新潮社刊幕末史を読み始めた。当時の宇和島藩主伊達
宗城についてもふれておきたい。
伊達政宗は関が原の戦いで徳川方についたが、家康は
恩賞として、政宗の長子秀宗に宇和島10万石の領地を
与えた。政宗の仙台の領地は第2子に継がせることに
なった。家康の深慮遠謀といわれる。秀宗以来宗城・
宗徳まで300年の統治になる。
宗城はもともと大名の若君ではなかった。江戸の旗本
の次男であったが、生家の旗本山口家が宇和島の
伊達家と親戚関係にあり、伊達家の血筋が絶えかえた
ため、宗城が伊達家の家督を継ぐことになった。
少年時代の宗城は引き続き江戸に住んでいた。近くに
水戸屋敷があった。この時の水戸藩主は斎昭だった。
宗城はこの斎昭に気にいられた。屋敷が近いこともあって
よく遊びに行った。後に宗城が幕末の情勢に藩政改革
に努めたのも、斎昭の薫陶を受けたために違いない。
1844年正式な藩主となりお国入りした。それ以後、
明治新政府の政策を先取りしたともいえる、殖産興業、
富国強兵に努めた。特に西洋兵学の輸入に熱心だった。
アメリカはペリー以前に非公式の使節として民間商船
モリソン号を送りこんでいた。幕府は砲撃して追い返して
いた。蘭学者高野長英は仲間の渡辺崋山とともに、幕府
を批判した。幕府は蘭学者の弾圧にのりだした。(蛮社の
獄)。このため地方の小藩の家老だった崋山は切腹したが
長英は逃亡者となった。逃亡期間のうち8ヶ月は宇和島に
潜伏し、宗城の庇護の下、オランダの兵学書を翻訳した。
また故郷の長州ではまったく評価されなかった村田蔵六
(のちの大村益次郎)を招いて蘭学教授として遇し、
のちの活躍のきっかけをつくった。また「蒸気で動く軍艦
1隻と西洋式砲台を一つ作れ」との密命もでた。
フオン・シーボルトの娘楠本いねが愛媛宇和町で医者の
助手をしていたが、これを宇和島に招き、日本初の女医
(産科医)が誕生した。
司馬遼太郎が小説「花神」で村田蔵六のことを書いて
いるが宇和島時代いねとの交流も記してある。のちに
映画になった時、いね役は浅丘ルリコだった。
楠本いねは宗城の世話で、伊達家の庭園天赦園で結婚
式をあげた。いねは後に東京に出、宮中や高官の夫人の
医師として活躍した。後年は長崎に帰った。この間の経緯
は、吉村昭著「ふおん・しいほるとの娘」上、下、新潮文庫
に詳しい。
宗城は初めは公武合体派だったが、機を見るに敏な彼は
尊皇攘夷派から尊皇開国派になった。
ペリーが東京湾を示威航海したとき、沿岸警備を命ぜられて
いた薩摩藩島津斎昭、佐賀鍋島藩主とともに、日本も蒸気
船軍艦の保有が必要と痛感、それぞれが軍艦建造を約した。
第1次長州征伐のときの宇和島藩主は宗城の息子、宗徳
になっていたが、幕府は長州征伐の決行にふみきり、中国、
四国、九州の21藩に出兵を命じ、11月18日総攻撃を開始
することを決めていた。
11月10日宗徳は兵をひきいて宇和島を発した。その日は
卯之町泊まりで、翌日八幡浜に至り、2日間滞陣の後、
海岸沿いに兵を進め、佐田岬の伊方浦に着陣し、そこから
宇和島艦隊に乗り長州に向かうことになった。
港には宇和島藩の支藩である吉田藩の艦隊も集結していた。
しかしその日、長州藩主敬親、定宏父子が降伏を申し出でた
ので、攻撃を見合すことになった。
第2次長州征伐の時は、幕府の親藩である松山藩が四国勢
の1番手として、長州藩攻撃の出兵準備を着々と整えて
いた。しかし伊達宗城は長州征伐に不賛成で、宇和島藩には
出兵の気配はなかった。彼は長州征伐が国内を混乱させる
愚挙であり、諸外国に日本領土の侵略を許す結果にになる
ことを恐れていた。
そのころ対立していた薩摩藩と長州藩の間で提携がその年
の1月に成立していた。
6月初旬、幕府軍は九州、四国、山陽道、山陰道から長州藩
に対する包囲態勢を固めた。しかし、宇和島藩をはじめ四国
諸藩は動かず、松山藩のみが出陣した。
6月7日、幕府軍艦が大島郡を砲撃したのをきっかけに、攻撃
を開始し、長州藩はこれを迎え撃ち激しい戦闘が展開された。
6月24日宇和島沖に蒸気艦が黒煙を吐いて現われた。
それは英国軍艦だった。人々は英軍艦が下関付近を攻撃
して長州藩の各砲台に激しい放火を加え、陸戦隊を上陸させ、
ついで鹿児島を襲って薩摩藩と砲火を交え、鹿児島の町に
火を花って大火を起させたことを聞き知っていた。
条約国の中でイギリスは、米、仏、蘭、露の各国よりはるかに
戦闘的で、宇和島を襲う為に来航してきたのだと思った。
町々にお触れが伝えられた。英軍艦は来攻してきたのでは
なく宇和島藩との親善のために来たという。
伊達宗徳が舟で英軍艦に赴き、しばらくして英人が丁重に
宗徳を送って上陸した話が伝えられた。
英艦はアーガス号で、英公使パークスガ乗艦し、通訳官の
アーネスト・サトウも随行していた。サトウはその著書「一外交
官の見た明治維新」のなかで、群集が極めて友好的であった
ことを記している。
翌日宗城、宗徳は家臣とともに舟に乗り、アーガス号に赴いた。
英側にはサトウ、宇和島藩側には三瀬周三がついて、会話が
巧みに通訳された。公使パークスは酒食をすすめ、政治、外交
問題等につき意見を交換した。英側は宗城が欧米事情に広い
知識を持っていることに感嘆した。宗城はワーテルローの兵術
なども口にし、パークスらを驚かせた。
翌日パークスは英士官と小銃隊をともない、上陸し射撃の術を
競いあった。その後浜御殿に案内され酒食の供応をうけた。
その席で宗城はパークスに「自分の考えでは、日本は天皇を
元首とする連邦国にしたほうが良いと思う。私の意見に薩摩、
長州両藩も同意している」と注目すべき自説を口にした。
パークスは「それ以外に方法はないでしょう」と答えた。
アーガス号は翌早朝抜錨、礼砲が放たれた。
宇和島に長州征伐の結果が伝えられた。長州藩の圧倒的な
勝利に終わり、四国から参加した松山藩も敗北を喫した。
長州藩は優秀な洋式火器をそなえ、戦術も優れ、士気も
高かった。
大砲は鋼鉄製でなければならぬが、日本には鋼鉄を作る技術
さえなかった。島津斉彬、鍋島閑艘、江川太郎左衛門は
反射炉(溶鉱炉)から作った。宗城も大砲を鋳造させているが
特筆すべきは領内で独力で黒船(蒸気船)を建造させたこと。
蒸気船というのは西洋文明、科学技術の結晶である。
城下の提灯やの嘉蔵という手先の器用なこと無類という男が
いた。宗城はこの男にすべてを任せた。
6年かかった。長崎へ留学したり外国船を見学したりして、
とにもかくにも蒸気船を作りあげてしまった。
幕府側は仏人ベルヌイを招聘、勘定奉行小栗上野介が中心
となって、横須賀で製鉄所、造船所の建設を進めていた。
この時の造船所、宇和島造船、三宅造船は今も存続している。
ハワイ沖で米原潜に衝突された宇和島水産高校の練習船の
悲劇も思い出す。
かくて宗城は明治政府に起用され、明治初年ころは難しい
局面の外交を担当、次いで大蔵卿(大蔵大臣)に任じられ
また全権大使として清国との条約を締結するなど活躍した。
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