PHP新書「坂井三郎と零戦」三野正洋著、2008年7月
29日刊を読む。
坂井が著した「坂井三郎空戦記録」、「大空のサムライ」
は「SAMURAI」として英語、さらにフランス語、スペイン語、
フインランド語で出版され、その部数は100万部を
超えている。とくに英語版はアメリカ以外に、イギリス、
カナダ、オーストラリア、フイリピンで売られたから、合計
では200万部に達したと言われる。
零戦の制式名称は、三菱零式艦上戦闘機であり、形式
としてはA6Mである。このあとに改良のタイプ名が続き、
21型ならA6M2となる。 Aは戦闘機(艦上戦闘機)、Mは
開発が三菱、6はこの条件のもとでの6番目と言う意味。
その名は略して零戦であるが、正式な読み方としては
レイセンが正しい。しかし当時も今も人々は「ゼロ戦」と
呼んだ。
日本海軍戦闘機隊は、昭和12年の日中戦争の本格化
に伴い、中国大陸に進出し、20年の8月まで戦い
続ける。零戦の実戦登場は15年9月からである。
したがって丁度5年間となり、この間多くの操縦士が、
あるときは勝利を、ある時は敗北を経験した。
この結果多くのエースACEを生み出した。エースとは、
第一次世界大戦時から使われだした言葉で、5機以上
敵機を撃墜した戦闘機パイロットを指す。
日本の陸海軍は、もともと個人の撃墜数をきちんと記録し
それなりに評価する制度をもっていなかった。
それでも太平洋戦争が激化すると、国民の士気向上の
目的もあって、多数の敵機撃墜者として表彰するように
なった。これを授かったものが戦死した場合、2階級進級
させるのが普通である。戦死したあと昇進させても仕方が
ない気もするが、恩給などで大きな差が出てくる。
さてエースの数については、陸海軍を合わせると、少なく
とも200名を超えていたと思われる。
下記の表は5位までは本人の手記など、以後は戦史
研究家の数値。
氏名 最終の階級 撃墜数 生死 使用戦闘機
西沢広義 中尉 150以上 死 零戦
岩本徹三 中尉 202 生 96艦戦、零戦、紫電改
杉田庄一 少尉 70 死 零戦、紫電改
坂井三郎 中尉 64 生 96艦戦、零戦
奥村武雄 曹長 50 死 零戦
太田敏雄 曹長 34 死 零戦
杉野計雄 曹長 32 生 零戦
石井静夫 曹長 29 死 96艦戦、零戦
武藤金義 中尉 28 死 96艦戦、零戦、紫電改
笹井淳一 少佐 27、 54(手記) 死 零戦
ただし、撃墜数のみが優れたパイロットの基準かと
問われると、決してそうでないことが坂井の記述から
はっきりする。さらにもっとも重要なことは、坂井の手記
こそが、日本海軍戦闘機隊とそのパイロットたちの活躍
ぶりを、なににも増して生々しく、かつ生き生きと後世に
伝えていることは事実なのである。
○坂井の戦歴
多くの努力の末、霞ヶ浦の訓練部隊から巣立った坂井
たちは、昭和13年の初夏九州佐伯の基地で3ヶ月間
特訓を受ける。
これは戦闘機操縦者としての実戦に向けたものだった。
編隊飛行は勿論、空中戦、そして地上攻撃まで徹底的
に鍛えられていった。
5人の同期生とともにまず台湾の高雄に配属となる。
続いて中国南部、九江に展開していた第12航空隊に
送られた。
中国戦線ではよく整備された、十分な数の戦闘機が
用意され、若手のパイロットはベテランの指導のもと
経験を積んで行くことが可能だった。空中戦で敵機を
攻撃する場合、後方の援護も確実に実施されていた。
昭和13年10月、坂井は九江から漢口に出撃し、
初めて数機を撃墜、エースへの道を歩みだした。
その後漢口に駐留、周辺で中国軍と戦い続けた。
昭和15年夏、機種改変のため帰国、三菱96艦戦
から零戦になった。
中国大陸における坂井らの戦場は、宜昌、南昌、
海南島、成都、重慶に広がった。坂井が中国にいた
のは約2年半、この間単独でポリカルポフI15を一機、
I16を二機、ツポレフSB2中型爆撃機一機、協同で
一機を撃墜した。このころ飛行時間は千時間に達した。
昭和16年秋、坂井は上海経由で高雄に戻り、新しく
完成した台南基地に配属された。高雄の戦闘機隊は
台南航空隊となり、その戦力は戦闘機、偵察機合わせ
100機という強大なものとなる。この台南空こそ当時に
あって世界最強の名にふさわしいと思われる。そして
昭和16年12月8日、太平洋戦争が始まる。
開戦後、台南空はもっぱらフイリピンのアメリカ軍基地
を攻撃するが、相手はすべて陸軍機だった。
これらの基地は
ルソン島中部のクラーク・フイールド
" のイパ
マニラ近郊のニコラス・フイールド などである。
台湾南部から、これらの基地までの距離は800-900
キロあり、零戦でなければとうてい飛行は不可能だった。
フイリピンのアメリカ軍機の大半が破壊されたことにより、
台南空はスルー諸島のホロ基地(ボルネオ島の北東
200キロ、フイリピンの南50キロにある)に移動した。
台南から飛行距離2,200キロに達した。
その後坂井らは、ボルネオ、タラカンに進出、バリクパパン、
スラバヤなどで戦うが、オランダ軍も敵となった。さらに
このあとバリ島にまで進出したが、インドネシアの戦いは
一段落する。
昭和17年3月、日本軍はこの地帯のすべてを手中に
おさめた。
バリ島に駐留していた時、3月12日、山下正雄少佐が
新郷大尉の後任として内地から到着、新飛行隊長に
なったことを告げた。内地帰還の噂がここではっきりした。
帰還者の名が山下少佐から発表されたのだ。
帰還組は約半数で名目は東京防衛ということであったが、
実はこの頃すでに、ミッドウエー攻略の計画が進めらて
いて、帰還組みはこの作戦に転用されるのであった。
先兵として活躍してきた台南空は、この時点で戦力の
再編成を行い、4月中旬ラバウルに到着した。日本軍は
17年1月23日ラバウル上陸に成功していた。
ラバウル基地は活火山、花吹き山の麓に作られた二つの
飛行場、港湾施設からなっている。この基地はトラック島
とともに、海外における日本海軍最大の拠点へと成長
する。たしかにニューブリテン島は、南太平洋全域に睨み
を効かせ、オーストラリアにたいする障壁として、絶好の
位置にあった。最盛期ここには300機に達する陸海軍機
数十隻の艦船、数百門の対空機器がそろい、強力な要塞
になった。
ニューギニヤ・ラエに前進基地が作られ、ここから、約4ヶ月
ニューギニア南岸ポート・モレスビー地区で、アメリカ陸軍機、
オーストラリア空軍機と闘っている。
この間、何名かの犠牲をだしてはいるものの、日本側の
常勝の期間でもあり、比較的楽な戦闘であった。坂井の
撃墜数は順調にのび、一月あたり少なくとも5機を数えた。
これは他の同僚も同じであって、零戦とそのパイロットが
もっとも輝いていた期間と言えよう。
空戦の模様は「大空のサムライ」に詳しい。
日本海軍のポートモレスビー攻略作戦が米艦隊に襲撃され、
5月7日珊瑚海海戦が発生した。ポートモレスビー攻略は
中止となった。
ミッドウエイ海戦は6月5日だった。
7月末からは落としても落としても、ポート・モレスビー
地区の敵戦闘機、爆撃機は増えるばかりで、ラエ基地も
さんざん爆撃に曝された。陸軍のラエ南方のブナ上陸
作戦も失敗、苦戦で零戦隊の支援もあまり効果あがらず、
8月3日ラエにある零戦隊の半数がラバウルに異動した。
坂井たちがラバウルに引き揚げたころから、ラエ基地は
殆ど使われなくなった。残存の飛行機も、もはやいくらも
ない。
ニューギニア東端ラビに敵は新基地を建設中であったが、
この敵戦闘機隊を撃滅しようと、8月7日、精鋭ばかり、
よりすぐった18機の零戦がラバウルの離陸滑走路に
並んでいた。
ところが急に「出発待て」という命令がとんできた。事態が
判明した。「けさ、5時20分、優勢な敵の攻略部隊が、
ソロモン群島南端ガダルカナル島のルンガに上陸した。
同時にツラギにあった横浜航空隊の偵察飛行艇は全滅
した。敵は目下盛んに上陸中である。
我々は、敵の攻略部隊を攻撃に行く中攻隊を援護して、
いまからガダルカナルに行くことになった。」
ラバウルからガダルカナルまでの距離をはかってみた。
560浬(東京から屋久島の距離)もある。
日華事変以来、坂井の経験で一番遠かったのが450浬
だった。それでさえ、なかなか困難だったのに、今日は
それより110浬も遠い。往復にすれば220浬遠い。
これは大変なことになった。我々はこの大変な距離を、
敵の上陸地点まで飛んで、一合戦やって、同じ距離を
ラバウルまで引き揚げねばならぬのだ。
そうこうしている間に、上の飛行場(ラバウルの高台にある
ブナカナウ飛行場のことをそう呼んでいた)から、27機の
爆撃機が発進した。
零戦隊の指揮官は中島少佐、2中隊河合大尉、3中隊
笹井中尉という6機ずつの編成となり、機数は18機、坂井
は3中隊の第2小隊長として、2番機柿本2飛曹、3番機
羽藤3飛曹として出撃。
上陸作業中の敵の船団攻撃なのに、魚雷でなく爆弾が
1式陸攻の腹に積んであるのに不審をいだき、たいした
戦果は期待できそもないなと、坂井は思った。
侵攻高度は4千メートル、すぐ隣のニューアイルランド島
を飛び越えて、ラバウルから120海里の地点で、一つの
小さな珊瑚礁が目についた。馬蹄形をしていて美しい
コバルト色の島、航路図には、グリーン礁とあるが、この
印象が後に坂井の生命を助けることになろうとは。
ルッセル島の上空を通過し、ガダルカナルのルンガまで
あと50海里である。ルンガ上空では、制空隊がすでに
空戦を始めていた。敵、味方入り乱れての混戦だ。
眼下の船団は7,80隻はいる。上陸用舟艇の白い筋が
沢山見える。
その時突然太陽の中からこぼれ落ちるように7,8機の
敵機が降ってきた。母艦から飛んできた、グラマン・ワイルド・
キャット、F4Fは零戦に目もくれず,まっしぐらに爆撃隊に
襲いかかっていく。
坂井は急上昇にうつり、グラマンの鼻面を押さえるように、
20ミリと7.7ミリを連射しながら攻撃をかけた。これは
弾丸を当てるというより、零戦がついているぞという脅威を
敵に与えるためだった。
爆撃隊は絶好の地点に達し、いっせいに爆弾を投下した。
水煙がおさまった海面を凝視したが、火災を起している
船は1隻だけだった。これだけの遠距離を、これだけ苦労
して、これだけ意気込んでやってきて、このみじめな戦果、
これが雷撃だったならおそらく27機が1隻ずつの敵船を
沈められたのに。船団攻撃が目的なのになぜ爆弾を積んで
きたのだろう。なにもあんなに足許から鳥が飛び立つように
急がなくてよかったではないか。魚雷に積み替えて出撃
したらよかったのではないか。なぜこんなお粗末な作戦
指導をしたのか。
爆撃隊を送り狼(敵戦闘機)の危険圏外まで送ってから
零戦隊だけ引き返し、敵戦闘機と一戦交えようという計画
があった。ルッセル島を過ぎれば、送り狼の危険はもう
大丈夫と、かねての計画通り引き返しを決意した。
時に午後1時30分、我々零戦隊17機(出発時1機
エンジン不調のため引き返し不参加)はルンガ泊地の敵
船団の上空に殺到した。いよいよ宿敵米海軍の新鋭機
グラマンとの一騎打ちだ。その時またしても太陽を背に
してグラマンが降ってきた。坂井がいち早く気づき、全速
で最先頭にでた。急上昇しながら反撃した。ところが
どうしたというのか、敵も一撃をかけただけでさっと
急降下で下へ散っていってしまった。
彼らが、いわばホームグラウンドで、しかも有利な態勢に
ありながら、瞬間的なたった一撃だけで下へ散っていった
ことは我々には解せないことだった。(零戦に対する
新戦法をこの時から使い始めたのか)
列機の柿本、羽藤を見失っていたので探しまわって
いたが、高度4,5百メートルのところで、零戦2機が
グラマンに追い回されているのが見えた。その時の私の
高度は4千メートル、グルグル回りの空戦をやっていた
のは4、5百メートルのところだったので、一気に3千5百
メートルを急降下したわけであった。
1機の零戦が敵の射程圏内にはいるという瞬間、20ミリ
と7.7ミリをグラマンの頭めがけて浴びせかけた。
600メートルも離れたところから打ち込んだので、敵を
落とすというより、味方の危急を救うために撃ち込んだ。
ところが、そのグラマンは2機の零戦を追い回す強者だけ
あって、この一撃にすぐ感づいて、パッと右旋回に切り
替え射弾を回避、坂井の腹の下に食い込んできた。
その瞬間これは手強いぞと感じて、ひやりとした。
これまで相手にしてきた敵の戦法とは違っており、一騎
打ちに入らぬ前に、すでに敵の技量が相当なもであること
を悟った。
敵はぐんぐん私の腹の下に入ろうと突き上げてくる。私が
いつもとる戦法を敵がとっている。エンジンをしぼって、
のめり気味のスピードを制御しながら、得意の左旋回に
切り替える隙を見出した。そして思い切り操縦桿をひいて、
できるかぎり旋回半径の小さい私独特の旋回方法で、
2旋、3旋と旋回を続けた。
私の飛行機はまだ急降下の余力がついていて、旋回戦
にもっていくには、少しスピードがつきすぎていたのだが、
2回、3回と回るうちに、やっと絶好の横の巴戦に入る
態勢になった。
そこで、しばらくは、お互いに正反対に位置しながら、
左垂直旋回で単機巴戦に入った。左垂直旋回だから、
左翼はほとんど垂直に地面を指し、右翼はこれも垂直に
空を指している。
敵から目を離さないためには、自分の首の骨を折れる
ほどうしろに折り曲げて、その上向いた顔のうわまぶた
ぎりぎりのところに、敵機を捉えまえていなければ
ならない。
この状態を何十秒も長くつづけることは、ひどい苦痛だ。
ただでさえ荷重のために脳貧血を起しそうになるのに、
心臓の圧力が荷重にまけて、血液が下に流れ、両足が
膨れてくるのだ。これは巴戦の場合、常に起こる苦痛で
あり、しかも、敵も同じように苦しいのだ。
その苦しさの我慢くらべのうちに、自分のうわまぶた越に
チラッとでも敵機を捕まえていれば、この空戦はもうこちら
の勝ちである。
しかしたいていのものは、この苦しい姿勢と、視界に
入ってこない敵とに、精神的にも、肉体的にも耐えられ
なくなって、あきらめて他の操作にうつる。その瞬間に
敵に喰われるのだ。
私は頑張った。5旋回目のとき、チラチラうわまぶたの端
に見えていた敵が、急にすーっと前にのめってきた。
しめた・・我勝てり。そう思った瞬間、敵は急に機首を
下げた。急に速力をつけ、斜めの宙返りで引き離そう
とした。これが彼の負ける一瞬だった。この一瞬に運命
は決した。完全に敵を捕捉しながら、当の相手以外の
敵がいないか、素早く周囲を見回した。敵の気配は
ない。照準器いっぱいに当の相手を捉えているのだが、
撃たない。 よし、ここでひとつグラマンの性能をためして
やれと思いたった。
撃たずにじっと敵の真後ろに食い下がっていく。
ぐんぐん斜めの宙返りで敵グラマンを追いながら、時には
上方、ときには下方にくっついて敵を脅かし続けながら、
私は観察を続けた。そのうち、完全に敵の真後ろ50
メートル位に接近、追尾の姿勢に入った。敵は疲れ
はてたのか、やや緩降下で直線飛行に移った。私はまだ
一発も撃たないのに敵は疲れてしまったらしい。真後ろ
50メートルの距離から、20ミリはもったいないと思い、
7.7ミリだけにきりかえた。敵の操縦席を照準器の十字
線の真ん中に入れて発射した。200発ほど撃ち込んだ。
全弾が敵機を補足した。それなのに敵機は落ちる気配が
ない。さすが敵の防弾防火設備はすばらしい。
敵をよく観察しようと真上に飛びあがった時、グラマンの
スピードが急に落ち始めた。たぶん被弾していたエンジン
が、いまになって具合が悪くなったのだろう。
落ち着いた私は風防を開いて敵の操縦員の顔を見た。
向こうも風防をあけている。たぶん落下傘降下をするつもり
なんだろう。目と目がぴたりと合った。顔がはっきり見える。
私より7,8歳くらい年上だ。敵の機体には無数の穴があき、
方向舵が破れ障子のようになっている。彼は右肩をやられ
ている。服の右肩が血で真っ赤だ。
一瞬私はなにか「憐れ」なものがぐっと胸にきた。敵が憐れ
なのではない。なんと説明していいか判らないけれど、
それはたぶんお互いが憐れなのではなかろうか。それに
私自身で撃った弾丸で血をながしている人間を初めて見た
ことだ。
これが戦争というものだ。与えられた任務を果たさねば
ならない。
僅か50メートルの距離で直角に背中を曝した敵機。私は
操縦席は狙わず、エンジンの先端を狙って、20ミリを
5,6発、ダダダっと撃った。命中した瞬間、彼は落下傘
を背負ったまま、空中に飛び出した。
列機2機を見つけ。ふたたび空戦場に戻った。この日17機
の零戦隊は、敵機約77機と闘って、その36機を叩き
落とした。しかし、還らざる零戦は2機だった。その2機の
最期を見たものは一人もいなかった。
我々3機は全速上昇した。高度2千メートル、断雲の間を
抜けて輝くばかりの紺碧の上空に出た瞬間、風防に音がして
5センチくらいの大きな穴があいた。はっと思って左側に目を
移すと、複座機のSBD(急降下爆撃機ドーントレス)1機が
チラっと見えた。私はまっしぐらに敵にむかって突っかけた。
すぐに敵の後上方に回りこんだ。敵味方が互いに急降下
しながら断雲をつきぬけると、後上方から20ミリと7.7ミリ
の一連射をあびせた。SBDは錐揉みになって落ちていった。
私はまた高度を上げ、列機をそろえて、笹井中隊が行ったと
思われる方向に飛んだ。高度4千メートルまで上昇した時、
遥か前方に八つの点を認めた。約5,6千メートルまで
近寄ったとき、この八つの点は四つ四つの2組の編隊に
分かれている。これは敵の戦闘機に違いないと思った。
(いままでの疲れがでたのか、坂井はここで初めて判断
の過ちをおかした)
坂井はモレスビーの空戦でも編隊を組んだ敵機を2機ずつ
まとめて落とした経験がある。敵は後ろから私が接近して
いるのに、敵の編隊は全然形がくずれない。
60メートルと肉薄して一撃をかけようとした瞬間「あっ
しまった」と思わず叫んだ。敵はSBD艦上爆撃機ドーント
レスの編隊だったのだ。後部の銃座各2挺、8機あわせて
16挺の機銃が私に向けてピタリと擬せられていた。
私ともあろうものが何たる迂闊。全速をかけて追ってきた
のだからいまさらどうしようもない。瞬間私は20ミリと7.7
ミリの発射とってを握り締めて、突っ込んでいった。
そのとたん敵8機16挺の2連装機銃もいっせいに火を
吐いた。彼我の距離は20メートルもない。敵弾が当って
いる。同時に敵の2機がいっぺんにパーと火炎を吹きだした。
私の飛行機も衝撃を感じた。同時に私は野球のバットで頭を
一撃されたような感じがして、意識が遠くなって楽な気持ち
になっていった。
私は無意識に操縦桿をぐっと前に押しやった。何秒かの後
激しい風圧を感じて、ふと目がさめた。風圧は飛行機が
墜落しているためのようだが、私にはよく分らなかった。ただ
朦朧たる意識の底で考えたことは、とうとう俺もいま戦死か。
戦死とはこんなものか。そのとき、「なんだ、三郎、お前は
そのくらいの傷で死ぬのか、意気地なし」母の声であった。
意識がはっきりしてきた。飛行機はものすごい勢いで落下
しているらしい。
目をあけてみた。火事場のように真っ赤だ。飛行機の姿勢が
分らないまま、グーっと操縦桿を引っ張った。すると操縦席が
ガタンと落ちて姿勢が低くなったためか、急に風圧が減じた。
それとともに、目もやられたか、目から血が出ているんだな
とようやく気がついた。
飛行機の翼端を見ようとしたが、見えない。それでも無意識
のうちに機を水平にして左手でエンジンを増速しようと思った。
ところが、左手がスロットル・レバーを掴んでいない。ダラリと
している。鉛のように重い。ぜんぜん痛くはないが重い。
左足も動かない。そうか頭をやられ、目をやられ、左手も
左足もやられたのか。そう思いながら、まがりなりにも操縦桿
だけで水平飛行に移していった。
目をやられているためか、涙が溢れるようにでてくる。その涙
で血が洗い流されるためか、少し目がみえるような気がする。
高度計を見るのだが全然見えない。朦朧たる意識と霞む目で
下を見ると、黒い大きなものが翼の下を流れていく。
それは敵の輸送船団だった。高度は100メートルくらいと
考えた。下からガンガン撃たれている。
これではラバウルはおろか一番近いブカだって帰れやしない。
心がだんだん自爆ということに傾いていった。しかし、敵機が
こないということは俺に生きろということかもしれない。
操縦桿から手を離して、飛行帽のうえから頭をなでてみた。
指が飛行帽の裂け目に入っていった。飛行帽の下は血で
ぬるぬるしていた。これは相当やられている、それにしては
意識がはっきりしているのは変だな。
エンジンだけは調子よく回っている。ガソリンの臭いはしない
から、燃料タンクも無事らしい。
すると今度はからだのことが気になりだした。頭の傷から
ながれでる血が、飛行帽の内側を伝わって首筋にたまり
豆腐のようにかたまっている。顔は丸く膨れあがっている。
無数の破片が突き刺さっているのだろう。このままでは
出血多量の死は目に見えている。自爆するにしても助かる
にしても、ともかく出血を止めなくては。
右の目がとくに痛くて左より見えない感じだ。左の目だけは
助けなくてはとポケットから三角布を引っ張り出し、
一生懸命左の目を拭いた。自分の機の翼端がボンヤリ
ながら見えるようになった。今度は頭の血を止める工夫を
考えた。4枚の三角布は全部飛ばしてしまった。マフラーを
ナイフで切る。あと1回分を残してこれも飛ばしてしまった。
右手で押さえなくても止血できるか考えているうちに、
飛行帽の内面と自分の傷とのあいだに、この布を押し
込んで圧迫したら血が止まりはしないかということだった。
しかしこの操作は相当時間を要すると考えた。まず操縦桿を
離し右足でそれを上手に巻き込み、それから右手でスロットル・
レバーを全開にして、まきこんだ右足で操縦桿をグっと引いて
見た。機を絶えず上昇の姿勢にしておかないと、海面に激突
する恐れがある。
自分の感じでだいたい7,8百メートルの高度が取れたと
思ったころ、風圧を避けるため頭を思い切り座席のなかに
突っ込んだ。素早く最後のマフラーの一片を右股の下から
取り出し徐々にこめかみのあたりから飛行帽のなかに
押しこんでやった。そのあいだ、外は全然見ていないし、
方向舵を操作していない。機体がどんなに動揺しても布切れ
を押し込むことに専念した。布切れの端がこめかみを通って
一気にグっと傷口のほうに突き進んだ。それがうまくいって、
その時を境に血が止まってもう流れてこない。
その安心感のためか、今度は何となく眠気をもよおしてきた。
ついウトウトする。そして何十秒おきかにはっとする。必死に
なって睡魔と闘っているつもりなのだが、いつのまにか
操縦席からお尻が離れて、からだがフワーっと浮き上がって
いる。そのため肩バンドにギューっと重量がかかってきて、
その圧力ではっと目が覚める。
見ると飛行機は完全に背面になって飛んでいる。眠気が
一瞬に消えてすぐ操縦桿を左へいっぱいに倒して、飛行機
をもとの姿勢に直す。
眠気は激しくなるばかりで、頬や頭を殴っても駄目。
これではブカまでも還れない。勿論俺は海に落ちるだろう。
どうせ死ぬなら自爆した方が良い。自爆に決めた。引き返し
ガダルカナと思われる方向に機首を向けしばらく飛んだ。
ところが、はっと気がつくと、もうぜんぜん眠くない。
不思議だ。この分なら還れるかもしれないぞ。また元来た
方向に旋回した。そして2,3分飛んだろうか。またもや
どうにも耐えれなく眠くなってくる。やはり駄目だ、自爆だ。
私はふたたびガダルカナルのほうへ引き返しはじめた。
ふと気がつくとまたしても全然眠くない自分を発見した。
こんなことを五,6回も繰り返しているうちに、だんだん冷静に
ものを考えることができるようになった。
自爆する気持ちで引き返すと、眠くない、というのは、自分
では意識していなくても、やはり命が惜しいのだ。生命を
守る本能が最後の力をだして闘ってくれるのだ。
それなら、これから何時間かかるかわからないが、ラバウル
まで、それができなければ、せめてブカまで必死になって
頑張ったら還れないこともなさそうだ。死ぬと決めると、目が
さめる。そうだ俺はラバウルで死のう。
航空図を膝の下からひっぱりだして見た。それは血で真赤に
染まっている。つばを地図の上に吐きつけて、飛行服で
こすって、やっと血糊を拭い、はっきりしない目で懸命に、その
地図上に自分の位置を求めた。やっと推定することができた
位置はイサベル島の北端(ガダルカナルから約80海里)から
北東60海里の洋上付近ということであった。
私はここで、あらためて太陽を、反方位よりやや左のほうに
おき、行きと帰りでは大体1時間近く経過しているので、
それだけ太陽が西に寄っていることも計算に入れ、ラバウルと
おもわれる方に進路をとって飛んだ。まだ視力が不足している
のでコンパスが読み取れない。
ところが行けども行けども漠々たる海ばかりで何にも見えない。
2時間も飛んだところで考え直した。唾で手入れしたばかりの
左の目をいっぱいまでコンパスに近寄せて見た。すると今度は
やっとそれが読み取れた。その結果はまことに意外だった。
自分ではラバウルの方向に飛んでいるとばかり思っていたのに、
なんと330度を指している。
これはとんでもない方角違いである。ラバウルに帰るには、
予想地点からいえば真西へ飛ばなくてはならないのに、私は
北に向かって飛んでいたのである。
なにも見えないはずだ。自分の位置ははっきりとはわからない
けれども、だいたいソロモン群島をずっと北北東にはずれて
飛んでいることがわかった。
さらにこのとき私は、ラバウルの東側にニュー・アイルランド島と
いう南北に走る細長い島のあることを思い出した。もしここで
90度の変針を行えばきっとその島に突き当たるに違いないと
確信した。私は再び希望を持って飛び続けた。またしても襲い
掛かる睡魔、幾度か右に傾き、左に傾き、ときには海面
すれすれに飛び、あるときは背面になりひどい状態で飛続けた。
3時間も飛んだと思ったころエンジンが停止してしまった。
しかし、すぐに燃料の欠乏が頭にきたので、ほとんど無意識の
うちに操縦桿を前方につっこんだ。これはプロペラの止まるのを
防ぐと同時に失速になるのを防ぐためだった。これはメイン・
タンクが切れたのだ。後は胴体タンクに90リッター残っている
はずだ。不自由な姿勢でやっと燃料コックを探し当て、胴体
タンクに切り替えると同時にスロットル・レバーをしぼった。
そして手動燃料ポンプをついた。
エンジンのほうの自動ポンプは、エアを吸っているために、
容易に燃料を吸い上げてくれないので、手動ポンプをついて
燃料を送ったのだが、スロットル・レバーをしぼったのは、
気化器をひらいた状態のままでエンジンを再起動しようと
しても、燃料が濃すぎてエンジンがかからない場合が多い
からである。
あと1時間と4,50分しか残り時間はない。ふとなにげなく
右翼の海面を見たら、うすぼんやりと何かが見える。
馬蹄形の島らしい。あのコバルト色の美しい珊瑚礁。今朝
ガダルカナルへの途中で深く印象づけられたあのグリーン
珊瑚礁だ。自分の機位がはっきり判った。そこで手製の
計算尺で計ったラバウルまでの距離は60海里。
そうわかると今度は燃料だけが問題だ。燃料計のボタンを
引っ張ってみた。40リッターの付近をさしている。あと
40分くらいしか飛べない。できることは飛行機を正しく
水平直線に飛ばすこと、それは平常の状態ならばあたりまえ
のことだが、いまは並み大抵のことではなかった。
必死になって飛んだはるか前方に島影が見えてきた。ニュー・
アイルランド島に間違いない。ところがなんと意地の悪い
ことか、いつのまにかスコールがやってきて、密雲が山の
頂きをべったり包んでいるのだ。この雲を突っ切る自信は
今のわたしには自信がない。一難去って又一難。燃料の
消費も気にかかるが、海岸線つたいに回るほか手はない。
やっとニューアイルランド島の南端を回りきって、右旋回、
燃料計の針は20から30リッターの間をピクピク指している。
ふと下を見ると1万トン級の巡洋艦が2隻、南に向かっている
のが分った。この艦のそばに着水すれば助けてもらえるかも
しれない。しかしこの2隻はあきらかにガダルカナルの急に
かけつけているのだ。私のために止めたりできない。また
ラバウルのほうに進路を立て直した。計算では後20分弱だ。
見覚えのあるニュー・ブリテン島が見え始めた、しめた、もう
大丈夫だ。おれは助かった。ラバウルだ。さあいよいよ着陸だ。
しかし不十分な視力で、右手、右足だけでうまく着陸できる
だろうか。私はラバウルの上空をフラフラ旋回し始めた。
このままでは着陸は無理だと思うようになった。海岸近くの
海面にすべりこもうと決意し、エンジンを絞っていった。
しかし別の考えがかすめた。なんとか陸上に滑り込むだけ
なら、できないことはなさそうだ。どうせ死ぬ身だ。
やり損なってももともとだ。
危なっかし操作でエンジンを増速し、かろうじて海面との衝突
を避け、再び舞い上がり、いつもの誘導コースを回って、
そのままの姿勢でまた降下していった。チラと燃料計をみたら
針はほとんどゼロを指している。あわててプロペラ・ピッチを
高速回転の方へ引き戻して、エンジンの回転を増し、
スロットル・レバーを赤ブーストいっぱいにかけて、操縦桿を
徐々にひいた。機はまた高度を取りはじめた。もう燃料がない。
いつエンジンが止まるか。徐々に右旋回で高度を約500
メートルにとることができた。ここまであがればしめたものだ。
滑空で飛行場に滑り込むことができるはずだ。幸いエンジンは
まだ回っている。右手で脚だしの操作をした。これも被弾は
なかったらしく、着陸よろしの青ランプが右、左と続いて点灯
した。しかしタイヤが撃たれてパンクしているかもしれない。
フラップの柄を前に倒してみた。指針はフラップ全開を示した。
操縦桿を放して、エンジンを少しずつしぼり、ただ二つの動く
肉体たる右手と右足に全神経を集中した。残り少ない
燃料だが、それでも火災を起すかもしれない。飛行靴の先で
エンジンのスイッチを切った。
高度がはっきり分らないが、椰子の木の高さを20メートルと
推定し、そのこずえの先端が自分の機と同じ高さにきたとき、
今20メートルと判断して、少しずつ操縦桿をひき、接地に
入った。ズシンと衝撃がきて、接地したと思った瞬間、
操縦桿をいっぱいにひきつけて、後は左右に回らないように
必死の努力を続けながら、どうやら指揮所付近と思われる
あたりで停止させることができた。
ああ・・俺はとうとうラバウルに帰り着いた。
そう思った瞬間、ガックリ首が後ろに垂れ、同時にスーと
いい気持ちになって、なにもわからなくなってしまった。
軍医長の話では、左の手足がきかないのは、後頭部の
負傷で交感神経がやられ、運動神経が麻痺しているため
とわかった。目はいろいろな薬で洗ってくれていたが、
こいつは大変だ、小さな破片がだいぶ眼球につき刺さって
いる。おれの手には負えないなと言った。ラバウルに帰り
着いたのは5時ころだったような気がする。すると撃たれた
のが12時20分くらいだから、それから4時間半、出発
してから帰り着くまで空戦時間もいれて8時間半だ。
○○
負傷によって内地に戻った坂井は佐世保や横須賀の海軍
病院で治療を受け、ようやく部隊へと復帰する。しかし、
右目の視力は低下したままだった。
このため大村で教官の配置となり、指導に当った。
ここでの教官歴は昭和18年の春から約1年間で、その後
志願して横須賀航空隊に移る。坂井はここで再び、
実戦的な訓練に励み、空中戦へのカンを取り戻していく。
19年6月、横空の戦闘機隊は全力を挙げて、東京の南
1000キロの硫黄島に移動し、アメリカ海軍と対決する
ことになる。
この戦いは6月下旬の1週間にわたって続くが、すでに
戦力に大差がつきつつあった。80機近い零戦が駐留
していたが、僅か3日の激戦でその殆どを失ってしまう。
この島を襲った米海軍の機動部隊は、500機をこす
グラマン戦闘機を擁していた。
この硫黄島の戦闘で坂井は少なくとも2機のF6F
ヘルキャットを撃墜した。
そのうち、とりあえず搭乗員だけは、一応内地へ帰って
新しい戦闘機を整備した上で、再びでてくることになった。
そのため木更津航空隊から輸送機が迎えにくることに
なった。
午後遅くなって1式陸攻と96陸攻撃が7,8機飛んで
きて無事に着陸した。幹部連中はいそいそとそれに
乗り込む。夕方までにまた飛行機がくるということ
だったがとうとうこの日は来なかった。
翌日陸攻がやってきたが、はやい順番の人を乗せて
飛び去ってしまう。そんなことを数回繰り返して、やっと
順番が回ってきた。一番最後の飛行機だった。
その飛行機はやっと着陸したかと思うと、右エンジンが
息をついていて離陸できそうにない。
3時頃整備が終わり我々搭乗員11名が乗った。しかし
島をかなり離れてエンジンが不調。相談を受けた坂井は
「不時着して死ぬよりは、もういっぺん降りて出直そう
ではないか」と言い、島に引き返した。あっちこっち調べた
後で、発火栓を取り替えたら、それで簡単に直った。
機は無事離陸したが、木更津への途中悪天候に遭遇、
若いパイロットに代わり坂井が操縦無事着陸した。
○堀越二郎は79歳、坂井三郎は84歳で亡くなった。
Recent Comments