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竹田 腆のイタリア中世史 王女アデレード

竹田から地中海歴史風土誌第28号、2008年10月
25日に掲載された彼の論説を送ってきたので、要約を
書き出す。

Adelaide (独Adellheid) 931-999。南オーストラリア
州都アデレイドはこの人から名をとったのではなく、英国
王妃アデレードから採られた。

登場人物は
○アデレード イタリー王国の西の隣国、ブルグンド王
ルドルフ2世の王女
○ロタール2世 イタリア王ウーゴの王子、アデレードと
結婚、1女エーマを儲ける。 後王子は毒殺される。
○ベレンガリオ2世 イタリア王国の僭主 息子との結婚
を迫り、断られたので、アデレードをガルダ湖畔の城に
幽閉する。
○オットー1世 東フランク王、アデレードを救い結婚し、
イタリア王、神聖ローマ皇帝になる。

王女アデレードは2才の時、ブルグンド王であり、イタリア
王であった父をうしなった。ロタール2世と19歳で結婚した
が、まもなく夫が毒殺される。
王位の簒奪をした僭主ベンガリオ2世に幽閉される。
屈辱的な虐待をうけながらも、1人の侍女と共に土牢から
脱出、オットー1世に助けられ初代神聖ローマ皇帝の皇妃
となり、ザクセン朝の帝国の基礎を築く。
彼女は美しく賢く高い教養を持ち、信仰心も篤く、しかも
決断力のある女性と言われる。また4カ国語に通じ、ハープ
を巧みに奏した。10世紀西欧の最も傑出した女性の一人
に数えられる。ドイツ史上ではドイツ帝国の母として称えられ
ローマ教会からは聖女アデレードとして崇められる。

イタリア王国の誕生
イタリア王国は中世の後期855年に誕生する。
843年のヴェルダン条約により、フランク帝国が3分割され、
東、西、中フランクが生まれた。
中フランクの国王の死去により所領が3分割され、イタリア
王国、南北ブルグンド、ロートリンギアとなった。

イタリア王国のルイ2世が嫡子なく死亡するや、王国は
西、東のフランク王」たちが入れ替わり国王になる。
4代目イタリア王シャルル3世以後、男系の後継者不在と
なる。
ここで王位継承の混乱がおこり諸侯たちの王位簒奪の戦い
が始まる。イタリア東北部のベレンガリオ1世が887年に
イタリア王と称したが、再度王国は内乱状態になる。
その先頭を切ったのがアデレードの父ブルグンド王ルドルフ
2世だった。

ルドルフ2世はロンバルデイアに兵を進め、ベレンガリオ1世
を破り、イタリア、ブルグンドの双方の王となる。
しかし数年後諸侯はアルル伯ウーゴをイタリア王に推戴した。
ルドルフ2世はブルグンドに戻った。
933年ウーゴはルドルフ2世と和約し、ルドルフにプロバンス
を譲渡し、代償にルドルフのイタリア王位を放棄させる。
和約の印しとして、ルドルフの2才の娘、アデレードとウーゴ
の7歳の息子ロタール2世との婚約が決められた。

和解の4年後の937年にルドルフ2世が死去する。後継者の
兄コンラード3世はウーゴの反対にもかかわらず、ドイツ王
オット1世の庇護下に入る。母ベルタはウーゴと結婚すること
になり、アデレードもパビアのウーゴ宮廷に移った。
彼女の知的な教養はこの時期につくられた。
ウーゴはベンガリオ2世との戦いに敗れ、和約で息子ロタール
2世をイタリア王として残し、プロバンスに戻った。

948年ウーゴの死後2ヶ月後に二人は結婚する。王国の共同
統治者になる。アデレード16才、ロタール21歳だった。
3年後ロタールが突然急死する。王位を狙うベレンガリオ2世
の毒殺と言われる。
19歳の寡婦となったアデレードと娘のエーマが残された。王妃
アデレードは単独の女王になった。彼女は自らの意志で行動し
忍耐強く初志を貫徹した。その果たした役割は、イタリアおよび
ドイツの歴史の流れに大きく影響した。

ベレンガリオ2世はイタリア王を僭称し、所領を現実的に支配
している。かれは王位を合法化するために、その息子18歳の
アダルベルトと結婚するようアデレードに要求した。彼女は
拒否した。ブルグンドへの脱出を図ったが、コモ湖畔の街コモ
で追っ手に捕らえられる。
951年二人の侍女と共に、ガルダ湖(コモ湖の南東)岸の
ガルダ要塞に幽閉される。最後には一人になった侍女とともに
日の射さない土牢に閉じ込められる。
4ヶ月にわたり衣食も満足に与えられず苦悩の日を過ごした。

アデレードを支持するマルチーノと称する司祭の援助により
脱出する。司祭は城外から、アデレードと侍女は部屋の中から
素手で穴を掘る。ついに穴は貫通し3人は手配された小船の
場所に走る。脱走は発覚し、麦わらの山に槍を差し入れ探す。
幸い見つからずカノッサアに逃れた。
カノッサ伯アダルベルトはロタール2世の旧家臣であった。
ベレンガリオはなお諦めず、軍勢を率いてカノッサ城を包囲する。
司祭マルチーノはアデレードのオット1世宛ての密書を携え、
ドイツに脱出する。密書には救出を願い、オット1世とは結婚する
ことによりイタリア王国を提供することを伝えた。

951年オット1世は大軍を率いてイタリアに南下する。
ベレンガリオは他のイタリア諸侯ととみ降伏した。

尚カノッサの戦いをテーマとした「ブルグンドのアデレード」なる
ロッシーニ作のオペラがある。

951年パヴィアでオット一世とアデレードの結婚の式典があった。
オットは39歳、アデレードは20歳。952年に時の教王により
イタリア王を受冠する。共同君臨である。その後オットの第2次
イタリア遠征で、ローマに入り、教王ヨハネス12世から皇帝位を
受ける所謂「神聖ローマ帝国」の誕生である。アデレード31才。

王妃アデレードはイタリアの住民に愛されていた。その高い教養
寛容な人柄、波乱の逃避行が人々に感銘を与えた。オット1世
の北イタリア支配に多くの貢献をした。その後のオット2,3世の
摂政としてザクセン朝の確立に献身した。その業績により「帝国
の母」と称される。

それからの道は必ずしも平穏ではなかった。嫡子オット2世、孫の
オット3世の輔弼、その間オット2世の妻テオフアーヌ(ビザンチン
皇帝の姪)との確執、幼児で手放した娘エーマの探索、その後の
37年の波乱はアルザスの修道院で目を閉じるまで続く。999年
12月16日に68年の生涯を終えた。

イタリア王国はともかくも帝国の傘下の王国として存在した。
しかしその後は皇帝の空位期、乱立期をむかえ、なんら実体の
ない王国になり、イタリア王の名は、ローマ王となり、その称号だけ
が宙に舞った。

近代国家が形成されるに伴い、イタリアはハプスブルグ家、
ヴァロア家による覇権による戦い、ドイツ、フランスの「イタリア
諸戦役」の場となる。その後19世紀初頭のナポレオンのイタリア
遠征にはローマ王も王位継承の血統も無視された。
代わりの錦の御旗は啓蒙主義の自由、平等、封建制からの
開放となる。


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Comments

地中海歴史風土誌の入手について教えてください。「皇帝オットを選んだ王女アデレード」を読みたいので。

Posted by: 西口 光彦 | 2009.01.17 at 05:41 PM

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