日本海軍の礎を築いた男 矢田堀景蔵(1)
鎌倉島森書店より、植松三十里著「群青」文芸春秋、
08年5月15日刊、1500円(新田次郎文学賞授賞)が
取り寄せられたとの連絡で早速取りに行く。
幕府崩壊時勝海舟は陸軍総裁、海軍総裁は矢田堀景蔵、
海軍副総裁は榎本武揚だった。
幕府の学問所である湯島昌平坂の昌平黌には年に一度
素読吟味と言う入学試験がある。幕臣子弟の多くは入学
を目指して受験勉強に励む。無事試験に」通って入学
するのは、たいてい13か14才だ。
荒井敏(養子に入り矢田堀景蔵となる)は12才、
木村勘助(のちの木村摂津守喜穀)は11才の年少だった。
入学早々気が合い二人は親友になった。
(昌平黌の跡は後の東京大学)
汐留の海辺にある浜御殿は将軍家の別邸だ。その庭園
を管理しているのが浜御殿奉行である木村の父だった。
奉行の息子でも庭園内に足を踏み入れることはできない。
だが敷地の東側、築地川沿いには御船手組の長屋が
立ち並び、生活の匂いがする。船手組は幕府の持ち舟の
管理をしている。敏は勘助とともにここへよく遊びに行った。
教授方の岩瀬忠震が言った。「ここは誰かに何かを
教えてもらう場所ではない。昌平黌は儒学の中でも
朱子学を基本にした学問所だが知識の詰め込みの
場ではない。ここは武士としての生きかたを学ぶ場だ。
それも教えてもらうのではなく、自分でもっとも武士らしい
生きかたを考えて、身につけろ。それがたとえ人と違って
いても、かまわない。自分がもっとも武士らしい生きかた
だと、確信がもてるのならそれでよい」
荒井敏は15才で矢田堀という旗本家に婿養子として
迎えられ、名も矢田堀景蔵となった。
矢田堀は20歳の時、学問御試めしという卒業試験に
合格した。学長である林大学頭から南書庫で資料を
読めと命じられた。但し読んだ内容は口外してはならぬ
と指示された。
一番奥の本棚に「通航一覧」という題名のついた、書き
文字の書類を綴じた文書集があった。それは幕府の
対外交渉や海防関係の書類だった。種子島の鉄砲伝来
から始まり、日本に来航した外国船の記録、漂流民
からの聞き書きなどが、年代ごとに纏められていた。
奥付けを見て、編集者が林大学頭なることを知った。
もっと棚を調べると清国から輸入された漢書もあった。
「聖武記」は林則徐を描いた偉人伝だった。アヘン戦争の
口火をきった人物だ。阿片戦争は広州という港町で起き、
原因を作ったの英国だった。林則徐が断固とした態度に
でて阿片を廃棄すると、英国は大艦隊を差し向けて、
戦争を仕掛けた。英側は風がなくても動く蒸気船を自在
に乗り回し、着弾とともに爆発を起す炸裂弾を撃った。
清国は敗戦を認め、押し付けられた南京条約に調印し、
莫大な賠償金が課せられ、香港を割譲した。さらに上海
など5港が貿易港として開港され、阿片の密輸は拡大
したという。
いままで簡単に概要を聞いていた阿片戦争と大違い
だった。矢田堀には蒸気船と炸裂弾というものが想像
できなかった。日本の大砲の弾は、ただの丸い鉄球で、
命中しても爆発などしない。
「聖武記」の奥づけをみると、長崎奉行所の検定印が
押してある。輸入書物については、書物掛が、キリスト教
関係などの禁書がないことを確認してから、検定印を押し
江戸や上方の書店に卸す。奉行所では中国船が阿片
戦争関係の書物をもたらすたびに、書店に卸さず、ここに
直接送ってきたに違いなかった。
ほかの棚には「発禁」の朱印が押されている本があった。
どれも日本国内で刷られたもので、阿片戦争を題材に
したり、外国情報を紹介した本だった。発禁にしたのは
昌平黌だ。江戸で刷られる書籍の出版検定も行って
いる。
矢田堀はオランダ風説書と大唐風説書の写しも読んだ。
オランダ船と中国船の船長が長崎に来航するたびに、
幕府に提出する決まりになっている。風説書の末尾には
老中一同の署名と花押がならんでいる。
矢田堀は林と昌平黌に裏の顔があるのだと気づいた。
二人が卒業する少し前に6才下の榎本釜次郎(のち武揚)
が入学した。あのころの開明派の幕臣はほとんどが
昌平黌の出身だった。
朝鮮通信使が来なくなった頃から西洋の異国船が日本
沿岸に出没するようになった。幕府には外国人に関わる
役所がない。そこで通信使応接の実績から、外国関係の
諸問題はすべて林家と昌平黌に託されたのだ。
当初幕府は異国船に対し「打ち払い令」で対処してきたが、
天保年間に阿片戦争の情報が入ると、諸外国を刺激
しないようにと、「打払い令」から「薪水令」に改めた。
矢田堀は教授の岩瀬と議論した。「先生は外国が軍艦を
日本に送り、条約の締結を迫ると言われたが、どうすべき
と考えですか」と聞いた時、岩瀬は「当然条約を結ぶしか
ない。いくさになれば、とうてい勝ち目はない。西洋人は
残酷だ。金のためとなれば、多くの中国人を平気で阿片
漬けにする。遅かれ早かれ条約を結ぶことになる。だが
結んだ後が大事だ。相手がどんなに身勝手でも、
付合っていかねばならんのが外交というものだ。
だが条約が結ばれれば函館か長崎あたりに、異国船の
入港を限定できる。幕府にも諸藩にもけっして悪い話
ではない。
条約締結後は外交や海防をになう人材が必要になる。
その人材は昌平黌から出さねばなるまい」。
日本の幕府はそれほど無能ではなく、西欧列強が次々と
東南アジアを植民地にしているといった、世界情勢をかなり
多く取り入れていた。ペリー来航については、嘉永3年に
入手していた。実際にやってくる3年前にすでに情報が
もたらされていた。日本と交際しているのはオランダと
知っているアメリカは「日本に行って交渉したい、仲介して
くれないか」とオランダに頼んだが、オランダは断った。
長崎のオランダ商館長から長崎奉行を介して、「アメリカ
艦隊がいずれ日本に行く」と幕府に伝わった。ペリー提督
の名が出たのは、嘉永五年だった。さらに来航のひと月前
嘉永6年(1853)五月、ペリー艦隊4隻が琉球に寄り、
小笠原を経由して日本に向かうという情報がもたらされた。
一方オランダは「我々に門戸を開いているだけでなく、
本格的な貿易条約を結んでは」と持ちかけたが、幕府は
つれなく断った。
岩瀬の予測通り、アメリカからペリー艦隊が、嘉永6年6月
3日(太陽暦7月8日、1853年)浦賀沖に来航し、
安政元年、3月3日1854年(嘉永7年)幕府は日米和親
条約を結んだ。
ぺりー来航を機に元号が安政にかわった。さらに、岩瀬、
水野、永井はじめ、昌平黌の教授方や優秀な卒業生たちが
次々と海防や外交関係に抜擢された。
幕府はペリー艦隊の圧倒的な軍事力を目の当りにして、
同じような軍備を持たなければ、対等な外交はありえないと
気づいた。そのため急いでオランダに蒸気軍艦を2隻発注
した。さらにそれを操船する人材育成のために、オランダ人
に洋式海軍術の伝授を請い、長崎に海軍伝習所を開く
ことにした。
軍艦の発注から伝習生の選抜まで、伝習所の開校準備
にあたってきたのが、長崎奉行の水野と海防目付けの永井
の二人だった。矢田堀の生徒監就任もこの二人の推挙だ。
幕府は2隻の軍艦を支配下においていた。1隻は昌平丸
で、ペリー来航後、薩摩藩が建造した洋船だが、蒸気機関
は備えておらず帆船だ。オランダから将軍家に献上された
のがスンピン号という外輪の蒸気船だった。献上されてから
観光丸と名を変えた。
長崎は世界中の港を渡り歩くオランダ人でも絶賛するという、
世界有数の美しい港だ。昌平丸という3本帆柱の洋式帆船
が長崎に入港する。矢田堀は舳先にたって目先の景色を
眺めていた。矢田堀以下70名もの幕臣と水夫たちを乗せて
江戸から48日かかって10月20日到着した。
安政2年(1885年)9月1日江戸を出発していた。
長崎奉行所でも聡出で出迎えた。伝習所の教官となる
オランダ人たちも笑顔で手を振っていた。
長崎奉行の水野忠徳と海防目付けの永井尚志も姿を
見せた。この二人は矢田堀には昌平黌の先輩にあたる。
二人とも岩瀬忠震と同年代であった。永井は向後、海軍
伝習所の総督をつとめ、矢田堀は生徒監を命じられている。
生徒監とは学生長のことだ。矢田堀は24歳で妻を亡くして
から3年、すでに27歳になっていた。
昨年幕府は日米和親条約を結んだ。
伝習所は長崎奉行所西役所の一部が充てられていた。
西役所は岬の突端に位置し、オランダ貿易と中国貿易を
取り扱う役所だった。永井の屋敷の母屋が座学の教室に
なり、周囲の御長屋が伝習生の宿舎となった。
観光丸を練習艦として、オランダ人から洋式海軍術を習う。
荒井郁之介は矢田堀の甥だ。榎本釜次郎とは幼馴染で、
屋敷も近所だし、学問所でも仲がよかった。郁之助は
すでに幕府の役を得ている。一方、榎本は旗本の次男坊
で、学問所を出ても、やることがなかった。そのため榎本は
矢田堀の長崎赴任を聞きつけると、一緒に行きたいと言い
出した。
外にも長崎行きを希望する有望な若者が何人もいた。
矢田堀は彼らを伝習生に推挙したが、永井は伝習生の
身分を、与力や同心、手代などの御目見得以下の幕臣
に限ってしまっていた。
生徒監は学生長であり艦長候補である。艦長は旗本、
部下の士官は与力同心という具合に身分差がなければ、
先々命令が下しにくかろうというのが、永井の思惑だった。
矢田堀は榎本たちの道を開いてやりたくて、結局、9人
もの従者を同行することになったのだ。
江戸から長崎にくる途中で、10月11日、下関に寄航した
とき、嫌な噂を聞いた。江戸でとてつもない大地震が
起きて、下町一帯に甚大な被害をもたらしたというのだ。
安政2年10月2日安政大地震。
手紙が来た。矢田堀の箱崎の家は崩壊、長子の又市郎
と義母が圧死したと書かれていた。矢田堀は甲府から
戻ってまもなくお屋佐を後妻に迎えた。女の子が生まれて
いた。お三保と命名された。
失意を隠しつつ、矢田堀は伝習の準備に邁進した。
やがて伝習が始まると、矢田堀は呆然とした。講義が
理解できないのだ。オランダ語の授業をはじめ、いくつもの
座学があった。蒸気機関の仕組みや、風向きと帆の方向
の力学、世界地理、国際法などの講義だ。
教官長はペルス・ライケンといい、金髪碧眼の海軍大尉
だった。そのほか7人のオランダ海軍士官が各科目を指導
した。すべての授業にオランダ通詞がついた。しかし通詞
の口から出てくる言葉は、単語はオランダ語のままで、
間に「てにをは」をつけただけだった。
蒸気機関の部品も、複雑な帆の操作方法も、今まで日本
にないものだけに、単語自体がないのだ。座学だけでなく
実習でも、話が複雑になると、とたんに訳がお粗末になる。


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