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富士通・IBM秘密交渉 1982/83

3月17日逗子図書館から借り出し予約の「雲を掴め 富士通・IBM
秘密交渉」伊集院 丈著、日経新聞出版社、が到着したとメールで
知らせてきたので受け取りに行く。3月31日まで借り出せるという。
同館の本はサイトで検索できるようになっているが、今回の本は同館
がわざわざ購入してくれたもの。

本小説の著者・主人公である伊集院(本名 鳴戸道郎)さんは、この
小説の舞台になっている1982-83年当時、富士通の海外事業部
の事業管理部長だった。
IBM-富士通 ソフトウエア紛争では、IBM互換OS(オペレーテイング・
システム)開発に関して、IBMとの厳しい交渉にあたり、富士通の互換
OS開発に関する両者の「和解契約」と「外部仕様情報(EI)契約」から
なる秘密契約の締結にこぎつけた(83年6月末)一方の当事者
富士通の交渉役である。

文末に松崎 稔(日経コンピュータ元編集長)の解説(30ページ)が
ついているので、これをもとに纏めてみる。
またこの時期は、自分が「三菱事務機械㈱」の勘定を旧勘定と
新勘定に分け、累積損失100億円の処理(自分はこの損失の当事者
ではない)と新会社による再発足を立案行動中であり、この会社は
富士通のメインフレームのハード・ソフトも扱っており、富士通は20%
株主でもあった。損失の主たるものは仏コンピュータ・メーカー、ブル社
の輸入コンピュータ販売及びその撤退によるものだった。

両社の紛争はこれで終らなかった。IBMからのクレームによって、紛争
は1985年7月、国際商事紛争の仲裁機関である米国仲裁協会
(AAA)に持ち込まれ両社の激しい意見対立が続く中、調停・仲裁
作業が進められた。
両社間で本紛争の終結合意書が調印されたのは97年4月末であり、
完全に終結するまでには15年の長きを要した。日本のコンピュータ
産業最大の紛争であったと同時に、知的財産権のありように大きな
影響を与えた事件である。

当時の「大型汎用コンピュータ」はコンピュータ本体(メインフレーム=
中央処理装置)を中心に、外部記憶装置(デイスク装置、テープ装置)
や入出力装置を周辺に配置した、10-20本のロッカー(筐体)から
なるコンピュータ・システムであった。これらのハードをシステムとして
動作させるのが、OS(オペレーテイング・システム)を中心としたソフト
ウエア群である。価格は当時数億円から数十億円もした。

70年代後半は国内・国外のコンピュータ・メーカー間で熾烈な価格
性能比競争、ユーザー獲得争いが繰り広げられた。本小説の舞台と
なって
いる82-83年は、情報化時代の覇権をめぐっての争いがまさにピーク
に達していた時である。(同時に一方では、IBMが81年に本格的な16
ビット・パソコンIBM・PCを発表し、パソコンの急速な普及が始まろうと
している時でもあった。)

世界初の汎用コンピュータとして1964年4月、IBM S/360が発表
された。IBMはこれで、入出力インターフエイスを含むコンピュータ・
アーキテクチャとOS構造を明確に打ち出した。

当時の第二世代コンピュータは小型・大型や用途(科学技術計算、
事務処理用など)に合わせて、機種ごとに最適なOSを採用していた。
ユーザーは新機種が出るたびに、既存のプログラムを作りなおしたり、
ソース・プログラム(プログラミング言語で記述されたプログラム)を
新機種向けに再度コンパイル(ソース・プログラムを機械語レベルの
ロード・モジュールに変換)し直す必要があった。
360アーキテクチャーはこの状況を一変させるものだった。一つの
共通OSにより、いったん開発したユーザー・プログラムや導入した
周辺装置は、新しいモデルにコンピュータを変更してもそのまま使い
続けることができる。
このコンセプトは広くユーザーに受け入れられ、360ファミリーの企業
導入は急速に進んだ。1967年の米国出荷高でIBMは73%を占める
までになり、白雪姫(IBM)と7人の小人(スペリー・ユニバック、
ハネウエル、GE,CDC,RCA,NCR,バロース)と例えられた。

当時IBMは互換機の登場を意識しながらも、市場拡大とソフト開発・
保守などを総合的に考えて、S360のアーキテクチア、入出力インター
フエイス、OSを公的領域(パブリック・ドメイン)とした。
IBMシステム360解説書は、Gで始まる番号のIBMマニュアル(誰でも
手にいれることができるもの)として出されていた。
S370が発表された1970年代でも、これは変わらなかった。

S360が出荷され、詳細技術情報が入ってくるようになると、国産メーカー
各社はIBMの実力を一層思い知らされた。このOS技術を学ぶため、
60年代のソフト開発部隊は、G番号のマニュアルはもとより、OSプロ
グラムの流れやロジック・マニュアルなど「インターナル・ユース・
オンリー」の資料も取り寄せ、必死になってOSの解読・技術収集に
取り組んだ。
とは言え、当時の国産各社は提携先を持つなど独自(IBM互換でない
アーキテクチャー)の事業を進めており、富士通や日立を含めIBM互換
のハード・OS開発を直接目指したもでなかった。

60年代後半は国による強力なコンピュータ産業育成・輸入抑制策に
守られ、ようやく国産コンピュータが日本に定着し始めた時代といえる。

IBMは1970年370アーキテクチャを発表、それに基づくS370モデル
145,155,165を出した。S370の衝撃はS360ほどではなかった
とは言え、70年東芝の提携先GEが、71年には日立の提携先の
RCAがコンピュータ事業から撤退した。
折りしも国際収支が悪化していた米国などからコンピュータ分野の
資本と貿易の自由化を強く求められ、71年通産大臣になった田中
角栄は完全自由化を決断した。
通産省は業界再編(3グループ化)と共に各グループに開発補助金を
出すことにした。自由化に耐えられる(S370対抗)国産コンピュータ
開発のためだった。
富士通は従来の独自アーキテクチャ路線を変更して、日立と組み、
1972からIBM互換アーキテクチャ(370アーキテクチャ)のMシリーズ
を分担して開発することになった。

その成果は74年発表のM190として結実、ハード的にはS370モデル
168を凌駕するに至った。日立もM180として結実。
IBMがIBM3033を77年3月に発表すると、翌78年1月にM200とM180Ⅱ
ADで対抗、80年11月発表のIBM3081Dにたいしては、81年5月M380
で対抗。
1970年代後半、富士通、日立のコンピュータはハード面(半導体や
実装などのテクノロジー面と方式技術面)では十分IBMに追いつき、
国際競争力を備えるまでになった。
アムダール社をはじめとする、70年代後半のIBM互換機の販売会社
の急成長を支えたのは富士通や日立のハードウエアである。
79年には富士通がコンピュータ部門の売り上げで日本IBMを抜いて
日本一になった。

一方OSはMVS時代の到来となった。
国産各社は1970年ごろには、ほぼS360のOS技術を習得していた。
72年にS370のOS/VS2リリース1が出てきた時も、すでに仮想記憶の
実現方法についても研究ずみであった。これらの機能を取り入れた
独自OSの開発はさほど難しいことではなかったが、IBMのOSインター
フェイスに合わせた、互換OSの開発となれば話は別であった。

IBMは1974年8月OS/VS2リリース2を出し、これ以降のOSをMVSと
総称し、75年MVS3.6,79年MVS3.8と機能拡張・改訂版を次々に
出した。
MVSに次々対応するのはやりすぎだとの技術者の評価もあったが、
IBMユーザーのプログラム完全互換を掲げて、Mシリーズを発表した
以上、OSの各種サブシステムにわたって、富士通、日立はこれに
追従せざるを得ない。

このような状況下で富士通、日立はM190とM180の出荷に向けて、MVS
互換OS(富士通はOSⅣ/F4,日立はVOS3/SPと命名)の開発に向かう
ことになる。富士通ソフト開発部隊の奮闘によってOSⅣ・F4はM190の
出荷に合わせて1976年に出された。出荷当時日立のVOS3/SPに
比べ、互換の程度は低かったが、富士通は互換の程度を上げていき、
82年にはMVS/SPバージョン1に対応したOSⅣ/F4MSP-E10を出す
に至る。

IBMは圧倒的資源を投入し自信を持って出したMVSだけに、この富士通、
日立の追随によって(ハード面の追随以上に)不信と不安を抱くことに
なりこれがIBM-富士通ソフトウエア紛争の遠因となる。

IBMが第4世代コンピュータを見せるのは、31ビット・アドレッシングに
対応した新「370-XAアーキテクチャ」を採用した、IBM3081-Kと、
31ビット・アドレッシング対応のMVS/XAとを発表した時、81年12月で
ある。このMVS/XAの出荷は83年4月であり、この間(370から370-XA
へ、MVS/370からMVS/XAへの移行時)にIBM産業スパイ事件やIBM-
富士通紛争が起きたのである。

IBM-富士通ソフトウエア紛争は、産業・技術の発展と公正な企業間
競争という枠組みのなかで、OSの何がどのような形で、知的財産権
として認められるかを問うていっるものである。ことの起こりは、富士通
と日立がMシリーズ開発に当って、IBM互換アーキテクチャ(370
アーキテクチャ+α)とIBM互換OSを採用した点にある。

IBMは「アーキテクチャ」を構造といった曖昧なものでなく、非常に厳格
なものとしてとらえた。コンピュータ・アーキテクチャとはハードの動作・
機能を具体的なビット配列フオーマット(命令語や状態語など)に
具現化したもので、機械語プログラムとコンピュータ・ハードとの
インターフエイスそのものであるとした。
機械語プログラム(上位レイヤー)はこのインターフエイス(命令語や
状態語など)を介してのみ、ハード(下位レイヤー)の機能を利用する。

S360機械語プログラムは360アーキテクチャ(インターフエイス)に
従ってさえいれば、ハードの作り方や実現手法に関係なく、そのコン
ピュータ上で動くことになる(ハード互換機、PCM)。
このアーキテクチャの確立により、他のレーヤ(ハード)に影響を与える
ことなく、技術進歩に合わせて機能の実現手法を変えることができ、
長期にわたる互換の維持が容易になる。一方で他社による互換製品
参入の道も開く。

一方S360のOSはスーパーバイザー・モードで動く基本制御プログラム
とサブシステム(ジョブ管理、タスク管理、データ管理など)で構成され、
ユーザー・プログラムは各種の「OSマクロ命令」を介してこれらのOS
機能を利用する。この際OSとの情報やりとりのため、コントロール・ブ
ロックなど、特定フオーマットのデータが利用される。
このOSマクロ命令とコントロールブロックがユーザー・プログラムとOS
とのインターフエイスである。
このインターフエイスに基づいてOS機能を実現すれば、ユーザー
プログラムが原理的に動くことになる(これが互換OS)。

このインターフエイスは厳格に規定されておらず、他社によるユーザー・
プログラム完全互換のOS開発とその維持は容易ではない。ユーザー・
プログラムの互換を維持するために必要なインターフエイス情報を、
過不足なくかつ遅延無くIBMが公開するか保証もない。このことが
IBM-富士通ソフトウエア紛争の本質にかかわっている。

IBMが市場を拡大していくうえで唯一の悩みは独禁法との絡みだった。
56年米司法省が出した同意審決である。コンピュータのレンタルに
当って、保守と教育費を抱き合わせとする手法にたいして、違反として
禁じたものである。
この同意審決以降、米では、特定レイヤーに属する製品・サービスの
優先性あるいは独占的地位を利用して(隣接レイヤーの製品・サービス
を抱き合わせ販売するなど)隣接レイヤーへの他企業参入を妨げては
ならないとする状況が出てきた。
具体的にどういう案件が独禁法違反となるのかは、現在にも続く難しい
問題(マイクロソフトの例)だが、IBMはOSレイヤー上にあるソフト製品
(コンパイラやアプリケイション・プログラム)を抱き合わせにしないで、
有料化する、ソフトウエア・アンバンドリングを70年から実施した。

コンピュータ・アーキテクチャとOSをパブリック・ドメインとしたこともあり、
60,70年代のIBMは、互換周辺装置、互換機(PCM)、ソフト製品
分野への他社参入(アーキテクチャ使用)を直接阻止するこはでき
なかった(あるいはしなかった)。69年1月に米司法省から独禁法違反
で訴えられていることもあって(82年1月に提訴が取り下げられるまで)、
むしろそれら互換ビジネスを許容・コントロールしながら市場(360,
370世界)拡大を目指した。

IBMが富士通、日立に対して脅威を感じ、本格的な対抗手段を講じ
ねばと考えたのは、Mシリーズが登場した1970年代後半である。
他の追随を許さない切り札として登場させたはずのMVSに対し、
富士通日立が追随しようとしてきたことに起因する。
70年代後半に、富士通製ハード(M190)を用いたアムダール470/
V6などの370互換機(PCM)が急成長した。しかしこれに対しOSを
有償化しハード価格を下げることで対抗することが可能だった。事実
IBMは79年OSアンバンドリングを発表する。しかしそのためにはMVS
互換のOSが他に無いことが大前提である。したがって、IBMとしては
互換OSの出現を何としても阻止或いはコントロールできる状態に
しなjければならない。

IBMが恐れていた事態が来る。富士通が1976年、ドイツ・ジーメンスを
介し、IBM互換ハード・互換OSのヨーロッパ向け輸出を始めた。
79年にはオーストラリア連邦政府との大型商談で、富士通がIBMに
競り勝ち受注した。80年にはオーストラリア連邦準備銀行の総合
オンライン・システムも富士通が受注した。IBMがコントロールできない
形での富士通の世界市場進出は看過できない問題だった。
IBMは富士通・日立に決定的なダメージを与える何かを必要としていた。

IBMはアーキテクチャとOSを「実質的には公的財産」(パブリック・
ドメイン)とすることで(互換製品登場にクレームせず、放置することで)
360,370世界を普及させ、「実質的国際標準」の地位を確立して
きた。
OSについていえば、1979年に有償化するまで無料であり、(独禁法
違反訴訟をおそれ)他社製IBM互換機(PCM)ユーザーにも無料で
ライセンス契約をしていた。

1970年代のこのような状況下では、IBMがMVSに対する何らかの
財産権を主張して、富士通、日立の互換OS開発に抗議するには無理
があった。もしプログラムが著作権法で保護されるとすれば(米では
80年に著作権法によるプログラム保護を実施)、たとえ無償のOSで
あってもそのコピーは著作権法違反である。しかし無料であるゆえに、
侵害の対価を期待出来ない。配布を禁じた場合独禁法の問題が残る。
このためIBMは79年にOS有償化を実施し、それ以降の出荷ソフト
(MVS/SPやMVS/XAなど)からコピーマークをつけて財産権利を
明示した。
そして80年に米著作権法が改正される。この段階で富士通、日立への
攻撃準備が整ったといえる。

しかしこの1980年の時点で、IBMはもう一つ問題点を抱えていた。69年
らい10年以上にわたる米司法省との独禁法との訴訟である。さらに、
欧州委員会(EU)による提訴も受けていた。
ところがIBMはこのジレンマからあっけなく開放される。IBM3081K発表
の翌月、1982年1月、米司法省がこれ以上続けても得るところなしとして
突如提訴を取り下げたのである。独禁法訴訟の足かせがなくなったIBM
は、ついに攻撃に出た。IBM産業スパイ事件がまず起こったのである
(82年6月)。事件に関与した日立関係者は「盗品移送共謀罪」で刑事
起訴され、「有罪答弁」による司法取引で83年2月に決着。

しかし、この事件はIBMにとっては誤算だった。富士通を取り逃がした
だけでなく、おとり捜査に加担したIBMに対する日本国内の風当たりの
強さは想定を超えるものだった。
さらにこの事件を機に、プログラムの法的保護の議論が日本で急速に
高まり、日本独自の「プログラム権法」(通産省を中心に、使用を重視し、
強制実施権なども考慮した)による保護の動きがでてきた。
当時、82年後半と83年、日本では通産省の推す「プログラム権法」と
著作権による保護を主張する文化庁の間で激しい議論のやりとりが
行われていた(結果的には米の圧力もあって、文化庁案が採択され、
著作権法が改正され86年実施)。

プログラム権法が成立すれば、著作権侵害というIBMの戦略が狂うこと
になる。1982年10月、富士通がIBMの知的財産権を侵害したとして、
富士通に抗議した。
日立に対しては、刑事訴訟に引き続く民事訴訟で富士通に対してと
同様な抗議をおこなった。

IBM-富士通、日立紛争は、守秘義務を負った秘密交渉であったため、
当時紛争の存在自体外部に知られることはなかった。ただ日立が
(秘密契約締結の合意に基づき)83年10月末にVOS3/SP回収の通達
を突如ユーザーに出したことが、ユーザーと業界に大きな衝撃をもた
らした。その後も当事者による説明は一切なく、IBMー富士通紛争の
詳細が明らかにされたのは、米国仲裁協会(AAA)が87年9月に公表
した「意見書」と「命令」によってである。

IBM-富士通紛争は大きく二つの山場に分けることができる。紛争開始
から秘密契約締結までの交渉期間(82年10月ー83年6月)。もう一つは
米仲裁教会にもちこまれてから仲裁最終決定が下されるまでの訴訟・
仲裁期間(85年7月ー88年11月)である。

秘密契約(「和解契約」と「EI(外部仕様情報)契約」が83年7月1日付け
で調印され、著作権上の侵害があるかどうかにふれないまま、一応の
合意に達した。
「和解契約書」は富士通がIBMに対価を支払うことで免責される、
富士通の「指定プログラム」をリストアップしたものである。IBM側は
交渉を通じ富士通の主張にことごとく反論し、知的財産権侵害があるか
どうかは別にして、類似性の存在可能性が高い富士通製ソフトを特定
して、これを「指定プログラム」とした。
この「和解契約書」に基づきIBMは指定プログラム(47本のプログラム、
数え方によっては203のプログラム)の過去および将来の販売に関し、
富士通に免責を与える代わりに、富士通から多額の対価を受け取る
ことのした。
指定プログラムの将来の市販に関しても、対応するIBMプログラムの
ライセンス料金相当額を6ヶ月ごとに、IBMに払うことで合意した。

「EI(外部仕様情報)契約書」では、IBM互換OSの開発上、最低限必要
な互換情報の範囲が規定され、有償で今後の互換OS開発に使用して
よいとした。一応の合意に達したが、EIにたいする両社の捉え方には
隔たりが残る不十分なものだった。

調印後できる限りの「完全互換」を目指す富士通との間で、秘密契約
の基本的な曖昧さと不十分性に起因する紛争が表面化した。
尊重すべき知的財産権の権利範囲や、EIの詳細な定義とEI利用の
対価などに関し、両社の解釈・見解が大きく異なることが明らかに
なった。
両社は打開に向け多大の労力を費やしたが合意に至らなかった。
このためIBMは米仲裁協会に仲裁の申し立てを行い、第2段階に入った。
また84年8月には「情報開示ルール」を決めることで欧州委員会(EU)と
和解した。

仲裁に当り、仲裁協会は当初からソースコード・レベルの分析が必要
となる著作権論議を避け、互換OSを開発するために富士通がIBM
プログラム資料をいかに使用できるか、互換OS開発にたいして
いかなる保護対策が有効か、使用に対する代償をどう決めるか、
といった点を明確にし、現実的な解決を目指した。事実、著作権保護
の範囲に関する両社からの動議はすべて却下した。

そのうえで、仲裁協会はリストアップした指定プログラム以外にもリスト
アップすべきものがあるとして追加し、富士通はこれらにたいする一括
ライセンス料支払いに合意した。
いっぽうで、協会はEIなど互換維持に必要なプログラム資料の使用を
統制するためのSF(セキュアド・フアシリテイ)制度設立を提示した。
これは、ユーザー・プログラムの「完全互換」を実現するためには,
(ユーザー・プログラムの中には、OS機能の実現手法に依存して
作られたものがあり)OSのソース・プログラムなど、非公開のものも
必要だとする富士通意向に沿ったものである。

87年9月協会は「意見書」と「命令」を公開した。「SF下で開示するプロ
グラム資料にはソースコードも含まれ、仲裁人が公開を命令したものに
IBMは拒否できない」とするこの枠組みに対し、「IBMの知的財産権を
認めながらも、富士通が互換OSを開発していける現実的で具体的な
枠組みを示した」と、日本では評価する声が多かった。

88年11月最終裁定がだされ、紛争の第2段階が終わりを向かえ、
紛争は収束に向かっていく。
指定プログラムにたいする一括ライセンス料    約1千億円
プログラム資料へのアクセス料      1年間 2567-5134万ドル
SF制度の運用ルール決定

この裁定をうけて富士通は、SF制度の枠組みのなかで、互換OSの
開発を進めていくことになる。米に2ヵ所、日本に1ヵ所にSFが設置
され、富士通が84年に出した31ビット・アドレッシング対応の
OSⅣ/F4MSP-E20に対して、MVS/XAとの互換強化を図っていく。
その後もSFでの幾つかのの紛争が発生するが、この最終裁定で
紛争の峠は越えた。

しかし皮肉にもこの時、4半世紀にわたって続いてきた「汎用コン
ピュータの時代」も峠を越えようとしていたのである。半導体を中心と
した技術革新によて、ダウンサイジングの波が着実に押し寄せてきて
いたからだ。そしてベルリンの壁崩壊、ソ連邦崩壊に象徴される政治・
社会上のパラダイム変化と符号するかのように、企業システム分野で
90年代、大型汎用コンピュータからUNIXサーバーへの、ダウン
サイジング化、オープンシステム化というパラダイム・シフトが急速に
進むことになる。そして今日のインターネット技術の時代へと向かう。

IBM-富士通ソフトウエア紛争は、日米汎用コンピュータ業界の覇者が
膨大な費用と労力をかけて争った紛争だが、オープンシステムをベース
とした新しい企業情報システム時代の到来により、IBM互換路線の
意味は薄れ、90年代には人々の記憶から遠ざかっていった。
そうしたなか、97年4月SF制度も廃止となり、両社間で本紛争の終結
合意書が調印され、幕が閉じられたのである。

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