日経夕刊コラム「ひと」で宮原さんの記事を発見、平成
8年(1996年)ネパールに行った時のことを懐かしく
思い出した。
エベレストのふもとに観光ホテルを建てる。その夢は、
エベレストから直線距離で約30キロ、シャンボチエの
丘に建てた「ホテル・エベレスト・ビュー」として実現した。
富士山より高い標高3千9百メートルに建つホテルは
世界一高い場所にあるホテルとしてギネス・ブックにも
登録された。
1968年2月、1度はエベレストを間近に見たくて、
ヘリコプターをチャーターしてルクラに飛んだ。ラマ僧院
のあるタンボチエで景色に感動していると、近づいてきた
犬2匹と格闘になり、数箇所をかまれてしまった。
近くのクンデ村にエベレスト初登頂のエドモンド・ヒラリー
が建てた病院があり、ジョン・マッキンノン医師に傷の
手当てをしてもらった。
お茶をご馳走になりながら、雑談していると、周辺の山々
の景観の素晴らしさに感動したので、この周辺に宿泊
施設をつくり、将来ネパールに来る人たちにこの景色を
見せたいという話になった。
「それなら良い場所がある」と彼が案内してくれたのが、
正面にエベレストとロ-ツエの威容を望み、周囲をヒマラヤ
の山々に囲まれたシャンボチエの丘だった。近くに
軽飛行機が離着陸できそうな台地もあることを教えて
くれた。
カトマンズに帰り、早速ホテル建設計画をまとめ、政府
から建設許可を取った。
資金集めは山登りよりもしんどかった。エベレストの標高
にちなんで8,848万円の資金が必要とする計画書を
持って、東京、大阪、京都を回った。各大学の山岳部との
横のつながりを活用した。当時の大卒の初任給が2、3
万円だったから現在の価値でいうと8億8千万円になる。
集めた資金を資本金としてヒマラヤ観光開発を設立した。
私個人と親族を含めて190人が株主。
ネパール政府も補助金や融資で約4,500万円を出して
くれた。
ホテルと飛行場の建設には3年かかった。現場では常時
150人ほどが作業をしていた。
地元で食料を調達すると物価が上がってしまうので、村人
の要請で、建設資材と同様に、カトマンズからポーターを
雇って運んだ。日本の南アルプスの山を七つか八つ越え、
最後に富士山に登るといった感じだった。片道14日の
道のりで宮原も24回歩いた。
ホテルは長さ100メートル、奥行き30メートルの平屋。
12室すべてからエベレストが見える。12メートルの高さの
石垣の基礎の上に建っている。
建設地の測量に入ったころヒラリー卿が計画に反対と
言っていると聞き、ある日タンデー村の病院を訪ねた。
宮原は「金もうけのためではありません。観光振興の
ためで、地域住民のためにもなります。素晴らしい場所を
決して壊しません」と約束した。
当時中国の要請でネパールは外国人が立ち入るヒマラヤ
登山を禁止していた。住民には登山関連の仕事もなく、
ホテル建設はシェルパの村々に大きな経済効果があった。
自分がネパールに行ったのは1996年(平成8年)で、日航
のチャーター専門子会社、JAZが座席を旅行会社に売り、
各旅行会社がそれぞれツアー旅行に仕立て販売したもので、
自分はヒマラヤ観光開発のツアーの中の一つ、「ホテル・
エベレスト・ビューとポカラ9日間」11月15日発を選び参加
した。飛行機はダグラスDC10-40型。
この年は5月に世界8大陸最高峰女性登山者、田部井敦子
さんに続き挑戦中の日本女性登山者が最後のエベレスト登頂
に成功したが、下山帰途疲労と寒さのため亡くなった年である。
自分の場合、カトマンズからロシア製大型ヘリコプター(30人)
(アジアン・エアライン)でシャンボチエまで飛び(約1時間)、
飛行場から1時間で標高差100メートルのホテル・エベレスト・
ビュウーを目指した。途中ポーターの若い女性が美しく逞しく、
写真を撮らせてもらった。
おっちょこちょいの高知市銀行員の男が、南米、マチュ・ピチュ
にも登ったと自慢して、ガイド付き小馬で登ることになった
女性のあとについて行くことにしたが、遅れてしまい、現地の
部落に迷いこみ、夜半になって、やっとホテルにたどり着いた
事件が起きた。高地でビールを飲むのは駄目とガイドガ言った。
1室に二人だったが高度が高いため、うつらうつらして、よく眠れ
なかった。
翌朝ベランダからエベレストとロ-ツエの威容に接した。ホテル
のすぐ横には、アマ・ダブラム、6,863メートルが聳えていた。
展示室でヒマラヤ山群の模型図を見、その広大さに感銘した。
ホテルには来歴者簿があり、今の皇太子の名前も発見した。
自分は見るだけだが、これで世界5大陸最高峰を見ることが
出来た。
ポカラにはエベレスト・エアでターボ・プロップ双発旅客機で
行った。スイス・ピラタス製だったと思う。ヒマラヤ山脈を
イラスト風に描いた横長50センチの三つ折り地図を貰い、
サリーを着たスチュワデスが説明してくれた。
ポカラでは美しい尖ったマチャプチャレという山がみえるが、
現地語で二股に分かれた魚の尻尾を意味し、場所に
より尻尾に見える。泊まったホテルについて、主婦であるガイドの
女性は、通称たぬきと呼ばれているが、新婚旅行でこのホテル
に泊まったと。山好きの人はやることがすごいな。
このホテルの敷地の中に小ホールがあって、ネパール音楽
バンドの演奏を夕方聴いた。このバンドは日本にも行ったことが
あると。
ポカラ湖のなかの島のレストランにロープをたぐって筏で行く。
大きなハイビスカスの木が赤い花をいっぱいつけていた。
このへんは暖かいのだな。
湖の一角はみやげ物街で賑わっている。現地の人が描いた
山の絵に魅力を感じたが荷物になるので買わなかった。
横丁に入ると、日本名のホステルがあり、若い経営者とコーヒー
を飲みながら英語で雑談した。
後に藤沢の朝日カルチャー・センターで水彩画を習った女の
先生が若い頃、チッベットからバスでヒマラヤを越え、ポカラに
出た話を聞いた。この人は今は日本水彩連盟湘南支部長を
やっている。
カトマンズに帰ったあと、オプションで山脈遊覧飛行に参加
した。途上国の常で出発が2時間遅れたが、イギリス・
ヴイッカース製双発レプシロ旅客機で飛んだ。
カトマンズの西からエベレスト近辺まで飛び、美しい豪勢な
景色を満喫した。料金1万5千円。
カトマンズの歓楽街で山々の横長写真を数枚買い込み、
インド・ダージリンに近い地区で栽培されたネパール紅茶を
お土産に買う。
市内には日本飯屋も多い。
カトマンズを離れる前夜は、ヒマラヤ観光が建てた「ホテル・
ヒマラヤ」で同社各種ツアーの全員が集まりサヨナラ・パーテイ
が行われ、自分もフオーク・ダンスに参加した。
このホテルは1987年2月に完成した。部屋数、100の四つ星
ホテルで、三井不動産の坪井社長や江戸会長の協力をうけ、
出資もしてもらった。建設資材は妥協せず1級品を揃えたため
建設費は8億5千万円ほどかかった。
仕事も一段落し、還暦を迎えた年にエベレスト登頂に挑んだ。
山頂まであと50メートルの高さで、酸欠のため、右目が見え
なくなり、左目も変調を来たしたことから無念にも下山を決意
した。
挑戦の翌年95年11月衝撃的悲劇が起きた。エベレストの
絶景が見られる標高5千メートルのカラ・パタール登山ツアー
の帰途、標高4千5百メートルの小屋で就寝中、雪崩が起こり
お客さん13人とネパール人スタッフが巻き込まれ、20人以上
が亡くなる未曾有の大事故が起きた。
宮原も直ちに現地に飛び収拾に当った。ご遺族の方々は苦情
や恨み言一つ言わず、励ましさえしてくれた。
ホテル経営は建設以上に困難の連続だった。92年のタイ国際
航空とパキスタン国際航空のカトマンズでの墜落事故、2000年
頃から激しくなった毛派の武力闘争による治安悪化で、観光客
は激減した。招来したネパール航空の大阪ーカトマンズ直行便
も2年前から運休になっている。周りの人の力添えで会社を
今日まで続けてくるkとができた。
ネパールのため政治を始めてしまった。自らが党主を勤める
「ネパール国土開発党」。07年の選挙では小選挙区制12人、
比例代表制41人が立候補したが、善戦およばず全員落選。
次の総選挙は2010年の予定。
ネパールにはエベレストがあり、お釈迦様の生まれたルンビニ
がある。自然の大切さと平和を世界にアッピールするには
うってつけの国。貧しい国にしているのは人。ネパールの人にも
世界の人にも知ってもらいたい。
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