・松平義建の次男の慶勝は14代尾張藩主に
なった。兄弟には一ツ橋徳川家11代となった徳川茂徳、
会津藩主となった松平容保、桑名藩主となった松平定敬
がおり、利発な高須4兄弟と呼ばれた。容保、定敬は
朝敵になったが、慶勝は茂徳とともに助命に奔走、この
4兄弟は再会している。
将軍家には後継ぎがないときは、後嗣を出す資格がある
御三卿というシステムがあった。。家格は徳川御三家に
次ぐ。
一橋家は8代将軍吉宗の4男を家祖とし、屋敷は現在の
千代田区大手町1-4付近にあった。一橋家は御三卿の
中で、唯一将軍を出した。11代将軍家斎と15代慶喜
である。但し慶喜は水戸徳川家からの養子である。
阿片戦争は1840-1842年だった。慶勝は1849年
嘉永2年尾張藩主になった。
薩摩藩主の島津斉昭から書信を受け取る。日本を西欧に
蹂躙されぬ国にせばなぬ。アメリカの軍艦が日本に行き
通商を求めようとしているとの情報を知らせてきた。
藩の防衛力を高めるため藩の改革をすることにした。
1.財政の建て直し。無駄使いの廃止、自分の手元金の
減額
2.知多半島に内海砲台を建設。 軍事強化資料作成、
軍事演習のチェック、兵員1700人の名簿作成、鉄砲隊
師範16名の指名 3.将軍は朝廷から征夷大将軍の位
を貰っているのだから夷を追い払わねばならぬ。
4.外国に侮られぬ国を造らねばならぬ。
1853年嘉永五年米ペリー艦隊来航。幕府に開国は時期
御尚早,艦船、大砲等軍事力充実が先との建白書を出した。
だが翌年の和親条約は認めた。
安政五年、1858年、通商条約が結ばれた。井伊直弼
を憎んだ。
井伊と直接談判のため江戸城に行ったが、井伊は姿を
出さなかった。このあと慶勝は隠居謹慎を命ぜられ、藩主を
免ぜられた。35歳だった。
以後安政の大獄が始まる。慶勝は江戸新宿の下屋敷に
幽閉される。
慶勝は世の先見性にかけてはNo.1か2と黒鉄ヒロシは言う。
慶勝を高く評価するこの漫画家は慶勝の生涯を作品に取り
上げている。「葵の紋が崩れる最初の人物」という。
慶勝は若くして西欧の最新テクノロジーである写真に傾倒
した。下屋敷が公開されているが、多数の西洋文物、建物
構造配置が見られる。公文書も残し、当時の世情の写真も
多数残した。
37歳の自分の写真を残した。薬品の調合、焼酎から
アルコール抽出、現像、焼付けも全部自分でこなした。
西洋の科学水準の高さに驚き、軍備の面でも対抗できない
ことをよく認識していた。
1860年3月井伊暗殺。幕府の権威失墜した。
慶勝は公武合体を考える。朝廷側が信頼した幕府側の人物
は慶勝だった。孝明天皇から太刀を貰っている。
謹慎は解かれた。将軍補翼に任命され、また幼い尾張藩主
の後見役になった。
この頃3人の弟、茂徳、容保、定敬たちの写真を撮っている。
長州藩が公武合体に関心を持ち始めた。桑名藩、薩摩藩と
共に京都所司代に任命された。1964年元治元年に7人が
殺された池田屋事件が起こる。この報復のため長州藩は
禁門の変を起した。2万の兵が迎え撃った。2万8千戸の
家屋が焼失した。この焼失に怒った孝明天皇は幕府に
長州征伐の勅命をだした。この征討総督に慶勝(ヨシカツ)が
指名されたが、幕府政府を信頼していなかった慶勝は、
全権委任の条件が認められるまでは受けなかった。
15万人の兵を束ね、知恩院を本拠にし次いで大阪城に
進んだ。3週間滞在後広島に滞在。写真の道具1式持参して
いた。
広島では水面下で薩摩の西郷に会い和平交渉を図っていた。
長州は4カ国艦隊の攻撃をうけ、大敗大打撃をうけていた。
長州に力なく降伏。責任者を切腹させた。
しかし慶勝は日本人どうし戦うのはよくないと思っていた。
西欧に対し強い日本を作らねばならぬとの信念を持っていた。
1866年慶応2年12月、強力な公武合体論者死亡。長州と
薩摩同盟。孝明天皇死亡とともに幕府は滅亡に向かう。
翌年慶喜、大政奉還。慶喜は徳川は日本最大の藩として
生き残りを考えていた。しかし慶喜は新政府のメンバーから
漏れ、慶喜の領土没収が明らかになり、幕府の過激派が
慶応4年京都に進撃したが、新兵器を装備した長州側に
鳥羽伏見の戦いで破れた。長州側5千、幕府側1万5千。
岩倉具視は慶勝に「朝廷か幕府かどちらにつくのか。
弟たちの縁で朝廷と決戦をするのか」と糺してきた。
慶勝は戦火を起してはならぬとの信念であった。尾張藩
保守派の追放を行い、東海道、中仙道を守る徳川親藩、
譜代すべてに勤皇の血判を押させた。また新政府側に
つくよう説得をし750通の誓約書をとった。
当然幕府側に立つと思われた岡崎藩もこれに入っている。
説得は徹底的で400の旗本領や寺社にもおよんだ。
かくして朝廷、日本を守る方に舵を切った。
かくて官軍は血を流すことなく江戸に向かえた。1868年
開城、先鋒を率いて江戸を受け取ったのは尾張藩主で
あった。
しかし、仙台、米沢、新潟に幕府側同盟が起きた。会津藩
では3千500人の死者がでた。会津城の白壁の落ちた
破壊された様子を撮った写真が慶勝の死後発見された。
慶勝は日本のとっての大恩人である。殿様が活躍する
のは困る、面白くないとして歴史から省かれた。
新政府の財政難を助けるため、名古屋城の金のしゃちほこ
2匹を提供したが、現実は見せものとなり、新政府の威力を
宣伝する道具となった。この皮肉な始末を小唄にして、踊り
つがれているものが花柳界にある。
北海道八雲町は酪農地帯だが、これは尾張藩の武士の
ために、慶勝が8万円、現在価値50億円かけて設営した
ものである。八雲町では毎年記念祭をおこなっている。
慶勝は晩年隅田川河畔の庶民と同じ家に住み、一市民
として暮らした。


Comments
はじめまして、深山あかねです。
昨日私もテレビを見ましたが、間で家事が入り見逃した部分があり、調べていて貴ブログに行き当たりました。
ていないな解説で、よくわかりました。慶勝が坂本竜馬などのように知られていないのが残念だすね。
Posted by: 深山あかね | 2011.12.23 at 08:32 AM
黒鉄さんら解説のNHK番組再放送を観ました。涙が出るほどの感動的な内容。私は鹿児島出身で、西郷ドンの思想的影響を受けてきたものです。年を重ねるにつれ(現在60歳)明治維新が、多くの優れた人物達がそれぞれの立場で活躍したことで可能となったことを知るようになりました。そして今、徳川義勝というこの大人物を知りました。薩摩の島津斉彬に勝るとも劣らぬ人が存在していたわけですね。どおりで、島津久光率いる薩摩の兵がスムーズに江戸まで行き来できたわけです。また、わずかな数の官軍が、スムーズに江戸に倒達できたわけです。今まで不思義に思っていましたが、やっと合点が行きました。
Posted by: 本下哲三(写真集:愛郷の著者)) | 2012.03.21 at 11:39 AM
慶勝さんの名前を間違えていましたので追申訂正いたします。
それにしても、この方が戦場まで当時のかさばる写真機材を持っていったという写真家魂には驚きました。同じ写真家として放映の写真を手を休めて食い入るように拝見させていただきました。
歴史というのは、表から裏から横から斜めから見てはじめて真相が見えてくるものだとつくづく感じさせられます。
Posted by: 本下哲三(写真集:愛郷の著者)) | 2012.03.21 at 11:53 AM